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竹内七奈「或る家族の瓦解」(民主文学17年7月号)

「或る家族の肖像」というタイトルの作品を最近読んだばかりだと思っていたら、勘違いしていた。「ある作家の肖像」だった。そういうフランス映画がつい最近(2013年)にあって、吉開那津子が同じタイトルで書いたのが記憶に残ったのだ。
 でも「ある家族の肖像」も、映画にもあれば、レンブラントの絵画にもある。レンブラントの絵画の英語名はFamily Portrait、直訳すれば「家族の肖像」だが、日本語で「家族の」と書くと自分の家族のことのような語感がある。Family Portraitは「どこかの家族の」という意味だから、「ある」を付けるのが妥当だろう。
 ところで言いたいことは、「ある作家の肖像」も「ある家族の肖像」もぴったりしたタイトルなのに、「ある家族の瓦解」と聞くとどこかぎこちない、ということ。何故なのか、(ぼくの思い違いかもしれないのだが)たとえば次のようなことを考えた。
「肖像」は静的だが、「瓦解」は動的である。「肖像」が一人の作家なり、ひとつの家族なりの在りようを描き出すのに対して、「瓦解」はむしろストーリーに比重を置いているような語感がある。
「肖像」の場合の「ある」は、「どこかの作家」「どこかの家族」である。作家はそれを静的に観察しており、距離がある。
「瓦解」と聞くと、たとえば「アッシャー家の崩壊」のように観察者の目の前で荒々しい出来事が起こっており、あるいは観察者も巻き込まれている。それなのに「ある」というなんとなく他人事のような接頭語は似つかわしくない、とそのように感じるのだ。
 これが観察者とまったく無縁な「どこかの」家族の話だったら、違和感がなかったのかもしれない。そういう問題なのかもしれない。よくわからないのだ。

 内容に入る。と言ってもまずは言葉の問題だが、難漢字の多用はあいかわらずである。だが読者のほうで馴染んできたようなところがあって、前ほど引っかからなくなった。明らかな誤用が目につかなかったからかもしれない。もっとも、当方が漢字に詳しくないので、正誤の判断が必ずしもできない。

 さて、書かれているのはまさに「家族の瓦解」である。その意味ではタイトルは当たっている。ただし、87歳と89歳のおばあさんが書いた前二作(高沢英子、杉岡澄子)のような家族ものとはかなり違う。あれらの作品では作者は対象とほどよい距離をとって、まさに「ある家族」を描写するなかに、時代の空気や、その中で呼吸する人間の普遍性を感じとらせる。
 竹内七奈の場合は、主観が強く入り込む。ただどこまでが事実でどこからがフィクションなのかを作者は判断させない。ひょっとしたらすべてが作り上げた物語なのかもしれないのだ。(そうだとしたらかなりすごい)。
 <私>の祖父母は海の近くで釣具屋をやっていた。よく釣れていたころで客も多く繁盛していた。ところが長男も次男もあとを継がずに出て行って、三男が残った。これが<私>の父だ。この父は無口で人づきあいができず、商売に向かない。それで漁師をやっている。それもまともに働かずに、稼いだ金を遊興に使ってしまう。
 <私>の母は、父と正反対で社交的でおしゃべりである。この二人がなぜ夫婦になったのか<私>にはわからない。母が祖父母を手伝って釣具屋をやり、祖父母なきあとは一人でやっている。客あしらいがうまく、釣りの知識も身に着けたので、変わらず繁盛している。
 父は家を空けがちで、母は客に人気があり、必然の結果として、母は客とできてしまった。ついに家を出て客の一人と別のところに釣具屋を作った。
 <私>は父の性質を受け継いでしゃべることが苦手で、口で自分を表現できない。人と付き合えない。で、中学卒業後は進学も就職もしなかった。
 母が別の男と店を構えてからは、店番に行くようになった。でも客ともしゃべれず、釣りの知識もないので、満足な店番はできない。母のくれる金もわずかである。海の環境が変わり、魚も釣れなくなって、店も前ほど繁盛していない。
 しゃべれない<私>だが、書いてみると書けた。短編小説が賞を取り、ほそぼそと書いている。

 というところまで書いて忙しくなって中断してしまった。何を書こうとしていたか忘れてしまったので、手っ取り早くまとめる。
 作中の<私>は自分を発達障害であるといい、しかるべき生育環境を与えられなかったために、障害を重くしてしまったのだとして、自分をかまってくれなかった両親への恨みつらみを書き連ねる。
 これを<私>という人物の書いている手記という体裁をとった客観的な症例レポートであるとして読めば、かなり興味深い内容である。
 自分の人生に負の影響を与えた両親なり、だれかれなりに対する恨みつらみ、こういう思いを多少とも持っている人はどこにでもいるはずだ。自分の人生を肯定できないでいる若者にはありがちのことだ。
 問題はそれをどう描いたら文学として成立するのかだろう。さまざまなアプローチがあり得るとは思うが、問われるのは作者がどれだけ客観的な目を持っているかだ。
 この客観的な目というのも、取り扱いの難しいものである。それがあからさまに作品に出てしまえば、もはや文学ではなくなって解説書になってしまう。それは秘されていなければならない。作品そのものは葛藤する精神世界の表現でなければならない。でありながら、どこかにそれを見つめる作者の客観的な目を感じさせる、そういうときそこに芸術世界が生まれる。

 この作品で気になるのは、たとえば「発達障害」という言葉があまり安易に使われていないかということだ。脳機能に関することはまだわからないことが多く、「発達障害」もほとんどわかっていない症例である。先天的なもの、後天的なもの、物理的損傷によるもの、生育環境によるもの、どこまでが障害と呼ぶべきもので、どこからはそうではないのか、そういう不分明なものに対して、具体的に書いていくところまではいい、しかしそれを一つの名前にしてしまえば、そこから作品は文学を離れていくのではないか。

 作品の終わりのほうでは和解らしきものに向かおうとする人の心も描かれていたように記憶する。そこに主人公の成長と、作者の視る目の広がりが垣間見えていたようでもあった。
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