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田島 一「二つの城」

 田島一の短編は民主文学誌上でいくつか読んできているが(「時の航路」は読んでいない)、あまり納得できるものではなかった。
 今回作も、前半は首をひねりながら読んだ。「なんでこれが小説なの? どうしてルポにしないの?」と思わされた。というのは、三人称で書かれているのだが、叙述の全体が色濃く主観に染まっていて、それが主人公越智の主観なのか作者田島の主観なのか判然としない。
 何故一人称で書かないのか。一人称でルポにしてもよいし、一人称小説でもよい。ルポには著者の主観が入って当然だろうし、一方、一人称小説の場合、その主観は登場人物の主観であって作者のそれではないことがはっきりしている。
 だが三人称小説の地の文に主観が入ると、それがあたかも客観であるかのごとく読者に強要される不快感がある。
 三人称小説の地の文は、ルポの地の文とも一人称小説の地の文とも明らかに違う。そこは客観の場所なのだ。もちろん客観の場所にカギ括弧なしで登場人物の主観が書かれることはある。だがその場合、それが登場人物の主観であることは読者に明瞭に示されているべきだろう。
 たぶん作者と考え方の一致している読者にはそういう違和感はないのだろう。彼ら双方にとってそこにあるのは客観だけだとしか認識できないわけだから。だが作品が不特定多数を読者対象とするなら、客観と主観の問題はもっと考えてみる必要がある。
 ここまでは前半の感想である。
 だが後半、居酒屋でのクロダイさんの独演あたりから、にわかに小説らしくなり、引き込まれる。ここに書かれたクロダイさんの主観は、越智の主観とも違うし、もちろん作者の主観とも違う。
 それ以前に五味や佐伯の生活や思念が書かれてはいる。だがそこでは越智は観察者である。
 クロダイさんはそれを許さない。彼は越智の存在そのものに切り込んでくる。ここには葛藤がある。
 だから小説が生きる。観念を離れた生きた現実となる。
 クロダイさんの主張は主観ではあっても単なる観念ではない。経験に裏打ちされた実感がそこにはあり、それが作品を、紙の上に書かれた文字から生きた現実世界にする。
 そしてここまできて、そこまでに書かれた一切が生きてくるのである。
 日本社会の変化、労働運動の衰退、過去自分たちが闘ってきた労働運動といま闘われている派遣切り問題との決定的な違い、五味や佐伯がいかにとてつもなく大変な状況で闘っているか、3.11は人々の眼をそらさせてしまったのではないか、日本社会の危機は以前も以後も変わりなくあり、そこにはもっと何か異なる闘い方が求められているのではないか。そういったすべての問題を作品は訴えかけてくる。
 ぼくは今回田島一という作家を見直した。この作家は書斎に籠もることなく闘いの場に出ていってその場でものを考えている。
 前半部分に関する感想はあくまで個人的なものである。単にぼくの個人的好みなのかもしれない。読者も様々であれば、作者も様々だ。これが同人雑誌であれば、ぼくもそこまで書かない。ただ不特定読者に対してこれでいいのかという問題提起である。
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