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自転車の力学

 長い間、悩んでいた。
 自転車はエネルギー保存の法則とどう折り合うのだろうかと。
 同じ距離を行くのに、自転車は徒歩に比べて、何倍も速く到着して、しかも何倍も疲労が少ない。エネルギー源はどちらも同じ、人間の体内の内燃機関だけである。にもかかわらずより少ないエネルギー消費でより早く目的を達成できるのは、エネルギー保存の法則にまったく反しているではないか。
 だが、こんな馬鹿々々しいことに悩むのは、おそらく授業中に居眠りしていたぼくだけに違いないので、恥ずかしいから誰にも聞けなかった。かといって悩むのはたいてい自転車で走っているときで、ほかのときには忘れているから、何らかの書物で調べてみようともせずに何十年も経ってしまった。
 先日ふと思いついてネット検索してみた。すると意外にも、同じ疑問を抱いた人がけっこういて、質問している。
 最初に現れた解答は、自転車の力学と題して、難しい数式が延々と続いていく。ぼくは数学は中学で降参したから、見ても何が書いてあるかわからない。
 次に出てきた解答は、質問の意味をまったく理解できていない人のもので、そういう人が何人もいて、質問者は馬鹿じゃないのと書いている。自分こそ馬鹿なのだと気付いていない。
 そのあとにやっと解答らしきものに到達した。人間はただ立っているだけでもエネルギーを消費している。その上に歩くという動作は、瞬間瞬間に右左の一本足の入れ替えで、始終バランスを取り続けなければならない。それに引き換え自転車は座っていればよいのだから、エネルギー消費量がまるで違う。という解答だ。
 それはぼくも考えた。しかし、自転車だってバランスをとっているし、座っているのと立っているのとで、「まるで違う」と言うほどにはたして違うだろうか。これだけでは納得できない。
 するとその解答を否定する解答が現れた。
 そのエネルギー消費はそんなに違わない。違うのは時間である。同じ目的地に到達するのに、徒歩は自転車の何倍も時間を使う。だからエネルギー消費が大きい。坂を登る場合と異なり、平地での移動は、仕事ではない。(?)だからこの場合仕事量が同じという考え方ではなく、要した時間に疲労度が釣り合うと考えねばならない。(???)
 いま一つ納得できないが、何かヒントが含まれているような解答でもある。
 そういう過程を経、さんざん回り道をして最後に正解が現れた。
 ずばり言うと、摩擦の問題だったのだ。
 そもそも運動に、持続的なエネルギーは要らない。ニュートンのいわゆる神の一撃で、一度押せば、ものは永久に動く。地球は24時間で自転し、365日で太陽を一回りする。50億年まわり続けているが、止まらない。どこにもエネルギーの供給源はない。神の最初の一撃だけなのだ。
 それなのに、なぜ歩けば腹が減り、(歩かなくても減るが、歩けばもっと減る)、なぜガソリンがなくなれば自動車は止まってしまうのか。ひとつは地球上には空気があるから空気抵抗があり、もうひとつは地球が引力で人間や自動車を大地に縛り付けているからだ。
 それが摩擦だ。摩擦が大きければエネルギー消費は大きく、摩擦が少なければエネルギー消費も少ない。
 アイススケートを見れば一目瞭然だろう。もちろん技術が伴わなくてはならないが、スケートのうまい人は時速40キロを超えるスピードで長距離を走り、車とだって競争できるが、エネルギー供給源は自分の肉体だけなのである。
 歩くとは次のような動作だ。右足で蹴ったとき、左足は宙に浮いている。このときエネルギー効率はよい。だが次の瞬間、左足は地面に落ちる。このとき左足は滑らない。地面と左足との滑り摩擦は最大限に働いて、左足は停止する。即ち左足でブレーキをかけている。ここでついさっき右足に作用したエネルギーはすべて消費されて消えてしまう。これを繰り返すのが徒歩移動である。一歩ごとに運動―ブレーキ―運動―ブレーキを繰り返している。
 それに対して、アイススケートでは、着地した左足は止まらずに滑っていく。摩擦が最少なので、エネルギーはもう必要ない。最初の一撃でどこまでも運動を続ける。というわけにはもちろんいかない。摩擦はやはりあるし、空気抵抗は同じようにあるわけだから、いつかは止まるが、それでも徒歩よりずっと効率が良いことは簡単にわかる。
 ここまでくれば自転車も理解できる。自転車の場合は転がり摩擦で、これが平地における通常状態では(地面が凍ってなければ)、滑り摩擦よりずっと効率が良いことはわかるだろう(登り坂では異なる)。
 同一仕事に対するエネルギー消費量とは、摩擦の大小を中心として、その他種々のエネルギーロスとのたたかいの結果だったのだ。自転車にはそのための工夫が満載である。

 解答を得てみれば、なんだそんなことかというほど簡単明瞭な解答なのだが、そしてもちろん物理の授業中に居眠りしていなかった人にはもとより常識なのだろうが、しかし思っていたほど馬鹿々々しい疑問でもなかった。滑稽な解答もたくさんあった。摩擦という考えかたに到達できなければ、決して解決できない問題ではあった。
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