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「民主文学」17年3月号

 青木陽子「北横岳にて」

 せつない作品である。癌を切除して、抗がん剤と放射線治療を一年続け、一段落したと思ったら転移が見つかった。あと何年生きられるのだろうか。誰しもそこでいったん立ちどまる。しかしそこで終わってしまわないのが、青木陽子である。
 <自分の命が後いくらも残されていないのかもしれないと、そう思う瞬間が来れば、誰だって、どうしたって、そのことを見つめてしまう>
 <私はどうする、と思った時、何かしら、ふっと風が吹いたような気がした>
 <自分の命がたとえ後一年であるとしても、十年だとしても……百歳近くまで生きるのだとしても、生き方は同じ。明日からやることも同じ>
 <取り組もう……出かけよう……見つめ直す。そしていい小説を書きたい>

 渥美二郎「この夏も歩く、歩き続ける」

 いつにも増して軽快なジロ-ワールド(多少やせ我慢的にも見えるが)。15年夏、戦争法反対で歩きまわった人々もいまはどこかに消えてしまった。だが、ジロー先生は16年夏も歩く。ポケモンGOで歩くのだ。漱石の「猫」と張り合うごときユーモアセンスに笑いがとまらずに読んでしまう。だが、含意は深い。
 ハリガネムシはカマキリの体内に住んでカマキリを操り自分の行きたいところへ行かせる。ポケモンGOが人々を操って行かせる先は、マクドナルドや何やかやというスポンサーたちのところなのだ。
 だが、若いころマイノリティを自負していたジローは、いまやマジョリティであることをためらわない。インテリぶって大衆を見おろしていたって、運動は前には進まない。
 <この夏も、この夏が終わっても、僕はiPhone片手に歩き続けるだろう。ポケモンGOをやるために歩くのではなく、歩くためにポケモンGOをやるのだ>

 斎藤克己「銃を持つ思想」

 <九歳になる長男のためにモデルガンを買った。長男のためというのは口実で、私がほしかったのだ。銃嫌いの妻にとやかく言われないために、もうひとつ口実を用意した。鴉だ……こいつら、生かしちゃおかねえ>
 うまい書き出しである。こういう作品を「民主文学」にもっとほしい。
 武器を持って、使いたくてたまらなくなった男の話で、もちろんいまの日本の軍備を風刺している。だが全体が書き出しのようにうまくいったかというと、少し不満がある。
 男が子供だった時の銀玉鉄砲の話とかが出てくる。出てきてもいいのだが、そこが風刺調から外れてなんだか懐かしげに長々と続く。男が懐かしがるのはかまわない。もちろんそうであってしかるべきだ。ところがどうも作者の方が懐かしがってはいないか。作者だって人間だから懐かしがってもいいが、それが作品に現れてはまずいだろう。
 こういう作品ではテンポが大事だ。最初から終いまでムードが統一されていなければならない。途中が変に写実的になったりしては破調になる。
 だいいち、鴉が途中からどこかへ飛んでしまった。鴉は最初から口実だったにしても、<こいつら、生かしちゃおかねえ>と本気で怒っている。それをちゃんとストーリーのなかに組み込んでほしかった。
 タイトルはどうだろう。作者の意図が生のままに出ている。少し興覚めではないか。ほのめかすようなタイトルのほうがよかっただろう。
 しかし、いい作品である。

 浜 比寸志「彼岸花」

 これも癌の話、最後のひとつもそうで、作家たちがみんな老人になったのでやむを得ないことなのだろうが、残念ながらこのひとつは記憶に残らなかった。どれも同じような話になるので、そこに何かその作家ならではの個性がなくてはなるまい。
 短い中にいろんな患者が出てくる。先に出てきた患者の話はそこだけで終わってしまう。見ようによってはドストエフスキーの「死の家の記録」(シベリア徒刑囚の群像劇)のようにも見えるが、なにぶん短い作品なので、誰か一人の話に絞るべきだった。

 一箇所校正ミス。
 54ページ下段、終わりから三つ目の段落。
 <それ以上の不幸があってはならないようにというのが悠介の思いだった>
 正しくは、
 <それ以上の不幸があってはならないというのが悠介の思いだった>
 もしくは、
 <それ以上の不幸がないようにというのが悠介の思いだった>

 大浦ふみ子「谷間にて」

 短編というのはなかなか記憶には残らないが、この人の名前はその短編とともにぼくの記憶にあった。ブログ内を検索したら出てきた。

 大浦ふみ子「佐世保へ」(11年8月号)
 この作品はジッドの「狭き門」を連想させた。お互い思いを抱きながらお互いの誤解から食い違う男女、しかも、作者は誤解だと書かないのに読者はなんとなく分かって、はらはらさせられる。心憎い作品である。


 というのがそのときブログに書いた感想だ。「民主文学」の感想を書き始めた第一弾である。話の詳しい内容は忘れたが、大人の恋愛感情を見事に書き出していたと思う。うまい作家だと思った。6年前である。その後「民主文学」に登場したかどうか、ぼくもあまり真面目な読者ではないのでそれも記憶にない。

 今回の作品は、高齢の男性医師二人の対話を中心に語られていく終末期医療の話である。一人のほうが癌になり、ごく若いときからの親友であるもう一人に、「いざというときにはけりをつけてくれるか」と大昔の口約束を思い出させる場面から始まる。医学生時代に共に行ったケニアのトゥルカナでの医療活動を思い出しながら、話は安楽死、尊厳死、臓器移植から優生思想へ、さらに出生前診断による妊娠中絶の話にまでも及んでいく。話し相手は妻の兄だったり、妻だったり、トゥルカナ会の医者たちだったりするのだが。
 非常に重い内容にそれでも読者を引き付けるのは、話が一般論としてではなく、自らの死を意識し始めた医者が、一般論としてしか語らない人たちに対して、自分の内面から突き動かされる言葉で語っているからだろう。
 問題は絡み合っていて単純ではない。しかし少なくとも、政治権力がそこに関係してくることに対しては警戒が必要だということを主張している作品である。

 ただ一点。主人公の孫娘は、保育士を何年かやった後アフリカに行き、帰ってきて大学院に入り直している。すでに20代の後半だろう。とすると主人公はいったい何歳なのか。作品から受けるイメージが若すぎる感じがする。とはいうものの、自分の齢を考えてみると、従来小説で読んできた年寄りのイメージにはまったく合わないなと思うし、小説で読んできたのは若い作家の目から見た高齢者だったのかもしれない。つまりこの小説のイメージのほうが本当なのかもしれない。

 仙洞田一彦「忘れ火(第三回)」

 連載小説は読んだことがないのだが、仙洞田さんなので読んでいる。ところがなにか少しおかしい。文章のうまい人だというのがいままでの印象だったのだが、今回はじめからおかしい。特にその月の書き出しがいつもまごまごして、終わりころにやっと調子が出てくる。毎月そんな感じだ。連載小説というのは書き方が難しいのだろうか。

 ところで校正ミス。
 163ページ、上段、終わりから三行目、<片岡は笑みを浮かべながら>
 同ページ、下段、真ん中へん、<片岡はにやにやしながら>

 これはどちらも<片岡>ではなく<白井>だろう。

 今月号は校正ミスが目立った。基本的には作者の責任だろうが、雑誌の価値から言えば、編集も少し気を使う必要があるだろう。
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659:管理人のみ閲覧できます by on 2017/02/18 at 07:47:28

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