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サクラ・ヒロ「星と飴玉」(310枚 2016年太宰治賞候補作)37歳

 300枚の小説に第一部と第二部とがある。少し大げさな感じだ。一章、二章でいいだろう。ただ読んでみると、一部と二部とで内容が大きく変わっているので、納得できないでもない。
 一部を読んでいるあいだじゅう、かなり苦痛だった。面白くないのだ。登場人物がいずれもありきたりでオリジナリティに欠ける。行動もセリフも陳腐で凡庸だ。どこが良くて最終候補まで残ったのか。こんなものを読まされるのはかなわない。と思ってもう少しで投げ出すところだった。だが読みかけたものを投げ出すのもしゃくなので、読み続けた。結果としては読んでよかった。最後まで読むと結構面白かったのだ。
 一部は中下35歳の日常生活である。美大志望だったが実力も親の経済も伴わず、三流大学を出て、ご多分に漏れずアルバイトと派遣で、一年前にやっと正社員の職を得た。最近こういう設定が目立つ。実際そういう世の中になっているのだろう。それを書くのが流行しているような気もする。
 それにしてもむかしの小説と言えば、大衆小説は別にして、文学と名がつくと偉そうな作家先生が愚にもつかぬご託を並べてみせるようなものばかりだったが、最近は普通の労働者が主人公だ。それも民主文学が書くような組合があるような恵まれた労働者ではなく、最底辺の労働者である。しかもみないちおう四年制の大学を卒業している。たしかにそういう時代が来たのだと思う。
 正社員にはなったがブラック企業なのだという。しかしブラックと百回書いてもブラックになるわけではない。ブラックなどという流行語に頼らずに企業の実態を書かねば駄目だろう。朝から営業に出かけ、帰ってくると成績が上がっていないと何時間も説教され、そのあとはパソコンでデザインを書いているらしいのだが、帰宅は深夜になる。しかも給料は安い。と聞けばたしかにブラックに見える。
 ところが中下は営業なんかしていない。朝会社を出るとその足でネットカフェにしけこみ、出会い系サイトで人妻を漁っている。複数の人妻とネット上でのやり取りを交わし、そういうことは慣れたものですごいスピードでキーを打ち込む。何時間もやる。それからその中の一人と打ち合わせてラブホで寝る。
 営業もせずにネットのやり取りとセックスに明け暮れているのだから仕事が取れるわけがなく、説教されて当たり前で、帰りが遅くなってもほとんど労働なんかしていないのにブラックなんかじゃない。しかも人妻たちと遊ぶ金をどこで工面しているのだろう。人妻たちは中下の何に引っかかるのだろう。ネットの文章作りがうまいらしいのだが、実際に会えばそれだけでは続くまい。金払いがいいか、性的魅力があるか、口説きがうまいか、どれかひとつなければ、女は付いてこない。
 ところがそういう具体的なことを一言も書いてない。だいたい具体的に女と会っている場面がない。それでいて、年増の女たちなんかほんとうはいやなんだ、ただ仕事がブラックでつらいからストレスの捌け口なんだ、上司のいじめに遭って精神安定剤を服用しているのだと来る。
 中下のイメージがどうしても結ばないのである。そんな根暗の男が女にもてるはずがない。
 そういう無内容な、言葉だけのありふれたパターンのあとで、これまた型通りの女の子との遭遇である。ネットカフェに寝泊まりしながら、そこで売春して生活している19歳のナナである。大勢の女たちとセックスしている中下が、その女たちには関心を示さず、このナナにだけ惹かれる理由が分からない。彼女が若いということ以外の理由が見えてこない。
 第一部の終わりで、中下は高校時代の同級生に会う。高峰。東大法学部を出て、官僚だったが、辞めた男。そして第二部が始まる。
 第二部に来て、第一部がなぜあんなにつまらなかったかがはっきりとわかる。
 それは一部は二部を開始するための伏線に過ぎなかったからなのだ。二部のストーリーを展開するための配役準備だった。この作者は一部においては、人間を書きたくて人間を書いたわけではない。ただ二部で展開するストーリーに都合がよいような配役を準備しただけなのだ。
 だからすべてが型通りで、ありきたりで、凡庸で、つまらなかった。読者をひきつけるような生きた人間がどこにもいなかった。
 二部ではストーリーが動き始める。人間が凡庸でもストーリーが動けばそれなりに読ませる。
 高峰は詐欺師で、中下はその片棒を担がされる。中下が、ネットで女をだますことにかけてはプロなのだということが、高峰にとっては渡りに船だ。一部のずいぶん無理な設定がここでやっと生きてくる。このストーリーのためにはどうしてもそうでなければならなかったのだ。だから必然性がなくてもそういうことにせねばならなかった。
 そういうふうに納得がいくので、二部はすらすらと読んでいける。しかし通俗的で文学性に欠けるなとは思いながら。
 やっと面白くなるのは、ほんとうに最後になってからである。ナナの持つ絵の才能に中下が気付き、これを世に出してやりたいと思い始めたところから物語は急に躍動を始める。人が輝くのは自分のほんとうにやりたいことをやっているときだと悟った中下は、高峰と縁を切る覚悟をする。つまりナナは絵を描くことで輝き、中下は彼女の才能を助けたいと思ったとき、自分の人生に張り合いを見出した。
 だが、ナナは高峰から逃げるのかと問い、懲らしめようじゃないかと提案する。この辺りはジェットコースター的な出来栄えである。
 懲らしめがまんまと成功して、ラストでもうひと騒動あるのだが、中下と高峰がグルになって大金を巻き上げた女の夫が中下に襲いかかり、危ういところを当の女によって救われる。これをとおして、かつての中下にとっては性欲処理の対象に過ぎなかった人妻たちのなかに当然ある人間性に中下がやっと気づく。この最後の部分で、この作品は救われた。
 審査員の一人が、この作品は一人称で書くべきだった。書き直してごらんと言っている。ぼくもそう思う。
 つまり、中下の視点で書いてはいるのだが、三人称なので、地の文と作者との区別がもうひとつはっきりしない。書いていることがあまりにも凡俗なので閉口してしまう。これを一人称で書けば、すべてが中下の考えで作者がそう思っているわけではないのだということがはっきりする。
 これがつまり最後に人妻たちの人間性に中下が気付く場面なのだ。女たちと寝れば当然気付かねばならないことなのだ。ひとり一人違う人間であり、一人一人からそれぞれその人間性を受けとる筈なのだ。女たちとの場面を第一部で書いていれば、それを書かずにおれないはずだった。それに気づかない人間がいるということがまず不自然なのだが、それを中下の一人称で中下の主観として書けばそれなりに読者を納得させることもできたかもしれない。
 ところが三人称だったので、作者の人間観の貧困として読めてしまい、話に入っていけなかったのである。
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