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「譲葉の顔」再読

 杉山まさし「譲葉の顔」の作者からコメントをいただいたので、読み直した。二度目に読んでも、いい作品である。最初のうち文章がちょっとぎこちないが、進むにつれて滑らかになってくる。ところどころ引っかかる言葉使いもあるが、全体がよいのでさして気にならない。被爆後の広島に向かい、母から帰らされる場面、その母の表情、あるいは画家が見た敗戦直後の上野の場面、絵を画き上げていくところ、こういう描写に引き込まれた。
 しかし冒頭は要らないというぼくの意見は変わらない。67ページはまるまる要らない。68ページの上段から始めるべきである。
 ぼくは理屈で考えずに感覚でものを言うので、理由を説明せよと言われるとちょっと考え込む。次のようなことを考えた。
 この作品は77歳の老画家の一人称で書かれている。赤旗祭りの会場で似顔絵を画いている場面で始まり、最後まで小説の現地はそこである。そこに客の回想と、画家本人の回想とが挟まる。
 冒頭の場面は、今年の赤旗祭りは客が多く、<どこか、期する気概のようなモノの存在が見受けられ>ることから、その原因であると<私はそう確信していた>内容について、老画家が心のうちを読者に向かって吐露する個所である。
 これがもし、老画家がその場に居合わせた誰かに向かって、口に出した言葉なら、ああ、この老人はそういうふうに思ったのだな、ということで納得できたかもしれない。
 ところがこれが地の文であることで、老画家と作者との距離感が、この冒頭の場面であいまいになってしまったように感じた。
 この67ページ一頁に書かれているのは、さんざん耳にしてきた言葉である。この言葉はただの言葉だ。この言葉には老人の匂いがない。個性がない。小説としてはこれはまずいのではないか。赤旗祭りの似顔絵画きの席上での、老人の感慨として語られるなら、老人の息遣いが感じられねば駄目である。ここは表現ではなく、理屈になっているのだ。
 読者の半分くらいはこの部分で読む気が失せるかもしれない。作品全体が素晴らしいのに、これではもったいないのである。68ページから始めて、失うものは何もない。読者は一気に作品世界に引き込まれる。

 というように感じたので、思ったままを書きました。「断定口調」「上から目線」はそう感じられたのならお許しください。批評というものはそうなってしまうものじゃないですか。あくまで個人的感想です。他の人には他の意見があって当然です。
 ぼくもいまはあまり書かないが、過去に書いていたので、さまざまな批評を受けてきました。腹が立つこともあるし、どうして読みとってくれないのだろうと感じるときもあります。明らかな誤読と思ったときには反論もしてきました。
 でも一度だって、発言者を責めようと思ったことはありません。公表された作品には誰だって自論を述べる権利があるからです。
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コメント
682:杉山さんへ by 石崎徹 on 2017/06/16 at 14:08:57 (コメント編集)

 どうもありがとう。いい加減なブログですが、たまにでも読んでいただけると励みになります。ご活躍を期待しております。

681: by 譲葉の作者です on 2017/06/16 at 06:00:30

時間を再び取って読んで頂き、また詳しく評して頂きありがとうございます。
私も、作品が公にされた場合は、作者の手を離れて批評にさらされるのは当然と思っています。ですから、石崎さんが感じたことを私は責めも咎めているのでもありません。それを前提にまずは理解してください。
私もただの一読者、或いはただの一鑑賞者にすぎなければ、あれこれ、こうすべき、という言葉を使ったでしょう。ですが、曲がりなりにも私は表現活動に身をおいています。芸術には絶対的な答えのある形はないと思っています。芸術の素晴らしさは、私と異なる多くの感性に出会えることだと思っています。そしてこれが一番大きいことかもしれませんが、作品の欠点と思えるものも、その人の感性の発露の結果であり、それもまた私とは異なる感性の存在であると捉えます。それを前提にしているため、絵画の合評会では、こうした方が良いと思うが、とか、こう感じるが、と意見は言いますが、あれこれこうすべき、という言葉は使いません。仲間内では、もっと忌憚のない批評も飛び交います。部分否定、全否定もあります。私も良くされます。事実、二年前のアンデパンダン展においては、ある画家に作品を具体的な説明をもって全否定されました。しかし、その人は、あれこれこうすべき、という言葉は使いませんでした。作品をどうするかは作者に委ねられるものであり、お互いに感性の異なる表現者であると認めているからだと思います。ですから、私も忌憚のない意見を言いますが、あれこれこうすべき、という言葉は使いません。そんな理由からでしょう。ただ、私にとっていくつかの作品に対する全否定の具体的な説明は、これからの表現活動を推し進めてゆく上で多きな糧になりました。ですから、私は批判的な意見や忌憚のない意見を排除する気持ちはありません。誤読があっても、この人は、このような捉え方をしたのだな、のもとに反論というか、意見を述べます。その人の感性の度合いは別として、どうであれ、他人がそのように感じたのは事実ですから。だから、作品に対して多くの異なる意見があることは承知していますし、多きな問題ではありません。ただ、私の芸術に関する捉え方、批評のありか方、態度から、私はあれこれこうすべき、という言葉は使わない、ということ、と、石崎さんも表現者のひとりである、という、私の認識から、あれこれこうすべきという言葉の意味合いに、個人的に感じるものがあったためコメントした次第です。恐らく対象作品が私のものでなければ、スルーしていたでしょう。とにかく芸術に対する捉え方、考え方から来ている事柄が根底にあるので、このようなやり取りの場ではてきさないでしょう。直接お会いして話をするのが一番ですが、現実的ではないのでこれ以上は深追いせずやめにします。とにかく、今回は詳しく評して頂き、確かに、と思えることもあり、参考にします。が、譲れないところは断固として、否、です。まあ、そのくらいのエゴイズムがなければ、この世界では表現して行けませんので。
前に町会の仕事が忙しくて云々、書いておられましたが、適当にブログの更新はお願いいたします。このようなコメントはほとんどしませんが、たまにチェックして目を通しておりますので。長々と失礼しました。ありがとうございました。

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