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植田さんから頂いた感想へのお礼と言い訳

 丁寧な感想をありがとう。ぼちぼち反応が返って来始めて、いま一番感じているのは、やはり発表して批判をいただかないと、自分の書いたものを客観的につかめないな、ということです。
 原稿の元は、吉良よし子が登場したときブログに書いたもので、その結末部分を書き換えました。共産党員の演説に不満だったのです。アピール力に欠けると思っていました。ところがユーチューブで吉良よし子の演説を聞くと素晴らしい。目の覚める思いがしました。
 ちょうどそのおり、村上春樹が「多崎つくる」のなかでウェスカーを取り上げ、稲沢潤子が選評で同じく取り上げたので、それはどちらも「調理場」だったのですが、ぼくは「黄金の都市」を思い出してしまったのです。半世紀前にウェスカーが感じて発した言葉が、ぴったり当てはまるじゃないか、と。
 ジャンヌダルクが唐突に出てくるのはじつはそのせいです。吉良よし子につないだからです。元のブログでは、そこからさらにドラえもんのしずちゃんと、三四郎の里見美禰子へと転がっていきます。「男が勝手に作る、男に都合の良い女性像」ということが気になっていたので、それを書いて、ちょっと恐縮して終わり、という筋書きでした。最後はユーモアでまとめたのです。
 ぼくの文章というのはこのように転々としていって、何を言いたかったのかわからないというものが多い。常にユーモアを取り込もうとするので、反語的な表現になります。エッセーとまでは思っていなくて、雑文という感じで書いているのだけれど、どうも読者には伝わりにくいようだ、と今回、気になっています。
 吉良よし子、しずちゃん、里見美禰子を削除したのは、あまりに話が最初と違う方へ行ってしまっていると思ったのと、吉良よし子がすでに古くなったからで、SEALDsのほうが、(書き直したときには)タイムリーだったからです。
 それで結局、初稿にあった「男が勝手に作り上げる理想の女性像への懸念」がもう少し一般化して、ポピュリズムそのものへの懸念に変化しました。
 書きながらその懸念が消えなかったし、「まがね」に送る段になっても、果たしてこれでいいのだろうかと迷いました。
 賭けだったのです。ポピュリズムがたいへん批判されている。本来理性で判断するべきです。でも政治の世界は違うのじゃないか。いかに正しいことを言っても、聴衆の心に響かなければそれきりじゃないか。
 そして「まがね」用に書き直した最初の原稿では、最後にそれを文学のほうへ持っていきました。文学作品もまた、心に響かなければ意味がないのではないか、と。最終的にそれを削ったのは、もともと文学雑誌だし、わざわざ春樹や稲沢潤子やウェスカーやモームやベッソンやシラーやバーナード・ショウから引っ張ってきたのだから、ほんとうは文学について言いたいのだということはわかるだろう、このうえ触れるとくどくなる、と思ったのです。

 ここまではすべて言い訳です。
 それで実際にもらった評はどうだったかというと、どちらが先だったか忘れましたが、Mさんからは、「全面的に同意する」という感想をいただき、ほかならぬUさん、あなたから、ポピュリズムに関する講演録をいただきました。それは「ポピュリズムは一概に否定するべきものとは言えない」という内容だったので、Mさんからのものと合わせて、このときまでは大いに我が意を得て、ポピュリズム批判が出なかったことにほっとしたのです。

 鳥取での研究集会では、課題作ではなかったこともあって、Mさん以外からはまったく話題になりませんでした。

 帰ってきてから「まがね」の合評で、あまり評判よくなかったのです。
 一口に言えば「まわりくどい」。前書きが長すぎて、言いたいことがなかなか出てこない。ポピュリズムやSEALDsについて言いたいのなら、ウェスカーなんかについてあんなにながながと書かなくていいじゃないか。
 今回、あなたも最初にそこに触れておられましたね。ウェスカーの部分がぴんと来なかった、と。

 なるほどですが、それについては後で触れるとして、今回のあなたの主要テーマに入ります。

1. 自分には感性的なものよりも理屈のほうがぴんと来る。
2. いま左翼が負けているのは、言葉が下手だからではなくて、左翼にとって困難な状況があり、それを左翼が説明できていないからである。
3. ときとして個人に決定的影響を与える言葉について。
4. 理想の不利と現実の有利について
5. 法則について。物理学と、人文・社会科学との違い。プログラムについて。

 いま5は置いておきます。たしかにマルクス主義教科書は法則を呪文のように唱えてきましたが、ぼくははじめからそれにはあまり関心を持たなかったので。(マルクスも、自分はマルクス主義者ではないと言っていますし)。
 4についてはあとで少し触れたい。
 3は1との関連であとで考えましょう。

 まずは焦眉の問題として2を取り上げます。
 結論から言えば、半分当たっていると思います。安全保障の問題も、社会主義の問題も、昔ほど単純ではありません。
 安全保障で言えば、たとえばトランプはしきりに挑発していますが、それで結果として金正恩が参りましたと言えば、トランプが正しかったということにだってなりえます。ぼくらがそれに危惧を覚えるのは、それがチキンゲームであり、万一窮鼠猫を噛むという事態がないとは言えないからです。そしてもうひとつは、力で脅して得られる平和は一時的なものにすぎず、恒久的なものとはなりえないだろうと思うからです。
 アメリカの軍事的支配のもとにある平和――それは正常な状態ではありません。とりあえず東アジアで、それが現実的解決策(次善の策)としてあり得たとしても、同じアメリカの軍事力が、アフガニスタンやイラクの罪なき人々の命をああまで無残に奪いとった現実を忘れるわけにはいきません。タリバンもフセインも誉められた政権ではありませんでしたが、アメリカがやったほどの大量殺人をやったわけではありません。
 全地球的、全近代史的に視野を広げるならば、その「現実的解決策」の欺瞞性は耐えがたいほどです。けれどもかくも広範囲に考えていかねばならない問題を、いま目の前にいる普通の人々に語りかけていくのは容易なことではありません。そこには経済や精神の問題も含めて人間生活のすべての問題が絡んでいます。昔ほど単純にものごとを説明できない。何冊も本を読んでもらわねばわかってもらえない。おそらくそういう時代に我々はいます。
 そしてそのうえに、我々自身の認識も変えていかねばならない。複雑な問題が生じており、解明できていないこともたくさんあります。左翼の間でも意見はさまざまでしょう。
 いま新しい言葉がいる。それは新しい言葉というよりも新しい認識なのかもしれない。だから、Uさんの問題提起も当然だと思います。
 しかしそれでも、政治は日々の好ましからぬ動きに対して抗していかねばならない。政治は学問ではありませんから。やはり日々の政治決戦に勝っていく必要はあります。
 我々が負けて彼らが勝つのは、彼らが正しいからですか。たしかに有権者の判断に迷いを生じさせる現状はあります。それでも彼らが有権者を説得してしまうのは、必ずしも理性的判断においてではない。彼らの言葉がパフォーマンスに優れている部分が少なからずあります。
 複雑な問題を複雑に語ったのでは、政治に勝てません。複雑な問題を、その根本をゆがめることなしに簡単明瞭な言葉に置き換えねばならない。
 そのときその言葉は厳密に言えばたくさん過誤を含んでいるだろう。でもそれが政治の言葉です。

 だからこの問題、左翼が負けているのは言葉のせいか、言葉以前の認識の問題なのか、ということへの回答は、両方あるのだというのが、ぼくの考えです。ポピュリズムを馬鹿にしてはならないとぼくは考えます。人間にとって大切なものは、決して理屈だけではないだろうと思います。感情も大切なのです。
 ここまでで、1、2、3を含んだ回答ということにさせてください。

 4の問題というのは、社会主義が理想として語られるので、理想と外れると強く責められる。それに対して資本主義は現実として語られるので、どんな欠陥があっても許されてしまう。というような趣旨で受け取りましたが、それでよかったのでしょうか。面白い問題提起です。かなり普遍的に考えることのできる問題だと思います。下世話で言えば、田中角栄が愛人に子供を産ませても誰も問題にしないが、共産党員がセクハラすれば除名されるというようなこともあるでしょう。でもとりあえずはいまここで取り上げている問題とは少しずれる感じです。

 そこで最後にぼく自身の「雑文」に戻ります。
 あれは小説でもなければ評論でもない。エッセーとも違うとぼくは思っていますが、というのはエッセーというとカミュの「裏と表」のような芸術性の高いものを連想してしまうからです。とはいえ、もちろんいろんなエッセーがあってよいわけで、同じカミュの「シジフォスの神話」は哲学的エッセーです。歴史エッセーもあれば、料理エッセーもある。旅行エッセーも、科学エッセーもある(福岡伸一はその名人です)。毎日の新聞を見れば、いろんなタイプのエッセーが山積です。だからぼくもエッセーと言ってもよいのだが、少し遠慮して「雑文」と自称しています。要するに書きたいことを書きたいスタイルで書いているわけです。
 でも今回、少し深刻に反省しています。つまりあれでは読者になにも伝わっていない。ぼくはいろんな伝えたいことを盛り込んで一つにまとめたつもりなのだが、そのどれもが中途半端になってしまった。
 ウェスカーにだれも興味を持ってくれなかった。ポピュリズムをだれも深刻に考えてくれなかった。主としてその二つがぼくの書きたいことだったわけだけど、誰もそういうようには読んでくれなかった。(Mさんとあなたを除いて。でも二人ともウェスカーにはあまり興味を持たなかったようで)。

 ということで、この、またしてもとりとめのない文章を終わりにしますが、でも反省してもまた同じ調子で書くんじゃないかなとも思っているのです。
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