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マルセル・モース「贈与論」

 最近この種の記事の断片を見かけたと思っていたら、昨日少しまとまった記事が朝日に載った。
 マルセル・モースが1924年に発表した「贈与論」である。高原さんがずっと話題にしていたのはこれだったのかと気が付いた
 マルクスは「資本論」を論じるにあたって「交換」から始めた。「交換」のメカニズムを明らかにせねば「資本」の構造が解明できないからだ。しかし彼は「交換」の「起源」には興味を持たなかった。それは彼の研究対象とは当面関係なかったからである。
 モースがこれに関心を示した。どこから、なぜ、「交換」が始まったのか。そこにこそ経済活動の根源があるのではないか。
 モースによれば「交換」は「贈与」から始まった。「贈与」と「お返し」こそが「交換」の「起源」であった。
「贈与」とは「無償の行為」である。人はなぜ「無償の行為」をなすのか。
 ところが本来「無償」である「贈与」に対して人は「お返し」しようとする。この「お返し」によって、「贈与」はその本来性を裏切って結果的に「有償」となり、ここに「交換」が生まれる。人はなぜ「無償の行為」に対して「お返し」をするのか。
 モースはアメリカ先住民や、太平洋諸島の人々の社会生活を研究して、その実態を克明に記録した(らしい)。しかし、人がなぜ「贈与」し、「お返し」するのかという根源的な問いには結局答えることができなかった。彼はマオリによる説明を回答として記した。
 いわく「贈与された物には精霊が宿っていて、受け取った者に返礼を強いるのだ」
 人間はまだ謎に満ちた生物である。
 高原さんもこの問題にずっとこだわっていたが、はたして何らかのヒントは得られたのだろうか。
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コメント
701:「物々交換をめぐる全体」:石崎さんブログ「マルセル・モース「贈与論」 2017.07.24」へのコメント三版 高原利生 by 高原利生 on 2017/08/11 at 02:34:31 (コメント編集)

「物々交換をめぐる全体」:石崎さんブログ「マルセル・モース「贈与論」 2017.07.24」へのコメント三版 高原利生
(すみません、コメント695「物々交換をめぐる全体」:石崎さんブログ「マルセル・モース「贈与論」 2017.07.24」へのコメントby 高原利生 on 2017/07/25 at 10:30:37695を当方のミスかシステムミスかで「非公開コメント」にしてしまいましたので、再投稿します。2017年7月29日。8月1日二版コメント696。8月11日三版)

 三版では、矛盾の粒度を管理する根源的網羅思考を 注3 に回しました。その他、構成を変えました。
 (ブログコメントの物理的上限に達したので、書いたものを削除しながら追加している(2017年8月16日))。

1. 初めに

 石崎さんのブログへの
 コメント626「生きる構造」2016/09/21  [http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment626]や、
 コメント633 「ポスト資本主義」2016/10/30 [httpは前の626を633に変える]、
 コメント687「新しい哲学を作っている:石崎徹氏のブログへのコメント626について」二版2017/07/17 [httpは前の626を687に変える]
は、本稿の後の課題を解く検討であった。これらが、単に、石崎さんの高原への誤解を解くために書いたものが長くなったと同様、本稿も、高原への誤解を解くために書き始めて長くなった。全体化を目指す根源的網羅思考の欠陥が出てしまった。石崎さんにはお詫びを申しあげる。

 1.1 対象
石崎さんブログ「マルセル・モース「贈与論」(2017.07.24」からの引用:
 『モースがこれ(「交換」の起源 高原)に関心を示した。どこから、なぜ、「交換」が始まったのか。そこにこそ経済活動の根源があるのではないか。
 モースによれば「交換」は「贈与」から始まった。「贈与」と「お返し」こそが「交換」の「起源」であった。』

 前のコメント617:(石崎さんの)「物々交換とマルセル・モース 2016年08月04日」について 高原利生 by 高原利生 on 2016/08/10 
も見返してみると、石崎さんのモース論についてのコメントだった。ほぼ一年前のことである。
 石崎さんの
 「高原さんもこの問題にずっとこだわっていたが、はたして何らかのヒントは得られたのだろうか。」
という文を拡大解釈して、つまり物々交換の起源 注1 だけでなく、物々交換が何をもたらし、その物々交換が開いた運動がどう展開して行ったかという検討内容を、矛盾 注2 とその粒度を管理する根源的網羅思考 注3 によって述べておく。

 1.2 方法
 幸か不幸か、従来の哲学(世界観、方法)は役に立たなかった。自分が今、世界のどこにいて、どうしないといけないかを教えてくれる哲学はなかった。
 そのため、どうしても、1.世界観を見直し、2.世界観構築の方法でもある、矛盾概念と構造の見直しと、粒度を管理しより大きな全体を求め続け進化の構造を内蔵した根源的網羅思考という新しい方法を作り上げなければならなかった。
 悪文なので少し書き直そう。1.世界観、2.矛盾と根源的網羅思考からなる弁証法という方法、が哲学だと考えている。「生きる」ことは「1世界観」-態度、感情、潜在意識-「2方法」-認識と行動で、この中の「生き方」が、「1世界観」-態度、感情、潜在意識-「2方法」だ。

 1.3 態度
 失礼ながら、何のために書いているのか分からない文章が多い。本稿も、他の稿も、今、生きていくためにどうしても書かなくてはならないので書いている。それが伝わらないまずい文章を書くのに、石崎さんのブログをお借りしてることは、石崎さんにお詫びしないといけない。どうしても書かなくてはならないので書いているのは、引用している他のコメント、論文でも同じである。
 作家はいい文章を書く人が多い。しかし「生きていくためにどうしても書かなくてはならない」という態度が見える作家は少ない。右藤俊朗や、妹尾倫良,野中秋子,長瀬佳代子の三婆(まがね58号)には、「どうしても書かなくてはならない」態度が良く感じられて感動的であった。三婆というのは、長瀬佳代子さんの私信による。勝手に使わせていただいた。
 仮説ができる。自分と客観の現状を対象化できず、「順風満帆で」でも「ささやかに」でもいいが満足している「幸せな」人は、新しく哲学を作ったり見直したりしない。この主語の二項、対象化と現状の満足度は、相互依存し合う。対象化できないと、特に生活に不満足を感じず自分の感じ方を絶対化し判断基準は自分の考えとの差異だけになる。逆も同じ。
 もちろん、これは新しい哲学の「正しさ」とは何の関係もない。
 仮説と言うほどのことではない当たり前のことだったか。2017年8月12,13日

 書くのは、分かったことが、従来の固定観念と異なっているからである。異なっていることばかりであるから長くなる。
 愚痴をもう一つ。保守的な人は、自分の意見と異なることは受け入れない。自分もどうしても保守的になりがちである。2017年8月10日。
 
2. 物々交換をめぐる全体の概要

 コメント617と余り変わらないが、整理して書き直す。

 (最初の偶然の物々交換)→(物々交換の普及、等価原理の発生)→ (実商品経済、負債、信用という等価原理経済の同時進行) →貨幣の誕生
 偶然の物々交換があったと思う。そのたまたまの物々交換から等価の意識が発生したことが重要で、それから等価原理が意識に発生してしまえば、等価なものが、実物であろうが、何段になった負債であろうが、何段になった信用であろうが、貨幣であろうが同じ、というのが学者の説と違うところだ。貨幣も等価なものの一つである。

 もう一つ、後に、「物々交換は、所有概念と同時に成立した。正確には、保管している食料を奪いに来る相手との闘いの中で、所有概念が成立したというほうが良いのかもしれない。この闘いという矛盾の解が物々交換だった」と書いている。つまり「保管している食料を奪いに来る相手との闘い」という矛盾の解が、所有概念と物々交換を同時に成立させた。[THPJ2012]。
 人の重要な歴史の転換に関わる矛盾の中核には、必ず人の特殊な問題に関わる課題がある。先行する動物の問題解決が解決の要素にはなるかもしれない。人の特殊な問題の解決に資するものは、それを含め何でも取り入れて解決しなければならなかった。 第一に、この闘いの中での現実の死者を減らさないといけないという事実、問題=矛盾のとらえ方と、第二に、何かの「起源」のとらえかたの二つが、モースなどの論者(や石崎さん)は、全く違うと思う。
 そしてある時、偶然の解決策が得られた。解の結果は余りに画期的だったので、物々交換はしだいに着実に広まっていった。2017年8月12,16日
 そして、石崎さんに読んでいただいたTHPJ2012の冒頭でも、物々交換における人の観念内の矛盾と商品内の矛盾は分けて分析している。
 (2017年8月5,6,12日追記)

 物々交換の起源の問題は大きな問題である。しかし、物々交換がもたらしたものの構造も、同様に対等の重要さがある。というか、その後の物々交換がもたらしたものの現在像、将来像に影響を与える可能性がある限りで、物々交換の起源は検討に値すると思う。

 物々交換をもたらした歴史、物々交換の発展がもたらした歴史に、四段階があった。(一々言うのを省略しているが、これも「仮説設定」Abductionである。演繹、帰納は新しい情報を生まない。考える、書くことは「仮説設定」をすることである。論理的に厳密な帰納が、仮説設定だと考えていて、そう提案しているが、この考えはまだ普及、確定していない)
 書いていて、物々交換→ 経済制度→ 政治制度と宗教制度の同時成立 という仮説ができた。これが資本主義成立まで続く。言うまでもなく極めて大雑把な一次近似モデルである。(以後の稿も含め、常に、より豊かな具体から、より貧しい抽象を切り取ることが抽象化なので、ひょっとして、石崎さんは、こういう抽象化自体に反感を持つのではないかと、ふと心配になる)
 物々交換だけでは何か足りないという思いがずっとしていた。分かってみると簡単で、足りないのは、物々交換から始まった「経済」を補完する「政治」だった。そして資本主義成立までは、それは、生成以来、宗教と並存していたのだった。そして、資本主義成立までの政治は、独裁制だった。
 (念のために言うと、経済が政治を規定するのが当然と同様に、経済を規定するのは、エネルギーと技術である。したがって情報、情報を扱う労働者の能力増大、AIは生産力で、経済を規定する要因である。このことを前提としてしつこく、コメント626、633[httpは前出]で書いている。特に633の前半部分である。)(2017年8月3日追記)

 こういう極端と思える単純化は、例えば、ほぼ同時期の経済と政治をめぐる全体を扱っている「ドイツイデオロギー」の初めの部分の極めて優れた内容と、一見大きく異なる。
 「ドイツイデオロギー」を何回目かに読み書評を書いたのは、2012年、根源的網羅思考の問題意識を持ち始めた時で、全ての記述の論理の粒度(空間時間、属性)が、厳密に過不足なく「根源的」「網羅的」に行われていることに驚きながら読んだ。
 退職後は、本は読まない主義になったとどこかに書いた。「ドイツイデオロギー」を再読したのは、心臓の手術のための入院で部屋でパソコンも使えない状態のためだった。弁解である。(2017年8月10日追記)
 「ドイツイデオロギー」にしてもその前のマルクスの「経済学・哲学草稿」にしても、経済、政治、社会を全体としてとらえようとする態度、論理、内容の豊かさに感服する。この二つの著作には、人の意識・イデオロギー、経済、政治、社会を全体として見る粒度がある。しかし、その後、マルクスが、経済学だけを独立して書くようになると、間違った単純化が間違った結論を出すようになる。
 その「原因」は、マルクスのやむを得ない「所有」の誤解と、狭い弁証法理解である。後者は、資本論第一巻第一章にはっきり出ている。
 「弁証法論理学にとって不運なことに、マルクスは、資本論第一巻第一章を、物々交換がすでに普及し、交換されるものが商品になっていることを前提にし、商品の分析から始めてしまった。マルクスは、なぜ商品の分析から始めるかを、説得力をもって語り、我々はうっかり納得させられてしまう。」[TS2012] しかし、資本論第一巻(しか読んでいない)の記述は、第一章以外は極めて優れていたように思う。

 次に、これも大雑把な一次近似モデルであり、100年くらい誤差がある話だが、資本主義後に、民主主義、人権意識、「自由、平等、博愛」が始まる。フランス革命と産業革命を同列に扱う乱暴な話である。
 こうして、 物々交換→ 経済制度→ 資本主義成立まで、宗教制度と並立する独裁政治制度→ 資本主義成立後、「自由、平等、博愛」が可能な民主制の政治制度というモデルができる。(2017年8月4日追記)
 歴史の事実を知らないで言う仮説だが、資本主義成立までの宗教制度と並立する政治制度が純粋に成り立つのは機械に頼らない農業の時代で、これと機械の産業が立ち上がってくる時代を分けたほうが良いのかもしれない。(2017年8月4,15日追記)
 コメント617の「罪と罰」をどうするかなどは、気にかかりながら殆ど進展していない。

 こういう小中学生にも理解できる水準の基本的歴史理解、世界観のための内容の抽象化も、今の意図の一つである。これを物々交換がもたらしたものから直接知ることができる。この世界観の基になっているのが、矛盾と根源的網羅思考を中心とする弁証法である。矛盾と根源的網羅思考についても本稿で最新の検討概要を示す。世界観、世界観から作られる態度、方法で生き方の全体になる。
 世界観、世界観から作られる態度、方法は、小学校、中学校からきちんと教える必要がある。他生命は遺伝子によって前の世代の知恵を受け継ぐ。中で、他の哺乳類は、親が、子が一人前になるまで必死に生きるすべを教えて育てる。人は、遺伝子と文化によって前の世代の知恵を受け継ぐので、親が、必死に世界観、世界観から作られる態度、方法を教えなければならない。これが今、特に日本では、必要なのに欠けている。(2017年8月15日追記)

3. 物々交換をめぐる全体

 物々交換に関わる四段階を以下に示す。
  
 1.八千年前(一万一千年前?一万年前?八千八百年前?といろいろ)の農業革命。

 (この項は、物々交換につながる物事の成立の条件を検討することだった、と後で気づく。この時点は、偶然の要素がまだ多い。何かを始めるための条件が外部に整っていないときは、それを整えることが必要である。矛盾の開始条件は、必ず外部から与えられるというのも、時間がかかった検討の成果であった。
 こう書いて、後の2,3項が矛盾の記述なのに、1項が条件の記述であることが不思議に思えていた疑問が解消した。2017年8月10日追記。
 ふと、「ドイツイデオロギー」でエンゲルスが、条件の検討と矛盾の検討を並べて述べていたことを思い出した。どこかと思って見直したが見つからない。

 六,七百万年前、サルから分岐した種が、火の利用、石器の利用をするまでに歴史の殆どを使った。火の利用はほんの十万年くらい前かららしい。
 火と道具の利用という技術の発展の条件が、たまたま四回目の氷河消失という条件と重なり、八千年前に農業革命を起こした。狩猟や漁業と異なり、農業は人の努力で自在に、(しかも長期保存可能な生産物の)生産量を、増やすことができる。農業革命によるエネルギーと自然の対象化が、二千年かかって徐々に、生産量と人口を大幅に増やしていく。

 そういう歴史的変化を起こしたのは人だけである。以後、地球では人だけが、遺伝子変更に加え、技術、制度、科学、芸術という「文化」という媒介物によっても外界に対応できるようになる。

 2.六千年前の物々交換から四千年前にかけての生産量の増大。

 (この項の説明は、物々交換の成立の矛盾を検討することだった、と後で気づく。2017年8月7日追記)

 たまたま、地球は多様な環境を持つため地域ごとに生産物が異なり分業が発達した。これが、約六千年前に、たまたま、物々交換を生む。このあたりの説明はTHPJ2012でしている。
 物々交換は、所有概念と同時に成立した。正確には、保管している食料を奪いに来る相手との闘いの中で、所有概念が成立したというほうが良いのかもしれない。この闘いという矛盾の解が物々交換だった。つまり「保管している食料を奪いに来る相手との闘い」という矛盾の解が、所有概念と物々交換を同時に成立させた。これが高原の説である[THPJ2012]。
 第一に、この闘いの中での現実の死者を減らさないといけないという事実、問題=矛盾のとらえ方と、第二に、何かの「起源」のとらえかたの二つが、モースなどの論者(や石崎さん)は、全く違うと思う。第一の違いは、ことが、当時、人の歴史が解決すべき切実な課題=矛盾が継続していたという認識である。人の重要な歴史の転換に関わる矛盾の中核には、必ず人の特殊な問題に関わる課題がある。先行する動物の問題解決が解決の要素にはなるかもしれない。人の特殊な問題の解決に資するものは、それを含め何でも取り入れて解決しなければならなかった。
 そしてある時、偶然の解決策が得られた。解は、貯蔵物を奪いに来る相手との戦いで死者が出るという問題を物々交換で解決するものだった。同時に「所有」という概念が生まれてしまう。解の結果は余りに画期的だったので、物々交換はしだいに着実に広まっていった。2017年8月12,17日
 モースを直接読んでいないが、この認識は、石崎さんの引用内容からは読み取れない。

 石崎さんに読んでいただいたTHPJ2012の冒頭で、資本論第一巻第一章の問題点を挙げた。ここで、マルクスは「商品ありき」で検討を始めてしまう。「商品ありき」は「物々交換ありき」ということである。これが矛盾見直しの大きなきっかけになった。物々交換の開始の検討 注1 をしないといけなかった。一般化すれば、何かを始めるという運動の検討をしなければいけなかったということである。
 結果として「マルクス主義」の弁証法論理、その単位である矛盾は、使えないので、新しくつくりなおさなければならなかった。 運動とその開始の構造として、矛盾を再定義することができた。注2 また、最近、一回限りの矛盾と、永続運動である新しい型の矛盾があるということが分かった。「唯物論」という事実主義については、エンゲルスが四つ述べているもの[高原のコメント626 httpは前出] で充分だと思っている。
 (矛盾と根源的網羅思考からなる弁証法と、唯物論という事実主義のとらえ方は、今の「マルクス主義者」左翼、リベラルと全く異なっている。というより、矛盾、弁証法、唯物論というものは、彼らの頭に全くない。)

 たまたま起こった最初の代表者二人の間の物々交換で最初の制度が成立したと考える。複数の人の共同観念とその生成、運用の総体が、制度の定義であるから。
 物々交換における制度は次第に定着する。制度が定着するとは、ある社会の中の全ての意識的主体がその共同観念を共有し、生産と生活の前提になるということである。
 交換の場所は次第に市場に変わり、貨幣ができ、交換が「もうけ」を生むようになると、経済制度が発展する。
 経済制度の発展は、交換主体、交換対象、媒介物、媒介形態のそれぞれで起こる。他の制度、技術、科学、芸術で発展がどのように起こるか、これらに共通の原理があるか、相互間の原理の関係がどうであるかは大きな問題である。共通の発展原理はTHPJ2015/02で触れた。発展の要素として「入れ子」の重要なことにも気づいた。
 これらの共通の原理の一部として、重層化、媒介化、間接化を何重にも経て膨大化していくことが挙げられることは、注2(矛盾)でも触れている。自然の発展の場合と人が作る文化(技術、制度、科学)の場合では発展の形態が異なる。芸術の場合はよく分からない。
 経済の場合、交換主体の複雑化、交換対象の実物やサービスへの拡大は、目に見えやすい。しかし、媒介物の複雑化間接化と媒介形態の複雑化は見えにくい。また、今は国ごとに異なる。ここでは、見えにくい「原因」「結果」の実態を二つ挙げる。一つは、今は、労働時間の対価であるお金を使った「交換」が、労働の経験のない子供などにも普及していること(このもう一面として、うろ覚えだが、資本論には、貨幣による流通の普及が「個」の発達をもたらしたという記述がある)、もう一つは、労働の十分な経験のない人も、複雑な契約をむすばねばならぬことである。(何十ページにも及ぶ契約書を読んで理解したことにして、人は判を押す)2017年8月13日

 資本論第一巻第一章には、全面的に反対するが、文庫に入っている「ドイツイデオロギー」の初めの部分の豊かな内容には、ほぼ同意する。(「ドイツイデオロギー」では中世にも「所有」が頻発する。今の「所有」との違いが良く分からない。)
 資本主義=利益第一主義が生まれて後に、「私的所有」の結果である「お金」だけが、唯一無二の「価値」、経済のただ一つの原動力になる。(2017年8月1日追記)
 物々交換は、これと同時に等価原理(等しさの原理)を生み、この等しさの原理は、婚姻に関する集団内の共同観念と並び、所有や「罪と罰」という集団内、集団間の共同観念を作り、法制度の一部を作った。
 等価原理、等しさの原理は、等式、差の意識、推論、科学を生む。等価原理(等しさの原理)は、合わせて様々なマイナスを生んでいる。
 物々交換は、制度や、(物々交換が起こした「等しさの原理」、等価原理の形で)科学の本質とは密接に関係する。つまり物々交換は、経済制度、法制度などの制度の根幹、科学の発展に関わる。しかし、「文化」のうち、芸術とはあまり直接には、関係がないようである。

 3.四千年前以降の生産量と人口の増加が宗教を生み政治制度が発展する。

 (この項を書いていて、歴史は次のことを自分で見つけたように見えることに気づく。ヘーゲルの「自律」矛盾のように。;
 物々交換が開いた経済の発展に「法」「政治」が必要なこと、
 必要な「法」や「政治」の実現には、宗教との並立が必要であること。
 宗教と並立する独裁政治は資本主義成立まで変わらないこと。
 ヘーゲルの「歴史哲学」はそういう歴史を書いているのだろうか?2017年8月7、8日追記)

 物々交換から約二千年遅れて、引き続く経済の発展による生産量と人口の増加が、その管理のための法制度や政治制度を必要とするようになる。形成された大きな集団への自分の帰属意識を起こし、国など様々な制度が生まれる。これも、合わせて様々なマイナスを生んでいる。(2017年7月31日追記, 8月3日修正)
 法制度や政治制度のために、謙虚に自然や神に向き合う宗教が形成される。四大文明、世界宗教が始まる。(2017年8月2日,3日修正)
 宗教は、当時、最大の生産手段であった土地を、支配者が「管理」するための手段になった。これは、https://ja.wikipedia.org/wiki/「宗教の起源」に教えられた。

 「小集団や部族が超自然信仰を維持していたが、そのような信仰は権力者の支配権や富の移動を正当化したり、無関係な個人間での平和を維持するのには役に立たない。組織宗教は次のように社会的、経済的安定を提供する手段となった。
 ・領民に社会や安全のサービスを提供する見返りに税の徴収権を支配者に認めることを正当化した。
 ・小集団や部族は血縁関係にある少数の人々からなる。しかし国のようなより大きな集団は何千もの無関係な個人からなる。ジャレド・ダイアモンドは組織宗教が、それがなければ敵対的な関係に陥りやすい無関係の個人同士に結びつきを提供したと主張する。
 農業革命から生まれた国(古代エジプトや古代メソポタミアのような)は首長、王、皇帝が政治的と精神的な二重の指導者を演じる神政であった。人類学者は実質的に全ての領土的社会と首長制国家が宗教的権威を通して政治的権力を正当化していることを発見した。」[https://ja.wikipedia.org/wiki/宗教の起源]

 宗教の意味には、1.人口増に対処し人と人の関係を管理するための制度、2.(資本主義が始まるまでは)土地という生産手段を管理するための制度、3.人の内面にとっての意味、の三つがある。中世の支配者は、土地を所有しているという意識はなかった。土地所有に、特に「価値」はなかった。

 経済制度を補完し、上の1.2.を実現するために、宗教と政治は同時に必要になった。四大文明が周囲に広がっていく。そのため、大雑把に言うと、世界宗教の誕生は、四大文明発祥とほぼ同期している。
 ・古代メソポタミア近辺のユダヤ教、キリスト教、イスラム教、
 ・インダス文明の仏教、
 ・黄河,長江文明の(宗教ではないかもしれないが)儒教、である。
 完全に対応していないかもしれない。時間にずれがあるかもしれない。また、古代エジプトの宗教は、世界宗教にならなかった。

 ここの四大文明の「文明」とは、高原の「文化」の原型で、生産のための初歩的な技術体系と運用、生産物の流通のための経済制度、そのための初歩的な政治制度、行政機構の複合体である。(2017年8月1,3,16日追記)
 文化と文明は、異なった意味に用いられているが、高原の文化は、両者を併せ持った意味の概念である。
 文化、文明の発生時期は、論理的実証的検討がされていると思うが、例えば、日本の縄文時代は、三百人程度が同じ場所に定住して比較的高度な共同観念を共有し合っていたらしい。しかしそれは四大文明のような「初歩的な生産のための技術体系と運用、経済制度、そのための初歩的な政治制度、宗教制度、行政機構の複合体」ではなかった。

 きわめて大雑把に仮説を言うと、宗教と政治の同時並列は資本主義が始まるまで続く。(2017年8月1,3日追記)
 資本主義成立までの宗教制度と並立する政治制度が純粋に成り立つのは機械に頼らない農業の時代で、これと機械の産業が立ち上がってくる時代を分けたほうが良いのかもしれない。資本主義成立以前から、工業は産業として成立していて、宗教と言う「一体化」だけが政治に必要な時代は、徐々に「対象化」も政治、経済の管理にも大きな役割を果たすようになったであろうから。(2017年8月4,15,16日追記)
 資本主義成立までの宗教制度と並立する政治制度が純粋に成り立つのは機械に頼らない農業の時代で、これと機械の産業が立ち上がってくる時代を分けたほうが良いのかもしれない。(2017年8月4,15日追記)

 資本主義成立までの政治は、独裁制だった。これが、長く続く宗教と政治の一体化と関係している。社会学者や政治学者による検討はされているのだろうと思う。

 4.その後の歴史と未来

 資本主義後に、これも大雑把な一次近似モデルであり、100年くらい誤差がある話だが、民主主義、人権意識、「自由、平等、博愛」が始まる。フランス革命と産業革命を同じに扱う乱暴な話である。

 こうして、
 物々交換→ 経済制度→ 資本主義成立まで、宗教制度と並立する独裁政治制度→ 資本主義成立後、「自由、平等、博愛」が可能な民主制の政治制度
というモデル
ができる。今、実際に実現しているのは、見事な衆愚政治である。
 この政治制度の単位は、できた当初は「国」という比較的大きな単位だったが、その後分散傾向が強まり、それが次第に大きな単位に成長し、今の「国」の大きさに復活している、というのが世界に共通する傾向である。少なくとも日本では、今の「国」を相対化して戦争の元をなくそうとする政治勢力は皆無である。少なくとも日本では、民主主義を実現しようとする政治勢力も皆無である。(2017年8月4,8日追記)

 政治成立後の四千年の歴史は、生産量と人口の増加に対応する、経済制度、土地管理制度、人の管理制度などからなる制度、科学、芸術、技術の歴史である。

4. 終わりに

 「農業革命→ 物々交換→ 経済制度→政治制度」という運動の流れを見るのが本稿の論理である。
 一方、従来、FIT2016、IPSJ2017、FIT2017では、農業革命というエネルギー革命を主導した不十分な一体化と、産業革命というエネルギー革命を主導した対象化を統一する、十分な一体化と対象化の矛盾をポスト資本主義の原動力候補と考えていた。十分な一体化がポスト資本主義のキーと考えていた。二つのエネルギー革命から生まれた一体化と対象化だった。なお「ドイツイデオロギー」国民文庫の「共産主義」の項の説明に、実現の力としての一体化ないし一体という言葉が三回出てくる。P.132
 この二つの関係が気になっていた。「農業革命→ 物々交換→ 経済制度→政治制度」は、「農業革命というエネルギー革命を主導した不十分な一体化と、産業革命というエネルギー革命を主導した対象化を統一する、十分な一体化と対象化の矛盾」のサブセットである。
 前者、農業革命→ 物々交換後の不十分な一体化が、政治と宗教の並立として実現されていることが今回分かり、後者、産業革命後の十分な一体化の必要な内容を豊かにした。これは「ドイツイデオロギー」にはない意外な成果だった。2017年8月7,9,11,12日追記)

 250年前にエネルギー革命である産業革命、資本主義が起こり、今、ポスト資本主義を作ることと新しい生き方を同時に作ることが課題である。
 資本主義を変えようとする運動と維持しようとする運動の闘いはないので、今の政治分析は国際政治でも国内政治においても、資本主義、つまり支配層内部の分析をしなければならない。しかしそれをしようとする政治勢力は、左翼を含めて、いない。

 コメント617でふれた等価原理(等しさの原理)、「罪と罰」、憎しみ、復讐の流れにある国家間の戦争を含む、資本主義について、田中宇の国際ニュースから知見を得た。彼は、戦後の日本がずっと「官僚独裁体制」であり、対米従属の日本の官僚機構は、米軍産の傀儡機構であると述べている。彼は政治と行政を分けている。
 仮説を立て検証を続けるのは、変更だけでなく認識についても同じである。
 加計問題は、資本主義内部の一見些細な問題に見えるがそうではない。加計問題について、NHKや朝日新聞などリベラルは、前川前次官の官僚の立場を重点的に報道している。加計問題は、1.資本主義経済体制内部の、行政に、政治が正当だがやや行き過ぎに介入したという小さな問題だけが問題になり、2.資本主義経済体制内部の、政治と行政間の矛盾の問題と、3.保守と革新の問題、根本問題は提起されていない。
 加計や森友問題で流行語になった「忖度」というのは、等価原理の直接の応用問題であるが、ここでは大きな問題ではない。
 今は全体を見る力のある政党、マスコミがいない。左翼と「リベラル」の政党、「リベラル」のマスコミは、1が問題の全部だとがなり立て、世論を煽る。加計の問題は、小さな1の問題と、本質的な2の問題である。
 今、右翼、リベラル、左翼という区別に意味がなくなったと、コメント626、633[httpは前出]などに書いた。日本では、リベラル、左翼は、自民党以下になった。原発、憲法、資本主義内部の問題分析においてそうである。

 こう書いた後で、今日、2017年7月31日、田中宇の国際ニュース解説 無料版 2017年7月31日 http://tanakanews.com/「中国と和解して日豪亜を進める安倍の日本」が出た。田中は、加計スキャンダルは、2017年6月に、今までの方針を変え、一帯一路賛成に転じた安倍をつぶそうとする動きだと書いている。これは無料版だ。
 「ドイツイデオロギー」にこうある。「支配階級の思想はいずれの時代においても支配的思想である。ということは、社会の支配的物質的力であるところの階級は同時に社会の支配的精神的力であるということである。物質的生産のための手段を意のままにしうる階級はそれと同時に精神的生産のための手段を自由にあやつることができる」(ドイツイデオロギー国民文庫p.89- 91)。その時の「支配層」がマスコミ、世論を操作する。精神的生産のための手段には「学会」なども含む。それに今はもっと複雑になっていて、一見自由になっているように見える。それは社会学者が厳密な分析を行っているのだろう。
 ただ、「支配階級」に反対する言を勇ましく吐いている人を含め、自分も含め、あらゆる人は、その時の固定観念のがんじがらめにされている。今の左翼とリベラルは、まさにこれを自覚していない人々である。
 「支配層」は近代以降いつもどこでも、経済界、政治勢力、行政組織の複合体だが、例えばイギリス、アメリカ、日本ではその実態は大きく異なる。
 田中宇の国際ニュース解説 会員版(田中宇プラス)2017年7月15日「リベラルとトランプ」は有料版である。「リベラルとトランプ」で、「戦後の日本がずっと「官僚独裁体制」であり」「日本の官僚機構は、米軍産(リベラル)の傀儡機構」と書いている。トランプは、反「米軍産リベラル」なので、アメリカのマスコミでも日本のマスコミでも袋叩きにあっている。

 これは、全体を把握する必要性と、その全体を把握しようとしない人々への批判にもなった。1.それ自体は正しく人に分かりやすいが、小さな本質的でない問題を、全体の本質だと言いつのる人に、人は容易に騙される。これは新しい発見だった。2.例を挙げて説明すると、それは何の論証にもならないにも関わらず、必ず、人はその命題にコロッと騙されるのと同様。
 間違った命題を、広めていくためには、圧倒的多数に、論理が間違っていることを、感情で覆い隠すことが不可欠である。「間違った命題を、広めていくために」というより、言っている本人が論理を対象化できず感情に駆られていることが殆どなのであろう。加計では、リベラルや左翼は、もともと下手な役者が、わざと大げさに下手に演じているようにしか見えない三流役者ばかりになった。
 感情をからめたそういう手法の種類は、あまり多くない。上の二つは典型的であるが、まだ網羅できていない。宗教組織なり政治組織なり、組織を大きくしないといけない組織はこれをうまく使ってきた。石崎さんには悪い例だが、原爆や原発事故の恐怖、アメリカが原発を勧めたことを、感情面で原発反対に利用する左翼、リベラルが好例である。そうした上で彼らは原発反対の「正しい」小さな「論理」や事例を積み重ねて、読めば無論理が良く見える理屈を作る。この点で反原発は、加計より「下手」が見えやすい。(2017年8月8日追記)
 以上、一見些末な問題と見えるものの中に、実は大事なことがあるのだった。様々な点で、リベラルや左翼の「常識」に無視される内容になった。ゼロベースで根源的網羅思考をすると、あらゆる分野で自分の固定観念を変え続けるだけでなく、他人の「常識」に無視され続けることになる。部分的でも賛成してくれる人、特にリベラル、左翼はいないだろう。それは仕方がないと粋がるしかない。(2017年7月31日、8月3日追記)

 悪文だと思いながら書く。今は、より正しい事実と価値についての、より大きな根源的網羅的全体を求め続けようとする態度を持った人、組織が存在しない危機にある。今は、それが必要なときであるのに。(2017年7月26,28日追記)

 もう一つ、大きな課題がある。
 火の利用と道具の利用を始めた人はどう生きていたか。その後のその時々の人はどう生きてきたか。
 生産量と人口の増加がなぜどのように起こったか、その後の具体的な生産量と人口の増加が、どういう生活をもたらし、それがその時代にどういう内容の制度変更を必要とし、実際にどういう変更が行われ、どういう価値が実現されたのか。
 この大きな流れを理解することは必要で可能である。(2017年8月1,2,3,04日追記)
 しかし、例えば、文科省が作った学習指導要領による小学校6年、中学1年(だけに限らないだろうが)の歴史教育内容は、何年に誰が何を起こしたという細かな事柄、事件の列挙があるだけである。

 今、ポスト資本主義を作ることと新しい生き方を同時に作ることが課題である。その中で「所有」の扱いが問題である。これは、本稿の粒度の歴史認識を前提とした、より大きな粒度の矛盾が問題になる。
 これらについて、
 FIT2016、FIT2017、
 コメント626、http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment626
 コメント633(httpは上の626を633に変える)、
 コメント687(httpは上の626を687に変える)
などに検討過程を書いている。

 FIT2016では、2) 世界観(世界観は、過去、現在、未来についての事実観と価値観の共同観念である。世界観は、個人の価値観、潜在意識、感情に影響する)、3) 「生きる」、4) 文化という共同手段(技術、制度 [TJ200306]、科学、芸術)の三つが、「一体化と対象化」という矛盾で統一的に把握できることを示した。この三つに内在する粒度の矛盾が、「一体化と対象化」だった。そしてこのように統一的に把握できる形になっているのは、生きるエネルギーを最小にするためである、というのが高原の仮説である。1) 知覚は検討の対象に含んでいないが、知覚もエネルギー最小のため今の形になったと推測できる。
 これは歴史の総括である。この中の不十分な一体化や対象化が各時代の生き方であり技術や制度を作ってきた。今までの数千年の総括である農業革命と産業革命の一体化と対象化を完成させながら、一体化と対象化を統一させることが、理想の生き方とそれを支える理想の技術や制度を作る。これが高原の仮説である。
 まず「理想」があるのではなかった。理想像が、人の労働と生活の歴史を総括して得られたのは不思議である。行うべきことは、全ての個人の労働と生活の変更であるというのが原点である。
 今までは、手段変更は個別には意図的だったが、全体を意図的にコントロールする論理はなかった。それが得られる画期的段階に人類は達する。
 FIT2016では「本稿の方向だけが、一体化と対象化、謙虚さと批判、愛と自由を豊かにする。これが、一体化と対象化を体現した「個」、「個」の思考、議論と民主主義を確立する。これが、また、新しい真理、新しい価値を発見し続け、価値を高め続けるだろう。この理想的関係が、利益に代わって労働の原動力になる。個人全員による思考と議論が行われる「歴史」が始まる。
 これらで書いたのは、本稿に続く、「ポスト資本主義を作る問題と新しい生き方を作る問題」だった。
 これらは、かつては、マルクス主義の内部で、主観と客観の一致として語られ、サルトルが「全体化」として提起した、今、個の生きる一瞬が、客観的に全歴史、全世界の「問題解決」となっている主観が得られるという、保証がなさそうに見える解である。この理想は、個が、一瞬ごとに、苦労に苦労を重ねる努力をする労働運動と生活運動で実現される。そのためには、今の労働と生活の一瞬に、歴史と全世界の事実と価値、その中の自分の空間的時間的位置を理解し、どう行動すべきかが分かることが必須である。これには、時に制度を変える行動も必要になる。価値実現の場は、ごく一部が国政選挙であるが決してデモなどではない。今のリベラルや左翼は、何も努力しないで安穏で平和な生活が得られるのが理想であると思っているように見える。2017年8月16,17日


注1. 物々交換の起源に触れた論文
 物々交換の起源を例として論じたCGK2014「不確定な矛盾の生成」の一部を示す(一部、表現を変えている)。物々交換について最初に書いたのは2012年IEICE2012の論理学セッションだった。

 3.矛盾の解決像を実現するオブジェクト操作
 生成を含む矛盾の解決像は、オブジェクト操作として実現される。次にオブジェクト操作の型を三種類、網羅しておく。次の2)は矛盾でない。

 1) 当のオブジェクト世界内だけの変更
 これは、さらにオブジェクトそのものに対する操作(U,P,M)(説明略)とオブジェクト世界の内部構造(要素,要素間の関係)の変更(D)に分かれる[TS2009]。変更(D)は、外部環境の利用、オブジェクト世界の粒度の変更、オブジェクトの分割、組み合わせを含む。これは、機能を改善するための、今あるものの変更である。
 2) 異なったオブジェクト世界からの介入
 これは、当のオブジェクト世界に別世界から介入して,自由にオブジェクトの持ち込み、持ち去り、取り換えをする操作(R)である[TS2009]。取り換えはオブジェクト世界全体取り換えも含む。
 実験室では、実世界とは違うオブジェクト世界で、実験を行う。自由にオブジェクトを追加し、取り去り、取り換える。
 実世界のオブジェクト世界でも、例えば部品が故障した場合、部品の除去、追加、取り換えは自由にできる。
 これも、今の機能を改善するための変更である。このオブジェクト世界をまたがる操作は矛盾の概念を超える。
 3) 媒介化 間接化、重層化
 媒介化、間接化は、オブジェクト世界内だけの変更でなく異なったオブジェクト世界からの介入でなく、またどちらでもある。
 媒介化、間接化だけが、現在の機能の本質的な高度化を実現する。人類誕生以来、人は、個人の領域以外に、技術の領域と制度の領域による媒介化、間接化、重層化を持つことになった。
 技術とは、技術手段とそれを作る過程、利用、運用する過程の総体、制度とは、法、道徳、宗教など共同観念とそれを作る過程、利用、運用する過程の総体である[TJ200306][TS2008-09]。

 4.矛盾の生成:項-関係-項、矛盾の生成の例として、共同体間の物々交換制度を最初に実現する場合

 物々交換は、原子力利用と並ぶ人類の歴史の画期的発明だった。この実現構造を検討する[THPJ2012]。差異解消を不具合解決(問題解決)として考える。当初は、共同体間の交換で、個が確立してのち個人間の交換に変わっていく。
 a) 問題は、保管している食料の外部からの強奪によって生じるいさかいで死者が増えるのをどうすればいいかということだった。
 b) 当時、所有という概念は成立していない。自分の前にあるものと相手の前にあるものが、それぞれの共同体の「所有」であるという認識が完全にはない条件下で、自分の共同体の所有物と相手の所有物を同時に交換するという予定像の観念を作りつつ、代表者二人がその観念をお互い事前に共有すると、最初の物々交換の条件が整う[TS2010]。共有は特殊な関係である。ここには、はっきりしない共同観念を始めて共有する困難さがある。克服すべきはこの困難さである。

 以上の事実認識、矛盾の定式化のもとで、矛盾の解決像を出す。
 1) この問題解決の謎の解決のための仮説は、次のようなものである。「女性の世界史的敗北」以前だったと推定される最初の物々交換でも、その代表者は武力に優れた男であり得るので、二つの共同体の交換の代表者が男と女である可能性がある[IEICE2012]。たまたま、両共同体に生産物がやや余っている時期と、恋によって生じた、お互いが相手に何かを与えたい感情が重なるという極めてまれな条件が生じた。二人の恋がこの最初の物々交換の条件を作った[IEICE2012]。

 2) これに対し、石崎徹は、動物のオスのメスに対する、ものまたは行為のプレゼントとその返礼が発展し一方向プレゼントから双方向プレゼントに、さらに物々交換になったということも考えられるのではないかという。

 これらの1) 2) の問題解決は、いずれも、恋により今の利己的行為から相手のことも考慮した行為への画期的改善が行われる。今なら、TRIZ等、どの問題解決法にもある意図的な粒度拡大という解法の代わりに、当時は、恋が同じ粒度拡大という結果をもたらす解決策になった。

注2. 矛盾 [FIT2006, 2013, 2016] [TS2006, 2010, 2011, 2012] [THPJ 2012, 2015/1,2]
 マルクスの矛盾概念の欠点は、資本論第一巻第一章にはっきり表れている。簡単に言うとヘーゲルの矛盾の欠点そのままである。
 資本論第一巻第一章の矛盾の欠点の「原因」は、何かを始める時の運動の分析ができないことと、外部の運動の作用を分析できないことにある。
 つまり、資本論第一巻第一章で、前者は、商品ありきで分析を始めてしまったことに起因し、後者は、商品流通を効率的に行いたいという「外部」からの要請の無視に起因している。これらは、石崎さんに読んでいただいたTHPJ2012に詳しく(と言っても数ページに)書いてある。
 弁証法論理は、あらゆるものが相互に関連し合い変化していることの分析と変更のためにあるという教科書の「うたい文句」も思い返してみると怪しいのだ。「相互に関連し合い変化している」ことの始まりの扱いと「外部」の扱いが不明確なのである。
 資本論第一巻第一章以外のマルクスの矛盾を使った分析は素晴らしいものであり、いつ読んでも感動する。そのこともコメント626、633では例をあげて書いた。

 矛盾は、外部との関係を持つ二項の関係の生成と運動である[FIT2012] [TS2012] [FIT2013]。言い換えると、矛盾は、(同一オブジェクト世界内の)二項の相互作用の生成と運動と、それを可能にする外部運動の総体である。とりあえず項はものと観念からなる存在としておく。二項の生成は、必ず 外部運動が行う。

 矛盾は、運動の構造である。従って、世界のモデルの最小単位になることができる。この最小単位の大きさを表すのが粒度である。矛盾が、粒度を管理する根源的網羅思考とあいまって思考が進んでいくことが分かったことである。

 様々な矛盾の分類がある。[THPJ2015/1参照])
 矛盾は、通常の変化、変更である狭義の差異解消矛盾と、従来の通常の矛盾である両立矛盾に分かれる。両立矛盾も広義の差異解消と呼べる。その理由は、両立していない状態から両立の状態への差異解消という粒度があるからである。
 下記が今のところ、運動の構造を網羅していると考えている。エンゲルスの「三つの法則」に該当する項も示した。
 1.差異解消矛盾
   11. 量的変化を起こす(値)
   12. 量的変化が質的変化を起こす(値が属性変化を起こす)。これがエンゲルスの「質量転化の法則」。:例:水の沸騰、蒸気の液体化
 2.両立矛盾(値、属性)  
   21. 二項の両立を実現する。これがエンゲルスの「対立物の統一の法則」。
 「対立しながら両立している」ので、本来は両面がある。人が操作する際は、これは両立手段を見つける場合だけに使う。実際、これを設計で最も良く使う、というか、設計では、目的実現のために、何か変更したいと思うと、変更した項と別の項を両立しないといけなくなることが多い。従って、その両立する手段を見つけることが設計であることが多い。TRIZの「物理的矛盾」「技術的矛盾」は、いずれも両立矛盾である。その解法は、両立手段を見つける方法である。
 なお、対立物の統一は矛盾の本質を表す粒度がある。11項の量的変化を起こすことも、「値が、ある値であり同時にある値でないこと」である。
   22. 両立し統合された二項が弁証法的否定され質的変化を起こす。これがエンゲルスの「否定の否定の法則」 例: 全ての製品。それぞれの「部品」が構成されて、車のような新しい質を持った製品になる。
 3.一体型矛盾(オブジェクト、属性)
   23. 特別な両立矛盾で両項を「変更し続ける」。ある条件が整うと両立矛盾は一体型矛盾にかわる。機能と構造など、FIT2016でいくつか例を挙げている。
 21がその都度終わってしまう運動であるのに対し、この一体型矛盾は永続する矛盾である。(FIT2016 では「高め続ける」としていたが狭すぎて間違いだったのでFIT2017で、訂正した。悪化され続けることもある。良くなる/悪くなるというのは、人のとらえる価値に依存する)

注3 根源的網羅思考 [TS2012] [FIT2012, 2013] [THPJ2015/1]

 幸か不幸か、従来の哲学(世界観、方法)は役に立たなかった。生きていけなかった。そのため、どうしても、1.世界観を見直し、世界観構築の方法でもある、2.矛盾概念と構造の見直しと、粒度を管理しより大きな全体を求め続け進化の構造を内蔵した根源的網羅思考という新しい方法を作り上げなければならなかった。本稿も、他の稿も、今、生きていくためにどうしても書かなくてはならないので書いている。どうしても書かなくてはならないので書いているのは、引用している他のコメント、論文でも同じである。2017年8月12日
 何かの「全体」を常に求め直し続けることが必要で重要だということの再確認、その「全体」を求める方法の検討、どんな短い文でもそれが「全体」を表現しているようにすること。これに、この一年の半分は費やした気がする。提案している根源的網羅思考は、全体を根源的網羅的に求め続ける思考だと自分で気づいた一年だった。
 ここで「全体」というのは、何かまだよく分からない、事実と価値についての「全体」で、「よく分からない」故に、常に求め直し「続ける」態度が必要である。この態度の思考が、仮説設定と検証を行う「根源的網羅思考」である。仮説設定は厳密な帰納を行う思考で、扱う対象の網羅ができれば厳密な帰納が可能になるが、一般に物理的網羅は不可能なので、厳密な帰納は、論理的に網羅された前提で行われる。論理的網羅は、粒度(時間空間、属性)に依存するので粒度を選ぶ基準は、当然、常に「仮説」にならざるを得ない。
 根源的網羅思考が始まるきっかけは、何か感じる、何か読む、何か書くことである。その感じる、読む、書く内容に、何か足りないという無意識の感覚、意識的な根源的で網羅的なものを求める思考が、思考の原動力になる。何か足りないという無意識の感覚は、まだ対象化されていないが、これもいずれ対象化される。意識的な根源的で網羅的なものを求める思考は、今でも対象化されていて、すぐにでもAIに乗ることができる。根源的網羅思考は、仮説設定、思考、民主主義の基礎である。根源的網羅思考が難しいということは、民主主義の実現が実は難しいということである。2017年8月12日

 (書きつつ分かってくる)直接の本稿の目的は、物々交換をめぐる「全体」をつかむことで、これが、まだよく分からない「全体」とその中のこの問題の位置を次第に分かってくるようにさせてくれる。そして、今、全ての人が誤解している問題なので、全ての人に必要なことだと勝手に思っている。(2017年8月9日)

 抽象的なので分かりにくい。高原の書く内容は、FIT2013以来、全て根源的網羅思考の結果である。FIT2013では、初めて、論理が自分で進んでいく経験をした。書いてある内容も分かりにくいかもしれないが、それは、ことごとく「良識」「常識」と異なるからでもあると、勝手に思っている。
 これは、若きマルクスの構想やサルトルの「全体化」を実現する方法
で、石崎さんに理解されない根元なので、今までの繰り返しで恐縮であるが、なるべく正確にもう一度要約し直した。(2017年07月27日,08月05,07日追記)

 読むこと、読み直すことは、考えることで、ゼロベースで考えるとは、根源的網羅思考によって全体を根源的網羅的に求め続けることである。根源的網羅思考の良いところは、あらゆる書かれたものの全体構造が、自然に透けて見えてくることである。今のネットでの発言は、ほとんどの場合、何も考えておらず、自分の固定観念と感じていることをただ文にしただけであることも透けて見えてしまう。
 書くこと、書き直すことは、考えることで、考えるとは、根源的網羅思考によって全体を根源的網羅的に求め続けることで、しかも他の人の文と異なり自分の文の対象化はやや困難さがあり、論文でも石崎さんブログのコメントでも、何度か書き直して、結果と何とか他の人が読むに値する内容になる。同時に読みにくい文になる。また、ブログの作法にも反する。それは平にご容赦していただくしかない。(2017年08月07,09日追記)
 誤解があるかもしれないので、念のため述べておく。とりあえず、自己表出と指示表出を分け、石崎さんの指示表出に当たる文章を対象にしてコメント626や、コメント633を書いている。石崎徹という作家の文章については、今まで称賛の感想を書いたことしかない。
 (なお、たまたま、高原利生の「マルクス・エンゲルス「ドイツイデオロギー」真下真一訳、国民文庫、1965. (原著1845,6)」のAMAZON書評を読み返してみると
 「p.126- 128には、自己表出という注目すべき概念が新たに語られる」
と書いてある。「自己表出」は、マルクス・エンゲルスの用語だった。吉本隆明の造語だと思い込んでいた。
 さらに、この書評には、その後には、核心部分が失われていくマルクス・エンゲルスの引用がある。
 「以前の諸時期においては自己表出と物質的生活の産出とは両者が別々の人物によって担当されることによって分けられていて、物質的生活の産出は諸個人そのものの限局性のゆえにまだ一種の程度の低い自己表出という意味を持っていたのに、いまでは総じて物質的生活が目的として現れ、物質的生活の産出、労働(これが今日では自己表出の唯一可能な、ただし、われわれの見るように、否定的形態である)が手段として現れるというふうに両者は離れ離れになっている」 「したがって、いまや諸個人が、存在する生産力の全体をわがものとして占有しなければならないところまできた」p.126
 「この占有は占有されるべき対象によってまず条件づけられている」
 「占有されるべき対象というのは、」「諸個人そのもののうちなる諸能力のある全体を展開するということである」
 「のみならず占有する主体であるところの人々によっても条件づけられている」
 「さらにまた占有は、それが遂行されなければならない様式によって条件づけられている」
 「この段階においてこそ自己表出は物質的生活と一致する」
 「個人の、全体的個人への展開および(中略)労働の、自己表出への転化」p.127 
 2017年8月9日追記)

 2003 – 2015年の高原の論文へのリンクは、下記の中川徹, TRIZ ホームページにある。.
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-2015-NotesABC/Takahara-NoteA-151012.html
 記号の略称はつぎのとおり。
  TJ: Journal,
  FIT: 情報科学技術フォーラム,
  TS: TRIZ シンポジウム,
  THPJ: 中川徹, TRIZ ホームページ,
  IEICE: 電子情報通信学会全国大会

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