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「虞美人草」のこと

「たんめん老人のたんたん日記」というブログの著者が、漱石の「虞美人草」を再読していろいろ感想を書いている。
 ぼくがときどき開けてみるブログの著者たちは、猛烈な読書家ばかりである。その読むスピードの速さ、一か月の読書量の多さに舌を巻くが、この人もそうだ。「神曲」と「太平記」とを並行読みして、そのあらすじと感想とをずっと書いているが、その合間にアメリカの推理小説やら、何やかや読んで、そして若いころ読んだ本の再読をしている。
「虞美人草」の感想も詳しい。サッカレーの「虚栄の市」と比較したり、登場人物の食べるものに注目してそこから当時の雰囲気をつかもうとしたりする。
 ぼくはと言えば「虚栄の市」は印象的なタイトルで子供のときから頭にはあるのだが、半世紀読まないままできてしまった。
「虞美人草」も、細かいところはもはや記憶にないので、いろんな読み方ができるものだなと感心して読ませてもらっている。
 ぼくの感想を言うと、「虞美人草」は(職業作家としての第一作だから)気負いばかりが先だって、小説としては失敗している。だが、非常に興味深い作品である。
 前にもブログに書いたが、「虞美人草」は「赤と黒」に着想を得たに違いないとぼくは思っている。誰かそういう研究をしている学者はいないのだろうか。
 地方から出てきた貧しい秀才の小野は、ジュリアン・ソレルである。資産家の高慢で美しい令嬢、藤尾はマチルドである。小野の恩師の娘小夜子は、レーナル夫人である。
 ジュリアン・ソレルがマチルドとの結婚を果たし、出世の階段を上がり始めようとした矢先にレーナル夫人との過去が暴かれ、傷害事件を起こして投獄され、結局ギロチンで世を去る。マチルドがその切り落とされた首を抱きしめるという衝撃的なラスト。時代はナポレオン敗北後の王政復古の反動期であり、体制を脅かすものの存在が許されなくなっていた。
 小野も学問で身を立て、藤尾と結ばれて、上流階級への道が開かれようかと思われた矢先に、小夜子が現れて、貧しい生い立ちに引き戻されてしまう。
 ストーリーはまったく同じだ。ラストも同じである。何が違うのかというと、主人公たちの受け止め方が違う。ジュリアンは自分の運命を誇りたかく受け入れる。小野は、小夜子を捨てて藤尾に走ったことを後悔する。(ジュリアンも牢獄の中では、マチルドよりもレーナル夫人を求めるのだが、外形的には同じでも、その心情はまったく違う)。そしてマチルドは、切り落とされたジュリアンの首を抱きしめて、永遠の愛をささげるが、藤尾は気が狂って死んでしまう。
 スタンダールの作品の中では、ジュリアンはヒーローであり、マチルドはヒロインだ。漱石にとってはそうではない。小野はまったくパッとしない。金持ちの道楽息子が二人出てきて、小説はこの二人によりそって書かれる。にもかかわらず読み終わってみれば、この二人は不要な人物である。ストーリーは明らかに小野と藤尾を軸に展開しており、そこに小夜子が噛んでくる。そして漱石は、小野を貧相にしか描かないが、藤尾については実に印象的なキャラクターに仕立てあげる。だが、そうしておいてこの女を切り捨ててしまう。
 ここに漱石という人物自身の矛盾がある。漱石は藤尾のキャラクターに惹かれるものがあったはずだ。のちの里見美祢子につながっていく女性像だ。美祢子はずっと控えめな女性になっているが、基本的には藤尾である。藤尾の毒気を抜いて、教養と上品さを備えさせれば、美祢子になる。芯のところに女性のもつ魔性的なものがある。
 ところが漱石は結局藤尾を否定してしまった。彼の明治人としての道徳観が小説を貧しいものにしてしまった。
 ぼくが漱石に興味を持つのは、彼が日本人の矛盾を体現した人物だからだ。
 だが、もちろん読書は人さまざまで、「たんたん日記」の、作品に対する関心の持ちようの深さと幅広さとは、また別の興味へと読む者を導いてくれる。
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