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「民主文学」17年6月7月号

 遅ればせながら取り急ぎひととおり目を通した。
 乙部宗徳による東峰夫インタビューが面白かった。乙部はそれに先立って東の全著作を読んだ上に、沖縄に関して膨大な書物を読み込んでいる。
 じつはぼくも「オキナワの少年」は読んだ。芥川賞はほとんど読んだことがなくて、最近になってやっと読み始めたが、70年前後、京都で浪人生たちと同人雑誌をやっていたころに、いくつか読んでいる。「されどわれらが日々」「なんとなくクリスタル」「限りなく透明に近いブルー」「三匹の蟹」「赤頭巾ちゃん気を付けて」などだ。その中に「オキナワの少年」もあった。
 直木賞作家は、取る前から売れていて、取るとますます売れるが、芥川賞作家のほうは騒がれるのはそのときだけでじきにどこかへ消えてしまう人が多い。東峰夫もどこへ行ったのかなと思っていたが、インタビューを読むと、やはり苦労している。東の書きたいことと編集の求めるものとの食い違いなどや、たぶん高度成長期だったから可能だった、一日働いて二日図書館に籠るといった生活、そういうなかでも読みかつ書き続け、いまや80歳。しみじみと感じるものがある。
 掲載作「ダチョウは駄鳥?」は、さりげない筆使いがやはりプロを感じさせ、ユングの引用もなかなか読ませる。ユングの邦訳を引用した後に東峰夫訳を並べる。原意から相当離れているのだが、東調の軽さが面白い。ところがだんだん調子に乗りすぎて、終わりの方になると東哲学の体系化が始まってしまう。ここまでくると、ちょっとなあという感じになってしまった。自閉症を母親のせいと言いかねないような表現はまずい。

 この号は新人賞の号だったが、該当作はなく、佳作が3篇。岩田素夫「亡国の冬」はちょっといい話と思って読んだのだが、この作品だけかなり前に読んで、内容を忘れてしまった。申し訳ない。最近は記憶力が続かない。
 野川環「銀のエンゼル」が大変読みにくくて、そこで躓いて結局一か月経ってしまった。無理に読んでみると、後半は読みやすかった。三題噺で、民主文学の編者が喜びそうな題材を3つ並べましたという感じで、どの材料にもオリジナリティが感じられないのが難点だが、まあ小説の作り方は心得ているなとは思った。ただ前半は日本語の使い方がとても変だった。この人はたしか「サクラサクサク」の作者で、あれを読んだ時には感じなかったのだが、今回作は冒頭から日本語がなっていない。力が入りすぎたなという感じ。後半素直な文章になった。
 たとえば、
 <そんな可能性を抱くことは欠片もなかった>
     ↓
 <そんな疑いを抱く>もしくは<そんな可能性を思ってみる>

 <深い絶望に蝕まれていた
     ↓
 <苛まれていた>

 <引き裂かれそうなほどの悲しみ>→おおげさ

 <なんとか前言を翻させようと>
     ↓
 いま医師が口にした診断を受け入れられないという気持ちの表現になっていない。

 <医師が語る言葉は、ざるに注ぐ水のように、彼の中にはとどまらず>
     ↓
 違和感がある。使い方が違う。

 <自宅から徒歩二十分の駅から>→<から>が重複。

 <聞いたこともない地方大学>→誰が聞いたこともないのか。主語述語の問題。

 <すべてのデスクの上には何もない>→<どのデスクの上にも何もない>

 <ため息が口をついた>→<ため息がもれた>

 冒頭からたった3ページの間にこれである。これでは読む気が失せる。たぶん力が入りすぎたのだ。面白いものが書けそうな作家だとは思う。

 杉山まさし「譲葉の顔」
 これが一番印象的だった。美術系の人らしく、専門用語の飛び交うところはわからないなりになんかそれらしい気がした(わかっている人がどう読んだかは知らない)。ただ似た話を二つ並べて(そうしなければ話が展開しないのだが)、そこが紛らわしくて印象を薄めた。そこに工夫が必要だった。冒頭の理屈っぽい部分はすべて要らない。全部切り捨てて似顔絵を書くところから始めるべきだ。

 風見梢太郎「崖の上の家」
 概ね読みやすく読み心地もよいのだが、「私」が多すぎる。翻訳小説を読んできた人はどうしても主語を書いてしまうのだが、日本文では省略できる主語はできるだけ省略すべきだろう。
 共産党員といっても普通の人間で特別な人ではないのだから、これでいいのだが、あえて共産党員と書いてあるので、読む側としては複雑な思いもある。差別と闘っても来たのだろうが、身に付けた専門知識と持ち前の能力もあいまって、資本主義経済の下でともかくもそれなりの経済生活を送ってきた。で、そのような人生行路といまの世界のありようとを、どのように位置づけるのか。もちろんこの作家はすぐれた原発小説を書き続けている作家なのだが、そして共産党員のさまざまな人生を描くことはそれはそれでよいのだが、小説を離れたところでふと疑問がわくのは、トランプの主張したエスタブリッシュメント批判、現代社会では、経済的に比較的恵まれた層が左で、貧困層は右傾化しているという現実、そういうことをどう考えていくのかということを思ってしまうのだ。

 高沢英子「鬼が棲む家」
 杉岡澄子「うんまいなあ」
 87歳と89歳である。脱帽せざるを得ない。どちらも母親を書いている。もっともどちらも生みの母ではない。前者は夫の母であり、後者は育ての母である。
 前者は義母がいまの自分くらいの年齢だったころのことを書いている。おそらく40年くらい前、1970年代のことだろう。視点人物の年齢を書いていないが、子供たちも未成年だし、40代だろう。
 後者は日中戦争時代の話である。作者とおぼしき娘はまだ小学生である。
 どちらの作品も、おそらくかなりの部分が事実に基づいている。後者は子供の眼からだけでは書けないから具体的な描写はフィクションだろうが、大まかなところは事実なのだろうと思う。
 どうってことのない平凡な市民の物語である。それを淡々と書いているだけだ。若い人には退屈かもしれない。しかしここには読み心地の良さがある。時間が経てば内容を忘れてしまうだろうけれど、読後感はたいへんよい。事実のもつ具体性、事実のもつ豊かさがある。フィクションでは作りにくいものがある。

 竹内七奈「或る家族の瓦解」
 これについては稿を改めよう。いま時間的余裕がない。
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コメント
680: by 譲葉の作者です on 2017/06/14 at 01:05:45

短いながらも評して頂きありがとうございます。ただ、一点、最後の文章で石崎さんは、冒頭の部分はいらない、すべて切り捨てるべきだ、とおっしゃっています。そのように感じたことはかまいません。が、しかし、いらない、べきだ、と断定する正しさの根拠、基準は何に基づいているのでしょうか。私は作品全体を通じて必用だからこそ書き、また、それを良し、とした方もいます。芸術の素晴らしさは多様性であり、多様な感性の発露があってこそだと思います。絵画の世界において、確かに、長い間かけて構築されてきた色や形、構図などの基準というものはありますが、絶対的なものではありません。ひとつの目安です。小説の世界でも同じでしょう。しかし、断定してしまいますと、それは上から目線の言葉であり、絶対的に自分の感性が正しいことを前提にしており、自身の感性の押し付け、とも受け止められる危険性をはらんでいます。石崎さんが、自分が書くなら、こうするな、ということで、そう感じたことは事実であり、その感性を非難したり、咎めているのではありません。が、断定してしてしまうのは、いかがなものか、と思い、また、末端とはいえ、表現活動に身をおいている以上、他人の感性の押し付けには考えることがあり、こういうなれない場に、長々と書いた次第であります。

679:荻野さんへ by 石崎徹 on 2017/06/12 at 21:42:54 (コメント編集)

 ありがとうございます。ぜひ読ませていただきます。中山さんはあのお年でネットをされるのでしょうか。脱帽です。

678:今日は by 荻野央 on 2017/06/12 at 14:06:04

今年の春「ふくやま文学」の合評会で、午後から参加しました荻野です。中山さんの手紙からの紹介でこのブログを見つけました。あの時はお世話になりました。確か大河内さんの同級生でらっしゃったですね。
近々、わたしの所属する批評系同人誌「群系」と小説誌「風の道」の最新号をお送りさせてください。
それでは。

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