プロフィール

まがねとおる

Author:まがねとおる
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

文法について

 一年が一日のように過ぎ去ってしまう日々で、去年は何をやったのだろうといぶかるようなありさまなのだが、パソコン碁を少しやりすぎている。これは時間の無駄だが、いつか人間相手にやりたいと思って、ひそかに特訓しているのだ。先日町内の名人に4目置かせてもらって、時間がなかったので早碁で合計10分ほどでけりをつけて計算する時間もなかったが、少し負けかなという感じだった。
 で、そのほかに何をやったのだろう。
 庭木の手入れだ。考えてみるとこれはかなり徹底してやった。手入れというよりもどんどん切り倒してしまった。ずいぶんすっきりした。いまは冬だということもあるが、もはやジャングルではない。
 しかしまさかそれで終わりではない。よく考えると、校正と添削で毎日を過ごしていたのだ。
 二つの作品が持ち込まれた。百枚に満たないような短編と、千枚を優に超える長編だ。どちらも別に何も頼まれたわけではない。年の初めに短編が先に来た。自家製で本にしていた。美術系の人で、きれいな仕上がりだった。内容もとても面白かった。80歳くらいの人で、新制に切り替えた直後の中学生活を生き生きと描いていた。ところが文章がめちゃくちゃなのだ。それを指摘すると、直して送ってきた。ところが直っていない。それで赤を入れ始めたのだが、誤字脱字の指摘だけでは収まらなくなって、ついに文章のおかしなところも直し始めた。説明文をつけて送ると、また直したと言ってまた送ってきた。直したというよりもかなり書き直しており、前より悪くなっている。ここらで人の文章をいじるということは簡単ではないとうすうす気づき始めたが、もう止まらない。三度目の指摘をして送り返した。すると四度目が来たが、さすがに読む気力がなくなって、保留している。
 それが去年の前半だ。夏になると、千枚が来た。75歳くらいの人である。裏表びっしり印刷して、表紙はないが、簡易製本してある。これも何も頼まれたわけではないが、読んでいるとどうしても赤ペンに手がいく。つまらない作品ならそんな気にはならない。おもしろいのだ。先の短編よりももっと面白い。だが、同様に文章がめちゃくちゃなのである。この文章ではどんなに内容が面白くても何にもならない。しかし面白いのだから、じつにもったいないのである。
 それで結局この作品を徹底的に校正添削した。説明文を400字詰めで100枚書いて送り返した。それに三か月ほどかかった。
 しかしいま思うと、若い人ならともかく、すでに老いた人が千枚の大作を書き直す気にはとてもなれないだろう。短編の人は何回指摘しても直してきて、かえってこちらが根負けしたが、長編の方は年齢はその人より5歳ほど若いのだが、すでに健康を害していて、しかも作品が長い。書き直せという方が無理だった。
 という次第だったのだが、ぼくにとってはこの数か月の努力は無駄ではなかった。とても有意義だった。日本語についてずいぶん考えた。それで自分の文章が良くなったかというとそんなわけにはいかないのだが、悪い文章をいままでただ読みにくいので悪いと思うだけで、どうして悪いのかと考えたことはなかった。しかし書き手に説明するのに、「読んでごらん、わかるでしょ?」というわけにはいかない。なぜ悪いのかを説明せねばならない。これが案外難しいのだ。ぼくは日本語文法の知識がないので、よけいに難しい。それでずいぶん頭をひねったのである。

 今日このことについて書きたくなったのは実はここから先の話で、「文法とは何なのか」ということだ。
 文法があってそれに従って言葉が生まれるわけではない。まず言葉が生まれる。自然発生的に生まれる。最初は叫びや唸りや鳴きであったものが、やがて単語となる。名詞や動詞や形容詞や副詞となる。そのあとでセンテンスが生まれ、接続詞や、助詞が生まれ、動詞の活用変化が始まる。
「はじめに言葉ありき」とマタイ伝は書いたが、そのとおりではじめに言葉があった。文法とは何か。文法というものはないのだ。それは人々が使う言葉を仮に秩序付けてみただけの話だ。もともと言葉と文法とは無関係なので、言葉を完全に網羅できる文法というものはどの言語に対しても存在しない。必ず例外がある。文法は言葉のあとからよちよちと着いてくるだけである。
 このことも、ぼくらが考えているいろんな問題に対してずいぶん暗示的に思える。
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
658:管理人のみ閲覧できます by on 2017/02/16 at 09:48:34

このコメントは管理人のみ閲覧できます

▼このエントリーにコメントを残す