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ジョージ・オーウェル「1984年」

「1984年」をようやく読み終えた。1カ月かかってしまった。日本字の字数で400字詰め800枚くらいの作品である。
 30年前の文庫本であるから、字は小さいし、紙は黄ばんでいて読みにくいことこの上ない。新訳が新しい文庫で出ているのだから、それを買えばよさそうなものだが、なぜか意地を張ってしまう。
 驚くべき本だ。天才的な作品である。
 書き上げたのが1948年だから、36年後のことを書いた近未来小説である。だからと言って「動物農場」ばりの寓話を思い浮かべたら、まるでまちがう。リアリズム小説だ。
 架空の世界なのだが、描写がじつに丁寧なので、実在感がある。我々が一行で済ましてしまうようなところを何ページにもわたって書く。こういうものを読むと、我々アマチュアはずいぶん書き急いでいると感じてしまう。描写の面からだけ言っても、文学性が豊かである。しかも、内容が人間性の深奥に迫っている。
 三部に別れていて、最後に付録がある。主人公はウィンストン・スミス、39歳。
 ところはロンドンなのだが、イギリスではない。オセアニア国、エアストリップ一号の首都である。それが地理的にどういう構成になっているのかは第一部では明らかにされない。
 政府には四つの官庁しかない。真理省、平和省、愛情省、豊富省の四つである。これらの省の名称は引っ繰り返せば正しく実体を表す。真理省は嘘を作り出し、平和省は戦争し、愛情省は反抗するものを罰し、豊富省は国民を貧しいままにとどめおく。
 ウィンストンが勤務するのは、真理省の記録局である。そこでの仕事は記録の改竄だ。(まさに安倍内閣がやっていることだね)。現実がどんどん過去の文書と食い違ってくるので、過去の文書を書き換えてつじつまを合わせる。それが仕事である。
 同じ真理省の創作局では小説を作っているのだが、そこで働いている若い女性は、油にまみれてスパナを持ち歩いている。小説を作るのは機械なので、機械の不具合を修理するのが創作局の仕事なのだ。
 この女性がジューリア、26歳。
 <目鼻のはっきりした27歳ぐらいの女で(あとで26歳と分かる)、豊かな黒髪にそばかすだらけの顔と、いかにもすばしこく、スポーツで鍛えたような身ごなしをしていた。青年反セックス連盟の象徴である幅の狭い深紅色の飾り帯を幾重にも作業服の胴回りに巻きつけていて、ヒップの曲線を際立たせるほどきゅっと締めてあった。ウィンストンは彼女を最初に一瞥した瞬間から気に入らなかった>
 なぜ気に入らないか? こういう女は決まって狂信的な党活動家なのだ。
 この社会は二つの階級から成り立っている。党員階級と、プロレ階級である。プロレ階級は以前とまったく変わらない生活をしている。貧しく、無知で、労働に明け暮れている。
 党員階級にも内局員と外局員とのヒエラルキーがあり、外局員はたいして豊かではない。官庁で働き、アパートに住んでいる。彼らの住まいにはテレスクリーンがある。テレビのようなものだが、スイッチを切ることができない。音は多少調節できるが、消すことはできない。しかもこれは同時に、カメラでもあればマイクロホンでもある。朝7時15分にすさまじい音で住民を起こし、体操をさせる。いい加減なやり方をしていると、テレスクリーンの映像の中の女が名指しで注意する。
 <6079号、スミス・W! そうです。あなたです! もっと腰を曲げてください!>
 という具合だ。私生活をすべて監視されている。
 テレスクリーンは街頭にもある。いたるところにある。だが、プロレの住まいにはない。プロレは反抗しないと信じられているのだ。
 党員の子供たちは「スパイ団」に入る。つまり「ピオネール」である。西側世界で言えば「ボーイスカウト」だ。年長になると、「青年反セックス連盟」に入る。これは「コムソモール」、共産主義青年同盟であろう。むかしの日本の農村で言えば青年団だ。
 党員は厳しい監視下にある。反抗するとしたら党員階級だからだ。
 セックスは快楽のためにしてはならない。子供を産むためだけにする。ウィンストンの妻は党の方針に忠実な女だった。セックスを喜ばず、義務としてのみ受け入れた。だが子供が生まれなかったので、事実上別れた。でも離婚することはできない。
「ビッグ・ブラザー」の肖像がいたるところにあり、新聞は彼の動向と演説を紹介する。それは絶対的な存在である。一方、ゴールドスタインは反逆者で、憎むべき敵である。誰もが彼を憎まねばならない。
 オセアニアは戦争している。ときどきロケット弾がロンドンのどこかに落ち、何名かが死ぬ。ときには戦争捕虜が街路を行進させられる。テレスクリーンは戦況を報じ、また経済的成果を報じる。どちらもころころ変わる。変わるつど修正され、変わらなかったことにされる。
 戦争の相手はユーラシアだったり、イースタシアだったりする。しょっちゅう変わるのだが、変わるつど記録が書き換えられ、ずっと同じ相手と戦争していたことにされる。すべての文書が毎日書き換えられ、古い文書は回収され処分される。ウィンストンはこの書き換えのプロなのだ。
 第一部にはいろんなタイプの党員たちが出てくる。この党員たちが第三部でそれぞれどういう運命をたどるか、そこにも人間性の洞察へのひらめきがある。登場人物たちを忘れないようにメモしながら読むのがいいかもしれない。
 第一部の最初から、ウィンストンはこの体制を嫌がっている。しかし党員はがんじがらめの監視下にあって反抗は不可能である。希望はプロレにあると思うのだが、商店の物不足にいまにも暴動を起こすかと思われたプロレの女たちは結局はお互い商品の奪い合いをすることに熱中してしまう。
 改竄を重ねて何が真実かわからなくなった過去について老人の記憶を呼び戻そうとしても、プロレの老人が思い出すのは細切れで自分勝手な断片だけだ。
 だが、ウィンストンのまわりで何かが起こりそうな予兆をはらみつつ、第一部は終わりに向かっていく。そこにジューリア(この時点ではまだ名前はわからない)の影が付きまとう。この女は党のスパイで自分を監視しているのではないかとウィンストンは疑う。ウィンストンの彼女への嫌悪の気持ちが激しい言葉で書き連ねられる。だが、書けば書くほど、ウィンストンの言葉と心は逆ではないかと読者は自然に勘づいてくる。こういう表現の仕方は心憎い。恋愛小説で使われる手法だ。

 第一部は未来世界の描写で、それも説明抜きにウィンストンの日常生活の描写の中で語られるだけだから、わかりにくく、ストーリーの展開もないから単調だ。
 第一部で心に留めておくべき言葉がある。
 <その方法は分る。しかし、その理由が分らぬ>
 党が人々を支配している方法はわかる。だが、なぜ支配せねばならないのかがわからない。この疑問がウィンストンをずっと引きずっていくことになる。答えは最後に明かされる。
 第一部で読むのが嫌になった読者は、飛ばして第二部から読み始めるのがいいかもしれない。
 一転して恋愛劇が始まる。ジョージ・オーウェルもヨーロッパの小説の伝統のうえに物を書いているのだと知らされる。特に第二部の第二章は明るく、楽しい。

「いいかね。君の関係した男が多ければ多いほど僕の愛は深くなるのだ。わかるね?」
「ええ、よくわかるわ」
「僕は純潔なんて嫌いだ、善良さも真っ平だ。どんな美徳も存在して欲しくないのさ。どいつもこいつも骨の髄まで腐ってしまえばいいと思うのだ」
「じゃ、わたしはおあつらえ向きの相手よ。わたし、骨の髄まで腐りきってるもの」
「こんなことをするのが好きかね? 僕とだけするという意味じゃなくて――つまり、あれそのものが好きかということなんだ」
「好きでたまらないわ」

 普通の世界ならこれはなんでもない言葉だ。だが、「1984年」の世界でこれらの言葉が意味するのは、
 <二人の抱擁は一つの戦いであり、その最高潮は一つの勝利であった。それは党に対して一撃を加えることであった。それは一つの政治的行動であった>
 しかし、ここで読者は単に愛の美酒に酔うだけであってはならない。二人の関係が進むにつれて、ウィンストンとジューリアの関心のありどころの違い、ものの感じ方、考え方の違いが表れてくる。
 体制に対する反抗心という点では一致しながら、ウィンストンは理屈っぽく、ジューリアは感覚的だ。ウィンストンが体制批判を語り始めると、ジューリアは退屈して眠ってしまう。ジューリアにはそんなことはどうでもよいのだ。ともかくこの世界がいやなのだ。いやだけれど、本心を暴かれれば身の破滅だから、巧妙に立ち回り、党の盲目的支持者のようにふるまう。人々を欺くのに巧みで、そして人間の自然な欲望に応えてくれる相手を見つけ出す嗅覚を持っている。
 もちろんここで描かれたのは、伝統的な男女観そのままなのだが、それは単に男女の違いを描いたわけではない。独裁政治を成り立たせる人間心理のひとつがそこにも表現されている。第一部で出てきた党員たち、あるいはプロレたち、あるいは「スパイ団」の優秀な子供たち、そのさまざまなタイプが、独裁政治を成り立たせる人間的要素としてある。
 ジューリアは最も人間らしい人間であり、人間がなぜ独裁政治に対してノーを言わざるを得ないかということを根源的な人間性において表現する存在であり、しかも、なおかつ独裁政治のなかに飲み込まれていく存在なのだ。
 <「君はウエストの下だけが反逆者なんだね」>

 第二部の後半は、党の敵ゴールドスタインの文書という形式を借りながら、「1984年」の世界を初めて系統的にあきらかにしていく。
 第三部は逮捕から処刑まで。
 付録は新語法、ニュー・スピークについて。ここにもスターリン主義へのオーウェル流の皮肉がある。

 この本を最初から最後まで読み通した読者は、おそらく一か月ほどは絶望的な気持ちに沈み込んでしまうだろう。どこにも救いがない。しかしたぶんこの絶望は必要な絶望なのだ。
 <「あなたの心の中までは入り込むわけにはいかないもの」彼女はそういったものだ。が、彼らは現に心の中まで入り込んで来た>
 戦いに敗れて処刑される主人公に読者がヒロイズムを見出すのは、そのヒーローたちが身は敗れても、心は敗れていないからだ。だが、ジョージ・オーウェルの主人公たちは、心のなかまで敗れるのである。
 この作品の権力は行為をではなく、心を罰する。安倍内閣がやろうとしていることだ。心を罰するためには、単に処刑するだけでは足りない。まず心を改造し、自分に従わせる。しかる後これを処刑する。

 <その方法は分る。しかし、その理由が分らぬ>
 第二部のゴールドスタインの文書のなかで、この問題が追求されていく。
 近代の機械文明は、生産を飛躍的に効率化した。いまや人類の需要は十分に満たされるはずである。なのに、なぜ、貧困が存在するのか。
 手っ取り早く言えば、貧困がなくなれば階級がなくなり、権力がなくなってしまうからだ。それでは困るので、権力は近代的生産力を戦争に消費する。戦争は実際には行われていない。だが行われているということにしてときどきロケット弾を自らロンドン市中に撃つ。こうして生産力を武器の生産に消費し、それによって大衆を貧しいままにする。経済的格差があれば、階級は維持され、権力は続いていく。
 だが権力はなぜなければならないのか。その答えは最後に解きあかされるだろう。
 ここに描き出される生産力と貧困と階級と権力の関係はかなりおおざっぱなものになっているが、それでも示唆には富んでいるはずだ。そこに戦争を据えたのも、見事な象徴であったと思う。
 ちなみに「樹宴」の10号11号の読者は、守屋陀舟の戦争小説と「1984年」の類似性に気づくだろう。「1984年」では実際に戦争している人たちは描かれていない。これに反して守屋陀舟は戦争の当事者たちを書いた。だが敵は書かなかった。おそらく敵はいないのだ、「1984年」と同様に。

 トランプが登場してから、「1984年」はアメリカでベストセラーになったという。この作品はもちろん直接的にはスターリン主義の批判である。それはソ連の体制をみごとにカリカチュアライズし、その支配の方法を喝破している。と同時に支配を成り立たせていく上での普遍的な人間性のありようにも迫っている。
 こうしたスターリン主義的なものが、各国の共産党のなかにも存在した事実は否定できない。我々は事実に対して素直であるべきだし、そこから教訓をつかみとるべきだろう。
 しかし、この作品はそこにとどまっていない。権力と人間性に対する深く鋭い洞察は、あらゆる権力に向かっている。
 そこにこの作品の普遍性がある。だから、トランプ現象のなかで、それへの警告として、いまアメリカ国民にこの本が読まれているのだ。
 ここには安倍政治への批判もまた如実に書かれていて、その先見性に驚かされる。
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