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ジョージ・オーウェル

 ジョージ・オーウェルの「1984年」を読み返したいと思ったのは、村上春樹の「1Q84」を読んだときだった。でも結局、延び延びになっていたのを、最近になって、また読みたくなってきた。それは、長らく手元を離れていた浦沢直樹の「20世紀少年」が戻ってきて、立て続けに、二度も読み通してしまったせいなのだ。コミック本で24冊ある大作だが、小説は文庫本一冊がなかなか読めないのに、漫画本は24冊がすぐ読めてしまう。
「20世紀少年」と「1Q84」とは、どちらもオウム真理教事件にヒントを得ている。そしてどちらも基本的に「1984年」から影響を受けている。
 じつは読みたくなっただけでまだ読めていないのだが、あらかじめ見込みを言っておくと、「1Q84」よりも「20世紀少年」のほうが、ジョージ・オーウェルに近い。
 記憶で言うが、「1984年」で、作者は<ビッグ・ブラザー>個人には関心を示さなかった。オーウェルが書きたかったのは社会体制である。
 ちなみに、「20世紀少年」では支配者は<ともだち>と呼ばれ、あとのほうで正体がわかったときに、その生い立ちに少し触れられるが、この<ともだち>は物語のちょうど中間で死んでしまう。そのあとに現れる<ともだち>2号もその死後手短に生い立ちを書かれはするが、基本的に、「20世紀少年」においては<ともだち=ビッグ・ブラザー>がどんな人間であろうと意味がない。浦沢直樹が力を入れているのは、その組織とその成員とを書くことである。
 オーウェルの場合は組織やその成員さえも飛び越して、むしろその組織の支配する社会そのものを対象としていた。
 ところがぼくの記憶では、村上春樹は、社会にも組織にも組織の成員にも関心を示さずに、<ビッグ・ブラザー>個人にだけ関心を持っているように見えた。……とまで言ってしまっては言い過ぎかもしれないが、少なくともそういう傾向が感じられた。
 そしてこの点(ビッグ・ブラザーを重視するか、軽視するか)で、「1Q84」よりも「20世紀少年」のほうが「1984年」に近いと感じられたのだ。
 ぼくはオウム真理教について何も知らないのだが、関心を持つとしたら、麻原彰晃ではなく、麻原に騙された人々のほうだ。ふつうの人々がなぜ騙されるのかということのほうが重要なことに思える。村上春樹の作品では、組織の成員として出てきたのは、殺し屋かボディガードかたしかそういう(真面目に書かれない、記号としての)人物だけだった。

 まだ読めていないと書いたが、少し準備を始めている。手始めに「1984年」を取り出して、奥付を見た。いつ頃読んだのか確認したのだ。
 手元にあるのはハヤカワ文庫、昭和59年の第22刷である。25年足せば西暦になる。1984年だ。もっと早くからこの作品には関心を持っていたのだが、読んだのは1984年だった。たぶん新聞が大きく取り上げて読まざるを得なくさせたのだろう。
 ぼくはふつう本文より先に解説を読むことはないが、今回は二度目なので、まず解説を読んだ。新庄哲夫という翻訳者が10ページを超える解説を書いている。オーウェルその人についての多少詳しい説明。これがまったく記憶になかった。読まなかったのかもしれない。
「1984年」はぼくにはとても衝撃的な本で、どこが衝撃かというと、まったく救いのない終わり方だ。主人公が敗北して殺される話は多いけれど、ふつうそこにはヒロイズムがある。だがこの小説の主人公は、逮捕されて教育され、自分は間違っていたと心から悔い改め、ビッグ・ブラザーに感謝し、その瞬間に処刑されてしまう。
 どこにも救いがない。絶望だけしかない。ぼくは暗い気持ちになって本を閉じた。だから解説を読まなかったのかもしれない。
 解説はジョージ・オーウェルの生涯をたどり、小説はわずかしかないこと、「動物農場」でやっとブレイクし「1984年」を書いて間もなく死んだとある。
「動物農場」も同じころ読んだ。そのときは「1984年」のあとで読んだ。だがそっちが先ということなら、これも記憶が薄れているし、そっちから先に読もうと、本棚を探した。
 角川文庫、昭和59年の20版。やはり1984年だ。この本には開高 健が10ページ近く書いた後、翻訳者高畠文夫が60ページ書いている。ぼくはこの解説を読んだ記憶がない。
 オーウェルの生い立ちを詳述している。
 1903年、インド生まれ。父親は植民地の官吏。当時植民地で20年くらい働くと、40歳くらいで貯金もできるし、年金も支給されて、イギリスに帰って何とか生活することはできた。つまり帝国主義というのはそれほどの利益を上げていたのである。オーウェル家は階級で言えば、アッパー・ミドル・クラスの下のほうと説明している。
 8歳で帰国して予備校入学。14歳で奨学生としてイートン校入学。18歳で卒業。この予備校からイートン校への10年間、同級生は金持ちの子供ばかりのなかで、本人はとても惨めな生活を送ったと自分で書いている。ところが、同級生の後日談では、彼は成績も優秀だし、スポーツもできたということで、とくに惨めに見えたとは記憶していない。当人と周囲とのものの感じ方のズレという点で興味深い。ここで脱線して、「20世紀少年」から例を挙げるが、少年たちの同級生に、ヤン坊マン坊という並外れた体格の双子がいて、少年たちはこの二人にいじめられていた。ところが長じて問い詰めると、ヤン坊マン坊にはいじめっ子だったという自覚はなく、仲よく遊んでいたと覚えている。こういうものなのだ。いじめの問題。パワハラの問題。セクハラの問題にはこういう複雑さがある。立場の違いで認識が異なってくる。
 ケンブリッジ大学へも奨学生の資格を取っていくことができたが、本人はそういう生活にほとほと嫌気がさしていて、父親と同じ、インドで警察官となる道を選ぶ。すでに物書きになりたいという気持ちがあったから、40歳で年金生活に入れれば、それから好きなように書けるという思惑があった。
 ビルマで勤務する。だがじきに、イギリス帝国主義の植民地支配の実態を見、自分がその手先となってしまったということがオーウェルをいたく傷つける。階級差別に泣いてきた少年時代だったから、特に敏感に感じたのだ。で、結局24歳で帰国。パリでルンペン生活をしたり、さまざま下積みの生活をしながら、ものを書き始める。評論家に評価される作品は書くのだが、本は売れない。
 そうこうするうち、スペイン人民戦線政府に対してフランコが反乱を起こし、若い左翼文化人たちが義勇軍としてスペインに向かう。オーウェルは取材を依頼されて現地入りし、たちまち革命の雰囲気にのまれて、義勇軍に加わる。この現地入りの紹介を共産党系に頼んだが断られ、オーウェルが所属したのはアナーキスト系の小さな組織だった。そこで彼は喉に銃弾を受けて危機一髪の重傷を負うが、その上に彼の所属した組織が共産党系から弾圧を受ける。
 この問題は、ヘミングウェイも「誰がために鐘はなる」のなかで書いている。その記憶もあいまいだが、ヘミングウェイは個人の生きる姿勢を書く作家なので、政治問題には深入りしていなかったと思う。ただ、義勇軍の側にいろんな問題があるということは書かれていて、それが主人公たちの生死にも絡んできていた。
 要は、ヨーロッパの共産党がこの時代、反ファシズムのリーダー的な地位を獲得してきていたが、その背後にモスクワがいて、スターリン的な手法で主導権を握ろうとする動きがあったということなのだ。
 この問題もぼくは不勉強でよくわからない。しかし、この経験が「動物農場」と「1984年」とに直結していく。
「動物農場」刊行が45年、42歳。これが爆発的に売れて初めて経済的に小康を得る。
 49年、「1984年」刊行。46歳。
 50年、死去、47歳。

 この長い評伝を今回たぶん初めて読んで、たいへん興味をひかれた。
 さらにこの角川文庫版には、「動物農場」のほかに「象を射つ」と「絞首刑」と「貧しいものの最期」の3篇を収録してある。この3篇もたぶん今回初めて読んだ。「象を射つ」が非常によかった。「絞首刑」もよい。「貧しいもの」はちょっとまとまりが悪かった。「貧しいもの」はパリでの貧民としての入院経験を書いている。20年代のパリでこんなことがあるのかと驚く内容ではある。
「象を射つ」と「絞首刑」はビルマで18歳から24歳の間に経験した内容である。これらはいずれもエッセーとして書かれたようだが、短編小説として十分成り立っている。
「象を射つ」の象は、暴れ出して現地人を踏み殺し、その飼い主は象を探して反対方向へ行ってしまった。象はいま、おとなしく田んぼで草を食べている。20歳そこそこの警察官である著者は、一応自衛のためにライフル銃を用意した。ところが、現地人のやじ馬が、さあ、いまにも撃つぞと期待して二千人も集まっている。撃たざるを得なくなった著者は、とうとう無抵抗の象を撃ち殺してしまう。
「支配者は被支配者によって支配される」という格言そのものはありふれているのだけれど、それが青年の実体験から発せられるところに実感がこもる。さらに言えば、この作品の場合、細部の描写にとてもリアリティがあって、読者はその現場のど真ん中に連れていかれたように感じるので、これがまったくのフィクションだとしても、やはり訴える力を持っているだろう。
「絞首刑」でもやはり読者に迫ってくるのは、決して通り一遍な書き方をしないからなのだ。ビルマ人犯罪者の絞首刑に警察官として立ち会う場面の描写なのだが、犬が紛れ込むところ、死刑囚が処刑場へと歩く道でふと水たまりをよける、その瞬間「ああ、この男はいま生きていて、次の瞬間にはいなくなってしまうのだ」と初めて実感するところ。処刑が終わってしまうと、なんとなくみなほっとして明るい雰囲気が漂うところ、こういうリアリティが処刑の残酷さをいやがうえにも引き立たせる。

 さて「動物農場」である。二度目でもあり、寓話でもあるので、特にこれと言った感慨はない。しかしこんなに長いとは思わなかった。もっとちょっとした話としか思っていなかった。
 読み返してみると、なるほどロシア革命の戯画化だ。革命の指導者レーニン豚は早くに死んでしまい、スターリン豚とトロッキー豚との争いになる。トロッキー豚は、ほかの農場に使いをやって、世界同時革命に立ち上がらせれば、反革命を恐れる必要がなくなると言い、スターリン豚は、いや一国革命を成功させねばならないという。演説のうまいトロッキーと、組織工作のうまいスターリンの戦いはスターリンの勝利に終わり、その後、トロッキーは敵のスパイだったのだということになり、悪いことはすべてトロッキーの仕業にされてしまう。スターリンの代弁をして動物たちの説得に走りまわる要領のいい豚。真面目に働く馬。スターリンの護衛官となる犬たち。すぐに合唱を始めて議論をうやむやにしてしまう羊たち。
 過去に読んだ時にはこういうふうに具体的には考えなかった。ただ、組織というものにありがちの宿痾として、もちろん革命運動にもあることとして読んだ。
 そして実際、オーウェルの直接的意図はもちろんスターリン主義の断罪にあったわけだが、その物語はそれを超えて普遍的な物語になっている。
 この寓話は漫画家たちの材料となった。白土三平の「忍者武芸帳影丸伝」の中に出てくる「子供の国」がそうだし、水木しげるは、そのものズバリ「こどもの国」を書いている。(「くさった国」と併せて。朝日ソノラマ出版SUN COMICS「猫又」所収 昭和41年発行)
「影丸伝」のなかでは、戦国の世のみなしごたちの理想社会は仲間割れによって崩壊してしまう。水木しげるの作品中ではかなり「動物農場」に近い政治劇が演じられる。
 さらに、藤子不二雄の「宇宙船製造法」(小学館てんとう虫コミックス「藤子不二雄少年SF短編集第3巻宇宙船製造法」所収 1985年初版)はハッピーエンドだが、途中経過には「動物農場」に似た政治劇がある。
 たぶんいずれもオーウェルの影響を受けている。「動物農場」はそれほどにも典型的で普遍的なのだと言える。

 オーウェルは共産主義を批判する。それはつまりソビエト流の共産主義なのだが、歴史上すべての共産党がスターリン的なものを持っていたことは否定できない。
 しかし、「動物農場」を読んでも明らかだが、被支配者が支配され続けていればよいとは彼は思っていない。彼は社会主義者なのだ。だが現実に革命のたどった道はファシズムと変わらないものとなってしまった。そこに彼の相克がある。
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