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「ふくやま文学」29号

 3月というのは文学をやるにはふさわしくない季節だ。各種総会準備、各種役員の引継ぎ等がたびかさなって、読みかけていた「ふくやま文学」が意識のどこかに埋もれてしまった。4月から、より重い世俗の仕事を抱えることになって、文学へと頭が戻っていかない。でも、合評会にむけて記憶を新たにするために、少し書こう。
 総234ページ、読み応えがあった。一番の出来は前号に続いて瀬崎峰永だ。27号の「ボクサー」、28号の「11月のひまわり」もよかったが、今回の「祝福」はもはやプロの出来ばえと言ってよい。

 瀬崎峰永「祝福」
 違法な堕胎手術を商売にしているおばあちゃん、高校生の孫がそこへ居候している。この惣太君は鰹節からいかにうまい出汁をとるかということに熱中していて、おばあちゃんに毎日うどんを食わせている。おばあちゃんはうどんに飽き飽きしているのだが、商売のとき以外はテレビ漬けで、食事は孫に作らせている。鰹節と出汁についての蘊蓄ぶりと、おばあちゃんと孫とのやり取りとその双方のユーモラスなのが、ストーリーの悲劇性と奇妙にも響きあう。
 26週の子を堕胎に来た女は、若く美しく聡明そうだ。経済的な問題ではない。不倫の結果なのだ。ストーリーの主役は女だが、小説の主役は高校生だ。悲劇を外側からしか見ることができず、悲劇に対して無力であるしかない高校生。これがこの祖母と孫との日常だから、必要以上に深刻ぶってみせることもなく、彼女のためにもおいしいうどんを作ってやろうとするところで終わる。
 30枚ほどの作品である。現代の若者の貧困に結びつけているわけでもない。時代との接点という意味では物足りなさがないでもない。だが、逆にいたずらに現代を紛れ込ませようとしなかったところに、作品の普遍性があるようにもとれる。短編で表現することのできるものをギリギリ表現しえたと言えるのではないか。
 おいしい出汁を作ろうとして一生懸命な惣太君には、いい作品を書こうとする作者自身が投影されているように感じた。
 また、いままで読ませてもらったなかで今回初めて作者のクリスチャンとしての位置が暗示されていて、興味を引いた。

 中山茅集子「鼻」
 ゴーゴリと芥川を連想させるタイトル。現代と切り結ぶという点では、この作品が随一だ。彼女よりずっと若い我々は少し反省してみる必要があるかもしれない。
 いつものように何気ない老人の日常から始まる。そしていつものように70年前にさかのぼる。しかし今回の若い女主人公はいつもと少し違う。いままでに読んだ作品のヒロインはきっと軍国少女で、その敗戦経験はまさに敗戦経験だった。それはいつも、限りなく悲痛な体験だった。
 だが、今回のヒロインは次のように描かれる。
 <その日まで押し込められていたあらゆる我慢を脱ぎ捨てた直子の夢は、いち早く狼煙をあげたファッションの世界だった> <振袖を着て堂々と歩けるようになったんだ、と無性にうれしかった>
 敗戦の感じ方がこれまでと違う。それは、戦争中の直子の次のような体験と対比させて描かれるからだ。
 風邪をこじらせてその日の耐寒行軍を免除された直子は、図書室から小説を借りてきて読んでいた。行軍から帰ってきた教師がこれを咎め、朝4時に八幡さんに謝りに行き、その足で教師宅に報告に来いと命ずる。雪の夜である。このとき図書室行きを提案し一緒に読んでいた田代陽子は、教師の目を逃れ、名乗り出もしなかった。直子は陽子への恨みを募らせながら八幡さんに到着すると、そこに陽子がいた。一晩中いたのだという。
 この恨み募る軍国教師もやがて徴兵されたが、生きて帰り、新制高校の教師となって、生徒と心中事件を起こして生徒だけ死なせて自分はまたも生き残ったのだという。直子と陽子は、「自分が死ねばいいのに」と怒りを募らせる。ある日その教師と偶然出会う。教師はまるで魂が抜けたような状態だった。戦争は教師の心も傷つけていたのだ。
 体験者が体験のなかから作り上げるフィクションには、重みがある。非体験者が伝聞で書いたのでは到達できないものがそこにはある。きな臭い雰囲気が再び漂う今、戦争の実相は繰り返し書かれる必要があるだろう。
 中山茅集子は決して「終戦」とは書かない、常に「敗戦」と書く。そこにあの戦争に対する彼女の立ち位置がある。
「鼻」は美人の陽子の美しい鼻なのだが、鼻と敗戦の縁で、もうひとつ別人の話が出てくる。だが、これは別の小説にすべきではなかったか。

 わだしんいちろう「インク汚れ」
 なぜか不思議と印象的な作品である。ストーリーはない。際立った人物もいない。主人公も目立たない。主人公は「かれ」である。「彼」ではなくて「かれ」。この「かれ」をカッコ付きでもなく、そのまま固有名詞的に用いている。それは作者の工夫なのだろうが、ときどき直前に出てきた人物と混同した。傍点を付けておいてくれたらよかった。だが、もちろん意図的に目立たなくしている。主人公とも言い切れない。作者はむしろまわりの人物のほうを描いている。ただ、そこには「かれ」のまなざしがあり、そのまなざしが「かれ」を照り返す仕掛けとなっている。
 描いているのは労働現場と労働と労働者である。「労働者を書きさえしたらプロレタリア文学なのではない」という民主文学の批評家の言をいつか眼にしたが、プロレタリア文学の後継をもって自任する民主文学が、作家の高齢化もあって労働を書かなくなってしまった今日、「これぞまさしくプロレタリア文学」と呼びたいような、さわやかさがある。
 舞台となっているのは、作者が「クレーン」の38号でも書いていた食品用の小物カップ(たとえばヨーグルト容器)にネームを自動印刷する工場のラインだ。ここは24時間三交代(たぶん)で動いている。カップの段取り、検査、収納などの過程で人手がいる。それはすべて派遣やアルバイトだ。正規社員はオペレーターと呼ばれ、ラインの背後にいるようだ。インク汚れがひとつ見つかればそのロットの、場合によっては何千個ものカップがすべて廃棄となる。最終判断を下すのはオペレーターだが、検査を担当するライン作業者は見つけ次第速やかに報告せねばならない。判断に迷っている間もラインは動いて廃棄数を増やしてしまう。
 労働現場と労働を描きながら、労働者群像を点描していく。たとえばフィリピン人のマリヤ、43歳、その来し方や人となりがさりげなく、だが印象的に描かれる。
 交代で食べる夜食のために食堂へ行くと、社員が二人コーヒーを飲んでいる。その会話を漏れ聞く。<組合作ろうとしたら辞めさせられるよ……これまでも辞めさせられたらしいからね> その彼が儲け話を口にし始めたが、相手は気がなさそうにしている。
 ここにはたたかう労働者はいない。だが、もちろんそれは、我々が生きているこの現代日本社会の、ありのままの現実である。文学はここがスタートであろう。まず現実を描き出さねばならない。この作者はそういう描写に徹することによって、いっそすがすがしい作品を作り上げた。

 今回取り上げるのはこの三作にとどめるが、ほかにも面白い小説が満載である。読んでやろうという気を起こされたら、ぜひ事務局に申し込んでほしい。当ブログの「同人誌広告」のカテゴリーに連絡先がある。すでに一人の方から申し込みがあって送付された。
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