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旭爪あかね「シンパシー」について (15年10月) 再掲

 ある人との手紙のやりとりで、「私小説」に関する私見を書き始めたが、いま複雑な気持ちがあってまとまらない。その複雑な気持ちを書いた文章がここにあるのを思い出したので、再掲して現在の気持ちの表現とする。

 ベタな私小説。太宰治や宮本百合子のような……。こういう小説でいつも一番気になるのはなぜ「私」でなく三人称で、しかも作者と違う名前なのか、ということだ。
 それはたぶん、まるっきりほんとのことじゃなくて、嘘が入っていますよ、という弁解や言い逃れと、あるいは嘘が入っていることを前提に読んでください、という読者への注文であろうか。それでいて自分自身や身辺の誰彼がモデルであることをあからさまに、これ見よがしに提示し、そういうことを類推して読んでくれるよう、読者にたいして要求もしているのだ。
 太宰治に入れこむことから文学的経歴を始めたぼくだが、私小説を評価できなくなって久しい。
 それは自分のことを書いているかいないかということとはまた違うのだ。ヘミングウェイの初期短篇は自分の子供のころの話だ。彼はむしろ話を作ってはいけないと言った。渥美二郎は自分の身辺しか書かない。だが、ヘミングウェイや渥美二郎の作品を私小説だとはぼくは感じない。
 それはスタイルの問題なのだ。日本の伝統的自然主義私小説には、共通のスタイルがある。まるっきり嘘八百を書いていてさえ私小説のジャンルに入ってしまうような、特有のスタイルがある。このスタイルに長く違和感を持ち続けてきた。
 のだが、今回この作品を読みながら、私小説もけっこう面白いじゃないかという気持ちになったのである。
 それがなぜなのか、よくわからない。とりあえず以下のようなことは考えられる。
 まるっきり知らない作家じゃない。「稲の旋律」を読んだので、少し親近感がある。だから、多少ゴシップ趣味で惹かれるところがある。私小説が日本で長く支持を保ってきたのはそういうことではあるだろう。太宰治や宮本百合子のプライバシーに興味を持ちつつ人々は彼らの作品を読むのだ。
 ただ、結論から言うと、どんなスタイルの作品であろうと、私小説であろうと、そのことだけで偏見を持つのはやめよう、という考えに今回落着いた。
 それはともかくとして、ストーリーに入っていくことにしよう。
「民主文学」の(ここは下手な偽名を使わず、ずばりそのまま「民主文学」で登場する)、合評会から話が始まる。その年の新人賞の受賞者たちを集めて、合評している。参加者の一人ちづるは、彼らを選んだときの審査員でもあった。このちづるが何故ちづるであるのかはよく分からない。彼女が「私」であっても作品はまったく同じように書けただろうと思う。
 いま取り上げているのは、長谷部美代子の「リバティー」である。これはつまり、長谷川美智子の「リバティーに愛をこめて」なのだ。これを、そうとはっきり分かるように偽名にする意図も、全く不明である。不明であるが、これが日本伝統の私小説のスタイルなのだ。
 ちづるは審査員ではあったのだが、この作品に一部疑問を持っていた。それをこの合評会の場で披露する。と、反論に出合った。それを聴いてちづるは自分の想像力が衰えているのだろうかと自己懐疑を持ち始める。これが全編を貫く縦糸である。
 ちづるの過去も描かれる。引きこもりから、20年近いまえ、「民主文学」の新人賞をとって以来、少しずつ種々の運動の責任を分担するようになった。いま「民主文学」から派遣されて、原水禁世界大会の運営委員をしている。この世界大会の分科会の責任者の一人としての活動が物語の全体を占める。
 人間関係に不器用なちづるは、完璧でない自分を許せないことで引きこもりになったが、それを逆手にとって小説化することで立ち直りのきっかけをつかんだ。だが、そこから、なんとか人間関係を再構築しようと一生懸命なちづるの姿を、読者の眼から見ると、またしても完璧主義者の危ない罠に近付いているようにも見える。
 読んでいて、なんてセンシティブな存在なのだろうと、はらはらしてくる。この作者を月末の中国地区研究集会の講師として呼んでいるのだが、なんだか呼んだことが気の毒に思えてくるほどだ。(でも、そう思わせるところがこの小説の狙いかも知れない。小説家というのは基本的に嘘つきだから)。
 興味を持たされたのは、原水禁世界大会に向けての運営委員たちの活動内容である。この作品は、その活動のレポートとして読める。文学にはそういう機能もあるのだ。もっともルポ的にではなく小説的に書いている。
 この作家は66年生まれだが、ぼくが東京での世界大会に参加したのは65年だ。だが、代々木公園近くのどこかで催された大会の内容をぼくはまったく覚えていない。京都からの貸し切り夜行バスに乗りこんで、英文科の女の子たちの見送りを受けたのを覚えているだけである。彼女たちは、入学当初からバリバリの活動家で、自治会選挙に勝って英文科代表の委員になっていた。ぼくの方は、運動の端の方でうろうろしていて、どこへ行くかも定かではなかった。だから、そういうぼくを運動の雰囲気に浸らせようという策略のもとに、彼女たちはぼくを東京へと送り出したのだ。(結局、最後まで彼女たちの思うような人間にはならなかったが)。
 以上はぼく個人の思い出話として、ともかくもそれは原水禁運動の分裂直後の話であり、「いかなる国」論争の真只中だった。そして以後50年間日本の反核平和運動は分裂を克服できずに来た。
 いま、なるほど運動は生き残っているらしい。運動の全体像は描かれていないが、運営委員会の様子や、分科会の様子を読んで、それが活動家たちの交流の場として、また新たな活動家を生みだしていく場として、なんらかの役に立っているらしい様子は分かる。そのために一生懸命な人たちのご苦労ぶりも分かる。
 ただ、日本の平和運動をいかにして再統一していくかという方向への問題意識はまったくないようで、もちろんそういうことはもっと上の方で論議しているのだろうが、ほんとうは一人一人の活動家たちの最前線で、そういう問題意識が起こってほしいという残念な気持ちはあった。
 すでにまったく作品評ではなくなってしまったが、そういうもろもろをつつみながら、ストーリーの底流には絶えず、想像力の問題が流れ続ける。その問題を自分のなかからも、外からも、いろんな角度から扱ってみた、という小説であろうか。
 それなりに面白く読んだが、また複雑な気持ちを残させられもした小説であった。(この稿では想像力という作品のテーマ自体に入れずに終わってしまった)。

「譲葉の顔」再読

 杉山まさし「譲葉の顔」の作者からコメントをいただいたので、読み直した。二度目に読んでも、いい作品である。最初のうち文章がちょっとぎこちないが、進むにつれて滑らかになってくる。ところどころ引っかかる言葉使いもあるが、全体がよいのでさして気にならない。被爆後の広島に向かい、母から帰らされる場面、その母の表情、あるいは画家が見た敗戦直後の上野の場面、絵を画き上げていくところ、こういう描写に引き込まれた。
 しかし冒頭は要らないというぼくの意見は変わらない。67ページはまるまる要らない。68ページの上段から始めるべきである。
 ぼくは理屈で考えずに感覚でものを言うので、理由を説明せよと言われるとちょっと考え込む。次のようなことを考えた。
 この作品は77歳の老画家の一人称で書かれている。赤旗祭りの会場で似顔絵を画いている場面で始まり、最後まで小説の現地はそこである。そこに客の回想と、画家本人の回想とが挟まる。
 冒頭の場面は、今年の赤旗祭りは客が多く、<どこか、期する気概のようなモノの存在が見受けられ>ることから、その原因であると<私はそう確信していた>内容について、老画家が心のうちを読者に向かって吐露する個所である。
 これがもし、老画家がその場に居合わせた誰かに向かって、口に出した言葉なら、ああ、この老人はそういうふうに思ったのだな、ということで納得できたかもしれない。
 ところがこれが地の文であることで、老画家と作者との距離感が、この冒頭の場面であいまいになってしまったように感じた。
 この67ページ一頁に書かれているのは、さんざん耳にしてきた言葉である。この言葉はただの言葉だ。この言葉には老人の匂いがない。個性がない。小説としてはこれはまずいのではないか。赤旗祭りの似顔絵画きの席上での、老人の感慨として語られるなら、老人の息遣いが感じられねば駄目である。ここは表現ではなく、理屈になっているのだ。
 読者の半分くらいはこの部分で読む気が失せるかもしれない。作品全体が素晴らしいのに、これではもったいないのである。68ページから始めて、失うものは何もない。読者は一気に作品世界に引き込まれる。

 というように感じたので、思ったままを書きました。「断定口調」「上から目線」はそう感じられたのならお許しください。批評というものはそうなってしまうものじゃないですか。あくまで個人的感想です。他の人には他の意見があって当然です。
 ぼくもいまはあまり書かないが、過去に書いていたので、さまざまな批評を受けてきました。腹が立つこともあるし、どうして読みとってくれないのだろうと感じるときもあります。明らかな誤読と思ったときには反論もしてきました。
 でも一度だって、発言者を責めようと思ったことはありません。公表された作品には誰だって自論を述べる権利があるからです。

「民主文学」17年6月7月号

 遅ればせながら取り急ぎひととおり目を通した。
 乙部宗徳による東峰夫インタビューが面白かった。乙部はそれに先立って東の全著作を読んだ上に、沖縄に関して膨大な書物を読み込んでいる。
 じつはぼくも「オキナワの少年」は読んだ。芥川賞はほとんど読んだことがなくて、最近になってやっと読み始めたが、70年前後、京都で浪人生たちと同人雑誌をやっていたころに、いくつか読んでいる。「されどわれらが日々」「なんとなくクリスタル」「限りなく透明に近いブルー」「三匹の蟹」「赤頭巾ちゃん気を付けて」などだ。その中に「オキナワの少年」もあった。
 直木賞作家は、取る前から売れていて、取るとますます売れるが、芥川賞作家のほうは騒がれるのはそのときだけでじきにどこかへ消えてしまう人が多い。東峰夫もどこへ行ったのかなと思っていたが、インタビューを読むと、やはり苦労している。東の書きたいことと編集の求めるものとの食い違いなどや、たぶん高度成長期だったから可能だった、一日働いて二日図書館に籠るといった生活、そういうなかでも読みかつ書き続け、いまや80歳。しみじみと感じるものがある。
 掲載作「ダチョウは駄鳥?」は、さりげない筆使いがやはりプロを感じさせ、ユングの引用もなかなか読ませる。ユングの邦訳を引用した後に東峰夫訳を並べる。原意から相当離れているのだが、東調の軽さが面白い。ところがだんだん調子に乗りすぎて、終わりの方になると東哲学の体系化が始まってしまう。ここまでくると、ちょっとなあという感じになってしまった。自閉症を母親のせいと言いかねないような表現はまずい。

 この号は新人賞の号だったが、該当作はなく、佳作が3篇。岩田素夫「亡国の冬」はちょっといい話と思って読んだのだが、この作品だけかなり前に読んで、内容を忘れてしまった。申し訳ない。最近は記憶力が続かない。
 野川環「銀のエンゼル」が大変読みにくくて、そこで躓いて結局一か月経ってしまった。無理に読んでみると、後半は読みやすかった。三題噺で、民主文学の編者が喜びそうな題材を3つ並べましたという感じで、どの材料にもオリジナリティが感じられないのが難点だが、まあ小説の作り方は心得ているなとは思った。ただ前半は日本語の使い方がとても変だった。この人はたしか「サクラサクサク」の作者で、あれを読んだ時には感じなかったのだが、今回作は冒頭から日本語がなっていない。力が入りすぎたなという感じ。後半素直な文章になった。
 たとえば、
 <そんな可能性を抱くことは欠片もなかった>
     ↓
 <そんな疑いを抱く>もしくは<そんな可能性を思ってみる>

 <深い絶望に蝕まれていた
     ↓
 <苛まれていた>

 <引き裂かれそうなほどの悲しみ>→おおげさ

 <なんとか前言を翻させようと>
     ↓
 いま医師が口にした診断を受け入れられないという気持ちの表現になっていない。

 <医師が語る言葉は、ざるに注ぐ水のように、彼の中にはとどまらず>
     ↓
 違和感がある。使い方が違う。

 <自宅から徒歩二十分の駅から>→<から>が重複。

 <聞いたこともない地方大学>→誰が聞いたこともないのか。主語述語の問題。

 <すべてのデスクの上には何もない>→<どのデスクの上にも何もない>

 <ため息が口をついた>→<ため息がもれた>

 冒頭からたった3ページの間にこれである。これでは読む気が失せる。たぶん力が入りすぎたのだ。面白いものが書けそうな作家だとは思う。

 杉山まさし「譲葉の顔」
 これが一番印象的だった。美術系の人らしく、専門用語の飛び交うところはわからないなりになんかそれらしい気がした(わかっている人がどう読んだかは知らない)。ただ似た話を二つ並べて(そうしなければ話が展開しないのだが)、そこが紛らわしくて印象を薄めた。そこに工夫が必要だった。冒頭の理屈っぽい部分はすべて要らない。全部切り捨てて似顔絵を書くところから始めるべきだ。

 風見梢太郎「崖の上の家」
 概ね読みやすく読み心地もよいのだが、「私」が多すぎる。翻訳小説を読んできた人はどうしても主語を書いてしまうのだが、日本文では省略できる主語はできるだけ省略すべきだろう。
 共産党員といっても普通の人間で特別な人ではないのだから、これでいいのだが、あえて共産党員と書いてあるので、読む側としては複雑な思いもある。差別と闘っても来たのだろうが、身に付けた専門知識と持ち前の能力もあいまって、資本主義経済の下でともかくもそれなりの経済生活を送ってきた。で、そのような人生行路といまの世界のありようとを、どのように位置づけるのか。もちろんこの作家はすぐれた原発小説を書き続けている作家なのだが、そして共産党員のさまざまな人生を描くことはそれはそれでよいのだが、小説を離れたところでふと疑問がわくのは、トランプの主張したエスタブリッシュメント批判、現代社会では、経済的に比較的恵まれた層が左で、貧困層は右傾化しているという現実、そういうことをどう考えていくのかということを思ってしまうのだ。

 高沢英子「鬼が棲む家」
 杉岡澄子「うんまいなあ」
 87歳と89歳である。脱帽せざるを得ない。どちらも母親を書いている。もっともどちらも生みの母ではない。前者は夫の母であり、後者は育ての母である。
 前者は義母がいまの自分くらいの年齢だったころのことを書いている。おそらく40年くらい前、1970年代のことだろう。視点人物の年齢を書いていないが、子供たちも未成年だし、40代だろう。
 後者は日中戦争時代の話である。作者とおぼしき娘はまだ小学生である。
 どちらの作品も、おそらくかなりの部分が事実に基づいている。後者は子供の眼からだけでは書けないから具体的な描写はフィクションだろうが、大まかなところは事実なのだろうと思う。
 どうってことのない平凡な市民の物語である。それを淡々と書いているだけだ。若い人には退屈かもしれない。しかしここには読み心地の良さがある。時間が経てば内容を忘れてしまうだろうけれど、読後感はたいへんよい。事実のもつ具体性、事実のもつ豊かさがある。フィクションでは作りにくいものがある。

 竹内七奈「或る家族の瓦解」
 これについては稿を改めよう。いま時間的余裕がない。

天皇退位問題 主語述語

 昨日の記事を一部修正。前皇后は上后ではなく、上皇后と言うのだそうだ。二人並べて呼ぶときにはどうするんだろうな。上皇皇后だろうか、それとも上皇上皇后だろうか。舌を噛みそうだ。
 天皇退位問題に関する政府の説明を読むと、「天皇がもうくたびれちゃったと言い、国民が同情し、それを(それって何? 国民? 天皇?)政府が忖度した」と言っている。つまり誰が発意したとも、何をもとに決めたとも言わないように用心し、すべて遠回しにして、霧がかかったようにして、わけがわからないように一生懸命努めている。同様のことが、かつて日本を愚かな戦争に突き進ませ、多大な犠牲を生じさせ、しかも誰にもその責任を取らせず、未解決のまま現在に至らしめたのではないか。
「明仁さんが天皇を辞めさせてくれと言った。国民が同情したので、政府が認めた」ということでよいではないか。これならすべての主語がはっきりしている。「明仁が発意し、国民が賛成し、政府が(もしくは国会が)認めた」のだ。すべての主語述語関係が明確であり、だれも責任逃れできない。天皇が天皇を辞めることは政治行為ではない。政治に関する権能を有しないものが、政治に関する権能を有しない地位から降りることが政治行為であるはずがない。それは基本的人権である。ところが照屋寛徳議員の質問に、菅氏は天皇には基本的人権はないと(同様の)答えを返した。
 基本的人権に例外を作り始めれば、それはどこまで行くかわからない。天皇だけの問題ではないだろう。

ケヴィン・ベーコンと太上天皇

 1990年にケヴィン・ベーコンの「トレマーズ」が公開された。シリーズの第1作である。
 竜のように巨大化したミミズが、土の中を新幹線並みのスピードで移動して人間に襲い掛かり、丸吞みにする。グラボイズと名付けられたその動物は目が見えず、振動を感知して生き物に襲い掛かる。わずかな振動も逃さない。トレマー(tremor)とは小さな揺れを意味する。
 地上を移動すればすぐに感知されて襲われるので、岩場から岩場へと、10メートルもあるような長い棒を使って棒高跳びの要領で怪物から逃れていく。三人の若い男女が次々と空から空を飛んでいく、そのシーンがユーモラスでもあれば、絵として美しくもあり印象的だった。
 この動物をグラボイズと名付けたのは雑貨屋のチャンという中国人だ。どういう意味だったかは記憶にない。
 ぼくの記憶に刻まれたのは、その命名のシーンである。怪物のためにいまにも全滅させられようかという瀬戸際にありながら、チャンを中心とする中国人たちは、この動物を何と名付けるべきかという論争を長々とやっている。アメリカ人たちはあきれ返る。名前なんかどうだっていい、どうやって助かるかを考えるべきときなのだ。
 もちろん映画だから監督が勝手に作ったのだが、「中国人は名前にこだわる」という印象をアメリカ人たちが抱いていたことがわかる。
 それがぼくの記憶に残ったのは、日本人にもそういう傾向があるような気がしたからだ。
 3.11のときに、それを思い出した。この震災を「東北・関東大震災」と名付けるべきか、それとも「東日本大震災」と名付けるべきかなどというのが聴こえたからだ。「名前なんかどうだっていいだろ?」と思ってしまった。
 そしてさらに去年から、とうとう名前に関する大論争が起こってしまった。退位した天皇をどう呼ぶかという問題である。首相を辞めれば前首相または元首相だから、天皇を辞めれば前天皇または元天皇でいいだろ? と考えるのが普通の感覚だろう。そういう投書も「朝日」には載った。ところがナントカ審議会では太上天皇か、それとも上皇かと論議され、太上天皇ではあまりに仰々しいから上皇にしようということになったようだ。上皇はもちろん太上天皇の略語であるが、それが正語となった。
 さらに元皇后をどう呼ぶか。歴史的には前天皇の皇后にして現天皇の母である女性は皇太后である。ところが明治以後の近代天皇制において皇太后と呼ばれた人は常に未亡人であったから、夫が生きているのに皇太后はおかしいということになったらしく、これは上后と呼ぶことになった。ジョウコウとジョウコウである。二人ともジョウコウである。ジョウコウコウ両陛下と呼ぶらしい。
 皇太子はどうか。皇室典範では天皇の長子が皇太子であるとされているので、天皇の弟を皇太子にはできない。もちろん歴史的には弟であろうが従兄弟であろうが何であろうが、次期天皇に決まればだれでも皇太子であったわけだが、皇室典範の欠陥によってそれが不可能になった。そこで皇嗣と呼ぶのだそうだ。だが英語ではⅭrown Princeだという。つまり英語で呼ぶ分にはどう呼んだってかまわないが、漢字で書くときには厳密さが要求されるということらしいのである。
 そして女性宮家問題である。これも結局は名前(呼称)の問題だ。
 英語ではprince princessは法律に書かねばならないような特殊な言葉ではない。それはごく一般的な普通名詞であり、王家の血をひくものを意味するのみである。既婚だろうが未婚だろうが関係ない。ところが日本人は親王・内親王・王・女王という地位を設けてこれを皇室典範に事細かに規定せねば気が済まない。
 そこからさらに、少し違う問題だが、元号問題が出てくる。いままでは常に中国人の書いた本から取ってきた。日本人の本から取ろうじゃないかという話が出てきた。
 元来日本人は、くだけた場ではやまと言葉を使うが、公式の場では漢語を使うのを旨としてきた。日本語でしゃべったのでは偉そうにない、中国語のほうが偉そうだ、というわけだ。
 いま新しい世代のナショナリズムがそれに反発し始めたのだろう。中国語はやめよう、日本語を使おうということになってきた。ぼくはイヤサカ問題を思い出した。万歳は中国語だから、イヤサカと言うことにしようじゃないかと、戦争中にそういう運動が起こったらしい。母の叔父だとかが一生懸命運動していたと母から聞いた。
 それはそれでかまわないのだが、すべてが思い付きのやっつけ仕事だから、中途半端でつじつまが合わないのだ。
 もともと元号自体が中国の真似である。しかも日本が一世一元の制を取り入れたのは19世紀になってからだが、中国では明初からだから、これは14世紀の話である。500年も遅れて中国の真似をしている。
 中国の真似だから、中国人の本から取り込んだ中国語でもって元号としている。これを日本流にするとすればどういうことになるのか、たとえば「たいらか元年」だとか「なごやか元年」だとかになるのか。まあ、そこまで徹底するなら認めてもいいけれど。中途半端はやめましょう。そもそもいいかげん元号をやめてくれねば面倒くさくてたまらない。
 漢字というものには、人間の精神に対する独特の影響力があるようにも思える。
 日本人が中国人同様、ものの名前に変に執着するのは、はたして単に中国文化の影響なのか、それとも、直接的な影響というよりも、漢字を導入したことによって、漢字というものが人間精神に対して持つなんらかの影響力を蒙ることになったのか。そういう疑問が生じるのだが、漢字と中国文化とは一体のものなので、そういう問題提起には意味がないのかもしれない。
 漢字は人間が作り出したが、人間の歴史の中で、人間から独立し、一種の神となっているようにも見える。そうして人間の精神作用を支配している。
 そのことの功罪はまた別の問題だろうけれど。

籠池とプラトン

 30数年前に、プラトンの「国家」を、分厚い岩波文庫の上下2冊でたしかに読んだという記憶があるのだが、覚えているのはプラトン観念論の骨格だけで、洞窟の比喩が鮮明に残っているだけである。
 いま目次を開いてみると、なるほど国家についていろいろ書いてあるらしい。ぼくはたぶんその論理展開にのみ注目して読み、具体的な中身に重きを置かなかったようだ。
 いまさらこんなことを書くのは、朝日紙上で「国家」をとりあげた学者がいるからだ。
 5月27日付で、豊永郁子という早稲田の教授が森友問題から次のように書いた。
 <若い頃は、政治にとって最も重要なのは教育だと言われてもピンとこない。気の長い迂遠な話だと思う。ところが、世の中の風潮がガラリと変わるのを何度か体験すると、変化の駆動力が世代の交代にあるらしいこと、新しい世代があっという間に育つことに気づかされる>
 つまり籠池が子供たちに「教育勅語」を暗唱させた問題なのだ。
 それに続けて豊永さんは「国家」から、理想国家に関する部分を略述する。略述と言ってもかなり長いのだが、それをさらに縮めると、<民主主義は独裁を生みだす(危険をはらんでいる)>ということなのだ。
 歴史を振り返れば、近代における独裁を生みだしたのは必ずしも支配階級ではない。虐げられた人たちの不満を巧みに掬い取った個人や集団が支配階級をも支配して独裁した。
 いまわれわれは「民主主義の社会がそう簡単に独裁になる筈がない」とたかをくくっている。だが油断は禁物だと豊永さんは言う。そういうことを紀元前数百年にプラトンがすでに書いているのだ。

大丘作品評

 大丘忍氏が、「サマルカンド」に載った自作評に関して、「樹宴」のブログにひとこと書いています。ただし「ポルノ云々」は「サマルカンド」ではなく、このブログにぼくが書いた女性読者の声です。
 作品評を歓迎します。ぼくのミステリーはまだ始まったばかりですが、「ここがおかしい」「こうすればもっと面白かったのに」という指摘をいただきたい。もう歳なので次作を書くかどうかわかりませんが、書くとしたら参考にしたい。
 ぼくへの批評は非公開にする必要はない、公開でどうぞ。

たんめん老人の「虞美人草」

「たんめん老人」が再び「虞美人草」について書き始めている。ぼくの作品論はだいたいにおいてかなりおおざっぱだが、「たんめん老人」は学者的な几帳面さで、細部にわたる検討を加える。読んでから年数も経ってほとんど忘れてしまった細部を思い出させてくれる。まだ読んでいない人には作品紹介の用も足してくれている。

「虞美人草」討論会

 中学生のときからテレビ嫌いで、(見ても退屈なので)ほとんど見ずに来た。だから新聞のテレビラジオ欄など見たことがない。最近「ポアロ」を録画して暇なときに見るようになったので新聞でチェックする。水曜日の4時からというのは知っているのだが、一応確かめて11時少し前にBS3を点けると「虞美人草」という言葉が飛び込んできた。
 見ると10年前にやった「虞美人草討論会」の再放送だ。新聞で確認すると9時から延々とやっていてもうじき終わるところである。じつは10年前にも何かの都合でごく一部しか見ることができず、悔しい思いをした。そのごく一部がぼくの問題意識と似ているように思えたからだ。
 今回はほんの数分しか見れなかったが、「虞美人草は偉大な失敗作である」というあたりに参加者のほぼ共通の理解があるように思えた。「失敗作のなかにこそ、その作家のほんとうに言いたいことがある」という発言も印象に残った。
 5名を超える人が参加しているようだったが、番組案内で見ても知らない名前ばかり。まして顔は知らない顔ばかりだ。ひとりだけ島田雅彦がいた。ただどの顔がそうなのかはわからない。
 2時間もの番組だが、事前に知っていれば見ただろう。テレビ欄というものもたまにはチェックすべきかと思ったりしている。番組中で「赤と黒」に触れた人がいなかっただろうかということが気になっている。
「虞美人草」と「赤と黒」とを結びつけるのは、ぼくだけなのだろうか。

復讐劇としてのミステリー

 誰だったか「朝日」で、日韓の比較に触れて、<曽我兄弟だの、忠臣蔵だの、日本人は復讐物語が好きだ、だが、韓国にはそういうものはほとんどない、あの国では正義が好まれる>と書いていた。
 どこまで確かな話なのかは知らない。ただ、いま漫画「金田一少年の事件簿」を読み返していて、そういえばこのシリーズにはたくさんの殺人が出てくるが、まず例外なしに復讐劇だな、と気付いた。
 ぼくは、この漫画以外の日本ミステリーでは、横溝正史と東野圭吾しか読んでいないので、(しかも二人の作品を読んでから日も経って記憶が薄れているので)日本ミステリーに占める復讐劇の割合がどの程度か、ちょっとわからない。ただ「金田一少年」だけを見れば確かに復讐ものばかりだ。
 クリスティ作品は、資産家の遺産相続をめぐる殺人が多い。あとは男女間の問題だ。舞台になるのはだいたいにおいて金持ちの社会で、主人公が貧乏な場合でもその舞台は金持ち社会である。
 クリスティ自身の発言を読んだことがあるが、「私はただ読者の読みたがるものを知っていただけだ」と言っている。たしかに金持ち社会は絵になる。読ませるものがある。そこに紛れ込んだ貧乏人が、決して金持ちに負けていないのもよい。
 クリスティ自身は特に裕福だったわけではないが、中流階級の人間としてそういう社会に出入りできた。だから書けた。金持ちの社会を我々貧乏人が書こうとしてもうまくいかない。どこか不自然な描写になる。
 ミステリーで、あと読んだと言えばホームズものとエラリー・クイーンだが、これも読んで何十年にもなるので、殺人動機までは思い出せない。
「金田一少年」がすべて復讐殺人になってしまうのは、それがミステリーに都合がよいからだ。
 ミステリーの条件として、1、犯人は意外な人物でなければならない、2、殺人には奇想天外なトリックを用いねばならない、ということになっているようなのだが、ぼく自身は2の項目には疑問を持っている。
 だが、とりあえずこういう条件で書かれるとすると、とても犯罪を起こしそうもない人が、綿密な計画殺人を実行する、のでなければならず、それを読者に納得させるには納得させるに足る殺人動機が必要になる。
 こうして一番手軽な方法として復讐劇が仕組まれる。
 トリックは大掛かりになるほど現実離れする。とても成功しそうもない殺人計画だ。探偵役の謎解き過程も、穴だらけである。ただ(金田一少年の場合)、一応の筋は通してある。「こういうことはありえない、だが、もしありえたとすれば、こういうことだろう」と納得させる水準にはある。
 そして何よりも謎解きが終わった後に必ず付属している動機ストーリーが(現実離れはしているのだが)よくできているのだ。「そんなひどい目に遭ったのか。じゃあ、復讐しても当然だな」とまでは思わないまでも、殺人犯の心になんとなく寄り添ってしまう。うっかりすると涙が出てくるほどだ。
「金田一少年」が読まれるのは、半分はこの動機ストーリーのおかげである。
 これもまた「私は読者が何を読みたがっているかを知っている」ということになるのだろう。この作者もまた読者の要求にこたえたのだ。

 と、つまりそういうことなのだが、何を書きたかったかというと、そういうことにぼくは不満なのだ。読者の同情を買うような動機ストーリーをぼくは書きたくない。そういうストーリーのうちには読者の共感を招ぶだけの人間性の真実が含まれていることも認めはするが、それでもそれはぼくの書きたいことではない。それはミステリーにとっての邪道だという感じがする。安直だという感じもする。早く言えば、パターンだということなのだ。
 アメリカ映画にいっとき復讐ものが流行った。妻子を殺されたのだから犯人を殺して当然だというふうに主人公のアクションを動機づける。見せたいのはアクションなのだが、そのアクションを正当化する道具にストーリーをでっちあげる。
 そういえばマカロニウエスタンはほとんど復讐ものだった。香港のカンフー映画はちょっと違ったかな。
 というように見てくると、復讐ものを好むのは日本人とは限らないようでもある。
 要するに暴力を見せたいのだが、その暴力の正当性がほしいのである。そのためにでっち上げたに過ぎないストーリーを、(つまり制作の順序から言えば暴力のために、暴力のあとで考え出したものを)、まるで先にストーリーがあってその結果暴力が発生したかのように錯覚させようとする、この、認識の逆転への強要が、ぼくを納得させない。
 ということを書いてきて、きのう「朝日」を読むと、これも誰だったか(確認の手間を惜しんで申し訳ないが)、次のように書いていた。
 <「ハムレット」に長い間不満だった、父親を殺されながら、なぜすぐに仇討ちせずに、いつまでも悩み続けるのか分からなかった、ところがある評者が、キリスト教の社会では、人を罰するのは人間ではなく神なのだ、だからハムレットは悩むのだ、と書いているのを読んでようやく納得できた>
 それに続けて最近の日本の風潮として、「殺人犯をいますぐ自分の手で殺してやりたい」という被害者の気持ちへの一般社会における共感の広がりに触れている。執筆者は結論を出していない。ただ一考をうながしている。ハムレットのように悩み続けるべきではないかと言っている。
 こういう記事を読むと、なるほど日本には仇討を好む伝統があって、これは多少特殊なことなのかもしれないという気もしてくるのだ。

「虞美人草」のこと

「たんめん老人のたんたん日記」というブログの著者が、漱石の「虞美人草」を再読していろいろ感想を書いている。
 ぼくがときどき開けてみるブログの著者たちは、猛烈な読書家ばかりである。その読むスピードの速さ、一か月の読書量の多さに舌を巻くが、この人もそうだ。「神曲」と「太平記」とを並行読みして、そのあらすじと感想とをずっと書いているが、その合間にアメリカの推理小説やら、何やかや読んで、そして若いころ読んだ本の再読をしている。
「虞美人草」の感想も詳しい。サッカレーの「虚栄の市」と比較したり、登場人物の食べるものに注目してそこから当時の雰囲気をつかもうとしたりする。
 ぼくはと言えば「虚栄の市」は印象的なタイトルで子供のときから頭にはあるのだが、半世紀読まないままできてしまった。
「虞美人草」も、細かいところはもはや記憶にないので、いろんな読み方ができるものだなと感心して読ませてもらっている。
 ぼくの感想を言うと、「虞美人草」は(職業作家としての第一作だから)気負いばかりが先だって、小説としては失敗している。だが、非常に興味深い作品である。
 前にもブログに書いたが、「虞美人草」は「赤と黒」に着想を得たに違いないとぼくは思っている。誰かそういう研究をしている学者はいないのだろうか。
 地方から出てきた貧しい秀才の小野は、ジュリアン・ソレルである。資産家の高慢で美しい令嬢、藤尾はマチルドである。小野の恩師の娘小夜子は、レーナル夫人である。
 ジュリアン・ソレルがマチルドとの結婚を果たし、出世の階段を上がり始めようとした矢先にレーナル夫人との過去が暴かれ、傷害事件を起こして投獄され、結局ギロチンで世を去る。マチルドがその切り落とされた首を抱きしめるという衝撃的なラスト。時代はナポレオン敗北後の王政復古の反動期であり、体制を脅かすものの存在が許されなくなっていた。
 小野も学問で身を立て、藤尾と結ばれて、上流階級への道が開かれようかと思われた矢先に、小夜子が現れて、貧しい生い立ちに引き戻されてしまう。
 ストーリーはまったく同じだ。ラストも同じである。何が違うのかというと、主人公たちの受け止め方が違う。ジュリアンは自分の運命を誇りたかく受け入れる。小野は、小夜子を捨てて藤尾に走ったことを後悔する。(ジュリアンも牢獄の中では、マチルドよりもレーナル夫人を求めるのだが、外形的には同じでも、その心情はまったく違う)。そしてマチルドは、切り落とされたジュリアンの首を抱きしめて、永遠の愛をささげるが、藤尾は気が狂って死んでしまう。
 スタンダールの作品の中では、ジュリアンはヒーローであり、マチルドはヒロインだ。漱石にとってはそうではない。小野はまったくパッとしない。金持ちの道楽息子が二人出てきて、小説はこの二人によりそって書かれる。にもかかわらず読み終わってみれば、この二人は不要な人物である。ストーリーは明らかに小野と藤尾を軸に展開しており、そこに小夜子が噛んでくる。そして漱石は、小野を貧相にしか描かないが、藤尾については実に印象的なキャラクターに仕立てあげる。だが、そうしておいてこの女を切り捨ててしまう。
 ここに漱石という人物自身の矛盾がある。漱石は藤尾のキャラクターに惹かれるものがあったはずだ。のちの里見美祢子につながっていく女性像だ。美祢子はずっと控えめな女性になっているが、基本的には藤尾である。藤尾の毒気を抜いて、教養と上品さを備えさせれば、美祢子になる。芯のところに女性のもつ魔性的なものがある。
 ところが漱石は結局藤尾を否定してしまった。彼の明治人としての道徳観が小説を貧しいものにしてしまった。
 ぼくが漱石に興味を持つのは、彼が日本人の矛盾を体現した人物だからだ。
 だが、もちろん読書は人さまざまで、「たんたん日記」の、作品に対する関心の持ちようの深さと幅広さとは、また別の興味へと読む者を導いてくれる。

休止通知

 町内会で振りまわされて、記事を書く余裕がない。当分ブログを休止します。あしからず。

サマルカンドの大丘評

「サマルカンド」に載った「樹宴」11号大丘忍「鏡の中の女」への批評は、読み返してみると必ずしも悪評というわけでもない。後半でかなり誉めている。ただ、ストーリーに走って場面場面の描写が不十分であったという点の指摘のようだ。
 今回「樹宴」は25冊もらって一冊を手元に残し、24名の方に送った。感想はまだほとんど返ってきていない。ぼくの作品が連載全4回のうちの第1回ということもあってまだ感想は言えないということもあるだろう。
 大丘さんの作品が巻頭だったこともあり、ぼくが大丘作品がおすすめですと書いたせいもあったのか、大丘作品だけ読んだ、石崎の作品はまだ読んでいないという読者もいた。
 そのなかで特に女性の読者から、「鏡の中の女」はポルノすぎるという反応が返ってきた。
 振り返ってみると、確かに今回の大丘作品はかなりポルノチックだ。ただ、ぼくはすでに何作も大丘作品を読んできて、いつも軽快で心温まる作品に接してきたので、今回の作品もそういう眼で読んだ。女性を見る作者の眼はどこまでも優しいと見えた。
 この作品が気に入ったという読者もいた。サマルカンドの評者も、読みとるべきところは確かに読みとっているようだ。
 以上、「樹宴」への最初の反応である。

「樹宴」11号への感想

 リンク欄から「サマルカンド」をクリックしてください。「樹宴」11号大丘作品への感想が出ました。かなり批判的ですが、読者はさまざまですから、特に気にする必要はないと思います。後半で誉めています。
 公開した作品への批判は自由です。反論があれば、このブログなら必ず掲載します。

「スプーン一杯」の感想来る。

 非公開コメントで、「スプーン一杯のふしあわせ」に感想を寄せてくださった。要点は以下である。「せっかく語り手に疑いを向ける要素を作り出しながら、なぜ簡単にそこからずらしてしまったのか。主人公が自らに向けられた嫌疑を晴らすために奔走するのならもっとスリルがあっただろう」
 的を射た指摘です。さすがです。大いに参考になります。公開してよかった。ありがとう。

「ふくやま文学」29号

 3月というのは文学をやるにはふさわしくない季節だ。各種総会準備、各種役員の引継ぎ等がたびかさなって、読みかけていた「ふくやま文学」が意識のどこかに埋もれてしまった。4月から、より重い世俗の仕事を抱えることになって、文学へと頭が戻っていかない。でも、合評会にむけて記憶を新たにするために、少し書こう。
 総234ページ、読み応えがあった。一番の出来は前号に続いて瀬崎峰永だ。27号の「ボクサー」、28号の「11月のひまわり」もよかったが、今回の「祝福」はもはやプロの出来ばえと言ってよい。

 瀬崎峰永「祝福」
 違法な堕胎手術を商売にしているおばあちゃん、高校生の孫がそこへ居候している。この惣太君は鰹節からいかにうまい出汁をとるかということに熱中していて、おばあちゃんに毎日うどんを食わせている。おばあちゃんはうどんに飽き飽きしているのだが、商売のとき以外はテレビ漬けで、食事は孫に作らせている。鰹節と出汁についての蘊蓄ぶりと、おばあちゃんと孫とのやり取りとその双方のユーモラスなのが、ストーリーの悲劇性と奇妙にも響きあう。
 26週の子を堕胎に来た女は、若く美しく聡明そうだ。経済的な問題ではない。不倫の結果なのだ。ストーリーの主役は女だが、小説の主役は高校生だ。悲劇を外側からしか見ることができず、悲劇に対して無力であるしかない高校生。これがこの祖母と孫との日常だから、必要以上に深刻ぶってみせることもなく、彼女のためにもおいしいうどんを作ってやろうとするところで終わる。
 30枚ほどの作品である。現代の若者の貧困に結びつけているわけでもない。時代との接点という意味では物足りなさがないでもない。だが、逆にいたずらに現代を紛れ込ませようとしなかったところに、作品の普遍性があるようにもとれる。短編で表現することのできるものをギリギリ表現しえたと言えるのではないか。
 おいしい出汁を作ろうとして一生懸命な惣太君には、いい作品を書こうとする作者自身が投影されているように感じた。
 また、いままで読ませてもらったなかで今回初めて作者のクリスチャンとしての位置が暗示されていて、興味を引いた。

 中山茅集子「鼻」
 ゴーゴリと芥川を連想させるタイトル。現代と切り結ぶという点では、この作品が随一だ。彼女よりずっと若い我々は少し反省してみる必要があるかもしれない。
 いつものように何気ない老人の日常から始まる。そしていつものように70年前にさかのぼる。しかし今回の若い女主人公はいつもと少し違う。いままでに読んだ作品のヒロインはきっと軍国少女で、その敗戦経験はまさに敗戦経験だった。それはいつも、限りなく悲痛な体験だった。
 だが、今回のヒロインは次のように描かれる。
 <その日まで押し込められていたあらゆる我慢を脱ぎ捨てた直子の夢は、いち早く狼煙をあげたファッションの世界だった> <振袖を着て堂々と歩けるようになったんだ、と無性にうれしかった>
 敗戦の感じ方がこれまでと違う。それは、戦争中の直子の次のような体験と対比させて描かれるからだ。
 風邪をこじらせてその日の耐寒行軍を免除された直子は、図書室から小説を借りてきて読んでいた。行軍から帰ってきた教師がこれを咎め、朝4時に八幡さんに謝りに行き、その足で教師宅に報告に来いと命ずる。雪の夜である。このとき図書室行きを提案し一緒に読んでいた田代陽子は、教師の目を逃れ、名乗り出もしなかった。直子は陽子への恨みを募らせながら八幡さんに到着すると、そこに陽子がいた。一晩中いたのだという。
 この恨み募る軍国教師もやがて徴兵されたが、生きて帰り、新制高校の教師となって、生徒と心中事件を起こして生徒だけ死なせて自分はまたも生き残ったのだという。直子と陽子は、「自分が死ねばいいのに」と怒りを募らせる。ある日その教師と偶然出会う。教師はまるで魂が抜けたような状態だった。戦争は教師の心も傷つけていたのだ。
 体験者が体験のなかから作り上げるフィクションには、重みがある。非体験者が伝聞で書いたのでは到達できないものがそこにはある。きな臭い雰囲気が再び漂う今、戦争の実相は繰り返し書かれる必要があるだろう。
 中山茅集子は決して「終戦」とは書かない、常に「敗戦」と書く。そこにあの戦争に対する彼女の立ち位置がある。
「鼻」は美人の陽子の美しい鼻なのだが、鼻と敗戦の縁で、もうひとつ別人の話が出てくる。だが、これは別の小説にすべきではなかったか。

 わだしんいちろう「インク汚れ」
 なぜか不思議と印象的な作品である。ストーリーはない。際立った人物もいない。主人公も目立たない。主人公は「かれ」である。「彼」ではなくて「かれ」。この「かれ」をカッコ付きでもなく、そのまま固有名詞的に用いている。それは作者の工夫なのだろうが、ときどき直前に出てきた人物と混同した。傍点を付けておいてくれたらよかった。だが、もちろん意図的に目立たなくしている。主人公とも言い切れない。作者はむしろまわりの人物のほうを描いている。ただ、そこには「かれ」のまなざしがあり、そのまなざしが「かれ」を照り返す仕掛けとなっている。
 描いているのは労働現場と労働と労働者である。「労働者を書きさえしたらプロレタリア文学なのではない」という民主文学の批評家の言をいつか眼にしたが、プロレタリア文学の後継をもって自任する民主文学が、作家の高齢化もあって労働を書かなくなってしまった今日、「これぞまさしくプロレタリア文学」と呼びたいような、さわやかさがある。
 舞台となっているのは、作者が「クレーン」の38号でも書いていた食品用の小物カップ(たとえばヨーグルト容器)にネームを自動印刷する工場のラインだ。ここは24時間三交代(たぶん)で動いている。カップの段取り、検査、収納などの過程で人手がいる。それはすべて派遣やアルバイトだ。正規社員はオペレーターと呼ばれ、ラインの背後にいるようだ。インク汚れがひとつ見つかればそのロットの、場合によっては何千個ものカップがすべて廃棄となる。最終判断を下すのはオペレーターだが、検査を担当するライン作業者は見つけ次第速やかに報告せねばならない。判断に迷っている間もラインは動いて廃棄数を増やしてしまう。
 労働現場と労働を描きながら、労働者群像を点描していく。たとえばフィリピン人のマリヤ、43歳、その来し方や人となりがさりげなく、だが印象的に描かれる。
 交代で食べる夜食のために食堂へ行くと、社員が二人コーヒーを飲んでいる。その会話を漏れ聞く。<組合作ろうとしたら辞めさせられるよ……これまでも辞めさせられたらしいからね> その彼が儲け話を口にし始めたが、相手は気がなさそうにしている。
 ここにはたたかう労働者はいない。だが、もちろんそれは、我々が生きているこの現代日本社会の、ありのままの現実である。文学はここがスタートであろう。まず現実を描き出さねばならない。この作者はそういう描写に徹することによって、いっそすがすがしい作品を作り上げた。

 今回取り上げるのはこの三作にとどめるが、ほかにも面白い小説が満載である。読んでやろうという気を起こされたら、ぜひ事務局に申し込んでほしい。当ブログの「同人誌広告」のカテゴリーに連絡先がある。すでに一人の方から申し込みがあって送付された。

天皇退位私論

 政治学者、原武史が天皇退位にまつわる動きを批判している。憲法第4条で「国政に関する権能を有しない」とされているのに、明仁天皇がひとこと言うと政治が動いた。これはあきらかに憲法に違反している、と。きょうの朝日新聞である。
 原氏が言っているのは明仁は退位してはならないということではない。明仁の言葉で政治が動くのはおかしいということである。退位に関する法整備が必要なら、それは国会が自主的に行うべきであった。権能を有しないはずの人によって政治が動かされるのは危険であるということなのだ。
 <もし国民の誰かが「陛下ももうお年なのだから、そろそろ皇位を皇太子にお譲りになって引退されたら」などと言おうものなら、それこそ「身のほどをわきまえない無礼者」とのそしりを受けた><ところが、いったん天皇からその意思が示されるや、圧倒的多数の国民が受け入れました。これが天皇と国民との関係です。この点で、45年8月と現在は変わっていません>
 原氏の危惧はよくわかる。日本人の精神がいまだに天皇神話に縛られており、天皇の一言で政治が動きかねない(現に動いた)ことを危ぶんでいる。
 しかし、ぼくはこの問題では違う意見を持っている。
 この問題では、ぼくはしりあがり寿氏の見解を支持している。この問題が出たときしりあがり寿はただちに、「そうか、天皇には人権はなかったのか」と書いた。それがすべてだとぼくは思う。
 憲法14条は、「すべて国民は、法の下に平等であって……門地により……差別されない」と書いてある。22条には、「何人も……職業選択の自由を有する」。18条には、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない……その意に反する苦役に服させられない」と書いてある。
 つまり、天皇をいつ辞めようとその人の勝手であって、これを強制する権利はいかなる権力も持っていない。
 もちろん憲法2条が「皇位は、世襲のものであって」と書いた時点で、14条と矛盾してしまっているのだが、だが、皇室典範に書いてあるのは皇位継承の順序だけであって、皇位を拒否することができないとも、天皇は辞めることができないとも書いてない。
 つまりいまさら、天皇退位法など作る必要はない。誰にでも職業を辞める権利はいつなんときでもある。そして天皇も実質上ひとつの職業であって、それ以上のなにものでもない。
 そしてこれを否定するとしたら、天皇は日本国民ではないのだ、だから憲法は適用されないし、人権は存在しないのだ、という結論に導かれる。
 しかし、人権とは単なる法律上のものではないだろう。それは法律以前に自然法として、すべての人間に与えられているものだ。この自然法に反する法律が存在するとしたら、その法律が間違っているのである。
 その点、「皇位は世襲のものであって」という条項は限りなく怪しいが、だが、天皇の退位を否定する条項がどこにもない以上、明仁は自らの意思で天皇を辞めることができる。それはいささかも国政に関することではない。何故なら天皇は国政に関与しないのだから、国政に関与しない人間が国政に関与しない地位から降りることが国政に関与するはずがないのである。

小説と謎

 たとえば、ストーリーの当事者の心理を日本的=自然主義的=私小説的に丁寧になぞっていく、というのでなしに、第三者の目でストーリーの外側から観察したものだけを書いていく、あるいは、当事者の視点で書いてはいるのだが、当事者自身がはっきり呑み込めないままに、そういうものとして(はっきりしないものとして)描き出す。
 こういう小説にはおそらく両面の評価がある。書かれていることがあいまいで痒いところに手が届かない、物事を追求しきれていないという評は当然あるだろう。しかし現実というものは言葉にできるものなのか。そんなに単純なのか。芥川の「藪の中」ではないが、所詮すべては「まなざし」だろう。書いた瞬間にそれは誰かが見たものとなって、現実そのものから離れてしまう。
 すっきりと分かる小説にはどうしても通俗性を感じる。現実ってそんなに単純じゃないよと言いたくなる。
 わからない小説がわからないなりにその雰囲気で読者を引き付けるのにはそういう事情があるのだ。現実の複雑さを見せてくれるように思えるからだ。
 ところが書きなれない作者は、せっかくいいムードで書き進めながら、最後でそのムードを自ら破ってしまう。理屈が入ってくる。理屈がスト-リーを単純にしてしまう。「なんだ、書きたかったことはそれだけのことなの?」という感じになってしまう。

 以前、当ブログへの匿名の投稿者が、「推理小説は謎を解決してしまうので面白くない。人生は永遠の謎だろう」と書いていた。推理小説が謎を解決できないでは困るのだが、文学としての小説は、たしかにこの投稿者の言うとおりだろう。
 そういえば安部公房の「燃え尽きた地図」は探偵が謎を解決できないままに終わっていたっけ。

豆塚エリ「いつだって溺れるのは」(太宰治賞候補 234枚 23歳)

 今日の新聞で16歳の少年がすばる新人賞を取ったと報道されていた。文章力、表現力、構想力といったものは十代で十分身に着けることはできる。あとはたぶん人生経験だけだ。それも若い人は若いなりにあって、齢をとると失われてしまう感性があるから、十代でなければ書けないものもある。
 ぼくが十代の終わりで早くも行き詰まってしまったのは、あまりに孤独な少年時代で、人間関係に乏しすぎたのが一因だ。人間を書けなかった。いま子供たちを見ていると、子供ながらに立派に社会生活を経験している。なるほどあれなら書けるなと思うが、逆にああでは書く動機がないかもしれない。
 若くして作家として出てくる人は人それぞれだとは思うが、読書量だけでは決まらない。

 さて23歳、最終候補になったときはまだ22歳である。
 じつは最終候補四作のなかで一番ひっかからずに読んだ。文章も、人物も、ストーリーもなめらかで読みやすかった。そのぶん、通俗的だとは言える。ただ、ほんとうに通俗的なだけの小説というのは決して読みやすくない。嫌気がさすからだ。この作品が読者を引き付けるのは、主人公の設定にある。
 主人公、葉子。17歳で、頚髄損傷、下半身の感覚を失い、以後車椅子生活。リハビリを担当した理学療法士の修司(10歳年上)と結婚してすでに数年、いま24歳である。
 ストーリーの展開に沿って、頚髄損傷者として被る通常とは異なる生活のあれこれがひとつひとつ具体的に描写されていく。ところがそこにわざとらしさがない。自然にストーリーに溶け込んで、ごく当たり前のこととしてさりげなく描かれる。豊かなリアリティがある。作者が自分の体験を書いているのではないかと思わせるところがある。22歳で、体験ではなしに取材で書いたとすれば、すごい才能である(もちろん実際の体験者からすれば、おかしなところもあるのだろうが)。それはつまり書いてある内容よりも、その書き方があまりにも自然なのでそう思ってしまうのだ。
 途中まではこの作品がいちばんいいとも思った。
 読み進めると、葉子の母親はホステスで、父親は地元のお金持ちだ。葉子は婚外子なのだ。このあたりからちょっと設定を複雑にしすぎじゃないのという疑問がわいてくる。さらに読んでいくと中学からの親友が出てきて、これは中学を不登校で過ごし、高校で立ち直って大学を出ていまは中学教師である。脇役までが複雑なのだ。そして最後にダメ出しのように、高村という50代の元中学教師が登場する。葉子は結局この男と恋仲になって修司と別れるのだが、これがじつは教え子と恋仲になって妊娠した彼女を自殺に追い込んだか殺すかし、妻をも殺そうとして失敗していま植物状態の妻を看護する身である、という噂を持つ男である。ところがこの噂の真相は、女子中学生を妊娠させたのが彼女の兄だったとか……。
 つまり作者はバラエティ番組から拾ってきたようなありふれたパターンをあれもこれもと詰め込んでしまったのだ。こうなってしまうと234枚という短さではどれもこれも時事ニュースでしかない。物語になりえないのである。
 結局何を書きたかったのかわからない作品になってしまった。

 この作品でも思うのは、一人称で書くべきだったということだ。22歳の作者には50歳の男を書くのは荷が勝ちすぎている。三人称で書いたので、22歳の眼では見ることのできない男の全体が見えているかのような書き方になった。22歳の主観でしかないものがまるで男の客観であるかのように書かれてしまった。
 その結果、高村は少女漫画に登場する大人のような風貌になった。
 見えてないものを背伸びして見えているかのように書いてはダメだ。作者は葉子の目に見えるものだけを書くべきだったのだ。そして見えないところがたくさんあるのだということをそれとなく匂わすべきだった。高村は大人の謎を秘めた人物にしておくべきだった。全部わかっているかのように書いたので、物語が逆に単純になり、漫画的になった。作者の人間観が薄っぺらくなってしまった。
 しかし、もったいない作品なのだ。十分に構想力や表現力を持った作者である。少し欲張りすぎた。

 葉子と高村が接近するきっかけが小川洋子の小説だったというところを審査員が批判していたが、同感する。かなりしつこくいつまでも小川洋子が出てきて辟易する。この回から小川洋子は審査員を抜けたが、それまでは審査員だったので、よけいに要らぬ誤解を招きかねない。それを抜きにしても、もっと古典的な作家にした方がよかっただろう。

小説の条件

 読みたくなる小説の条件て、なんだろう。
 古典の読書に専念していればそんなこと考えもしなかっただろうし、怠惰な人生を送ってきたせいで何も読めていないぼくは、それこそ古典を楽しんで余生を送っていればよかったはずなのだが、何の因果かアマチュアの小説にどっぷりつかってしまった。
 懸賞小説の下読みをしているわけでもなく(下読みの皆さんは本当にご苦労様だと思う。下手な小説を読むということは苦行だ)、なんの義理があるわけでもないのだが、一度その道を行き始めたらなかなか方向転換できないのがぼくの人生である。
 いま書きたい小説があるわけでもないので、ともかく読んでいる。もともと何をするのもとろい人間なので捗らないのだが、ともかく読んでいる。それでしばしば読む意欲の起こらない小説にぶつかってそんなことを考えてしまう。
 読みたい小説の条件て、なんだろう。
 ストーリー、文章、人物、この三つだろう。三つともそろっていれば軽快に読んでいける。だが、あとの二つがだめでも、ひとつでもクリアしていれば、なんとか読めるのだ。三つとも駄目な小説は読むのが苦行だ。
 先を期待させるストーリーがあること。
 何かしら味わいのある文章であること。
 興味を引く人物が登場すること。
 ストーリーはないよりはある方がよいが、どんなストーリーでもよいというわけじゃない。やはり読みたくなるストーリーの条件がいくつかあるだろう。それを要約すれば「先を期待させる」ということだ。
 文章は整っていればよいというものじゃない。テニオハもなってない文章にはてこずるが、ただ整っているだけで無個性の文章は読んでいて少しも面白くない。文体には作者の思想が現れる。文体感覚のない文章はダメである。
 人物。いちばん腕前を試されるのは平凡な人物を書くときだ。個性の乏しい人物なのだから、個性を書けなくて当然だろ、というような姿勢を見せたらそれは作家じゃない。個性のない人間なんかいない。どんな人間にも他人にはない個性が必ずある。それを見つけ出すのが作家であり、それを書き上げるのが作家だ。それが書けていない小説は読むに値しない。
 というようなことを考えていて、さて自分の小説はどうなんだろうと省みた。少なくとも30年前「まがね」に書いた小説は、まあ、なんとか読めるんじゃないか。でも「まがね」に復帰してここ数年に書いた現場ものの小説、あれはやっぱり駄目だな、読む気の起こるような小説じゃなかったなといまさらながら思う。

「樹宴」11号発行

「樹宴」11号発行です。
 こちらには拙作ミステリー「スプーン一杯のふしあわせ」の連載を始めました。「福山ミステリー文学新人賞」一次通過作品です。各回百枚づつ、4回で終了です。
 なお、次の各氏が小説を書いています。
 大丘忍 守屋陀舟 足立 武 木沼駿一郎
 定価500円 送料180円 116ページ(簡易製本)

 注文先
 〒125-0032 葛飾区水元3-1-14-204 深井方 樹宴文学同人会
 TEL 03-3600-2162
 e-mail kofu65y@yahoo.co.jp

 同人募集中
 年会費3600円 年3回発行
 作品掲載料 無料
 上記にご連絡ください

「ふくやま文学」29号発行

「ふくやま文学」29号が発行されました。
 今回拙作「幽霊」を載せていただきました。
 ほかにも13名の力作小説、5名の詩、6名の随筆、児童文学1、紀行文1、特集エッセー(食べごとのはなし)9、総ページ236頁上製、表紙絵は開原通人です。
 定価500円、送料180円です。以下にお申し込みください。
 〒721-0971 福山市蔵王町3197-3 大河内喜美子

噛み合わない議論

 コメント上で高原・植田両氏の議論が続いているが、はたから見ても噛み合っていない。なぜ噛み合わないかというと議論が抽象的だからである。議論対象が思考方法についてなのだ。思考方法というものは頭の中の問題で、各々別々だろう。むろん共通する部分もあるだろうが、それを見ている角度が違うし、それに与えている序列も違う。したがって名付け方も人それぞれで、言葉の意味するところがまったく違う。そういう場所でいくら議論しても噛み合うはずがない。
 具体的な我々の住むこの世界の、具体的な問題に引き戻してこなければ、議論というものは成り立つまい。
 だが、いま世界は混迷を深めていて、具体的な問題にどう対処すべきかというと戸惑うばかりなのだ。議論しようにもしようのない状況がある。
 おそらく、だから議論が抽象の世界にいってしまう。それはぼくには虚しく思える。
 現実世界との接点を手探りで探っていく、そういうことをぼくは求める。
 どこにも絶対的な解はない。希望の芽をどこにどういう条件付きでどの程度求めるか。そういう手探りなのだ。

広井公司「トランス・ペアレント」(268枚 太宰治賞候補 39歳)

 作者は説明もなく、いきなり淡々と書き連ねる。読者はしばらく設定がつかめない。この調子で268枚も読んでいけるだろうかとふと不安になる。だが小刻みに区切られた3の章に入って、筑摩書房版の191ページの終わりごろから、その文章の与えてくれるイメージの美しさに思わず引き寄せられてしまう。
 男に去られた女が娘を連れてドライブに出る。どこかの駐車場に車を止めて外に出てタバコを吸う。母親がタバコを吸うのを娘は初めて見た。吸い終わると戻ってきてぼんやりとまわりを見やっている。やがて娘の髪やからだにさわり、帰途につく。その情景を小学三年生の娘が見ている。三人称で書いているが、すべて娘の眼に映るものだけを書いている。
 ストーリーらしきものはほとんどない。登場人物は平凡な人々だけである。何もない。何ごとも起こらない。ただその散文の美しさが読者をとらえる。
 ぼくが日本文学をほとんど読んだことがなくて、翻訳ばかり読んできたせいだろうか、文章の美しさで読まされる小説に初めて出会ったような気がする。それは着飾った美しさというのではない。ごく日常的な文章で、ごくあたりまえの風景を、少しの気負いもなく淡々と書いているだけである。だが、それが読者の心にえも言えぬ美しいイメージを呼び起こす。これは奇跡的な作品だ。受賞作よりもこちらの方が圧倒的によい。
 男がいて、本をたくさん読んでいる。ある日妻と娘を置いて出ていく。残された女はホームセンターで働き、最初は気持ちの整理がつかないが、一年経った頃から、気持ちが落ち着いてくる。早朝の仕事を掛け持ち、さらに資格を取るための勉強を始めたりする。娘は母親には内緒で定期的に父親と会っている。父親は後悔しており、帰りたいのだが、帰れない。やがて妻と会った男は彼女の方にもうその気がないことを知って離婚を承諾し、娘の前からも去っていく。娘が母親に内緒で父親と会っていたことを知った母親は逆上し、娘に暴力をふるう。
 そういうストーリーは一応あるのだが、それはいわば背景のようなもので、書かれるのは娘の日常生活である。学校に行き、友達としゃべったり歩いたりする。じつによく歩く女の子で、その歩く道すがらを作者は淡々と書いていく。「淡々と」としか言いようがないのだ。それも物珍しい風景ではない。ありふれた街のありふれた情景を描く。すべてが娘の眼に映る景色である。作者が書くのは風景であって娘の心ではない。だが読者が読みとるのは娘の心なのだ。そして母親の心であり、父親の心でもある。
 何も起こらない小説を268枚も読めるだろうかと危惧する必要はない。引き込まれ、手放せなくなるのは必定である。個性を書き分けられた何人かの女の子たち、男の子とのちょっとしたやり取り、そういう描写もじつにうまい。
 時間が行きつ戻りつする。読者はちょっと戸惑うが、時間経過で語らないのは娘の心の動きに合わせて語っているからなのだ。
 ただ正直に言うと、まだ少し時間的経過が読みとれきれていない。
 二年生の時には父親はまだいた。小説の最後のほうでは四年生で、その夏休み前に、<私もね、一年以上あんたと二人で暮らしてきて>(232ページ)、いつから父親と会っていたのか、<うん、去年の、三学期のはじめくらい、一月かな>(同ページ)
 というところがよくわからないのだ。去年の三学期なら二年生の時のことになる。それが父親と会うようになった最初なら、<二人で暮らしてき>たのが<一年以上>ではすまないだろう。この<去年の、>は娘が記憶をたどっているところということなのだろうか。
 さて表題の「トランス」なのだが、tranceと綴るかtransと綴るかによって意味が違ってくる。たぶん前の意味ではないか。トランス状態などいう使い方をする頭のぼんやりした状態。これはラストで、子供の自分には何もわからないけれど、大人にも何もわからないのだと娘が悟る、そういうことを指しているのだろう。
 太宰治賞は落選作品もレベルが高い。この作品は読んで得した。

コメント編集用ボタン

 コメント663のコメント編集ボタンが消滅しているという指摘があったので、見てみたら、実際663だけボタンが消えていますね。原因不明です。しかし、「コメント編集」とは妙な言葉ですね。「コメント訂正」と書くべきでしょう。「ワード」の技術者の使う日本語は日本語になっていませんね。
 Windows出始めの頃、「不正な使用」という言葉が頻繫に出てきました。なにか法に反することをしたのだろうかと嫌な気持ちがしました。「不正」という日本語は、「不法」とか「道徳に反する」という意味あいで使われます。ところがこの技術者は単に、「間違っている」という意味で「不正」と言っていたのです。どういう連中が作っているのか知らないが、日本語教育をする必要がありそうです。

高原・植田対論

 コメント上で高原・植田両氏の対話が再開している。かなり抽象的な内容で必ずしもついていけていないが、目は通させてもらっている。まったく迷惑ではないので、どうぞ自由にコメント欄を使ってください。
 両氏の比較的まとまった文章をいくつか印刷して、手元にあるのだが、まだ読めていない。当分読みたい小説を何本も抱えているので、そちらを優先したい。
 そのうちまた両氏の話し合いに参加させてもらいます。

サクラ・ヒロ「星と飴玉」(310枚 2016年太宰治賞候補作)37歳

 300枚の小説に第一部と第二部とがある。少し大げさな感じだ。一章、二章でいいだろう。ただ読んでみると、一部と二部とで内容が大きく変わっているので、納得できないでもない。
 一部を読んでいるあいだじゅう、かなり苦痛だった。面白くないのだ。登場人物がいずれもありきたりでオリジナリティに欠ける。行動もセリフも陳腐で凡庸だ。どこが良くて最終候補まで残ったのか。こんなものを読まされるのはかなわない。と思ってもう少しで投げ出すところだった。だが読みかけたものを投げ出すのもしゃくなので、読み続けた。結果としては読んでよかった。最後まで読むと結構面白かったのだ。
 一部は中下35歳の日常生活である。美大志望だったが実力も親の経済も伴わず、三流大学を出て、ご多分に漏れずアルバイトと派遣で、一年前にやっと正社員の職を得た。最近こういう設定が目立つ。実際そういう世の中になっているのだろう。それを書くのが流行しているような気もする。
 それにしてもむかしの小説と言えば、大衆小説は別にして、文学と名がつくと偉そうな作家先生が愚にもつかぬご託を並べてみせるようなものばかりだったが、最近は普通の労働者が主人公だ。それも民主文学が書くような組合があるような恵まれた労働者ではなく、最底辺の労働者である。しかもみないちおう四年制の大学を卒業している。たしかにそういう時代が来たのだと思う。
 正社員にはなったがブラック企業なのだという。しかしブラックと百回書いてもブラックになるわけではない。ブラックなどという流行語に頼らずに企業の実態を書かねば駄目だろう。朝から営業に出かけ、帰ってくると成績が上がっていないと何時間も説教され、そのあとはパソコンでデザインを書いているらしいのだが、帰宅は深夜になる。しかも給料は安い。と聞けばたしかにブラックに見える。
 ところが中下は営業なんかしていない。朝会社を出るとその足でネットカフェにしけこみ、出会い系サイトで人妻を漁っている。複数の人妻とネット上でのやり取りを交わし、そういうことは慣れたものですごいスピードでキーを打ち込む。何時間もやる。それからその中の一人と打ち合わせてラブホで寝る。
 営業もせずにネットのやり取りとセックスに明け暮れているのだから仕事が取れるわけがなく、説教されて当たり前で、帰りが遅くなってもほとんど労働なんかしていないのにブラックなんかじゃない。しかも人妻たちと遊ぶ金をどこで工面しているのだろう。人妻たちは中下の何に引っかかるのだろう。ネットの文章作りがうまいらしいのだが、実際に会えばそれだけでは続くまい。金払いがいいか、性的魅力があるか、口説きがうまいか、どれかひとつなければ、女は付いてこない。
 ところがそういう具体的なことを一言も書いてない。だいたい具体的に女と会っている場面がない。それでいて、年増の女たちなんかほんとうはいやなんだ、ただ仕事がブラックでつらいからストレスの捌け口なんだ、上司のいじめに遭って精神安定剤を服用しているのだと来る。
 中下のイメージがどうしても結ばないのである。そんな根暗の男が女にもてるはずがない。
 そういう無内容な、言葉だけのありふれたパターンのあとで、これまた型通りの女の子との遭遇である。ネットカフェに寝泊まりしながら、そこで売春して生活している19歳のナナである。大勢の女たちとセックスしている中下が、その女たちには関心を示さず、このナナにだけ惹かれる理由が分からない。彼女が若いということ以外の理由が見えてこない。
 第一部の終わりで、中下は高校時代の同級生に会う。高峰。東大法学部を出て、官僚だったが、辞めた男。そして第二部が始まる。
 第二部に来て、第一部がなぜあんなにつまらなかったかがはっきりとわかる。
 それは一部は二部を開始するための伏線に過ぎなかったからなのだ。二部のストーリーを展開するための配役準備だった。この作者は一部においては、人間を書きたくて人間を書いたわけではない。ただ二部で展開するストーリーに都合がよいような配役を準備しただけなのだ。
 だからすべてが型通りで、ありきたりで、凡庸で、つまらなかった。読者をひきつけるような生きた人間がどこにもいなかった。
 二部ではストーリーが動き始める。人間が凡庸でもストーリーが動けばそれなりに読ませる。
 高峰は詐欺師で、中下はその片棒を担がされる。中下が、ネットで女をだますことにかけてはプロなのだということが、高峰にとっては渡りに船だ。一部のずいぶん無理な設定がここでやっと生きてくる。このストーリーのためにはどうしてもそうでなければならなかったのだ。だから必然性がなくてもそういうことにせねばならなかった。
 そういうふうに納得がいくので、二部はすらすらと読んでいける。しかし通俗的で文学性に欠けるなとは思いながら。
 やっと面白くなるのは、ほんとうに最後になってからである。ナナの持つ絵の才能に中下が気付き、これを世に出してやりたいと思い始めたところから物語は急に躍動を始める。人が輝くのは自分のほんとうにやりたいことをやっているときだと悟った中下は、高峰と縁を切る覚悟をする。つまりナナは絵を描くことで輝き、中下は彼女の才能を助けたいと思ったとき、自分の人生に張り合いを見出した。
 だが、ナナは高峰から逃げるのかと問い、懲らしめようじゃないかと提案する。この辺りはジェットコースター的な出来栄えである。
 懲らしめがまんまと成功して、ラストでもうひと騒動あるのだが、中下と高峰がグルになって大金を巻き上げた女の夫が中下に襲いかかり、危ういところを当の女によって救われる。これをとおして、かつての中下にとっては性欲処理の対象に過ぎなかった人妻たちのなかに当然ある人間性に中下がやっと気づく。この最後の部分で、この作品は救われた。
 審査員の一人が、この作品は一人称で書くべきだった。書き直してごらんと言っている。ぼくもそう思う。
 つまり、中下の視点で書いてはいるのだが、三人称なので、地の文と作者との区別がもうひとつはっきりしない。書いていることがあまりにも凡俗なので閉口してしまう。これを一人称で書けば、すべてが中下の考えで作者がそう思っているわけではないのだということがはっきりする。
 これがつまり最後に人妻たちの人間性に中下が気付く場面なのだ。女たちと寝れば当然気付かねばならないことなのだ。ひとり一人違う人間であり、一人一人からそれぞれその人間性を受けとる筈なのだ。女たちとの場面を第一部で書いていれば、それを書かずにおれないはずだった。それに気づかない人間がいるということがまず不自然なのだが、それを中下の一人称で中下の主観として書けばそれなりに読者を納得させることもできたかもしれない。
 ところが三人称だったので、作者の人間観の貧困として読めてしまい、話に入っていけなかったのである。

「楽園」追加

 小説は嘘である。小説とは嘘を書くものだ。だが、嘘を書いてはならないものもあるだろう。嘘を書くことになじまないもの、事実が重すぎるもののことだ。
 第二次大戦の敗戦以前の日本帝国主義の諸外国でのふるまいもそういうことのひとつだろう。そういう重すぎる事実について嘘を書くことはできない。だが事実を書くとしたら、それは小説ではない、ドキュメントである。もちろんドキュメントの文学的価値も大きい。
 だが、それでも小説にしたいと思ったら、どう書くべきなのか。夜釣十六の「楽園」は、そういう試みのひとつだろう。
 作者自身の言葉によると、作者はかなり丹念な聴き取りをし、ネットではなく、自分自身の足で取材した。それでもそれは伝聞であって自分の体験ではない。それに実際の体験者はすでに百歳に近い。作者が訪ね歩いたのは直接の経験者だけではなく、この小説の場合のような間接的な伝承者もいたのではなかったか。
 だから作者はそれをそれとして書いたのである。彼女は知ったかぶりをすることを避けて、自分が体験していないことをあたかも体験したかのように書くことを避けて、むしろ伝承という行為に重きを置いて書いた。
 いま日本帝国主義の過去を美化しようとする動きが急である。この作品の元憲兵も、東南アジアをヨーロッパの植民地から救うのだと信じて行動する。そして激しい拒否に遭う。そういうことを伝聞の伝聞として書いた。それは作者の切り開いた独自の小説的方法であったのかもしれない。

夜釣十六「楽園」137枚(「太宰治賞2016」筑摩書房)

 一気に読んだ。読ませる作品である。適度の軽さと適度の濃さが混ざり合った文体。適度の通俗性と適度の文学性を兼ね備えた語り。そして現代と過去とが響き合った物語。
 主人公、橘圭太、30歳。身長180センチのラグビー少年だったが、監督の指導方法についていけずに退部。女子率7割の福祉系大学で大いに楽しんだが、老人ホームでの実習が始まるや脱落、卒業だけはしたが、資格は取れなかった。警備員として働きつつ、その稼ぎをパチンコにつぎ込み、借金まみれ。親元からも追い出された。
 そこへ祖父からハガキが届く。母の父親らしいが会ったことはない。何やらを受け継いでくれという。少しでも金になるならと訪ねていく。
 ところがその場所たるや、安部公房の「砂の女」の舞台のようなところである。絶壁に囲まれた盆地、方々に廃坑があるが、どれも行き止まり。来るときに通ったトンネルがあるのだが、戻ろうとしたら戻れない。
 閉じ込められてしまった。老人が一人、祖父と名乗るが、祖父にしては若すぎるような気がする。受け継いでほしいのは、ここで育てている月下美人なのだという。金にもならないものなど欲しくもないので逃げ帰ろうとするのだが、逃げ道がない。
 やがて老人は東南アジアの某植民地での憲兵としての経験を語り始める。
 一度は脱出に成功するが、なぜか老人の話に惹かれる圭太は舞い戻る。最後に明らかになるのは、老人は圭太の祖父ではなく、戦後生まれの団塊世代で、その閉鎖された盆地に昔あった炭鉱町の生まれで、戦後7年経って南方からやはりその盆地に戻ってきた圭太の祖父と、子供時代に面識があった。老人は炭鉱町の貧困から抜け出し、企業戦士として世界中を飛びまわっていたが、52歳で妻に先立たれてから虚しくなって盆地に帰ってきた。そこで圭太の祖父と再会し、十数年を自給自足でともに暮らし、彼の南方での経験を受け継いだ。そして、本人が死んでしまったいま、それを圭太に受け継がせようとしている。
 月下美人は圭太の祖父が南方から持ち帰った苗なのだ。

 話の最も肝心なところは圭太の祖父が植民地で日本軍憲兵としてやってきた内容なのだが、それを語るのになぜこのような複雑な手続きを必要とするか。それはそういう方法でしか語れないからなのだ。作者は28歳のお嬢さんである。だから彼女は知ったかぶりをすることをやめた。伝聞の伝聞として語ることにしたのである。
 ある日祖父は原住民の影絵芝居に惹かれ、その平たい人形を売ってくれと頼む。
 <どうぞ差しあげます。お代は結構。そのかわり、あんた方が死なせた島の人をひとり残らず生き返らせたうえ、お仲間をつれてこの島から出てってちょうだいよ>
 祖父はその女を殴りつけた。その女はのちに他人と間違われて処刑されたという。
 実際に語られているのは、南国の生き生きとした情景を含めても、わずかなことである。それを語るのが小説の役割ではないからだ。いまどきネットを検索すれば、どんな知識でも手に入れることはできる。経験していない人間が伝聞で書くことには意味がない。だから作者はわざと伝聞の伝聞にした。作者が表現しようとしたのは、伝えるべき内容であるよりも、むしろ伝えるという行為そのことの意味である。そしてそこにひとつの豊饒な物語世界を紡ぎ出したのだ。

 圭太という人物を必要以上に描こうとしない作者は、このいいかげんな生き方をしている青年が老人の語りに惹かれていく心の動きに、いまいち説得力を持たすことができていない。そこは少し気になるのだが、しかしわれわれ読者自身がその話に引き込まれていく以上、それはあまり問題にしなくてもいいような気がする。
 気になると言えば、老人が圭太の祖父の経験を受け継ごうとした動機も、充分に書けているとは言い難い。
 それもこれも作品として不十分な点なのだろうが、この短い作品の中でこれだけの世界を描き上げたのは、やはりまれな才能であろう。
 最後はその盆地近くの村で開業しているシングルマザーの女医(老人の娘で40歳くらいなのだが)に対する圭太の恋心をほのめかしつつ、人生をやり直そうとする圭太の決意を描き出して終わる。なかなか心憎いのである。
 月下美人が開く場面。
 <抱擁から放たれたつぼみの先が、ほう、と吐息をもらしてほどける音を、圭太は聞いた。グロテスクな生き物を思わせるつぼみは、冷たい月の光を浴びながら大輪の白い花へと変貌をとげた。一輪の花から溢れる芳香で夜が濡れる>

「民主文学」17年3月号

 青木陽子「北横岳にて」

 せつない作品である。癌を切除して、抗がん剤と放射線治療を一年続け、一段落したと思ったら転移が見つかった。あと何年生きられるのだろうか。誰しもそこでいったん立ちどまる。しかしそこで終わってしまわないのが、青木陽子である。
 <自分の命が後いくらも残されていないのかもしれないと、そう思う瞬間が来れば、誰だって、どうしたって、そのことを見つめてしまう>
 <私はどうする、と思った時、何かしら、ふっと風が吹いたような気がした>
 <自分の命がたとえ後一年であるとしても、十年だとしても……百歳近くまで生きるのだとしても、生き方は同じ。明日からやることも同じ>
 <取り組もう……出かけよう……見つめ直す。そしていい小説を書きたい>

 渥美二郎「この夏も歩く、歩き続ける」

 いつにも増して軽快なジロ-ワールド(多少やせ我慢的にも見えるが)。15年夏、戦争法反対で歩きまわった人々もいまはどこかに消えてしまった。だが、ジロー先生は16年夏も歩く。ポケモンGOで歩くのだ。漱石の「猫」と張り合うごときユーモアセンスに笑いがとまらずに読んでしまう。だが、含意は深い。
 ハリガネムシはカマキリの体内に住んでカマキリを操り自分の行きたいところへ行かせる。ポケモンGOが人々を操って行かせる先は、マクドナルドや何やかやというスポンサーたちのところなのだ。
 だが、若いころマイノリティを自負していたジローは、いまやマジョリティであることをためらわない。インテリぶって大衆を見おろしていたって、運動は前には進まない。
 <この夏も、この夏が終わっても、僕はiPhone片手に歩き続けるだろう。ポケモンGOをやるために歩くのではなく、歩くためにポケモンGOをやるのだ>

 斎藤克己「銃を持つ思想」

 <九歳になる長男のためにモデルガンを買った。長男のためというのは口実で、私がほしかったのだ。銃嫌いの妻にとやかく言われないために、もうひとつ口実を用意した。鴉だ……こいつら、生かしちゃおかねえ>
 うまい書き出しである。こういう作品を「民主文学」にもっとほしい。
 武器を持って、使いたくてたまらなくなった男の話で、もちろんいまの日本の軍備を風刺している。だが全体が書き出しのようにうまくいったかというと、少し不満がある。
 男が子供だった時の銀玉鉄砲の話とかが出てくる。出てきてもいいのだが、そこが風刺調から外れてなんだか懐かしげに長々と続く。男が懐かしがるのはかまわない。もちろんそうであってしかるべきだ。ところがどうも作者の方が懐かしがってはいないか。作者だって人間だから懐かしがってもいいが、それが作品に現れてはまずいだろう。
 こういう作品ではテンポが大事だ。最初から終いまでムードが統一されていなければならない。途中が変に写実的になったりしては破調になる。
 だいいち、鴉が途中からどこかへ飛んでしまった。鴉は最初から口実だったにしても、<こいつら、生かしちゃおかねえ>と本気で怒っている。それをちゃんとストーリーのなかに組み込んでほしかった。
 タイトルはどうだろう。作者の意図が生のままに出ている。少し興覚めではないか。ほのめかすようなタイトルのほうがよかっただろう。
 しかし、いい作品である。

 浜 比寸志「彼岸花」

 これも癌の話、最後のひとつもそうで、作家たちがみんな老人になったのでやむを得ないことなのだろうが、残念ながらこのひとつは記憶に残らなかった。どれも同じような話になるので、そこに何かその作家ならではの個性がなくてはなるまい。
 短い中にいろんな患者が出てくる。先に出てきた患者の話はそこだけで終わってしまう。見ようによってはドストエフスキーの「死の家の記録」(シベリア徒刑囚の群像劇)のようにも見えるが、なにぶん短い作品なので、誰か一人の話に絞るべきだった。

 一箇所校正ミス。
 54ページ下段、終わりから三つ目の段落。
 <それ以上の不幸があってはならないようにというのが悠介の思いだった>
 正しくは、
 <それ以上の不幸があってはならないというのが悠介の思いだった>
 もしくは、
 <それ以上の不幸がないようにというのが悠介の思いだった>

 大浦ふみ子「谷間にて」

 短編というのはなかなか記憶には残らないが、この人の名前はその短編とともにぼくの記憶にあった。ブログ内を検索したら出てきた。

 大浦ふみ子「佐世保へ」(11年8月号)
 この作品はジッドの「狭き門」を連想させた。お互い思いを抱きながらお互いの誤解から食い違う男女、しかも、作者は誤解だと書かないのに読者はなんとなく分かって、はらはらさせられる。心憎い作品である。


 というのがそのときブログに書いた感想だ。「民主文学」の感想を書き始めた第一弾である。話の詳しい内容は忘れたが、大人の恋愛感情を見事に書き出していたと思う。うまい作家だと思った。6年前である。その後「民主文学」に登場したかどうか、ぼくもあまり真面目な読者ではないのでそれも記憶にない。

 今回の作品は、高齢の男性医師二人の対話を中心に語られていく終末期医療の話である。一人のほうが癌になり、ごく若いときからの親友であるもう一人に、「いざというときにはけりをつけてくれるか」と大昔の口約束を思い出させる場面から始まる。医学生時代に共に行ったケニアのトゥルカナでの医療活動を思い出しながら、話は安楽死、尊厳死、臓器移植から優生思想へ、さらに出生前診断による妊娠中絶の話にまでも及んでいく。話し相手は妻の兄だったり、妻だったり、トゥルカナ会の医者たちだったりするのだが。
 非常に重い内容にそれでも読者を引き付けるのは、話が一般論としてではなく、自らの死を意識し始めた医者が、一般論としてしか語らない人たちに対して、自分の内面から突き動かされる言葉で語っているからだろう。
 問題は絡み合っていて単純ではない。しかし少なくとも、政治権力がそこに関係してくることに対しては警戒が必要だということを主張している作品である。

 ただ一点。主人公の孫娘は、保育士を何年かやった後アフリカに行き、帰ってきて大学院に入り直している。すでに20代の後半だろう。とすると主人公はいったい何歳なのか。作品から受けるイメージが若すぎる感じがする。とはいうものの、自分の齢を考えてみると、従来小説で読んできた年寄りのイメージにはまったく合わないなと思うし、小説で読んできたのは若い作家の目から見た高齢者だったのかもしれない。つまりこの小説のイメージのほうが本当なのかもしれない。

 仙洞田一彦「忘れ火(第三回)」

 連載小説は読んだことがないのだが、仙洞田さんなので読んでいる。ところがなにか少しおかしい。文章のうまい人だというのがいままでの印象だったのだが、今回はじめからおかしい。特にその月の書き出しがいつもまごまごして、終わりころにやっと調子が出てくる。毎月そんな感じだ。連載小説というのは書き方が難しいのだろうか。

 ところで校正ミス。
 163ページ、上段、終わりから三行目、<片岡は笑みを浮かべながら>
 同ページ、下段、真ん中へん、<片岡はにやにやしながら>

 これはどちらも<片岡>ではなく<白井>だろう。

 今月号は校正ミスが目立った。基本的には作者の責任だろうが、雑誌の価値から言えば、編集も少し気を使う必要があるだろう。
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