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「異邦人」と「もうひとつの異邦人」

 ずっと抱えていた諸々にいちおう一区切りついたので、「異邦人」を読み直した。若い頃に何度か読んだが、最後に読んでから40年以上になる。土曜日に「まがね」で取り上げるので、久しぶりに手にした。
 むかしは少しでも小説に興味を持っている人で「異邦人」を読んでいない人を見つけるのは難しかったが、いまの人はわりと読んでいない。どういう感想が出るか、まったく予期できない。
 いま読んでもやはり名作だ。何百年経っても残る名作だと思うのだが、どうだろう。
 何度読んでも謎の残る作品である。よくわかるように完全に説明しろといわれても出来ない。
 たぶん、パートごとに分けて理解するのが捉まえやすいと思う。
 第1部は、葬儀の場面と、そのあとの展開とに分ける。第2部は三つに分ける。裁判と、刑務所生活と、そしてラストの司祭との対決だ。
 それぞれの場面に、何百枚も書いて説明しなければならないような内容が、それぞれ、別々に詰め込まれている。非常に凝縮された作品である。400字詰めに換算して、たぶん300枚くらいしかない。薄っぺらな文庫本一冊だ。
 今回、特に印象深かったのは、主人公の出会う人々、目にする風景、あるいは思い出のなかのそれらが、まことにきめ細かく丹念に書き込まれていること。その点では文学の伝統をきちんと受け継いでいる。これが小説だと思う。小説にはこういう細部のリアリテイが必要だ。われわれはこれがなかなかできないから小説にならない。
 じつは「異邦人」で、ひとつだけずっと引っ掛かっていたことがあった。
 ここに書かれているのは、フランス帝国主義の側の人間が、その支配地のもともとの住民を撃ち殺すという話である。アルジェリア人の側から読んだら、これはどういう話になるのか。
 50年来のこの引っ掛かりに解答を与える本がどうやら翻訳出版された。
「もうひとつの異邦人 ムルソー再捜査」カメル・ダーウド 水声社 2200円。いまからこれにかかる。

池戸豊次 「水のまち」 一粒書房 2019年 1500円

 収録作品
「鹿を殺す」25ページ
「春の獅子」29ページ
「水のまち」39ページ
「憂いの王」69ページ
「寒晒し」 40ページ
 合計   202ページ

 ページ数はそれぞれの作品の(タイトルを除いた)所要ページ数。400字詰め換算では全体で283枚とあとがきに書いてある。ページ数の4割増しくらいが400字詰め換算枚数だろう。
 それぞれを完結した短編としても読める。連作作品なので、全体をひとつの中編小説として読むこともできる。
 作品は、2006年の冬に始まり、春、夏、秋ときて、2007年の冬で終わる。
「憂いの王」だけは秋の数カ月に及ぶ話だが、あとはほとんど一日か二日の話である。読んでいて一日の長さに驚いてしまう。作者は長い物語を一日のなかに凝縮する。決してだらだらと書かない。
 作者は1962年の生まれだから、この作品の年代のときは44歳。主人公たちは、それより10歳くらい若い。
 直次 38歳
 キシ 35歳
 いろんな読み方のできる作品だが、全体を通すと、この若い夫婦の恋愛小説としてだけ読んでも、十分に堪能できる。だが、もちろんそれだけではない。
 はじめにあらすじを大雑把に見てみよう。

 ところは岐阜県郡上八幡に近い山村。にぎやかな観光地から曲がりくねった山道を延々と上がっていったところ。しかし、商店街があり、スーパーマーケットがあり、病院らしきものもあるようなので、それなりの村ではある。
 主人公直次は、ここで水道工事屋をしている。妻キシは裏方いっさいを引受けている。子供はいない。忙しいときは職人を雇う。父親は炭を集めて卸す営業をしていたが、時代が変わって水道屋に転身した。十数年前母親が50歳で亡くなり、それまで名古屋で会社勤めをしていた直次は帰ってきて父親を手伝い、いま脳梗塞で入院した父親に代わって切り盛りしている。
 母は若いとき郡上八幡の役場に勤めて、その地で食堂を経営している家に下宿していた。郡上八幡には親戚もいて、母は結婚して直次とその姉を生んでからも、しばしば郡上八幡に連れていき、世話になった家にも立ち寄った。その家に孫娘がいた。神戸で生活しているが、夏休みになると実家に預けられる。これがキシである。三歳違いの二人は小学生のころ一緒に遊んでいた。
 1995年、神戸は震災で壊滅する。キシは24歳である。婚約者がいた。その二人の間に一波乱あって、(何があったかはご自分で読んでください)、傷心のキシは郡上八幡にしばらく滞在する。翌年、春の祭りにも来て、直次と再会、三年間の遠距離恋愛ののち、結婚、大都会神戸を離れて、山村での生活が始まる。

 というのが、あらすじというよりも、この物語の設定である。そこから話は始まる。過去のもろもろのいきさつは、そのつどそれぞれの作品のしかるべき箇所で明かされる。
 というように、ときたま過去に帰りながら、しかし、小説そのものは日々の出来事、あるいはただ一日だけの出来事を記していく。これは過去を書いた小説ではない。2006年の現在を書いた小説である。過去は重要な意味を持っているが、それが現在に照り返してくる限りでの意味であり、常に現在というトーンのなかで話は物語られていく。
 どういう物語か。
 生活の物語だ。山村の水道屋の労働と生活の日々が綴られる。書かれているのはほんとうに日常的なことである。だが、この作家の手にかかると、日常が芸術となる。
 この作家の世界には、色彩がある、音がある、手触りがある、臭いがある。描き出される世界が濃密なのだ。
「鹿を殺す」は2016年9月号の「民主文学」に掲載され、ぼくはそのときだけで、この作品を3度読んだ。あいだの3作品は初めて読んだが、最後の「寒晒し」が「民主文学」の19年度新人賞佳作となったので、そのとき「鹿を殺す」をまた読みなおした。4度目である。そして今回本になって初めから読み直したので、「鹿を殺す」は都合5回読んだことになる。
 読んでみたら読者も感じるかもしれないが、「鹿を殺す」の書き出しは、決して器用な文章ではない。ちぎって投げたような、ぶっきらぼうな文章で、初めて読んだとき、下手な文章だと思った。ところが読み進むにつれて、冴えわたってくる。
 3年前、このブログに感想を書いたとき、作中からいくつかの文章を紹介した。今回、それは繰り返さないので、もうひとつ別の文章を取り上げてみよう。
 認知症の老婆が川でおぼれたときのこと。
 <あの日、老婆が行った小屋には何も無かった。以前は田起こしの機械や田んぼの肥料が入っていたが、もう何年も前に稲作は止めてすべて処分していたのだ。床に古い筵がしかれただけの空っぽの空間を自身の頭の空洞のように見回して、激しい恐怖と孤独を老婆は感じた。豪雨がトタン屋根を叩き始めると箱をたたかれた小動物のように外に飛び出て、濡れて重くなった服で、水があふれる水路をまたごうとして足を滑らせて流された、と暗く想像した>
「寒晒し」からも一箇所だけ引用する。
 <雪はすべての色彩を奪ってしまう。山も田畑も家の屋根も、何も描かれていない画用紙のようにしてしまう。そんななか、赤く染まった地蔵の姿は、赤鉛筆の先っぽのようになって、直次の脳を突っついた。(中略)そのとき、「お前はどこに行くのか?」と真ん中の一番大きな地蔵が喋った。幻聴か。やはり俺は今、普通ではないのか>
 うまい文章だが、うまさが大事なのではない。もちろんテクニックは必要だが、それによって表現されているもののほうがより大事である。
 作品の基調となっているのは、生命である。鹿の生命、猫の生命も含めて、作者は生命を描き出そうとする。生命とは何かと理屈で問おうとするのではない。生命を生命として描き出し、これが生命だと読者の眼前に差し出す。

 夫婦が生活し、働いているのは、村の閉ざされた共同体のなかである。直次はここで生まれ育った。お寺のトイレを修理しに行くと、そこで出迎える奥さんは、むかし小学校で鉛筆の持ち方を直してくれた恩師である。認知症の妻を大雨のとき川で失った炭焼きのじいさんは、かつて父がその炭を購入していた相手である。
 直次が所属する消防団はときおり寄合いを持ち、頼母子講の定期的会合もある。
 一方、一歩出れば村人たちの視線にさらされる。荒物屋のもと子は放送局で、「人の心に土足で踏み込んでくる」。
 直次にとってはこれが自分の住む世界だ。だが、神戸育ちのキシには時にそれが疎ましい。「なぜほっといてくれないのか」「なぜ監視し、干渉するのか」
 共同体に慣れ親しんでいる直次と馴染みきれないキシとの葛藤がある。

 3つの作品は直次の視点で書かれるが、「春の獅子」と「憂いの王」とはキシの視点である。男性作家が女性の視点で書き、女性作家が男性の視点で書くというのは、プロの作家では珍しくないが、同人誌作家が書くと、たいてい違和感がある。難しいのだ。読者の先入観をうまくかわせない。
 この作者は成功している。まったく違和感がない。なぜだろうと考えてみた。
 直次は作者の若いときをモデルにしたような人物と思えるが、それを視点人物にして書くときにも、作者は直次に同化しすぎない、どこか突き放したような目で直次を見ている。視点人物と作者の距離の取り方に、直次を視点人物にしてもキシを視点人物にしても共通したところがあり、それが成功しているのではないか。
 その上にまた、この作者は女性の心のひだを見事にとらえているように、男のぼくは感じる。女性読者はどう読むのだろうか。

「憂いの王」は村芝居の話だ。
 だが、それに入る前に、直次が詐欺にひっかかる話がある。関西から流れてきて古家を買い取り改装するということで、水回りを中心に、大工への外注まで段取りして完成させるが、注文主は代金60万円を払おうとしない。人のいい直次ではいつまでも解決しない。キシが、偶然のことから弁護士に知恵を借り、それを武器に、これまた偶然つかんだ、相手の弱みに付け込んで、とうとう分割払いを承知させる。この場面のキシの姿はテレビドラマを見るようで痛快だ。
 さて、芝居である。郡上に実際にあった百姓一揆の話で、郡上八幡の民芸館の主人水上が脚本を書いたということになっている。
 直次が殿様を演じ、日系ブラジル人の若い女性が殿様と恋仲になる町娘を演じるはずだったが、その女性が妊娠して、急遽、キシが代役になった。この章の後半、現実と芝居の中身とが交差するような形で進んでいく。これもなかなかうまい。
 この脚本を水上が書いたという設定になっている。だが、その前、水上が江戸時代の文書を講義する場面に関して、作者はあとがきでその文書の引用元をあきらかにしている。そこから見て、この脚本が他人のものなら作者は当然その旨を断るだろうから、これも作者自身の作品なのだと思われる。
 この章が連作中最も長く、おそらく400字詰めにして百枚くらい。キシの視点で書かれ、ドラマチックな仕上げになっている。

 最後の「寒晒し」は「民主文学」佳作になった作品から、かなりの部分を削除している。佳作になったときの選評で、すべての審査員がこの作家の才能を認めたが、「鹿を殺す」と重複した場面があることを問題にした。今回その部分を取り除いてすっきりさせた。全体がひとつの小説として無理なく読める内容に整理されている。

 全体を通して強く感じるのは、描かれているのが日常生活であり、周辺の平凡な人々である、ということ。
 で、ありながら、そこにはじつに濃密な時間が漂い、ありふれた世界を、ありふれていないもの、オリジナルものにしている。特に凝った文体を使うわけではない。しかし、時にその切り口の鮮やかさが、見慣れたものを新鮮なものに変換させる。
 郡上八幡の季節々々の祭りや行事を巧みに織り込みながら書き進み、郡上八幡と周辺の様子を丁寧に描写しているので、観光案内としても読める。帯に書いてあるとおり、読むと「郡上に行きたくなる本」である。

 直次の視点と、キシの視点を交差させることで、共同体の正の側面と負の側面とを複合的に描き出した。この点は特に注目に値する。

 ここに紹介しきれなかったが、さまざまな人物が登場して、さまざまな情景が繰り広げられていることを付け加えておく。
 1点だけ苦言を呈する。誤字脱字が多少目に付く。立派な本にしたのだから、校正だけはきっちりやってほしかった。

発注先 一粒書房
    〒475-0837 愛知県半田市有楽町7-148-1
    TEL 0569-21-2130

マタイとルカ

 高原さんのコメントを公開しました。コメント欄でクリックしてください。多少わかりにくいかもしれませんが、以下のような内容です。
「失われた夜のために」の第6章、主人公とキリスト教の女との対話のなかでふれたマタイ第5章、「心の貧しいものは幸いである(Blessed are the poor in spirit)」の解釈について。
1、女の解釈が正しく、今回、石崎が提出した新たな解釈は、それを単に敷衍したに過ぎない。
2、ルカ第6章20節では、「あなたがた貧しい人たちは(Blessed are you who are poor)」となっており、某牧師の提示したという経済的貧しさという解釈も間違っていないかもしれない。

 むかし、聖書を読み始めたころ、「ルカが一番わかりやすい」と言われてルカから読んだのを思い出す。50年間読んでいないので、みんな忘れてしまった。
 いまめくってみると、たしかに同じ場面のように思える。ただそれを伝えた人が、マタイかルカかの違いだ。イエスその人の思想というのはわからない。伝えた人々の思想だ。ルカで、「飢えている人たちは幸いだ(Blessed are you who hunger now)」となっている箇所も、マタイでは「義に飢えている人たち(Blessed are those who hunger and thirst for righteousness)」となっており、大きく意味が異なっている。それぞれをそれぞれとして解釈するしかないだろう。

高原さんへ

 マタイ伝へのコメントありがとう。この問題は興味を持っておられる方がほかにもおられるので、公開したいのですが、非公開が指定されているので、公開できません。
 できたら非公開を外してください。

「民主文学」2019年 11月、12月

 11月号は全部読んだのだが、2ヶ月近く経って内容を忘れてしまった。どれも面白かったという記憶はある。だが、記憶力が著しく減退している。請御容赦。
 最上裕「波濤の行方」だけは少し印象が残っている。これは前作「オルモックの石」の続編ともいうべき作品で、前作ではオルモックで戦死した伯父の行方を追って、防衛庁まで出向いて資料を探す、という執念の作品だった。今回はそれをフィクションに仕上げている。捜す過程ではなくて、戦地における伯父の姿をフィクションで作り上げており、臨場感のある作品に出来上がっている。一読の価値あり。

 12月号は支部誌・同人誌推薦作品特集である。
 支部からの応募、28。支部外から、11。内、小説、37。
 最終選考に、16。優秀作、1。入選作、3。
 最終選考通過作の内、支部誌、11。その他、5。
 優秀作、入選作、ともに支部誌であった。

 支部誌が多少優遇されるのは、結社としての性格上やむを得ないだろう。
 また、入選作がいちおうのレベルをクリアしているのは認める。しかし、それにしても不満は残る。今回、「樹宴」からも、「まがね」からも推薦作を提出したが、どちらも最終選考16編に入らなかった。入選作のレベルから見て、最終選考通過作品が、われわれの推薦した作品よりもそんなに優れているとは思えないのだが、という無念がある。
 しかし、小説というものは読者の好みがあって、一次選考は何人かが手分けして読むのだろうから、当たり外れというのはある。
 ということで納得するしかないだろう。

 優秀作、渡部唯生「歴史の吐息」
 若い人の作品である。
 左翼活動家のたまり場になっている居酒屋が、じつは戦前はキリスト教の教会で、天皇制の戦時下体制で弾圧された。その地下室からオルゴールが出てくる、という話。多少作り過ぎの感はあるが、面白い設定である。小説つくりの出来る若手と思える。
 だが、そこにいたる導入部がつまらなさ過ぎた。面白い話に入る前に読者は投げ出してしまう。小説のポイントは後半にあるのだから、それを生かす構成にすべきだった。後半の面白さに対して、前半の愚痴っぽい部分がいかにも浮いている。全部カットだ。
 タイトルもふさわしくない。面白さを表現できていない。読んでみれば実際面白い話なのだ。タイトルと前半とで損をしている。

 馬場ひさ子「冬芽」
 ぼくならこれを優秀作に推す。
 不登校がテーマである。不登校はもはや現代の最も緊要なテーマのひとつと言えるだろう。
 作者は、不登校の原因も解決策も示すわけではない。当然だろう。現実に原因も解決策も見いだせないで大勢が悩んでいる。それを一篇の小説で解決することなんかできるわけがない。
 小説の役割は解答を与えることではない。問題を提出し、みんなに考えてもらうことだ。
 ここに提示されるのは、ひとつのケースである。問題はひとつひとつ異なる。すべてを網羅することはできない。提示されるのはあくまでもそのなかのひとつだ。だが、おそらくそのひとつのケースのなかには、他のケースにも当てはまるかもしれない普遍的なものが含まれている。
 小説とはそのように書かれるものだろう。個別性を取り除いてしまったら、それはもはや小説ではない。ひとつの個別的なものを個別的なものとして描き出すことで、そこにおのずから普遍的なものが立ち現れてくる。
 文章がいい。相当書きなれた人の文章だ。すぐれた文章はそれを書いた人の人間性までも表現するところがある。
 加えて、いい文章にはゆとりがある。しゃちこばっていない。遊びがある。そしてユーモアがある。
 ユーモア? 切迫していないのか?
 現実は切実なのである。原因もわからず、解決策もわからず、子供は不登校のままどんどん齢を取っていく。せっぱ詰まっているのが現実だ。みんなほんとうに悩んでいる。
 しかし、だから、暗い小説を書けというのは違う。暗く書いても問題が解決するわけではない。だとしたら、暗く書く必要なんかない。どんなに問題を抱えていても、人は日々を生きていかねばならない。暗い顔ばかりして生きていくわけにはいかないのだ。

 小学5年生くらいから不登校になり、いま、中学2年生の男の子。学校に行かずにゲームばかりするので、母親はさじを投げて、ばーちゃんが預かっている。ばーちゃんは作者とおぼしき年ごろに思える。作者は1952年生まれである。
 その子の母親である娘から、スマホとゲームは与えるなと言われていたのに、じーちゃんはゲームのひととおりのセットを買ってくる。大きな画面に映し出して、ネットで世界中のゲーマーとつながって、会話しながらオンラインゲームができるという代物だ。
 じーちゃんと娘とが大げんかする。それをばーちゃんが横で見ている。この場面は圧巻である。
 娘は、少年がすでにゲーム依存症で、これにゲームを与えるのは麻薬患者に麻薬を与えるようなものだ、「パパは悪魔だ」と責めたてる。
 じーちゃんは、「おまえが厳しすぎるのがよくない、一生ゲームをするなんてことはありえない、やりたいだけやらせてやれば、そのうち飽きる、おれはこの子を信じている。だいたい現代は何にでも病名を付けて、話をややこしくする。病気ではないのだ」という。
 二人はばーちゃんの目の前で、激しい言葉でやりあう。それを見ながらばーちゃんは、この父と娘とはこういう性格がまるでそっくりなのに、二人ともそのことに気づかずに、自分とそっくりの相手の性格を責めている、ということをおかしく思う。
 ここが素晴らしくユーモラスに描かれている。深刻な話なのだが、その深刻さのなかに作者はユーモアを忘れない。この父と母と娘とのあいだに醸し出されるいかにも家族的な雰囲気がすばらしい。
 これを深刻な家庭内対立と受け取るのは間違いだ。どの家庭にだって意見の違いはある。それをお互い気を使いすぎてなかなか表に出せないことが多い。この二人は信頼関係があるからこそ、まともにぶつかりあうのだ。
 ばーちゃんは孫を決して甘やかさない。彼を責めることはしないが、「おまえはうちの居候なのだから、うちのルールに従え」と言って、朝は早く起こし、「日本人だから朝は味噌汁を食え」と言って食べたがらないものでも食べさせる。ひいばーちゃんが入っている老人ホームにも毎日通わせる。そこはすぐ近くなのだが、わざと遠まわりして行けという。体力の衰えを回復させるためだ。毎日ドリルをやらせる。そのあいだゲームはやらせない。どのみち、クラスメートが学校に行っているあいだは、オンラインゲームをする相手がいない。
 ところが、午前中から、相手ができたのでゲームをしていいかと言い出した。不登校の相手を見つけたのだ。この一家は横浜に住んでいるが、相手は山形と宮崎だという。声は聞こえるが顔は見えないので、子供だという保証はない。大人がなりすましているのではないかとばーちゃんは疑う。だが、聞こえてくる声は子供らしく聴こえる。
 会話を交わしながら、協力しあって画面のなかの敵と戦う。
「アップルさん、その建物の影にいるから気をつけて、あー、やばい」「これはおれがやる」「まじやばい」「アップルさん、ドラゴンさん、まじ申し訳ない」といった調子で、瞬間的に判断しながら、猛スピードでコントローラーを操作していく。「まじ」と「やばい」の連発だ。
 こういうところをこの作者はじつに具体的に書いていく。少年たちの姿がほうふつとしてくる。ラストはこんな感じ。
 <今日、天気予報ではアップルさんの住む山形は大雪注意報が出ており、反対にドラゴンさんのいる宮崎は晴天、と伝えている。タケルと私がいるこの横浜には乾燥注意報が出ている。そして、タケルの部屋には「アップルさん、危ない! ドラゴンさん、フォローしてくれ。そっちはおれが倒す。ぎゃあ!」と危うげな変声期の声が響いている>

 まさに名作というべき。
 ただ一点。この作品も書き出しがもたついている。不登校生を集めた学校に孫を連れてばーちゃんが見学に行くのだが、この学校は結局解決にはなりそうもなく、二度と出てこない。まったく不必要な場面とは言わないが、少し読者を退屈させた。ここは書きなおしてほしい。

出生地

 両親に関する書類を調べていてもうひとつ判明したのは、我々姉弟3人の出生地である。それがすべてばらばらだ。
 姉は左京区下鴨貴船町、ぼくは左京区一乗寺松田町、弟は上京区紫竹桃ノ本町。
 ばらばらだが、すべて京都市内である。
 両親の結婚は1941年12月17日で、真珠湾攻撃の直後である。半年後には軍隊に招集されている。さいわい内地勤務だったが、いつ習志野に赴いたのかは不明だ。少なくともこの時点で足利生活は終わった。母は京都に帰ったのだろう。
 戦争が終わり、父も京都に帰ってきて、市内で住むところを転々としていたようだ。敗戦当時の落着かぬ世情が眼に浮かぶ。
 その当時、両親はまだ30代になったばかりである。出生以来、二人とも日本列島各地に住まいを移動し、どこが故郷とも知れぬ生活を強いられた後、40歳を間近にした1953年、何のゆかりもない福山に、たまたま草鞋を脱いで、やっと落ち着いたということだったのだろうか。

 両親とも亡くなったいまになって、彼らの人生にわずかながら、思いをはせている。わからないことばかりなのだが。

両親の履歴

 必要があって、両親の履歴を調べていて、いろんなことが分かった。何となく知っていたこともあれば、今回初めて知ったこともあった。他人には関係のないことだが、備忘録として記す。
 父の本籍はもともと富山である。富山県富山市稲荷となっている。ぼくは富山に一度も行ったことがないので、それがどのへんなのかさっぱりわからない。とりあえず、石崎の祖先の地なのだろう。
 生まれたのは、岐阜県吉城郡船津町鹿間、それもどこなのかわからない。父の生まれた時、その父親はすでに死んでいたので、これはたぶん父の母親の里なのだろう。岐阜県生まれというのは初めて知った。
 13歳で旧制中学校入学。尋常小学校の卒業が12歳だとすれば、高等小学校に1年行ったのだろうか。静岡県立沼津中学校。ぼくの行ったことのない県ばかりだ。これは母親の再婚にともなって母親の手を離れ、石崎の唯一の相続人として、このときまで、母親の兄弟の家庭で育ったのである。その家はもちろん石崎ではないので、家族の中で一人だけ石崎だった。
 翌年、富山県立富山中学校へ転校。父の父方の祖母が、富山でまだ生きていたらしい。
 18歳で卒業。旧制中学は5年制だ。
 同年、京都高等工芸学校図案科入学。
 4年後、22歳で卒業。
 同年、栃木県立足利工業学校教諭として赴任。
 これも初めて知った。卒業後は京都で教えていたのだと思っていた。沼津と足利とは両親の会話にしょっちゅう出て来たのだが、それが彼らにとってどういう土地なのかは聞かずじまいだった。
 足利の書類が今回初めて出て来た。京都高等工芸の教授が足利工業の校長あてに送った推薦状である。その宛先の校長の名前が、なんと、ぼくの母の父親だ。父が母の父親の教え子だというような話は聞いていたが、教え子ではなく、校長と教諭の関係だったのだ。
 母の父親が足利の校長だったというのも初めて知った。
 同年、陸軍第一補充兵役編入。これはまだ予備役で、実際に軍隊に入ったわけではない。
 2年後、校長の一人娘と結婚。父もひとりっ子で、石崎には江戸時代までさかのぼらねば石崎を名乗る人間はいないから、旧民法のもとでは、戸主である。校長のほうも一人娘だから、本来婿養子を取らねば、その家は断絶してしまう。にもかかわらず、その結婚が成立したのは、その校長が分家せずに、その兄の戸籍にぶら下がっていたからである。
 その事情は母を語るときに語る。
 結婚の翌年退職。ついに兵隊にとられたが、運良く、習志野の高射砲部隊で済んだ。
 だがこの戦争では、両親とも父親を失っている。
 母の父親は奉天の満鉄毛織の顧問として赴任していて、ソ連軍に銃殺された。
 父のほうは、沼津で育ったときの実質的な父親というべき伯父(母親の兄)が、フィリピンに向かう産業団の責任者として乗船していた船を、米軍に撃沈されて亡くなった。開戦直後だった。
 敗戦。
 父は京都に帰って、織物関係でしばらく働いたが、労働運動盛んな時代に労組の書記長に祭り上げられてストを打ち、責任をとって退職。十日町のたしか工業講習所と呼んでいた所へ転職した。そのあと、福山の県立工業試験場へ。備後絣のデザインが仕事だったようだ。
 学歴、職歴、兵役歴などはもちろん戸籍謄本には書いてない。なぜわかったかというと、父の履歴書が出て来たのだ。几帳面でなんでもとっておく父だから分かったのだが、この家に来て10年、さまざまな書類を相当ゴミに出した。奇跡的に残っていたのだ。
 福山に住み始めてから何年も経って、1962年に本籍を富山から京都へ移している。福山ではずっと借家住まいだったので、京都の母の実家を本籍にしたのだろう。この当時はいまのように気軽に本籍を移したりしない習慣だった。そこにも日本近代史上の問題があった。
 父が、ぼくらのいま住んでいる家に、本籍を移したのは、1994年である。
 したがって三通りの戸籍謄本が必要なのだが、それがつながっていないので、土地家屋の相続手続きができずに、司法書士がいまだに苦労している。
 ぼくら夫婦の戸籍も京都の結婚したアパートに置いたままで、いまの手続きが済み次第、これも移すつもりだ。放置したまま死んでしまうと、子供たちが苦労する。

 母の本籍は、長野県松本市大字北深志土井尻町、戸籍の筆頭人は、母の父親の兄である。母には、小学生くらいで亡くなった兄がいたので、分家したら将来困るとまでは考えていなかっただろうが、母の父親が若くして故郷を出て各地に転居したようなので、戸籍を兄の下に置いたままにしていたのだろう。
 母が生まれたのは、東京府北豊島郡日暮里町である。母の母親は京都人であるから、おそらくそれまでに母の父親は一度京都で暮らしている。たぶん京都の学校を卒業したのだろう。その地で結婚し、東京に転居していたものと思われる。
 戸籍でわかるのは、そのあと父と結婚したことと、死亡年だけだ。
 ところが学歴のわかる書類があった。むかし一度その書類を見た覚えがある。今回も少し前に見た。ところが手続き上必要な書類を探し始めてみると、その書類が出てこない。
 ぼくの部屋にはさまざまな原稿や手紙の類が散乱しているうえに、町内会の書類、老人会の書類、郷土史研究会の書類などが積み重なり、未整理状態で混在しており、そこに両親の遺した書類が混ざりこんでいる状態で、必要な書類がなかなか見つからない。それで今回戸籍や土地家屋の登記簿を探し始めてから、不要と思われる書類をかなり処分した。そのときに誤って捨てた可能性がある。
 何のための書類だったのか、不明だ。戸籍に学歴、職歴は記載されない。母は勤めたことはないので、履歴書も書かなかったはずである。にもかかわらず、その書類には学歴が記載されていた。
 それによると、金沢で小学校に入学している。金沢には石崎の墓地があり、学生時代に両親と行ったことがある。そのとき母が城下町の入り組んだ道路を迷わず先導したことがあった。そのころにはまだ母の少女時代などに興味がなかったので、詳しく聞くことはなかった。母は金沢に地理勘があるのだなと思っただけだ。
 高等女学校入学は京都だ。ところがこれは何年もせずに中退している。そのあと、たぶんドレスメーカーと読んだと思うが、そこの学校へ行き、そこは卒業している。
 この書類によって、母の育った一家の模様がおぼろげに浮かんできた。それまで母は京都だと思っていたが、そうでもない。思い出してみると、母は関西弁を使わなかった。むしろ標準語に近い言葉だった。母の母親が完全な京都弁だったのとはまったく違っていた。
 言葉。言葉について。それはまた別のテーマだ。

MATTHEW CHAPTER 5

NOW when he saw the crowds, he went up on a mountainside and sat down. His disciples came to him,
2 and he began to teach them, saying:
3 "Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.
4 Blessed are those who mourn, for they will be comforted.
5 Blessed are the meek, for they will inherit the earth.
6 Blessed are those who hunger and thirst for righteousness, for they will be filled.
7 Blessed are the merciful, for they will be shown mercy.
8 Blessed are the pure in heart, for they will see God.
9 Blessed are the peacemakers, for they will be called sons of God.
10 Blessed are those who are persecuted because of righteousness, for theirs is the kingdom of heaven.

 発端は「失われた夜のために」だった。あの下手な小説の次の箇所から始まった。

「経済的な豊かさばかりを求めた結果です。お金がたくさんあればよいのですか。物がたくさんあればよいのですか。そうやってずっとやってきた結果がこれです。お金や物や豊かさが、人々を害し、人々を苦しめています。心の貧しさがこういう結果を生みだしました。物が豊かになるほど、心は貧しくなっていく一方ではありませんか」
「でも」と僕はさえぎった。「たしかどこかに書いてなかったですか……心の貧しきものは幸いなり、天国は汝らのものなればなり……心が豊かになってはまずいのじゃないですか」
 女は声を高めた。
「マタイです。マタイの第五章です。でも、あなたはまったく間違って読んでいます」
「そうかな。心の貧しき者こそ神を求めるのだ、僕はそう読みましたがね」
「それでよいのです。でもそれは自分の心の貧しさを知っている者という意味です。心が貧しければよいのではありません。心の貧しさを知り、自分が神の愛に価しない人間であることを知り、悔い改めようとしている人のことです。何よりも大切なのは謙虚さなのです。そして人々はいまそれを見失っているのです」
 女はそう言って僕を見つめた。まるで、おまえもその一人だぞと言っているように聞こえた。

 この箇所に対して、次のような指摘が寄せられた。
「心の貧しき者」というのは誤訳である、「心底、貧しい者」というのが正しい、これは経済的な貧しさを言っているのであって、精神的な貧しさではない――と主張している牧師がいる、貧しい人たちの地区で活動している牧師である、と。
 納得しがたい説であったが、日本語になる前の聖句を知らないので、誤訳かどうか判断できない。そこで身近なキリスト教徒の何人かに問い合わせてみた。誰からも納得できる回答は得られなかった。

 この聖句は同志社大学の烏丸今出川に、ぼくの入学後に建った学生会館の一階大食堂の壁の高いところに英語で書かれていて、当時から、「どうして心が貧しいほうがいいんだろう」と学生たちの疑問を呼び起こしていた。ぼくはあまり疑問を持たずに、小説に書いたような解釈をしていた。
 今回、清水比庵が高梁教会にこの聖句を詩画として残したというところから、また、比庵の晩年のエッセーに、この聖句こそ自分が歌人として求めるものだ、という記述があるということで、この聖句の意味をめぐって疑問が蒸し返された。

 聖書のもともとの言語がヘブライ語なのか、ギリシャ語なのか、ぼくはそれも知らないわけだが、せめて英語でどう表現するのか知れば、多少はニュアンスを知る助けになるかもしれないと思った。もっとも、ぼくは英語の勉強も放棄したので、あまり助けにはならないだろうという予感もあったのだが。
 あとから考えると、ネットで検索すればすぐに英語訳くらい出て来ただろうが、ぼくはそういう世代ではないので、いきなりネットを思いついたりしない。どこかにギデオン協会の英和対訳の聖書があったはずだ、とはうすうす思っていたが、なにしろぼくの本棚ときたら、何がどこにあるのかさっぱりわからない。いつでも探すのに苦労する。そこでものぐさで、そのままになっていた。
 ところが、ふと、いつも座っているところの背中にある辞書類の並んだ本棚を見ると、ちゃんとそこにギデオン協会があった。

 心は、heartなのかmindなのかsoulなのかspiritなのか、と頭では考えていた。もっとも、そのニュアンスの違いが理解できるわけではないので、正解はspiritだったと知って何かが分かったわけではない。
 けれども、この英文を何回か読んでいるうちに、なんとなく答えを見つけたような気がした。

「経済的な貧しさ」はたぶん間違っている。そういう訳を許す根拠は見当たらない。
 だが、ぼくの小説中の対話の両名のどちらとも、やはり間違っている。

「心の貧しさ」と日本語で表現すると、エゴイストで、自分のことしか考えない、人への思いやりのない、心に美点のない人というネガティヴなニュアンスにとらえてしまう。
 そこがそもそも間違っている。
 poor in spirit とは、精神的な欠乏感を意味するのではないか。充ち足りない思いを抱いている人、何かが足りないと感じている人、心がからっぽだと思っている人、それゆえになにか、充たしてくれるものを求めている人、そういう人のために天の王国はあるのだと。

京都旅行記を終えて

 15回までで京都旅行記が終わったので、1から順番に並べ替えた。読んでもらえるようには整理できていない。自分のための心覚えという感じ。行った先のことはほとんど書かずに、そこまでの道順ばかりを一生懸命書いている。結局、ぼくは名所旧跡にあまり興味がない。街並みや、道や、交通機関が好きなのだ。名所はそのための動機づくりだ。それにいちおう行きました、ということにしておかねばならないし。
 歩く道々に思い出が詰まっているので、旅ももちろん思い出を探す旅になったし、ここに書いたのも半分は過去のことである。自分なりに、自分たちの京都というものを整理できたかなという感じはしている。
 もちろん書いてないことのほうが圧倒的に多い。あの時代については書きたいことはいくらでもある。ぼくの人生にとっての大切なものとなった人々はほとんどその時代の人々だ。いまは失われた人々。だが、彼らと以上の関係は結局その後の人生では得ることができなかった。誰にとっても青春というものは特別のものだろう。しかし、また一方、その後のぼくの人生がちょっといいかげんすぎたということでもある。真摯に生きていなかったので、真摯な人間関係を築けなかった。京都時代は、波乱万丈だったが、それなりに必死で生きていたのだと思う。

京都旅行(1)

 あっという間に10月も終わりに近付き、土、日が中国地区集会。その前に明日は町内会の残仕事。なので、中国地区の準備もあまりできなかった。顔を合わせるだけでも楽しみなので、それでよしとしよう。
 京都の記憶がどんどん遠のいていきそうなので、少しずつ書く。

 初日のことはエッセイに書いた。そもそも、ぼくらの旅行の計画はすべて妻が立てて、ぼくはそれに乗るだけ、いつもそうなので、妻は最初から怒っている。
 京都10日間、というのも妻が立てた。最初は11月に計画していた。それで、中国地区を10月にしてもらった。ところが消費税が10月から上がるというので、急遽、9月に前倒しした。
 旅館はすべて妻が手配した。妻が大津の出身で、大津にいまも親友がいるので、その情報から、草津の宿が安い、ということで、草津に5日、予約のとれなかった日を、堀川下長者町に3日、あと2日は大原の民宿をとった。
 草津と言うから、草津よいとこで温泉に連れて行ってくれるのかと思ったら、それは関東の草津で、滋賀県の草津には温泉はない。国鉄片道410円で、往復でも820円、それを計算に入れてもなお安い宿があるということだった。
 京都から新快速で20分、昔は田舎だったらしいが、南草津に立命館が移ってきたということもあって、学生街+ベッドタウン化で、駅前は高層マンションだらけ、大型商店も多い。若い夫婦が多いようで、行き交う自転車はみな前と後ろに子供を載せる設備がついていて、若いお母さん、お父さんがしょっちゅう子供を積んで走りまくっている。
 しかし、その話は4日目から。とりあえず初日に戻ろう。
 そもそもどこへ行くか決めていない。宿を決めただけである。ただ、なんとなく話し合っていたのは、子供たちも孫たちもみんな京都の観光地に出かけているのに、われわれは7、8年間京都に住んでいたのに、名所旧跡と言われるところにどこも行ってない、なんだか情けないので、遅ればせながら名所をまわろう、ということだった。
 京都駅でバス1日乗車券を買った。600円で乗り放題である。乗り切り1回が230円なので、3回乗れば元を取れる。地下鉄もあるが、南北線と東西線の2路線しかない。とうていうろうろする役には立たない。昔は地下鉄はなくて市電だったのだ。これが縦横無尽に走っていて、たしか乗り切り15円だった。乗り換えればそのつど取られるが、いろんな路線があって乗り換えなくてもたいがいのところには行けた。市電には番号があって、どの番号がどこをどう走るかということはすべて頭に入っていた。その上線路のないところは走らないので、安心だ。バスには乗ったことがなかった。バスはどこに連れていかれるかさっぱりわからないから。
 まず宿に向かう。堀川下長者町。堀川通というのは馴染みのない通りである。京都の広い通りで堀川と五条だけは市電が走っていなかった。だから馴染みがない。そのうえ、下長者町というのがよくわからない。丸太町だ、と妻が言う。うん、それならわかる。府庁と市役所があるのだ、とさらに言う。それはちょっと納得いかない。府庁と市役所とは場所が違うはずだ。それにどちらがどちらか忘れたが、どちらかはデモの終着点である。八坂神社の円山公園で集会をやって、祇園から四条河原町に出、河原町を御池まで上がって、その府庁だか市役所だとかで解散する。これがデモのコースだ。府庁と市役所と両方が堀川丸太町のはずがない。移転したのだろうか。
 そのときは確認のすべもなかったが、後に河原町通りを何度もバスで通るようになって、市役所が河原町御池にあるのは確認できた。府庁はなるほど堀川丸太町にあった。
 下長者町は、丸太町というよりも、丸太町と今出川の中間くらいにあった。下立売と中立売の間だった。

京都旅行(2)

 京都の街は碁盤目状である。X軸とY軸との交点を求めれば位置が分かる仕組みだ。すべての通りに名前がある。通りに名前を付けるという点では、ヨーロッパの都市とよく似ている。異なるのはヨーロッパの都市が放射状であるのに対して、京都は碁盤目でいっそうわかりやすいというところだ。
 京都駅からまっすぐ北に向かうのは烏丸通である。大きな通りだけを言うと、烏丸の西が堀川、大宮、千本、西大路となっている。烏丸に東本願寺、堀川に西本願寺と二条城がある。烏丸通をずっと上がってぶつかったところが北大路で、むかし市電の烏丸車庫があった。ここにいま地下鉄南北線が通り、現在では、南は伏見の竹田、北は岩倉の国際会館まで延びている。
 東西線は、以前行ったときは国鉄二条駅から蹴上までしかなかったが、いま西は太秦まで、東は山科まで行って、なんとそのさき伏見の六地蔵まで南下している。これは路線図を見てびっくりした。だが地下鉄に乗ったのは岩倉に行った一度だけだった。岩倉を語るときが来たら述べる。
 堀川には市電はなかった。大宮と千本とは、四条大宮までは市電が大宮通を走り、そこから北へ行くと大宮通は狭い道になって、市電は千本通のほうへ斜めにずれるのだ。この千本通は娯楽街で、千本中立売には千中ミュージックがあった。なにかというとストリップ劇場である。
 その西は西大路、ここがいちおう京都市街の西の果てということになる。ここから先は嵯峨野になり、嵐電で行くことになる。西京極球場は西大路より西にある。
 烏丸通の東は河原町通。京都商業の中心だ。商店はこの通りに集中しており、烏丸通のほうは銀行や証券会社が多かったような記憶がある。
 東西の通りは京都駅のところが八条。京都駅の南側に九条がある。河原町通りを上がっていくと、五条から四条、三条。この四条から三条が一番の繁華街で、四条通から東へ木屋町を抜けて鴨川を渡れば祇園、八坂神社となる。八坂神社の前が東山通だ。
 河原町の一本西、四条三条間に新京極がある。昔はここが修学旅行のメッカだった。車両の侵入できないアーケード街だ。そのさらに西が寺町通で、昔ここは静かな通りだったが、いまではここのほうが賑やかなようだ。
 と書いてきたのは、西京極と新京極の位置に注目して欲しかったのだ。新京極は京都市街の中心、西京極は市街を外れたところにある。ところが新京極とはもとは東京極なのだ。ここが京都の東の果て、西京極が西の果てである。その中央はどこかというと、千本通なのだ。千本通はいまでは京都の中心からずっと西にずれた場所だが、ここが平安京の中心、朱雀大路だったのである。その朱雀大路の九条に平安京の入口である羅生門があった。
 五条通は先に書いたように市電が走っていなかった。この通りは国道1号線、2号線、9号線の分岐点にあたる。当時から市電がないので車の通りやすい通りだった。ここと堀川通がそうである。
 四条通は祇園八坂神社に通じる最も繁華な通りで市電も走っていた。三条は新京極から繋がるアーケード街である。その北は御池通で、二条に近い。さらに北へ行くと丸太町通になる。これはつまり一条である。一条というのは平安京の御所の南側を通る最初の街路である。一条朱雀大路、すなわち、いまの千本丸太町に、御所の表門があった。千本中立売はそこから少し上がったところで、かつての平安京の御所のど真ん中である。そこに千中ミュージックがあった時期があるのだ、というのはちょっとユーモラスな話だ。
 御所の北側、すなわち裏手に当たるのが、今出川通。いまでも御所は今出川と丸太町の間にある。ただし、千本から大きく東にずれて烏丸と河原町の間にある。千本今出川にあるのが北野神社、昔の御所の裏門のところというべきだろう。朝廷を脅かす菅原道真の霊をここに鎮めたのだ。
 今出川からさらに北へ行くと北大路にぶつかる。北大路大宮には大徳寺。北大路烏丸のかつての市電車庫はいまでは様変わりしていた。これはまた今度。これをずっと東に行って、賀茂川を渡れば下鴨の街があり、洛北高校がある。この通りから東真正面には比叡山がそびえている。
 ちなみに、鴨川は出町から北は賀茂川である。賀茂川と高野川が出町でぶつかって鴨川になる。
 北大路からさらに北には北山通がある。そこはもうすでに京都市街とは言い難い。
 堀川下長者町の話はこのあと。

京都旅行(3)

 きょうの朝日新聞で、西寺跡の発掘が報じられている。もともと羅生門の東にあったのが東寺、西にあったのが西寺だが、西寺は早くに焼失してそのままになった。東寺は弘法大師の寺として残った。それはいいのだが、朱雀大路の地図が掲載されている。見ると山陰本線と重なっている。千本通が朱雀大路と思っていたが違ったかな、と一瞬思った。だがたいして違わなかった。山陰本線と千本通は近接して走っている。二条駅があるのも千本だ。
 この二条駅は以前に来たとき駅まで入った。京都、福山間の乗車券で乗れるならここから乗ろうとしたら、そうは問屋が卸さなかった。二条、京都間の切符が別にいると言われた。
 ここへはたぶん地下鉄で来た。帰りの汽車にまだ少し時間があったのでここからもう一ヶ所、どこか行きのバスに乗ろうとしたのだ。どこだったか、思い出せない。そのバスの時刻まで間がありすぎたのであきらめて帰ることにした。ここが地下鉄東西線の西の終点で(当時)、東の終点(これも当時)蹴上まで一度乗った。蹴上はもう東山の山中なので、地下鉄はべらぼうに深いところに停まる。エレベーターでえんえんと昇って地上に出る。そこからたしか南禅寺に行ったのだ。
 それがいつのことだったのかはっきりしない。10数年前だと思う。母のお骨を納めに金沢へ行った帰りだったかもしれない。
 話を、今回の旅行の初日に戻す。
 観光客だらけの京都駅を出て、観光客だらけのバスに乗って、観光客だらけの二条城を横目に見て、堀川通をまっすぐ上がり、丸太町、下立売から、下長者町に着いた。宿は停留所のすぐそばだった。チェックインは3時からなので、とりあえず荷物を預けて、ついでにそこのレストランで昼食を食べる。さてそれからいよいよ旅の予定を立てる。まずきょう半日をどうするか。
 場所的に言って出町はそんなに遠くない。出町枡形商店街に行きたいのだとぼくから提案した。つい最近「ブラタモリ」で見たのだ。出町はしょっちゅう行き来していたのに、そんな商店街があるなんて知らなかった。そのうえ、そこは京都アニメーションのアニメの舞台になったところだと知った。話はまとまった。しかし経路がすぐには決まらなかった。「どこかそのへんの道を東に歩けば烏丸に出る。道の向こうは御所だ。そのへんに門のひとつがある筈だから、そこから入って御所をぶらぶら歩けば河原町の手前に出る」
 だが、この提案は一蹴された。そんな長い距離を歩くことはできない、バスに乗ろうということになった。とりあえず宿を出て堀川を上がる。堀川は、道路の東半分が広くて深い堀になっている。ずっと深い地下二階くらいのところを、けれども、流れはちょろちょろとしか流れていない。そこに遊歩道がある。天井はないが地下道のようなところだ。地元の人が犬を散歩させている。
 今出川まですぐだと思ったら、なかなか行き着かない。かなり歩いた。「ほらごらん」と妻に言われた。「ここまでだってこんなに歩くのに、御所の向こうまでなんて歩けるわけがない」
 堀川今出川でバスに乗る。二停留所で烏丸今出川。その東北角が同志社、東南角が御所だ。同志社と御所の間を走る。御所は、建物は春と秋の二回の公開のときしか入れないが、門が方々にあり、敷地に入るには自由だ。同志社の表庭のような位置なので、なにかというと入って芝で寝転んだり、座って話し合ったりした。一方の門から入って別の門から出ることもできる。広大な敷地である。
 烏丸今出川の次が同志社前、しかしこれは同志社女子大前なのだ。その次がいよいよ、河原町今出川、別名出町である。エッセイに書いたとおり、枡形商店街はすぐ見つかった。アニメファンが押し寄せているかと思ったが、あまり目立たず、地元の買い物客のほうが多かった。観光向きの店ではない。素朴な台所だ。ずっと西に進むと四つ角があり、そこに古びた小さな映画館があった。出町館である。若い女性がしきりにポスターを張り替えている。メジャーでない映画を上映する自主上映館のようだ。翌日宇治に行って人力車に乗ったとき、車引きのあんちゃんが、あそこで「この世界の片隅に」を観ましたと言った。この映画館のことは妻もガイドブックで調べていて、雨が降ったらそこで映画を観ようと思っていたそうだ。別の方角からだが、偶然同じ場所を思い浮かべていたわけで、まずは妻をがっかりさせずに済んだ。

京都旅行(4)

 旅行記も4回目になるのに、初日の出町枡形商店街から話がひとつも前に進んでいない。どうも人に読ませるというよりも、自分自身の備忘録のような、あるいは記憶の確認というような、そんな感じで書いている。たぶん、こんな調子でどこまでも続いていく。でも、「ふくやま文学」の締め切りまで3週間を切ったし、そのうえ町内行事も目白押しで、また中断するかもしれない。
 さて、枡形商店街から外に出て、ここまで来た以上、次の行き先はおのずから糺の森だ。葵橋を渡れば、糺の森に入る。目の前に橋があったので、渡った。欄干に橋の名前がないので、妙だなと思いつつ渡った。渡りながら、上にもうひとつもっと大きな橋があるのが見えた。右手を見ると下にももっと大きな橋がある。橋を渡りきると、その行く手にもまたひとつある。こんなに橋がいくつもあるなんて思っていなかった。
 あとで調べると、そのとき渡ったのは出町橋で、これを渡ると賀茂川と高野川とが合流するデルタに来る。それを直進すれば高野川を河合橋で渡って、出町柳に出る。叡電の乗り場だ。のちに何回か利用することになる。右手の橋は、賀茂川と高野川が合流して鴨川となった最初の橋で、賀茂川大橋である。これは今出川通にあって、それを渡れば百万遍、吉田、京都大学から北白川方面となる。葵橋は左にある。賀茂川沿いに近付いていくと、もはや市電のレールはないが、昔の面影はよみがえった。この橋は北東方面へ斜めの方角を向いてかかっているのだ。ここで河原町通が終わって、下鴨通になる。目の前が家庭裁判所だ。糺の森の入口に家庭裁判所があるというのが奇妙な偶然で、記憶に残っている。いまでも50年前と同じようにあった。
 エッセイに書いたように、糺の森の入口を間違えた。参道の手前の道を参道だと錯覚して入っていき、並行しているはずの小川沿いの小径に出ようとするが、遮断されていて行けない。てっきり閉鎖されたのだと思い込んで歩いていると観光バスが入ってくる。どうもおかしいと思ったら、バスの進入路を歩いていた。参道はその隣にあった。引き返したいという気持ちはあったが、やせがまんで、「次の50年後に来よう」と宣言してそのまま神社に入る。神社はまあ大して興味もないので、そこの横道から下鴨通に出た。
 北大路と下鴨通の交差点を洛北高校と呼ぶのは、市電の停留所の名前がそうなっていたからで、実際の洛北高校はもう少し上がったところにある。当時の学校はどこも出入り自由だった。ぼくは悪友と夜中に忍び込み、教室の黒板に落書きした。「洛北高校に幽霊がいる、落書党という幽霊が……」という出だしで、もちろん読んだばかりの「共産党宣言」のパロディだ。
 ぼくの住所を知らない友達から、「下鴨洛北高校電停下ル西入ル」で手紙が届いた。当時の京都は市電の停留所が住所のようなものだった。
 その先はエッセイどおりなので省略する。ただ、妻か、その友達がぼくのプレハブめがけて石を投げたのがいつだったのかはっきりしない。妻は、それはぼくの誕生日で、隣にコスモスが咲いていたからそれを分けてもらったのだと言うのだが、それだとつじつまが合わない。お隣からコスモスを分けてもらったとすればそれは昼間のはずだ。ところが昼間なら、石を投げる必要はない。玄関で挨拶すれば、そこにはぼくの大伯母か、だれかがいるはずで、そこから入って細長い土間を突っ切れば、中庭へ出て、プレハブはそこにある。
 だからたぶん夜だったのだと思う。とすれば日が違うのだ。夜にコスモスをもらうことはできない。
 その前後から、雨がぱらついてきた。もともと天候不順だった。宿に急ごうということになった。出町枡形で食料を仕入れると言う。下鴨通に戻ってバスに乗った。じきに糺の森のアナウンスがあったので、すぐに降りた。降りてみると葵橋までまだ遠い。降りるのが早すぎて、無駄に歩くのが嫌いな妻がぶつぶつ言い始めた。歩いて葵橋を渡り、枡形商店街に舞い戻った。総菜屋で弁当を買い、その先で缶ビールを買った。ここに戻ってきた以上、確認したいことがあった。そのまま西に進んで寺町に出る。河原町の二本西はどこまで行っても寺町なのだ。寺町を少し今出川方面に進むと、あった。金光教の教会だ。同志社英文科の親友がここに下宿していた。妻もここに来たことがあるという。ここでだっただろうか、岩手の久慈から来ていたもう一人の同級生と、あとバイト先の浪人生たちと、そのころぼくが同人雑誌に書いた「脱出」という短編の批評をしてもらい、ついでに誰かの誕生会をしたような記憶がある。
 この金光教の友達は最近ミステリーのモデルに使わせてもらったが、たぶんもう生きていない。たいへん義理堅い男で、倉敷市水島と甲府と住むところが遠く隔たってからもしばしば訪れてくれた。ところが50歳ころからぼくの生活はめちゃくちゃになっていたので、ぼくの留守に電話があったとき、ぼくは折り返さなかった。それきりになった。たぶん死んだ。後悔しているが、取り返しようがない。
 このときの同人誌もいまは失った。「脱出」も消えた。当時、宝ヶ池で暴走族が暴れて、宝ヶ池サーキットと呼ばれていると聞いて、ぼくは見学に行った。真夜中である。当時の宝ヶ池はほんの田舎だ。田舎道を歩いて行った。若者たちの車が次々と轟音を立てて走ってくる。カーブをスピードを緩めずに走り抜ける。一台が綺麗にひっくり返った。見物衆たちが駆け寄って助け出す。どうやら運転手は無事だった。
 それを小説に書いた。暴走族を主人公に、やり場のない青春の思いとその暴走とを書きたかった。バイト先の浪人生たちには好評だった。民青の学生たちには悪評だった。彼らは英文科のくせに、文学を理解しないとぼくは勝手に思った。その後、この浪人生たちと新たに同人雑誌を始めた。
 別の日、教会に友達を訪ねてきて、近くの喫茶店に行った。するとバイト先の事務員がそこでバイトしていた。「会社には内緒にね」と彼女は言った。その会社とは、淡交社で、それは裏千家の出版社だった。ぼくは浪人生たちとその倉庫で本の積み下ろしをしていた。京都というところは意外に狭いところで、しばしば偶然の出会いがある。
 教会の前で写真を撮って、寺町通を今出川通に出る。河原町今出川まで戻ってもいいのだが、バス停が十字路の信号のどちら側にあるのかはっきりしない。同志社前のバス停がすぐ先だからと言って歩き始める。雨が本降りになってきた。用意していた傘をさす。ところがどこまで行ってもバス停がない。食料とビールを入れた袋をぼくが肩に掛けたり、手に持ったりしていたが、袋が大きめなので手に持つと引きずる。それが気に入らないと妻が取りあげてみると、弁当の汁が袋のなかでこぼれている。雨は降る。バス停はない。弁当はこぼれる。妻がいらいらし始めた。
 スーパーやコンビニで買う弁当に慣れ切っていた。それらは、きっちり包装してあるので、どう引っ繰り返しても漏れることはない。ところが、いまどき珍しい町の八百屋さんなのだから、そこで作った弁当なのだから、まっすぐ持たないとこぼれるのだ。
 なんとか処置して、結局烏丸今出川まで歩いた。後日そこを通ると、同志社前(実際は同志社女子大前)のバス停はあった。よそのバス停がみなそれらしいちょっとした構築物を備えているのに、そのバス停だけ看板のみだったので気づかなかったのだ。雨は降るし、食料はこぼれるしだったせいもあって。
 宿に入るとき、食料を隠さなくていいのか、宿が嫌がるぞと言うと、いいのだ、夕食はついてないのだからいいのだという。ぼくはヘップバーンの映画を思い出した。「いつも二人で」といういくぶん喜劇タッチのこの映画は好きな映画のひとつで、いまは子供も大きくなった夫婦の貧乏時代の旅行の話。高そうなホテルに泊らざるを得なくなって、夕食は高かろうと外で買って隠して持ち込む。うまくいったと安上がりの晩餐を楽しむ。支払いのときに、夕食代は食べても食べなくてもコミですと聞かされ、結局無駄に払わされるという話。この夫婦とぼくらとの違いは、この夫婦は若いときは貧しかったが、やがて裕福になった、ぼくらはずっと貧しいままだという点なのである。

京都旅行(5)

 貧しい年金生活者のぼくらが10日間も旅行できたのは、やさしい子供たちのおかげなのだ。三人の子供たちと、そのそれぞれのパートナーが、行っといでと言ってポンと封筒をくれた。開けてびっくり、一万円札が十枚も入っていた。
 どの家族も裕福ではない。それぞれの子供たちを抱えて、いまいちばん大変な時期を一生懸命生きている。そこから出してくれた金だ。感謝感激なのだ。
 というわけで、やっと二日目である。
 二日目なのだが、きょう朝から考えていて、どうも10日間の記憶がはっきりしない。早くも忘れかけている。下長者町に3泊、草津に合計5泊、大原に2泊というのはわかる。ところが足掛け11日なのだ。しかも草津から毎日京都に通ったので、京都市内がほとんどである。行った場所はわかる。しかし、いつ、どういう順序で行ったのかがもはや思い出せない。
 思いついてカメラを探した。ぼくはカメラを持たない。カメラは妻が持っている。カメラが見つかる前に現像済みの写真が見つかった。そこに日付がある。
 それで少し判明した。ところがカメラは途中で電池が切れて、そこから先がない。そればかりかそもそも写してない場所も多いから、すべてはとても分からない。それで、ここから先は少しあてずっぽうになる。行ったことは確かなのだが、違う日のことが違う日に紛れ込むかもしれない。
 旅行の前の数週間、ぼくは「樹宴」の原稿で一生懸命だった。不満な出来ながら一応書き上げて送ってからも、校正がうまくいかずに何度もやりとりした。戯曲は特殊なレイアウトを使う。「まがね」でも戯曲がひとつあったが、これはレイアウトが完成したら、PDF変換して「ちょ古っ都製本」に送るだけでよかった。プロの製本屋だから、レイアウトどおりに作ってくれた。「樹宴」は印刷製本を木沼さんが全部自分でやる。裏表印刷するわけだから、裏が1ページと4ページ、表は2ページと3ページというように印刷するのだ。裏と表を別々に編集する必要がある。いちいち手作業ではできないから、「パーソナル編集長」という市販のソフトを使う。ここに問題が生じる。WORDを「パーソナル編集長」に流し込むときに、レイアウトが完全に狂ってしまう。ふつうの小説なら問題ないのだ。戯曲の場合はうまくいかない。それで一度はあきらめかけたほどに大変だった。木沼さんが頑張ってくれて何とか出来上がると、旅行が迫っていた。
 というわけで(という口実で)、ぼくは旅行計画に一切タッチしていなかった。行く気があるのかと妻が疑っていたほどだ。妻はガイドブックを何冊か購入していたが、宿の予約はともかく、具体的なスケジュールはなかったようだ。
 それで初日はああいう形になった。もともと雨模様の日だった。
 二日目から天気がよくなった。宿で作戦を練った。
「今日はまっすぐ京都駅に戻って、国鉄で伏見稲荷と宇治平等院へ行こう」
 すぐに決まった。ほんとうは、桃山と六地蔵にも行きたかった。桃山は少し思い出があるし、六地蔵は京都アニメーションだ。ところが地図で見ると、伏見と宇治は隣り合っているが、その伏見がべらぼうに広い。この4カ所はばらばらな場所で、すべて行くとなると駆け足になってしまうだろう。そこで2カ所に絞ることにした。この2カ所はあまりにも有名なところだが、ぼくは行ったことがなかった。こんどの旅の目的は、かつて行き損ねた名所めぐりなのだから、初日は思い出探しになってしまったが、二日目は目的に戻ろう。
 行く方法はいくつもあるが、国鉄で行くのが単純なような気がした。ICOCAを使った。伏見稲荷はたった二駅だ。そんなに近いとは知らなかった。国鉄奈良線で行くが、急行に乗っていると伏見稲荷には停まらないという。あわてて各駅停車に乗り換える。出発までかなり待たされた。がらがらだったのが、どんどん乗ってきた。中国人が多い。マレー人も乗ってくる。出発までにすし詰めになった。二駅で着くと、小さな駅だ。おもちゃのような駅だ。そこがラッシュアワーである。ほとんどの客がそこで降りた。
 伏見稲荷は、つまり鳥居である。鳥居がずっと続いている。それは知っていたが、どこまで行ってもまだ先がある。そこをラッシュアワー状態で登っていく。西洋人、中国人、マレー人たちと一緒に登っていく。上からも降りてくる。登りと下りと擦れ合いながら登っていく。まだまだ終わらない。どこまででも続いている。きりがない。とてもじゃない。とうとう諦めて降りることにした。
 どの鳥居もそんなに古いわけではない。木の鳥居だから腐る。腐ったら新しいものと換える。すべて企業の寄進だ。関西の企業が多いが、全国の企業のものがある。何千本あるか、数知れない。
 駅に戻り、宇治まで直行した。はじめ少し山地を通ったが、じきに住宅地になる。ベッドタウン化している。六地蔵を通る。京都地下鉄東西線が、山科から醍醐を経由してここまで南下しているのには驚いた。
 桃山は方角が違う、と思っていたが、いま地図を見ると、国鉄は桃山を経由してそこから六地蔵方面に曲がっている。いまは地下鉄南北線の南の終点になっている竹田は少し離れたところだ。たぶんむかし市電がそこまで行っていた。国鉄と地下鉄のほかに近鉄と京阪がこの界隈を走っている。
 同志社へ入ってすぐ伏見へ来た。それがたぶん桃山だったと思うのが、桃山城に登った記憶があるからだ。母の従兄弟がそこに住んでいた。同志社女子高の音楽教師で、京都の市歌などの作曲者だ。その母親がぼくの祖母の姉で、下鴨でお琴を教えていた。その中庭のプレハブにぼくは下宿したのだ。伏見の家にはクラシック音楽が流れていた。その家に同志社女子大に通う笑顔のかわいい、よくしゃべる娘がいて、一つ年上だった。このとき伏見で会ったのが初対面で、50年後に二度目に会った。すでに東京に転居して、ピアノと声楽を教えていた。それから断続的に付き合いが続いている。
 宇治に着いて、駅前の看板を見ながらどう行くべきか検討していると、若い男が寄ってきて親切にいろいろ説明を始めた。よくわかったので、ありがとうと言って別れようとすると、「よかったらどうですか」と言う。人力車夫なのだ。妻は最初から気づいていたらしいが、ぼくはまったく知らなかった。妻がその気になったので、人力車初体験をする。妻に言わせるとその気になったのはぼくのほうらしい。出町館で「この世界の片隅に」を観ましたと言ったのはこの青年だ。熊本の出身で、どことは言わなかったが京都の大学を出て堀川今出川に住んでいるのだという。宇治川を渡って、宇治神社まで連れて行った。走りながらいろいろ説明する。応神天皇の皇子兎道稚郎子(うじのわきいらっこ)の話。カナ文字の発明者だったが、方向音痴でウサギに案内された。ウサギが振り返りながら案内したというわけで見返りウサギのお土産を売っている。
「そう言えば兎道郎子のウはウサギという字だ」とぼくが記憶を呼び覚ますと、車夫君は感心している。ウサギの道でウジ、そのくらいはぼくでも知っている。
 車夫君に金を払って別れ、宇治川を戻る。宇治川合戦の話が車夫君から出なかったが、ここではないのかと思いつつ橋を渡ると、宇治川合戦の碑があった。ここで源三位頼政が死んだのだ。
 ここは宇治十帖の舞台でもあるが、宇治十帖も筋書きを知っているだけで具体的な場所とかを知らないので、それ以上の感慨はなかった。なお源氏物語ミュージアムとかにも心惹かれたのだが、名所が先なので無視した。
 平等院だ。十円玉だ。観た。
 それで伏見・宇治の旅は終えた。
 旅行のあいだじゅう引っ掛かっていたことがある。京都アニメーションだ。最初はそこに行く気だった。駆け足になると思ってやめたが、それでもどうしても行こうとはしなかったのは、野次馬みたいな気がしたからだ。アニメファンというわけではない。火事場見物で行くのかという嫌な気がして、躊躇した。でも行きたかったのは本当だ。なぜ行きたかったのだろうとずっと考えていた。その現場に立ちたいという気持ちがあった。犯人がガソリンを載せた台車を押しながら歩いたコースもたどってみたかった。なぜなんだろうとずっと考えた。福山に帰ってきてからも考えた。ある日ふと分かったような気がした。悲劇の現場に立って悲劇を実感したかった。また、犯人の足跡をたどって、彼の目に映った風景も噛みしめてみたかった。そういうことだったのだ。

京都旅行(6)

 二日目、伏見と宇治から京都駅まで帰ってきた。その日は朝一度バスに乗っただけだったので、堀川通をまっすぐ宿に帰れば2回しか乗らないことになって、600円の一日券を損する。3回乗らないと元が取れない。というみみっちい考えがあって、それで京都駅から河原町通りを行くバスに乗ったのだと思う。あるいは別の日だったかもしれない。二日目のことなのだが、早くも記憶があいまいだ。
 K仏具店に行きたいと妻が言う。英文科の一年先輩で仏具店の跡取り息子がいたのだ。ちなみにぼくの京都の友達はみんな死んだか行方知れずだ。特に親しくしていて倉敷までたびたび会いに来てくれた人はみんな死んでしまった。ほかにも同志社関係、立命関係、日新電機関係、それに同人雑誌関係と、大勢いたのだが、年賀状が来てもぼくが出さなかったりして、そのうち住所もわからなくなってしまった。ぼくは友達を大事にしない人間だったのだと思う。
 定年してからなんとか探し出したいと思って、ネットで探したら、同人誌関係の年下の友達が京都案内の本を何冊か出版しているのを見つけた。彼と連絡が取れればみんなと連絡が取れるはずだと思って、その出版社に手紙を書いた。電話がかかってきて、じつはその著者が行方不明になって、われわれも探しているのですということで、それきりになった。
 妻がK仏具店に着目したのは、その人なら京都に残っているのではないかという発想で、たしかに多少望みがありそうだ。
 ぼくはその仏具店に行ったことがある。仏具店ばかりがずらっと並んでいる通りのなかの一軒だった。ところがその通りが仏光寺通だったか、万寿寺通だったかはっきりしない。
 京都の道は細くてもみんな名前がある。東西通りで誰もが知っているのは、「姉さん六角蛸錦」というやつだ。北から、姉小路、三条、六角通、蛸薬師通、錦、四条という並びになる。京都の最も繁華な地帯である。四条河原町がその中心で、錦は京都市民の台所である。蛸薬師にはミレー書房があって、そこで「民主文学」や「忍者武芸帳影丸伝」を買った。今回バスの中から見ると、その通りがずいぶんにぎやかな通りになっていた。三条は新京極から続くアーケード街だ。
 ほかの道は知らなかったのだが、四条河原町近辺の紙屋で働いたときに、四条から南の通りを自分なりの節まわしで覚えた。これは自分流なので、ほんとうはどう覚えるのか知らない。「しいあやぶったかまつまんごじょう」と覚えた。四条、綾小路、仏光寺通、高辻通、松原通、万寿寺通、五条である。
 綾小路を少し下がったところの紙問屋で働いて、昼休みには仏光寺に行って鳩を見ていた。仏具店だから仏光寺通かなと思ったのだ。でもなんかおかしい。仏光寺はぼくの働いていたところに近すぎる。そんなところに仏具屋なんかなかった。万寿寺のような気がする。
 万寿寺通は五条の一本上である。五条でバスを降りた。その角はホテルを建築中だ。見るとあちこちにホテルがある。昔はそんなところにホテルはなかったと思う。宿屋街はどこだったか忘れたが、もっとずっと離れたところにあって、その一軒でバイトしていた頃がある。ホテルと名のつくものは京都ホテルとかもっと東山のほうにあったような気がする。
 少し歩くと万寿寺通だ。入っていくと早速あった。仏具店が、ずらっとというにはかなり減った感じはするが、ともかく並んでいる。だが、K仏具店はない。ずっと西へ歩いて行ったが、だんだん仏具店がなくなってしまった。引き返して、一軒で聞いた。「K仏具店は10年前に引っ越した。いま更地になっているところがそうだ。どこへ越したのかは知らない」という返事。もう一度歩いて見ると、たしかに一箇所更地になっていた。
 望みが途絶えた。このKという人はとても地味な人だったが、英会話は達者で、通訳になりたいという望みを持っていた。目立つ活動家ではなかったのだが、コツコツと赤旗を拡大していくようなタイプで、ぼくの金光教の友達とも、Kを通して知り合ったのだ。一度ビラ貼りかなんかで逮捕された。釈放されたときの集会で本気で怒って告発した。この人のそういうところを初めて見た。数年後、かわいらしい奥さんを連れたKとどこかでバッタリ会った。ぼくも妻と一緒だったので、ぼくがKと、妻は奥さんと話した。あとで聞くと、奥さんが「夫はいまでも通訳になりたいという夢を捨てられなくて」とこぼしていたと言った。ぼくはそう覚えているのだが、妻にはもうその記憶がない。そしてそれがどこでだったのか、その場所を思い出せない。どこかの土堤のようなところだったと思うのだが。
 仏具店をあきらめて、そのまま細い道を北に進む。働いていた紙屋を探した。綾小路の少し下がったところ、つまり綾小路と仏光寺の間だ。南北の細い道が何本かある。それを行ったり来たりするのだが、なかなかわからない。そのうち大きな勘違いをしていたことに気づいた。河原町通りというのは鴨川に沿って走っているので、五条から四条のあいだでは斜めに東北を向いている。鴨川が曲がっているからだ。万寿寺通で河原町から一本西を北に向かって綾小路に来てもそれが依然として河原町の隣の通りだと思い込んでいた。それにしては河原町の二本隣には寺町がある筈なのにないなといぶかしく思いながらぐるぐるまわっていて、やっと気づいた。ぼくらの歩いた道は五条から四条に来るにつれてどんどん河原町から遠ざかっていたのだ。ぼくらはたぶん麩屋町を歩いていた。その東が御幸町で、寺町はもうひとつ東だった。そしてぼくの働いていたのは御幸町だった。その店はもうなかったが、おぼしきあたりの家と家の間の狭い路地の入口に、その奥の住民を列記した表示があり、そこにその当時の紙屋の名前があった。あえて路地への侵入は遠慮した。綾小路の角になんとなく覚えのある店がある。ぼくが昼飯を食べた店のようだ。
 四条へ出る。ここまで来たからには錦へ行こうと言うと、錦へは行ったことがないと言う。「そんなことないだろう。一緒に来たじゃないか」「そうかな」二人ともあやふやだ。
 四条を一本上がると錦である。狭い通りだ。もちろん車は入れない。両側は昔ながらの八百屋街である。観光客向けの店なんかない。出町枡形商店街と街の感じは変わらない。ただそれがどこまでもずっと続いているというだけだ。
 ところがそこが観光客だらけで押し合いへし合いしている。例によって西洋人と中国人だ。人波のなかを泳ぐような感じ。観光客が買うようなものは売ってない。ただ彼らはマーケットの雰囲気を味わいたくて来ている。そうなのだ。観光客も名所旧跡だけでは飽き足らないのだ。こういう庶民的な街の雰囲気を味わいたくて来るのだ。迷惑しているのは地元の買い物客と、店の主人たちである。のんきに買い物の出来る雰囲気ではない。
 もちろん我々の時代にはまったくこんなふうではなかった。観光客の来るような場所ではなかった。
 どこまで歩いても続いているので、途中で引き返した。途中にあった店で買いたいものがあったという。ところが引き返しかけると、どうやらぼつぼつ店じまいしている。売れるだけはすでに売り切ったようだ。満更何も買わないわけでもないらしい。目当ての店も閉店していた。四条に戻る。バスに乗って、乗り換えたか、ちょうど曲がるバスがあったのか覚えないが、堀川下長者町に戻った。
 その近辺に堀川商店街があるのは見ていたのだ。夕食は、適当なところで買うか、食べるかすればいいと考えていた。ところが時刻が遅くなったからか、どの店も閉まっている。バスを降りて最初北に向かったが、どうも開いている店がない。反転して南に向かう。下立売まで引き返してやっと八百屋に毛が生えた程度のスーパーを見つけた。例によって弁当とビールを買って宿に戻った。

京都旅行(7)

 先日の朝日に、京都市バスの一日乗車券のことが載っていた。これが値上げしたのが最近のことだったのだそうだ。かわりに地下鉄も乗れる共通の一日券を値下げした。というのはバスが観光客で混雑して、市民の足ではなくなっている。という苦情が来て、観光客をできるだけ地下鉄のほうに誘導しようということらしい。
 一日乗車券は市バスのほかに、京都バス、京阪バスでも使える。京都駅で、600円で、要るだけ買っておく。その日最初に乗ったら、降りるとき運転席の機械に通して日付を打ってから降りる。二回目からは、日付を見せれば降りれる。反対側を見せると、「日付を見せてください」と言われる。翌日は使えない。捨てて新しい乗車券を使う。
 バスの中でも買える。でも降りる時に買うと時間を食うので、信号待ちのときに買う。
 バスはいつでも超満員だから、なるべく運転席近くに行った方がよい。
 用心せねばならないのが、郊外へ走るバスだ。これには一日券は使えない。京都市街を走るバスだけである。
 一度失敗した。京都駅から東寺へ行き、そこから梅小路へ行って、京都駅へ戻った。梅小路―京都駅間は近距離だ。バスが来たので乗ろうとしたら、市バスではなく京阪バスだった。大丈夫か、と言ったら、大丈夫、京阪でも使えるというので乗った。乗るとき整理券をとるようになっている。番号によって料金の変わる例のやつだ。いつものバスにはそんなものはない。乗り切り料金だから必要ないのだ。おかしいとは思った。また、一日券があるから必要ないだろうとも思った。でも念のため整理券をとった。とって正解だった。とらねば始発からの料金をとられるところだった。一日券の使えないバスだったのだ。乗るときに、確認する必要がある。
 バスはあまり待たせずに次つぎくるが、番号と路線を確認しないとよそへ連れていかれる。どのバスもいつも混んでいる。座れないと思った方がよい。ところが、よく席を譲ってくれる。ぼくは年のわりに若く見られるので、いつも優先座席など遠慮がちに座るが、いつの間にか頭が白くなったせいで、年相応に見てくれるようになった。二日目、下長者町の宿から京都駅に向かうバスで、西洋人の若い美人の女性が、さっそく、席を立って譲ってくれた。すぐ降りるから譲ってくれたのだろうと思ったので、「どうも、ありがとう」と礼だけ言って座ったら、なんと京都駅までずっと立っていた。下長者町は丸太町より上だ。丸太町とは一条で(勘違いだった。二条である。後記)、京都駅は八条だから、つまり京都の端から端である。降りたときにもう一度礼を言ったら、微笑んでうなずいた。
 一般に西洋人が親切だ。西洋人にはそういう習慣が身についているのか、日本人に対して気を使っているようにも見える。日本人はあまり譲らないが、譲る人もいる。中国人がいちばん図々しい。もっとも、中国語をしゃべっているようではあるが、中国人なのか、台湾人なのか、香港人なのかはわからない。
 さて、三日目である。
 三日目は三十三間堂へ行った。ここもあまりにも有名なところなのに行ったことがなかったので、まずそういうところから済ませた。短時日に一挙にいろいろ行ったので、印象がごちゃごちゃになって、あまりはっきり覚えていない。もともと、ぼくは名所旧跡にそれほど興味がないのだ。ぼくが強く惹かれるのは道である。道を見たい。道を歩きたい。道を感じたい。道を味わいたいのだ。
 三十三間堂はまず堂内を観た。観音様がたくさんいた。それで出たらすぐ出口に向かおうとするので、冗談じゃない、まだ三十三間堂を観てないじゃないかということで、細長い建物の、表をまわり、裏をまわった、のだと思う。どうも記憶があやふやだ。成人式に女性たちが矢を射るところだと思うのだが、まあ、そういうことだ。そして出た。なんだかあっけないので、外の道を塀に沿って歩いてみることにした。すると養源院に出た。ここに俵屋宗達があると、妻はよく知っている。短大時代の友達が絵を好きなので、そういうところから知識がくるらしい。で、それも見た。それから河原町へ行って、丸善へ入った。
「点と線」を持ち歩いていたのだが、読み終えてしまいそうだ。次に読む本が欲しいということで、丸善に入って清張をもう一冊買った。ついでに岩波文庫で「道草」を買った。漱石の「三四郎」「それから」「こころ」などは何度も読んだが、「道草」と「明暗」を読んでいない。福山の本屋で探したとき、岩波文庫の解説が面白そうだったので、ほかより高いのだが、この機会に岩波を買った。岩波は最近めったにどこにもはないのだ。
 それで、妻の手帳を見るとどこかで昼食を食べたらしいのだが、記憶にない。
 この日は清明神社へ行ったのだ。宿の近くだというのは最初から妻が言っていた。堀川通を南から、丸太町、下立売、下長者町、中立売、清明神社、今出川という順序になる。ぼくらはまたたぶん四条通を堀川まで行って、そこから延々と上がっていったのだと思う。丸太町を過ぎたら、今出川まで広い通りはないはずだから油断していた。今出川の一つ手前で降りればいい、宿のある下長者町の二つ先、中立売の次だ、と思っていた。ところが中立売が近づいて、運転席の斜め上に表示される路線を見ていると、堀川中立売の次が大宮中立売になっている。あわてて運転手に確認した。「清明神社に行かないのか」「行きません」妻は少し後ろに座っていた。あわてて呼んで中立売で降りる。バスはそこから中立売通に曲がって、大宮中立売から千本中立売に行く。例の千中ミュージックの方向だ。なるほどそんなとんでもないところに繁華街があるのを忘れていた。
 今出川方面へぶらぶら歩いていく。前方の歩道にいくつも店が出ている。「お祭りらしいね」「まさか清明神社じゃなかろうな」そのまさかだった。清明神社の門前町ができている。
 妻が清明神社を知っているのは、羽生弓弦が清明神社の曲で滑ったということらしい。ぼくは昔「小説新潮」で夢枕獏の「陰陽師」を読んでいた。これは母が読んだ後を譲ってくれていたのだ。母は「文芸春秋」と「小説新潮」をとっていて、読み終わるとぼくにまわしてくれていた。もっともぼくのほうにまわって来はじめたのはかなり後になってからで、短い期間だった。母はずっととっていたので、「芥川賞」は欠かさず読んでいてぼくより詳しかった。1998年に平野啓一郎が芥川賞を取ったとき、難解だという評判を耳にしたが、「難しくなかったわよ」と母は言っていた。ぼくはいまにいたるも読めていない。「小説新潮」はエンタメ雑誌で、「陰陽師」も面白かったし、石田衣良の「池袋ウエストゲートパーク」も面白かった。
 この夢枕獏の連載から安倍晴明が知れ渡って、たしか漫画にもなって、ぐっとポピュラーになったのだ。で、清明神社に若者が押し寄せている。門前町ができるほどになり、絵馬には、合格祈願と並んで、羽生弓弦へのメッセージだらけだ。バス停の名前だってもとは「一条戻橋」というのである。「清明神社前」などという名前がはたしてあったのかどうか。もっとも、この一条戻橋という名前になぜ聞き覚えがあるのかがわからない。この堀川通には市電は通ってなかったから、そしてぼくはバスに乗らなかったから、この通りにしかない名前にはなじみがないはずなのだが、なぜかその名をよく知っている。いま、京都市バスには清明神社の交通安全がぶらさがっている。その紋章はダビデの星なのだ。これはもともとなのだろうか。
 一条戻橋がなぜ今出川の近くにあるのかと考えていて、この旅行記の最初から大きな勘違いをしていたことに気づいた。平安京における一条通は御所の北側を通る道であって、御所の南側を通るのは二条通なのだ。つまり、今出川こそが一条であり、丸太町はむしろ二条なのである。ピッタリそうではないのだが、どちらかと言えばそう。いままでずっと、御所の南から一条が始まると思いこんでいた。丸太町が一条だとずっと書いてきたが、これは間違いである。今出川が一条である。一条と二条とは間隔がとても広い。二条から三条、四条~九条間と比べて二倍半くらいある。

京都旅行(8)

 4日目。下長者町にはすでに3泊したので、今日は草津に行く日である。でも、チェックインは夕方だし、草津に行っても何もないということで、それまで京都で過ごすことにする。チェックアウトして、荷物は預けた。北野天神へ行ってみようということで話が決まった。
 北野天神は何度か行っている。ただ気になることが新たにあった。「失われた夜のために」のモデルとしたのは鷹峯のアパートだった。そこは北大路西大路から坂を延々と登った高台で、もっと上がれば光悦寺がある。本阿弥光悦の地所あとが寺になったもので、吉川英治の「宮本武蔵」にもたしか出てきた。アパートは二階の部屋だったので、屋根屋根の向こうに、はるか坂下の京都の街がよく見え、夜など街の灯かりが空の星と一体になってきれいだった。
 アパ-トの前の道は両側に家が密集しているのだが、裏にまわると山の中という感じになる。広い荒れた河原があって、流れのはやい川が流れている。川向こうは山だった。山を背景に高額そうな料亭風の建物が一軒あり、その建物の前だけ河原が整っていた。この川の名前を知らなかった。
 ところが坂を北大路まで下りてきて、西大路の方角に少し行くと、密集した建物の間の深いところを流れてきて北大路の地下にもぐり込む川があった。都市の地下を流れる川というなんだか暗黒街的な雰囲気がした。その川が紙屋川なのだ。たぶんどこかに名前が書いてあったのだろう。地理的に見てそれがアパートの裏を流れる川と同じものだと気づいてよさそうなもので、ただ、ぼくの記憶のなかでだけ結びついていなかったのかもしれない。二つの川の雰囲気があまりに違ったので。山中の川と、都市の川。
 つい最近、その川が北野天神まで流れてきて天神川になるのだという記事を読んだ。しかし、ぼくは北野天神には何度か行っているのに、そんな川を見た記憶がなかった。それでこの機会にぜひ確認したいと思ったのだ。
 下長者町のバス停でバスを待つ。ちょうど前の日に清明神社には行かずに中立売で曲がってしまったと同じバスが来た。今日はこのバスがちょうどいい。これに乗れば乗り換えなしだ。堀川中立売で曲がって、大宮中立売を通って、千本中立売、そこから千本通をずっと上がって行く。千中はどうやらいまはパチンコ屋街となっているようだ。そういえば昔もパチンコ屋があった。
 千本今出川で今出川通に曲がり、上七軒を通って北野天神前に出る。前にも書いたが、この千本通は途中まで山陰本線と並行しており、二条駅もその通り近くにある。平安京の中心街、朱雀大路なのだ。九条まで下がれば羅生門で、その東西にあったのが、東寺と西寺だ。
 妻はガイドブックのお汁粉屋を確認している。道路を渡って天神に入っていく。記憶にあるよりも広い感じがする。いたるところ牛の像だ。正月にここに来たとき、妻は上の子を身籠っていた。牛の頭をなぜた手で、自分の頭をなぜようとするので、自分の頭じゃないだろう、お腹だろうと言ったら、お腹をなぜた。おかげで賢い子が生まれた、と親ばかで思っている。
 菅原道真についてはいまさら言うまでもないだろうがおさらいしておくと、宇多天皇に引き立てられて醍醐天皇の時代に右大臣に上がったが、左大臣藤原時平に謀られ、大宰府に流され、そこで死ぬ。ところが、それも諸説あるようで、宇多上皇と醍醐天皇との対立、異例の出世への周囲の妬み、政治改革への不満などがあったようだ。
 天神、天満宮と言えば、梅と牛である。梅は当然として、牛はなぜなのか。今回ざっと見たが、諸説あるなかに、ぼくが覚えている説がない。ぼくの記憶にあったのはこんな説だ。道真と言えばもちろん雷である。道真の死後、都に雷が頻繁に落ちて、御所も焼け、死人も出た。これは道真が怒り狂って雷になって復讐したのだと言われている。ところで雷が落ちると豊作になるという。雷の電気作用で、空気中の窒素が農地に溶け込む。窒素は植物を育てる。というわけで、道真は農業の神である。だから牛なのだ。
 ぼくは若いときからそう信じていた。ところがいま、そういう説がどこにも見当たらない。どこから取りこんだ話だったのだろうか。
 牛の頭をなぜていると老夫婦がいて、その夫とぼくの妻のあいだで話が弾んで、相手の奥さんはとっくに行ってしまったのに、おじいさんの話はどこまでも続いていく。終わりがない。妻が相手をするので向こうは喜んでいつまでも話し続ける。奥さんはいなくなってしまった。頃合いを見てぼくが「ありがとうございました」と言って打ち切った。おじいさんも納得して去っていった。
 さて、肝心の天神川である。それを探しに来たのだ。神社の西のほうをうろうろする。一部建物の修復作業があるようで、工事関係者が集まっている。その先にたしかに川はあるようだが、閉め切られていて出ることができない。ずっと北の方へ行ってみる。神社の北側へ出た。西へ歩くと川があった。川があり橋が架かっている。ところがそれだけで、川に沿って歩くことができない。しかたがないので、そのまま橋を渡った。平野神社に出た。ここは北野神社の賑わいようとは対照的にほとんど客がおらず、ひっそりしていた。しかしいま地図を見るとこの神社は西大路に面している。ぼくらは平野神社の裏だけを見たのかもしれない。桜の名所だということで、平安京の当初からあるかなり大事な神社のようだ。桓武天皇の母方の神社だという。桓武天皇の母親は朝鮮の王家の子孫だ。
 今出川まで引き返して、むかし、コロッケ屋のあった通りを探す。何本か通りがあって、どの通りだったかよくわからない。そのうちの一本に見当をつけて入っていくと、あった。コロッケ屋の看板が出ている。店は閉まっていて、休んでいるだけか、廃業したのかわからない。
 ここに、少し年下だが、いちばん親しくした友人がいたのだ。
 ぼくの同志社生活が限界に来て、とりあえずバイトしていた。鷹峯にいた頃で、淡交社という出版社の倉庫で働いた。裏千家の出版社だった。堀川通の今出川と北大路の中間あたりにあった。のちにビルを建てたが、最初は小さな事務所とそのそばに倉庫があった。
 仕事は本の積み下ろしである。本を出荷する。かわりに返本がどっと返ってくる。トラックがくるたびに、バイト生たちがずらっと並んで、本を投げてリレーする。ぼくはボール投げもやったことがなかったので、最初は落としてばかりいた。落とすと本は駄目になる。数冊重ねて投げてよこした本を素早くキャッチしてただちに次の人へ投げねばならない。毎日がそんなことの繰り返し。ふつうのトラックなら量は知れているが、国鉄コンテナが出まわりだしたころで、これがくると気が遠くなった。投げても投げても本はなくならない。売れなくなってきた本は廃棄処分にする。古本屋に出回れば荷崩れするから、廃品回収というわけにはいかない。表紙と裏表紙を握ってふたつに破るのだ。朝から夕方まで破るのが仕事だったりする。
 ここに、大学受験に失敗した浪人生たちがバイトしていた。嵯峨高校の卒業生たちだった。のちに京都案内の本を出版しながら行方不明になってしまったT、東京の演劇学校に行って嫁さんを連れて帰ってきたU、この男は比叡山で修行して坊さんになった、クラシック喫茶の経営者の息子で、横浜の消防の音楽隊に入ったS、そのほかにもいろいろいたが、そのうち、Tが面白い人物を紹介すると言い出した。それがコロッケ屋のKだった。彼は嵯峨高校ではなく、そのころ野球で有名だった平安高校で、本人は柔道をやっていた。いま龍谷大学付属になっている。
 ニーチェばかり読んで近眼になってしまった男という触れ込みで、会うと、サルトルの話を持出した。じつはぼくはまだサルトルを読んでいなかった。
 父親はすでに死んでいたが、もともと二号さんだった。母親がコロッケ屋をやってそこそこ稼いでいた。「サラリーマンなんかやるよりもずっと儲かるのに、本人がやる気がなくて」とお母さんは嘆いていた。でも、いくつか勤めたあと、結局跡を継いだ。たちまち能力を発揮した。立命の女子学生たちを雇って、コロッケを売りまくった。「あの子たちと自分と、どっちがどっちに搾取されているのかわからねえ」とぼやいてはいたが、若い女の子を店に立たせたのは正解だったのだろう。
 そのうち株の売買を始めた。これも相当稼いだ。バブルの直前だった。バブルが始まると、「これは異常だ。自分は手を出さない」と言った。
 そのうちコロッケ屋を伯父さんに譲って、母親と二人マンションのようなところに引っ越した。母親が齢をとってきて、病院探しに苦労したりしていた。「キリスト教系の病院で失敗した。共産党系の病院が正解だった」と言ったりした。そのころまで、まだときどきお互いに行き来があった。そのころになると何をして暮らしているのかよくわからなかった。ずっと社会主義を批判していたが、1989年から91年にかけてソ連が崩壊してしまうと、急に元気がなくなった。好敵手を失ってがっかりしているような感じで、寄こす手紙が悲観的になっていった。そして突然死亡の知らせが坊主になったUから届いた。あるいはTからだったかもしれない。母親と二人とも死んでいた。かなり経ってから発見された。ぼくらは集まってUが法衣に着替えて経を読んだ。本格的な経だった。話を聞くと、Kはてんかんだったのだという。ぼくはまったく知らなかった。
 こののち、ぼくは京都の友人たちとやりとりをしなくなり、やがて連絡先もわからなくなった。
 さて、コロッケ屋を見つけたので、満足して停留所まで戻り、そのそばのお汁粉屋に入った。何を食べたかよく覚えていない。お汁粉ではない。ぜんざいでもなかった。お団子を食べたような気がする。お団子屋だったのかもしれない。
 このころになると、昼食が気にならなくなった。腹が減らないのだ。宿で食べる朝食が、バイキング形式で、宿料とコミだから、いくら食べてもタダだ。そこでだんだん図々しくなってきて、ともかく食べる。どんどん食べる。日ごろ朝食はほとんど食べないのを、無制限に食べるので、毎日かなり歩くにもかかわらず、腹が減らない。形ばかりに少し口に入れるだけ。
 店を出るとその同じ停留所から金閣寺に向かった。その気ではなかったのだが、妻が行ったことがないと言い出したのだ。「嘘だろう。一緒に行ったじゃないか」というのだが、じつは二人ともあやふやだ。銀閣寺とその周辺は何度も行った。金閣寺は案外行ってないのかもしれない。なにかのおりに一度は行ったはずなのだが。
 北野から金閣寺はすぐそばだ。客は多い。中国人が特に多い。カメラの好ポイントを独占していつまでも譲ろうとしない。割り込もうとしたら、にらまれた。「わたしたちが中国に観光に来たような気がしてきた」と妻が言った。聴こえてくるのが中国語ばかりだから。
 金閣を出るとまたバスに乗って、北大路大宮で降りる。大徳寺は何度も行っているのでパスする。何度もと言うが、学生時代はただ大徳寺の敷地をうろうろしたというだけなのだ。特に鷹峯に越してからは、大徳寺の寺内を近道のようにして通り抜けていた。寺内にいくつもの坊があって、そのそれぞれに庭があるのだが、それぞれに拝観料がいるので、一度も入らなかった。のちに旅行で来たときに初めて金を払って、いくつかの庭を観た。
 今回立ち寄ったのは、妻の学生時代の下宿を探すためだ。大宮通をずっと上がったところというのはぼくも覚えている。京都もほとんど外れの場所だが、大宮通はかつては賑やかだった。どこまで行っても住宅が密集しているので、買物のための店は必要なのだ。ところが今回火が消えたようである。京都の街にも変化が押し寄せている。車社会になり、人々は大型店に行くようになり、商店街はどこも消えていく。途中にかつて「タカラブネ」という洋菓子屋兼喫茶店があった。妻はここでバイトしていて、図々しくもここでクリスマス兼自分の誕生日会を開催したのだ。ぼくも呼ばれたが、あちこちの大学の男どもが集っていた。
 その店ももうない。青春は終わった。いや、ずっと前からもう終わっている。
 どんどん北に向かって歩いていく。この辺りじゃないかというところを西に入っていくが、大徳寺の壁にぶつかる。もっと上だと言いながら、結局諦めた。
 宿に戻って預けていた荷物を受けとり、京都駅に出て、草津行に乗った。

京都旅行(9)

 われわれの住んでいるのは広島県と岡山県との県境である。最寄りの山陽本線駅は大門駅という。その上りの一駅目が岡山県の笠岡駅で、一方、下りの福山駅との間にはもう一駅ある。しかも大門駅から我家までには一山越えねばならない。これがなまなかの山ではない。急峻な山である。その頂上まで登って今度は峠を降りていく。我々は盆地に住んでいる。そんなところだから自転車はたとえ電動でも使えない。バスは、途中まで歩けばあることはあるが、本数が少ない。かくて車で送ってもらうか、タクシーしかない。タクシーで千円ちょっとかかる。
 この駅から乗って福山まで行き、そこから新幹線に乗る。広島方面に行く時は単純だが、京都方面は折り返しになるので、切符の買い方が複雑だ。大門―福山、福山―京都のそれぞれ乗車券、それと新幹線特急券を買う。国鉄友の会の会員なので、会費が年間いくらか知らないが、切符はかなり値引きしてくれる。その代わり、新幹線は乗れるのと乗れないのがある。むかし新幹線にはひかりとこだましかなかったが、いまやたらと種類が増えて、しかも同じ名前でも福山に停まるのと停まらないのとあり、その上乗れないものがあるということで大変ややこしい。切符が三枚あると、改札でいつどれを通すのかさっぱりわからない。通し損なうとあとでややこしいことになる。
 妻は当日この大門駅で切符を買う。駅員が一人しかいないのに、急ぐ客がいたらどうするんだろうとはらはらするが、ややこしいのでずいぶん時間を食う。その上、ICOCAにチャージしてもらうと言う。切符を買うのになぜその上にICOCAがいるのだと聞くと、草津と京都を毎日往復するからいるのだという。そうか、じゃ、あそこに機械があるからあそこでチャージしてくるというと一万円札を出す。二千円も入れれば十分だろうというと、とんでもないもっといるのだという。チャージくらいどこの駅ででも出来るのだから少しずつでいい、といくらか言い合いして、ともかく二千円ずつ入れた。結論としては二千円はすぐなくなった。草津―京都間の往復だけでなかった。地下鉄、郊外バス、叡電、それにコインロッカーまでいたるところでICOCAを使うことになった。
 さて、そのICOCAで草津に向かう。新快速ということで、山科、大津、石山、南草津、草津にしか停まらない。20分ほど。410円である。とりあえず宿に荷物を預けて、ぶらぶらしてみる。駅に戻る。駅周辺はマンションだらけである。駅の反対側に出ると、近鉄や京阪がショッピングセンターを出している。その日は近鉄で食べて、食料品売り場に下りてみる。六時半を過ぎると三割引きの札を貼り始めた。よし明日から六時半に買おう。
 草津の宿の本陣跡があるというので足を延ばした。ここは東海道と中山道の分岐点あたりなのだ。建物の前まで行ったが、すでに閉まっていた。今度来ようと思ってそのまま忘れてしまった。ビールとアーモンドを買って帰った。
 明日は石山と大津である。

京都旅行(10)

 三人の子供のなかで一番口の悪い二番目の子が、ぼくらの旅立つとき、自分自身の新婚旅行のときに流行っていた成田離婚にひっかけて、「京都離婚にならないように行っといで」と言った。最近あまり聞かない言葉で、なんだか懐かしい感じがする。
 けんかはしない。妻が一方的に怒って、ぼくは「はい、はい」と言っておとなしくしているので、けんかにならない。ただし、京都は懐かしい思い出だけではない。切れば血の出るようなこともいっぱいあったので、彼女の記憶が過度にそっちにいかないように、用心がいる。
 草津の二日目、この日だけは京都へは行かない。妻の幼なじみが石山で待っている。仮にRさんとしよう。Rさんはぼくらと同じ年だが、聡明な美人で、若々しいのだが、気持ちの上ではお姉さんのような感じがする。
 彼らは、清水比庵の項で書いた高梁のHさんを含めた三人、琵琶湖のすぐ目の前に住んでいた。Hさんだけが一つ年上で、同志社に行き、学友と結婚して高梁に来た。Rさんはいま石山に住んでいる。
 石山駅で降りて迎えを待った。石山駅は国鉄と京阪と、駅がつながっている。京阪は石山寺まで行くので、駅前でカーブして建物の間に消えていく。高架ではない。地面を走る。駅の目の前に踏切があって、信号で制御されながら車や人が行き交っている。なんだか危なっかしい。
 高級車でお迎えに来た。「高級車じゃないわよ」と言うが、われわれが軽にしか乗らないので、普通車はみんな高級車に見える。瀬田川に沿って、石山寺をめざす。この瀬田川が宇治川だ。琵琶湖に注ぐ川は多いが、流れ出る川は瀬田川だけである。流れは速い。
 妻たち三人は子供のとき、この石山まで習字を習いに来たのだという。おかげで二人は達筆になったが、妻だけはぼくと同じで悪筆のままだ。父親の転勤が多く、習い事がすべて中途半端になったそうだ。
 石山寺は、Rさんたちにとっては町内の寺なのだという。子ども神輿が寺の急な階段を駆け上がる。Rさんたちは保護者としてその世話をする。歴史の真っただなかで生活しているわけだ。
 石山寺は言わずと知れた源氏物語由縁の寺である。紫式部がここで源氏物語の着想を得たという。ずっと上がって行くと源氏物語の記念館があった。そこに紫式部直筆の写経がある。着想を得たお礼に、写経して残したのだそうだ。達筆である。源氏物語自体は直筆は残っていない。先日の朝日の記事によると、下書きと、清書と二通りの直筆があったのだが、下書きは藤原道長が式部の部屋に忍び込んで盗み出し、娘の彰子に与えたのだという。彰子は一条天皇の中宮で、式部はその人に仕えていた。このときすでに未亡人で、道長の女と書いてある系図も見たことがある。たぶんそういう噂もあったのだ。清書のほうは、書家に写してもらうために渡してそのまま返ってこなかった。その写本から、さらにさまざまな人が写して現代に伝わっている。
 一条天皇の皇后定子に仕えた清少納言と、宮中に二つのサロンができてライバル関係だった。それは日本史の奇跡のような時代である。
 ぼくはじつは原文でも口語訳でも通しては読めていない。死ぬまでには読みたいと思っているが、望みがかなうかどうか。筋書きは、かなり詳しいものを中学生のときに読んだ。そのときからずっと読みたいとは思っていた。54帖あるなかで、帚木の巻だけは、いちばん短くて読みやすいといわれていたので、原文で読んだ。例の「雨夜の品定め」である。若い源氏とその妻の兄で親友の頭中将と、もう一人身分の低い年かさの男と、三人で、雨の夜、宮中で宿直しながら、退屈まぎれにどんな女がいいかという話を始める。という話をぼくが披露したら、Rさんが男というものはどうしようもないという表情で苦笑いした。
 与謝野晶子の現代語訳が文庫で出ていて、何冊もあったのだが、最初の数冊は読んだ。随所に短歌が出てくる。決め場面というところを短歌で決める。これが煩わしくて、結局読み続けられなかった。
 宇治十帖の悲恋物語は特に好きだったが、いまではあらすじも忘れてしまった。誰かが宇治川に飛びこんだはずだが、それが浮舟だったか、それとも宇治八の宮の姉妹のうちの一人だったか、それすらもう覚えない。
 紫式部は石山寺にこもって小説の想を練った。そのとき瀬田川に浮かぶ月の影を見て、「今宵は十五夜なりけり」と書き出したのだという。これが須磨の巻の書き出しである。須磨の巻から書き出したという伝説がある。そんなことはないとぼくは思う。須磨の巻は源氏が敵方の女にちょっかいを出してやばいことになり、京都を逃れて明石、須磨に引っ込み、そこで明石の上と巡り合う(転んでもただでは起きない男で、どこででも女をひっかけるのだ)というシーンで、これは源氏物語の一番要の発端からずれ過ぎている。
 Rさんが石山寺を町内の寺としながら、源氏物語をあまりご存じない様子なので、ついついそういう蘊蓄をしてしまう。うるさい男だと思われたかもしれない。知っていることをしゃべらずには気がすまない人間なのだ。
 石山で書き始めながら、十五夜はなぜ須磨なのか、瀬田でよいではないかという疑問が提起された。そんなことはぼくは知らない。交通機関のない時代に、式部はどこまで行ったのか、須磨、明石にも行ったのかと問いかけてくるが、そんなこともぼくは知らない。ただ、式部の父親は福井の知事だったころがあり、女性はカナ文字しか習わなかった時代に娘に漢文を教えた人物だ。式部もたしか娘時代を福井で過ごしているはずだ、というこれはぼくのうろ覚え。あんな不便な時代だが、人々は意外と行動的だったのだ。
 石山を堪能したら、浜大津まで出る。琵琶湖の目の前で食事する。Rさんが豪勢な食事をおごってくれた。その日はちょうどぼくの誕生日だった。誕生日がもうあまりうれしくない年齢なのだが。
 それから膳所へ行った。ここが妻たちの故郷である。膳所城跡に出る。琵琶湖に突き出した正方形の平べったい土地で、公園になっている。ところがどうも記憶と違う。あとで聞くと、目の前の橋が瀬田橋ではない。新しくできた橋で、昔はなかったのだ。その橋のせいで、印象がまるで違ってしまった。瀬田橋はもっとずっと南の石山だから、かなり遠回りになる。この橋で大津と草津が近くなったということらしい。
「今日は石崎さんには関係のない場所ばかりで、退屈だったでしょう」とRさんが言う。「いや、ぼくも膳所城には来たのです」「誰と来たの。いまのうちに全部白状しておきなさい」と言われた。冗談じゃない。妻と来たのだ。ほかに来る人なんかいない。ところが妻はすっかり忘れている。
 膳所の彼女の育った家にはむかし来た。その真ん前にあるパブテストの教会にも来た。クリスマスにも来た。彼女もそれは覚えているが、膳所城のことは覚えていない。
 石山駅への帰り道すがら、膳所界隈を走る。「ここは何々ちゃんの家。ここは何々ちゃんの家」と妻がその度指摘する。
「それはみんな小学校時代の友達か」「そうよ」「よくそんなのを覚えているな。おれはもう誰も覚えていない」「あ、でもこれはみんな成績が良かった人たちだから記憶に残ってる」「そうか、おれは自分がいちばんだったから覚える相手がいないんだ」そこでRさんがすかさず、「あ、うちの人と一緒。自分以外はみんな馬鹿、阿保、間抜けと思ってる」と批判した。ぼくはぐうの音も出なかった。かわいい顔して厳しいことを言う人なのだ。
 また、「ここにピアノを習いに来た。ここにはバレーを習いに来た。バレーボールではないよ」と言う。何でも習ったが、習字と一緒で、転勤転勤で中途半端になったらしい。
 琵琶湖は彼女たちの遊び場だった。そこで泳ぎも覚え、ボートにも乗った。ある日、Rさんと二人で沖へ向かって漕いだ。いつの間にか日が暮れ、家の方角が分からなくなった。どうしようと、途方に暮れていると、ふと、教会の屋根の十字架が見えた。それを目掛けて懸命に漕いで、やっと帰り着いた。帰りつくと近所中が集って大騒ぎになっていた。

京都旅行(11)

 20日に福山を出て、25日だから6日目である。折り返し点を過ぎた。草津の二日目、京都へ向かう。今日は鞍馬、貴船と決めていた。
 むかしうろついていたのは、市電のある市街地だけだから、こんどの旅はむかし足を延ばさなかった郊外が主になる。銀閣寺、哲学の小径周辺はさんざん歩いている。嵯峨野は市電こそないが、嵐電で何度も行った。嵯峨野の主なところは二回ずつほど行ったような気がする。保津狭のトロッコ電車は何度目かに来たときに乗った。京都はいったん離れてからも何度か来ているので、いつ行ったのかはすでにあいまいだ。
 鞍馬、貴船は行ってない。有名なところはいちおう制覇しておかないと悔いが残る。
 京都駅からバスでまっすぐ出町柳を目指す。ここへ来るのはほんとに久しぶりだ。むかしの記憶はもう残ってないので、変わったのか変わらないのかわからない。もっと寂れた場所だったような気がするが、少しあか抜けている。京阪が、昔は三条までしかなかったが、いま出町柳まで延びて、叡電と連絡したのだとは聞いていた。
 京都の郊外電車は叡電と嵐電である。叡電は比叡山へのケーブルまで行き、嵐電は嵯峨野、嵐山に行く。いまどこが経営しているのか知らないが、昔は京福電鉄と言っていた。その名前からすると京都と福井を結ぶ路線がその昔あったのであろうか。これは未確認だ。福井は何となく京都の裏玄関という感じがする。むかし日新電機で働いていたときに、何度も、福井や隣接する京都府下の海水浴場へ行った。そこらじゅうに行ったような気がする。海岸の向こうにコンクリートの巨大な建物が見えて、あれは何だろうと言いあっていた。無知だったのだ。遠浅の白い砂と透明な海水と心地よい太陽とを満喫していたが、じつはそこら一帯が原発銀座だったのである。
 それはさておき、切符を買う。あとで、ICOCAが使えるのだと知ってからはそれを使った。しかし、キャッシュレスに不慣れなぼくらは、何となく不安になる。ICOCAカードには残高が表示されるわけではない。普段国鉄で利用する際は、改札を通るときに金額が表示されるのを瞬間的に読みとるが、叡電でもバスでも金額は出ない。たぶん出なかった。ごまかして引かれているんじゃなかろうかと半信半疑になる。
 宝ヶ池で八瀬比叡山行きと別れて、鞍馬は終点だ。そこからケーブルでさらに上がる。降りたところからこんどは徒歩で上がる。北山の山中だ。眺望はよい。むかし北山の山中でキャンプして、そこからグループに分かれてハイキングに出て、道に迷い、一晩野宿をした。北山はどこまで行っても山だから、迷い込んだらなかなか出られない。いまとなっては思い出だが。
 どこまで上がったか、どこまでか上がり、たぶん本堂を過ぎて奥の院まで行ったのだと思うが、ガイドブックではそこから貴船に抜けられるようになっている。徒歩時間を書いてあるが、十数分という単位だ。だが、見ると、どうもさらに登らねばならないようだ。あきらめて下りにかかる。かなり急な道だ。足の悪い人は上りよりも下りが堪えるらしい。妻がここで少し足を痛めた。
 叡電まで戻る。一駅引き返すと貴船口だ。鞍馬は鞍馬で、貴船は貴船口だ。この「口」が曲者だった。ガイドブックがじつはハイキング用のガイドブックで、歩くコースと所用時間を書いてあるが、歩くところだけ書いてあって、周囲が切れている。それを知らずに、貴船と書いてあるところが貴船口だと思っていた。すぐ目の前にある筈だと思って歩き出そうとして、妻からストップがかかった。バスが来た。運転手に尋ねると、歩けば一時間かかるという。やばいところだった。貴船は川に沿った道である。川床に桟敷を作ってある。貧乏旅行には関係がない。たとえ金があっても、ほとんど食欲がない。短時日にいろいろ観たので、何を観たのかよくわからない。そのとき満足したらそれでよいのだ。ぼくが関心あるのは道なのだから、行った場所よりも、行き来した道のほうが大切なのだ。
 バスで貴船口へ戻る。叡電に乗り、一乗寺で降りた。詩仙堂へ行きたいのだが、降りるところをまちがえた、修学院なのだと妻が言う。ふたたび叡電に乗って、一駅戻る。ICOCAをかざすだけなので気楽に行き来しているが、実際にはその度に金を引かれているのだ。修学院から白川通に出て歩く。歩いているうちに結局一乗寺まで戻ってしまった。ハイキング用のガイドブックが細切れなので、たいへん分かりにくいのだ。全体の位置関係が分からない。東西南北もめちゃくちゃだ。ガイドブックの選択を間違えている。一乗寺下り松のバス停に来た。むかし戸籍を見たときに、ぼくの出生地は一乗寺下り松と覚えたが、最近見ると、一乗寺松田町になっている。どのみちその界隈にはちがいないが、ただそのあたりというだけだ。詩仙堂はそこにあった。それもガイドブックに騙されてかなりまわり道をした。最短ルートを書いてない。まわり道を書いてある。
 詩仙堂は、名前はロマンチックだが、詩というのは漢詩なのだ。漢詩に興味がないわけではないが、勉強しそこなったので、よくわからない。有名な漢詩人が住んでいたとか何とか。庭に下りて歩いたような気がする。
 叡電に乗らずにバスに乗る。そのまま京都駅に行ったのでは、一日乗車券を損する。今出川から、同志社前に来て降りる。同志社前は同志社女子大前である。同志社の正門は烏丸今出川だ。女子大と大学との間に道路がある。そこを入って、相国寺へ来た。下鴨から歩いて通うときはこの寺を近道にした。北大路と出町のあいだの賀茂川に橋が一本あって、そこを渡ってくるのだ。相国寺の表が同志社で、裏が成安だというと、妻が怒って、表が成安で、裏が同志社なのだと言った。妻の通う成安は相国寺の北側にあった。相国寺を東に出たあたりに寮があったといって、そのあたりを歩いた。すっかり変わっていて、何もわからない。成安のあったところは京都産大が新たに何か建てていた。
 烏丸通に出て南下する。同志社前を通る。そこが正門で、今出川との角が冷泉家だ。烏丸を挟んだ反対側にあった学生会館はもうない。同志社がまた何か別のものを建てていた。その細い道を西に入っていくと、室町通の次が新町通で、そこに新町校舎があった。英文科の校舎だった。いまあるのかどうか知らない。
 河原町と堀川とはさんざんバスで走ったので、一度烏丸でバスに乗ろうと烏丸通を御所に沿って南下する。なかなかバス停がない。人通りもない。同志社の学生もこちらには来ない。おかしいなと思いつつ歩いたらバス停はあった。バス停はあったがバスがなかなか来ない。待っている人もいない。時刻表を見ると、一時間に一本しかなくて、それもさっき出たところだ。この通りは地下鉄があるので、誰もバスには乗らないのだ。だからバスもないのだ。引き返して、結局河原町を帰った。
 明日は岩倉に行く。

京都旅行(12)

 9月26日、7日目である。と書いて、そうか、あれは9月のことだったのだと改めて驚いている。10月がどこかへ行ってしまった。もう11月である。こういう月日の経つ速さに、そのつど驚いている。きょう出した手紙に、10月の最後の10日間の京都旅行と書いてしまった。そのくらいの感覚しかない。
 岩倉だ。
 京都駅から地下鉄に乗る。今回の旅行で初めて乗る。前回来たときには京都駅―北大路間しかなかった。東西線は二条駅―蹴上間だけだった。今回烏丸線を北の終点まで乗る。北の終点は宝ヶ池国際会館だ。地下鉄はさすがに速い。その代わり地下だから、まったく観光にはならない。ただ移動するだけだ。観光客を地下鉄に誘導すると言っても、少し無理がある感じがする。地下なんか観光したくない。だが、ぼくは乗り物も好きなので、地下鉄も一応は乗ってみたいのだ。福山には地下鉄なんかないし。
 北大路までまっすぐ上がって、そこから東に曲がる。おそらく上賀茂神社あたりをかすめて、松ヶ崎である。松ヶ崎は京都工芸繊維大学のあったところだ。いまは移転したようだ。むかしの京都高等工芸学校である。父の出身校だ。学校を松ヶ崎と呼ぶ習慣があったらしく、両親の会話にしょっちゅう松ヶ崎が出て来た。同窓会報も松ヶ崎という名称で、定期的に送られてきていた。ここの現在の学長は、うちの町内の長老の方の息子さんである。奇妙な偶然で、町内会長をしたときに一度電話でお話しした。そのときにはそんな方とは知らなかった。
 じきに宝ヶ池に着く。地下鉄だから駅も地下だ。だから地理がまったくわからない。みんなが歩いていくほうへとりあえず歩く。かなり歩いて、やっと地上に出た。池をざっと見てそれから岩倉へ行こうと決めていた。地上に出てからもみんなの行くほうへ歩いたのだが、どこに池があるのかさっぱりわからない。人々は国際会議場を目指して歩いているのだ。地図を見る。池はどうも遠いようだ。池はもういい。バス停を探そう。反対方向へ歩いてしまっている。引き返す。バスステーションがあった。地下鉄の停まったところからまっすぐ上がればよかったのだ。もっとも、池を見る気持ちもあったのでうろうろしたのではあるが。
 バスに乗り、実相院で降りる。とりあえず、そこを見学。看板を頼りに、岩倉邸まで引き返す。50年ぶりの岩倉邸だ。同志社に入って最初のクラス会をここでやったのだ。というのはクラス担当が岩倉具視の孫だったので、招待されたのである。言語学の教授だった。授業には一度だけ出た。どの授業もひととおり一度は出たのだ。二度とは出なかった。いま思うと理由はよくわからない。その一度きりの授業が奇妙に記憶に残っている。
 ローマ字論者だった。彼の論説によると、日本語の文法はローマ字にぴったり合っている。五段活用にとって、ローマ字はまさにそのためにあるかのようにぴったりだ。ひらがなは必ずしも適当ではない。日本語の半分は中国語だが、でありながら、発音に中国語の複雑さがない。単純化した中国語なので、同音異語がとてつもなく多い。耳で聞いたのでは意味のわからない言葉が多すぎる。こんな言語は世界中ほかにはない。中国語由来の単語をなるべく大和言葉に戻す。そうすれば同音異語はなくなり、漢字は必要なくなり、ローマ字が最適になる。
 まあ、無理だろうとは思った。中国語をこんなに無分別に輸入してしまったのは、ひとつには日本語では表現できない概念が大量に輸入されたからで、いま英語が氾濫しているのに似ている。工夫すれば日本語にできたのかもしれないが、ひとつには衒学趣味もあったのだろう。これもいまの傾向と似ている。しかし、ぼくの考えるところでは、もう一つ決定的な理由がある。それは、旧来の日本語=大和言葉は、発音にまどろっこしさがあるということだ。日本語は、子音+母音の連続で成り立っていて、これがローマ字がぴったりする理由なのだが、つまり多音節語なのだ。
(英語)school(1音節)=(中国由来の日本語)学校(2音節)=(大和言葉)学び舎(4音節)
 いろいろな単語で試してみるがいい。こういうことだから、日本語は悠長で、日常会話に適さないのである。と、ぼくは結論付けたが、しかし、教授の主張には耳を傾けるべきところがあると思った。日本語で生活し、日本語で人とつながり、日本語でものを考える人間として、日本語のこういう特徴はずっとぼくの頭にあった。
 それはそれとして、同志社英文科は、1学年だけで500人くらいいた。それを男女無関係に、ファミリーネームのアルファベット順にクラス別けする。1クラスが50人くらいいた。そのなかで、ぼくのクラスでは男は7人だけだった。あとは全員女だ。Iの頭文字がほとんどで、Hの残りが何人か混じっていた。石井、石垣、石野、市川、生駒、井上、といった具合である。最初のうちはつるんで行動していたが、じきにそれぞれのクラブ活動のほうへ流れていった。
 そのいちばん初々しい頃のクラス会なのだ。今回再訪してみると、小さな家の小さな部屋だ。いかにも歴史的建造物である。そんな部屋で、地元の高校から来た女の子の提案で、みんなでゲームをやった。片足をつかんでケンケンするような乱暴なゲームで、おいおい、この歴史遺産のなかで我々はそんなことをやったのか、といまさらながら呆れかえった。あのときは老岩倉教授も苦笑いしながら一緒になってケンケンしていた。
 ここで維新の大物たちが会議を持った。誰と誰だったか、正確なところは忘れた。岩倉という名前の由来。岩倉は源氏だが、当時は住むところが通称になる。岩倉というあんな田舎に住むのは気狂いだ、という意味をこめて岩倉と呼ばれたと老教授は説明した。
 叡電の岩倉駅まで歩けるかと受付で尋ねた。道を教えてくれた。むかし、出町柳で待ち合わせて叡電で来たのだから帰れるのだ。それでも田舎道を迷いながら、なんとかたどり着き、叡電に乗った。
 ここまで書いてなんか変だなと考えていて、ふと気がついた。
 9月25日の記事を間違えていた。鞍馬、貴船へ行った日である。その日は朝、コインランドリーの開店を待って大量の洗濯物を持ち込み、一度引き返してまた取りに行ったりした日で、京都へ来たのがすでにかなり遅く、それから鞍馬、貴船を歩いたのだから、詩仙堂へ行く時間などなかった。貴船口からまっすぐ叡電で出町柳まで帰り、そこから同志社女子大、相国寺、成安跡へと行ったのだ。
 詩仙堂へ行ったのは、岩倉からの帰りで、26日、今日なのだ。叡電に2回乗ったので混同した。
 叡電の岩倉駅から乗って、一乗寺で降り、修学院に戻り、また一乗寺まで歩いて詩仙堂へ行き、一乗寺下り松のバス停からバスに乗って、北大路を走ったのである。
 バスは叡電の線路を横切り、高野橋で高野川を渡り、下鴨に入って、洛北高校から、府立大学前、植物園前を通り、北大路大橋で賀茂川を渡り、かくて、烏丸北大路のバスステーションに到着する。
 ここにむかし市電の烏丸車庫があったのだ。いまはバスステーションになっていて、地下へもぐる。地下鉄烏丸駅と同居している。地下へもぐってしまうので、バスから降りたが、方向がまったくわからない。上へあがっても、大きなショッピングモールの内部である。どこに出口があるのか、どこから出たらどこへ出るのか、方角が分からないので右往左往して、ともかく外へ出たが、そこがどこなのかわからない。
 小学生の時、4つ上の姉に連れられてここに来た。京都駅から烏丸車庫まで市電で来て、その横の狭い道をすり抜けると、祖母の家があった。祖母は母の母である。母の父は奉天でソ連軍に銃殺されて亡くなった。母は一人娘で、父と結婚して十日町から福山に来てしまったので、祖母は一人暮らしをしていた。土地は借りた土地で、家は祖父が建てた。一人になったので、下の階を一家に貸し、自分は二階で、おそらく夫の遺族年金と、あとは謡いを教えて暮らしていた。この祖母の姉か妹かが、下鴨でお琴を教えていたのだ。二人は三条あたりの酒屋の娘で、お嬢さん育ちだったが、家業が破産し、どちらも早くに夫をなくして、娘時代に手にした技芸で生き延びてきた。
 50年前京都で暮らしていた時は、そんな場所を探そうとは思わなかった。烏丸車庫近辺は何度も来たのに、一度もその家を探そうとは思わなかった。今回、なんだか、そんな気になってしまった。
 ところが方角が分からない。烏丸車庫の横の細い道といっても、いまはでかいショッピングモールだ。もう一度中に入ったが、ぐるぐるまわって、結局また同じところに出てきた。もういい。ここはたぶん北側へ出たのだ。細い道を歩いてみれば何かを思い出すかもしれないと期待したのだが、そんな道はもうないし、家だってどこにあるのかわからない。新町へ行こうということで歩きはじめる。烏丸から西へ行けば、室町の次が新町だ。途中表札を見ると、板倉町になっている。場所はこのあたりなのだが、思い出すものはない。北区小山上板倉町はぼくらが結婚するまで、ぼくの本籍地だった。番地まで記憶している。それが祖母の家で、我が家は転居が多かったので、そこを本籍にしたのだ。
 新町らしい通りに出た。新町だと思うのだが、表示がない。昔は町の表示がいたるところにあって迷うことがなかった。いまでも中心街には表示があるが、中心を逸れてしまうと、家も建て替えてあるし、表示もなくなっている。
 新町はむかしは賑やかだった。姉と来たとき、そこで夜店をやっているというので、姉の幼友達が誘いに来た。三人で行った。そのおりの様子などもちろん覚えていないのだが、にぎやかなところだったという記憶はある。ところがいまの新町は、いまの大宮同様、シャッター街だ。すぐそばに大きなショッピングモールができたのだから、商店街は消滅する。
 姉の通っていたのが新町小学校だという記憶があって、それを探すが見当たらない。北大路欣也が同級生だったという小学校だ。うろうろして、新町を外れたところに、小学校を見つけた。土地の人がいたので聞いてみる。「これは立命館小学校よ。新町小学校というのはここにはない。今出川のほうにある」という返事。小学校をぐるっとまわって表玄関のほうへ出ると、なるほど私立らしい豪華な小学校だ。
 それで終わりにしてバスで京都駅に帰る。地下鉄烏丸駅があるのだが、すでにバス一日券を使っているので、これを使わねば損だ。烏丸通にはバスはないので、河原町を帰ったのか、堀川を帰ったのかは、もう覚えていない。
 明日はいったん草津を引き上げ、大原に向かう。

京都旅行(13)

 9月27日。8日目。大原である。
 ここはじつは一度だけ来たことがある。50年前だ。父が福山から出てきて、大原で同窓会をやるので、おまえも来いと言われて行った。どうやって行ったか記憶にないが、大原へ叡電は行ってないし、バスで行くしかないからそうしたのだろう。川べりの座敷で、父の同窓生たちに紹介されて飲み食いした記憶はある。
 草津の宿をいったん引き払う。大きな荷物を持って快速電車に乗り、京都駅に来た。荷物を大原へ運んでくれる商売もあるというが、多少金額が張るので、持っていくことにする。どこまでも貧乏旅行なのだ。だが、チェックインには早すぎるから、そのへんをうろついてから行こうということで、とりあえず、荷物をコインロッカーに預ける。そうなのだ。コインロッカー代と、荷物を運んでもらう料金とを比較して、コインロッカーを選んだのだった。そのコインロッカーの使い方が分からない。500円玉を入れたが返ってくる。100円玉しか使えないと書いてある。100円玉が3枚しかないので、両替を探す。両替の機械はあったが、ICOCAでもいいんだよと教えてくれる人がいた。そのICOCAをどう使うのかがわからない。なんかいろいろやっているうちにカチャとカギがかかった。
 まず大原行のバスを確認する。乗場と時刻表を見て、手ごろな時刻をメモする。切符売り場に行くと、一日乗車券の少し高いのを買えば、それが使えるという。ちょうど手持ちの乗車券が切れていたので、そうする。……と書いているが、そういうことはすべて妻がしてくれたのだ。ぼくはその間そこらをうろうろして行き交う人々を観察していただけだ。そうなのだ。ぼくは道も好きだし、乗り物も好きだが、人を見ることも好きだ。だから都市が好きなのだ。どこへ行っても人ばかり見ている。お寺や神社よりも人のほうに興味がある。
 東寺へ行く。ぼくは京都駅裏の市バスの車庫に住み込んで宿直をしていた時期もあり、また日新電機の分工場にいた頃は九条の寮にいた。だから、東寺はしょっちゅう目にしたし、たぶん近くも通っていると思うのだが、なかへ入ったことはない。
 福山方面から京都へ来ると、まず東寺の五重塔が目に入る。これを目にすると、京都へ来たなと実感する。今回9月20日に来たとき塔が見えなかった。というのは新大阪で新幹線を降りて、快速で京都入りしたので、これは在来線だから、おそらく新幹線の高架が邪魔して見えなかったのだ。
 東寺の五重塔のてっぺんは、宝ヶ池の地面の高さに等しい。京都はそのように北と南で大きな高低差があり、だから、「上がる、下がる」という表現がぴったりなのである。
 東寺はあるが、西寺はない。むかし消失して再建されなかった。高野山弘法大師の寺である。
 歩いても大した距離ではないと思ったが、バスで行くことにする。駅前の通りを少し西に走って、大宮通で国鉄の下を潜り裏手に出る。そこが東寺、唐招提寺である。広々とした敷地である。大徳寺は寺内に所狭しといくつもの坊があって、坊のほかはほとんど通路だけという印象だが、ここは広大な寺域にぽつんぽつんと講堂や金堂や五重塔があるという感じである。観た。
 ついでに梅小路の鉄道博物館へ行ってみるかということで、ふたたびバスに乗る。大宮通を引き返して元のところに戻り少し西へ行く。バス停をひとつ早く降りすぎた。ひと停留所歩いた。梅小路公園や水族館のあるあたりを歩いて、博物館に出る。大きな建物だが、ほとんど客がいない。入場料が高いので入るのはやめた。孫でもつれて来た時に入るべきところだろう。ここはむかしの操車場のあとなのだ。貨物車が減ってしまったので、全国的に駅近辺の広大な一等地が要らなくなり、こういう施設に換わっている。そろそろ駅に戻ろうということで、バス停でバスを待つ。バスは来たが、京阪バスだ。以前書いた。京阪バスでも一日乗車券は使えるが、このバスはどこか遠方から帰ってきたバスで、乗るときに整理券を取らねばならない。整理券は取った。だが、一日券は使えない。結局金をとられた。始発からとられなかっただけましである。短距離だから少額だが、ミスをしたのが悔しいのだ。せっかくいつもより高い一日券を買っているのに。
 駅のロッカーに戻り、ICOCAを使って荷物を取り出す。大きな荷物を抱えて大原行のバスに乗った。

京都旅行(14)

 トップで並んだので、一番後ろの席をキープした。待っている間にだんだん乗ってきて、ほぼ満席になった。そのままノンストップで行くのなら、荷物はどこにでも置けるだろうが、途中の停留所で乗り降りがあるのだ。最後尾に乗って正解だった。荷物を妻がなんとか足のあいだに収めた。大きな荷物の客はわれわれ以外に見当たらない。あらかじめ送ってあるのだろう。
 朝、宿を出る前に電話して、バス停までの迎えを頼んだ。忙しいときは行けないということで向こうが時刻を指定した。それで、その時刻にちょうどよいバスを選んだのだった。
 いまバスの地図を見ると、このときのバスは市バスではなく、京都バスのたぶん17番だった。これは烏丸通を上がる。烏丸四条までは、けっこう烏丸通を通るバスもある。四条で曲がって、河原町を通り越し、四条大橋を渡って、川端通に出る。鴨川に沿ってその東岸を走る道路である。三条、二条、丸太町から、出町柳をかすめて、そこからは高野川に沿って走る。そのまま行けば岩倉方面だが、宝ヶ池から八瀬比叡山口のほうへ曲がり、そこも通り越してどんどん山の中に入っていく。ずっと高野川に沿ってその源流方向へ向かう。
 その山のなかにも停留所があり、乗り降りがある。降りますのボタンを押して運転手に報せるのだが、この山中で何度も次停まりますが点いては誰も降りようとしない。運転手が頭に来て、ボタンに触らないでくださいとアナウンスした。子供がいたずらしていたようだ。その子だろうか、ずっと泣いていて、お母さんが「もうやめて」と言いながらスマホを操作している。あとで妻が「あのお母さん、子どもが泣いているのにスマホしてたね」と言った。でも何か必要があったのかもしれない。
 東西南北で言うなら、緯度は鞍馬、貴船とほぼ同じだが、そのあいだには奥深い北山があって、隔てられている。鞍馬貴船は叡電で行けるが、こちらには叡電はない。曲がりくねった山道をバスで上がって行くので、よほど山奥に行く感じがする。
 終点にバスステーションがあった。一日券で降りることができた。ただしこの券は600円ではなくて、900円だった。妻が克明にメモしている。この記事はすべて妻のメモに基づいている。さもなければ書けない。
 電話すると迎えが来た。そこからまたかなり登った。
 民宿である。畳の部屋だ。食事も庭に面した畳の部屋で、水炊きを食べた。久しぶりにまともな食事をした。風呂は外へ出て、ちょっとした丘を登る。露天風呂ふうだが、山の中の夜なので何も見えない。自分で布団を敷いて寝る。
 9月28日。9日目。純和風の朝食。働いているのは若い男の子たちで、高校生のバイトのようだ。
 まず手近の寂光院へ。安徳天皇の母、徳子の隠棲したところである。ここは年配の女性が解説してくれる。ここと、三十三間堂の隣の養源院がそうだった。ちなみに養源院は俵屋宗達の描いた象や虎のほかに、血染めの天井を売りにしている。伏見城にいた徳川方の鳥居元忠ら380名が石田三成に攻められて全滅し、その血を吸った床板を、天井に使っている。天井を指さして女性が一生懸命説明するのだが、よくわからない。
 寂光院。聞き違えたのか、解説の女性が間違えたのか、諸説あるからなのか、不明だが、壇ノ浦の平氏滅亡時、徳子は25歳、それから数年後には死んだ、と聞いた。そんなに若かったのかと驚いたのだが、いま資料を見ると、徳子は1155年の生まれ、壇ノ浦が1185年だから、30歳だ。死亡年はいろいろあるが不明という。若く死んだという説もあるが、平氏滅亡の記憶の新しいうちに徳子が死ねば、この人ならそれを書いただろうと思われる人の日記に記事がないという。1213年に死んだという説もある。それだと58歳だ。
 25歳と聞いてあまりの若さになにがなし悲しい気持ちにさせられたが、30歳と読むと、少し気持ちが薄れる。悲劇のヒロインは若いほど心をうつということなのか。
 すぐ近くに彼女の墓もあるが、かなり登らねばならないようなのでやめた。
 源平合戦は小学生のときに「源平盛衰記」の少年版を読んだ。そこに出て来たエピソードはいまでもほとんど覚えている。のちに司馬遼太郎の「義経」と岩波新書で永原慶二の「源頼朝」を読んだ。考えてみると、ほかになにも読んでない。つくづく読書してないなあと我ながらあきれる。
 寂光院を切り上げて三千院に向かう。これはバスステーションのあったほうだから、かなり歩く。でも近道があって、車で来たときほどではなかった。田んぼ道を歩くのだ。大原女の小径と呼ぶ。いいハイキングコースだ。
 三千院は参道が賑やかである。店が並び、人々がぞろぞろ歩いている。父の同窓会に参加して飲み食いしたのはどこだったのだろうと考えるが、とうていわからない。料亭がたくさんある。川も、高野川の源流だろうが、何本も流れている。呂川と律川とあって、呂律がまわらないの語源だそうだ。たしか靴を脱いで建物のなかを歩き、その先はまた履いて、ずっと上まで登った。寺域が山になっている。広い。そこを出て近くにもうひとつ何かあるというのでかなり登った。いま登って来た同じ山をさっきは塀のなかを歩き、今度は塀の外を歩くという感じ。結局、途中であきらめた。それからまたぶらぶらと帰った。どこかで昼食を食べたのだろうか。まったく記憶にない。
 その日の夕食はすき焼きだった。客が増えていて、椅子席の部屋に換わった。翌朝の朝食も同じ場所で食べたが、西洋人のカップルが近くに2組いて、純和食なので、彼らの口に合わないようで、ほとんど何も食べていなかった。
 9月29日。10日目。京都駅へ帰って、最後にもう一日草津に泊まる。明日は帰るだけなので、今日が最後である。その最後にハプニングがあって、忘れられない日となった。それはまた次回に。

京都旅行(15)

 9月29日。10日目。朝食のあと、荷物があるので、バスステーションまで車で送ってもらう。一日乗車券はないから、たぶんICOCAで帰ってきた。行きと同様、高野川を下って、出町柳から川端通を下る。四条で曲がって烏丸通を帰ってきた。
 この川端通を通るとき、日新時代の、組合大会の思い出が、頭をよぎった。この通りの荒神口近辺に、教育文化センターがあり、そこで組合大会をやったのだ。
 組合大会は代議員が集ってやる。労働者の5人に1人が代議員で、2000人くらい労働者がいたから、代議員はざっと400人か。いまのシネコンのような階段状の講堂だった。
 組合は総評、社会党系なのだが、実質は御用組合である。でも、組合選挙はちゃんと民主的に行われ、共産党員も選ばれていた。その場でぼくは執行部案に対する反対意見を述べた。執行部案は一項目ごとに、討議し採決された。ふと気づくと、採決の直前の発言に代議員たちの賛否が引きずられている。これだ、と思って、どうしても否決したい議案のときに、ぼくは最後にもう一度発言を求めた。すぐあと採決となった。作戦はまんまと当たった。ぼくの案が通り、執行部案は否決されたのだ。
 数日後、ぼくは九条工場の工場長に呼ばれ、梅津の本社への転勤を言い渡された。拒否すると、将来を考えろと言われた。本音では本社に行きたい気持ちがあって、結局、受け入れた。これがまちがいだった。本社は広い敷地のなかに、いくつもの工場建屋があり、ぼくが配属されたのは、離れ小島のようなところで、数人の年寄りしかいなかった。ぼくは監視下に置かれたのだ。
 もともと人間関係の希薄ななかで育ってきたぼくは、年寄りたちと打ち解けることが難しかった。公的な場では発言できても、雑談や世間話はさっぱりできなかったのだ。
 こうしてぼくは挫折を繰り返していった。
 ということを思い出しながら、その鴨川沿いの道をバスに揺られていたとき、妻はその反対側、鴨川の向こう岸に何かを見つけていた。だが、そのときはそれを語ることなく、バスは京都駅に着いた。
 お土産を買って、要らなくなった衣類と一緒に宅配便で送るという。ぼくのほうはどこへ行ってもお土産を買う習慣がないから、適当な待合室で腰かけて待つ。途中で喉が渇いて何か飲みたくなった。ところがスーツケースを二つも持たされていて、動きがとれない。我慢できなくなって、二つを両手で転がしながら、京都駅構内構外で自動販売機を探す。背中にはずっとリュックを背負っている。これは10日間ずっと背負っていたのだ。自動販売機がどこにもない。あとで、地下のコインロッカーの近くにあるのを見つけたが、地上にはなかったので、コンビニに入る。スーツケ-スふたつを転がしながら、缶コーヒー1本を買った。
 妻が帰ってきた。お土産は店が無償で送ってくれるというので、すでに頼んできた。衣類と一緒というわけにはいかないというので、これは宅配業者に頼まねばならない。ということで、業者のところに行った。たぶん、地下のコインロッカーの近くだった。ここでスーツケースの中身を段ボールに入るだけ入れて依頼した。結局スーツケースふたつは手元に残った、ずいぶん軽くはなったが。
 ということだったのだと思う。ここの記憶はあいまいだ。スーツケースはふたつとも持って帰ったと思うのだが、よくわからない。たぶんこのときまた、そのふたつをコインロッカーに預けた。最後に行きたいところがあると言う。河原町に行きたいと。
 バスに乗る。四条を過ぎたが、まだ降りない。丸太町も越えて、荒神口で降りた。その通りを鴨川に向かう。十字架が見える。
「ね、ここをバスで通ったとき、ちゃんと見つけたのよ。河原町に面してると思っていて何度も通ったのに見つからなかった。鴨川の向こうを通ったときに十字架が見えたのよ」
 鴨川にかかる荒神口橋のすぐ手前に、その小さな教会はあった。ドアが開いている。ドアの前に何人かがいた。なかを覗き込むと、「どうぞ、入ってください」と言われた。なかへ入る。ほんとうに小さな教会だ。こんなに小さかったのだろうか。ほぼ満席である。日曜日ではあったが、礼拝は午前のはずだ。いまはもう昼をまわっている。なにが始まるんだろう。
 やがて美しい女性が出てきてナレーターをはじめた。スチーブンソン一家がオリンピックを演じるという。背の高い白人の男性と、かわいらしい三人の男の子たちが登場して、オリンピックのいろんな競技を演じて見せる。そのひとつひとつが聖書にちなんだコントになっている。ユーモアたっぷりの達者な演技と、なかなか利かしたしゃれでひとつひとつを締めくくる。
 たとえば、水泳競技では、スチーブンソンはモーゼの杖で水を塞き止めてしまい、歩いて渡る。男の子の一人はクジラに飲まれる。これはヨナだ。目には目を、歯には歯をが出てきたかと思ったら、その直後に右の頬をうたれて左の頬を差し出すといった具合。これはボクシング競技だっただろうか。
 ナレーターをつとめた女性は、スチーブンソンの妻で、三人の男の子の母親なのだった。
 ここまでは前座にすぎなかった。ここから本番が始まった。
 男性ギターと、女性ボーカルによるコンサートである。これが本日の出し物なのだった。唄は緩やかな讃美歌モードで始まり、突然ロック調になる。次々と演目が進み、何人かが入れ替わり、楽器を替えたりして、続いていく。最後はロックからさらにラップになった。
 ぼくらはこういうものをアメリカ映画でさんざん観たが、日本では初めて経験した。
 すべて終わって、出口でどこから来たのかと聞かれた。「広島県です。ぼくらは50年前にこの教会で式を挙げてもらったのです」
 妻たちが住んでいた膳所の、それも住まいの目と鼻の先にバプティストの教会が建った。小学生たちが好奇心で集まる。やがて子供につられて親たちも来るようになり、こうして妻の一家は家族ぐるみで洗礼を受けた。妻はここぞというときにはお祈りする。もっとも原理主義ではない。いまでは教会にも行かないし、お寺でも神社でも行けばお祈りする。典型的な日本的信者だ。その母親は、「神様、仏様、イエス様」とお祈りしていた。
 父親はキリスト教社会主義者で、たまたまぼくと立場が一致していた。もっとも性格は正反対で、誰とでもすぐ友達になり、ロンドンのパブでも当地の呑み助相手に「しあわせなら手を叩こう」と歌って、「言葉なんか知らなくても仲良くなれる」とうそぶいていたという。この人には到底かなわない。ゼノ神父と知りあって、福山に精薄児施設ゼノ少年牧場を造った。一方では、ぼくにプロレタリア文学集を贈ってくれた。
 という事情で、妻の希望で、バプティストの教会で式を挙げることになった。
 京都に教会は多いが、バプティストは荒神口にひとつあるだけだ。50年前にここで式を挙げたのだと言うと、「きょう歌った娘さんは、そのころの牧師のお孫さんです」と言う。
 式の準備で牧師と話し合ったとき、バプティストの話題をぼくが出した。ベトナム戦争さなかだ。アメリカのバプティストは戦争に協力的だが、日本のバプティストは批判的ですね、とぼくが言うと、「われわれはあの戦争に反対です。われわれの立場は共産党よりももっと左です」と答えた。おや、この牧師は新左翼なのだろうかとぼくは一瞬警戒したが、式の後、日新電機と大阪毎日新聞の共産党関係者が主催して開いてくれた祝賀会に、牧師も来てくれて楽しそうにしていたので、ほっとした。
 そのときの記憶では牧師はそんなに年ではない。われわれより少し上くらいの感じだった。きょう歌った女性は、若々しいが、少なくとも20代の後半だろう。あの牧師にこんな孫がいるだろうかと疑った。でも考えてみるとぼくらにも20歳の孫がいるのだから、あの牧師にもこのくらいの孫がいてもおかしくはない。
 終わりよければすべてよし。よかったのは終わりだけではないが、この終わりがいちばん感動的だった。さまざまな偶然が積み重なって、ちょうど、その日に訪れた。信じられないような偶然だった。

 教会を出ると、鴨川の河原に下りた。川のなかを飛び石を並べて渡してある。むかし出町のデルタで、靴と靴下を脱いでズボンをめくり上げ、鴨川を歩いて渡ったことがある。あのころには、川のどこにもそんな渡し石など見たことはなかった。あくまでも水に入って渡ったのだ。ところが今回注意して見ると、鴨川の流れのところどころにそういう仕掛けがあって、子供たちや若い人たち、観光客を含めた人たちが、行き来を楽しんでいる。
 妻が渡るという。え? めちゃだ。年を考えろよ、と言うが、「大丈夫、渡れるよ」とぴょんぴょん飛んでいく。「早くお出で」と誘う。ぼくは躊躇した。ぼくの運動神経はゼロに近い。とりわけよくないのがバランス感覚だ。耳が悪いせいだと思うが、体の平衡をとることができない。だから自転車だって怖いのだ。よくもこれで、しばしば高所作業をやってこれたなと、思い起こすと不思議なくらいだ。若いときには自分の欠点に気づかない。
 それでも妻がどんどん行ってしまうので、仕方がない、ぼくもやってみた。何とかやれた。反対側に渡って、しばらく河原を歩く。どこか(たぶん丸太町)で河原町に戻り、バスに乗った。
 こんどは四条で降りる。もう一箇所、行きたいところがあると言う。四条通の河原町と鴨川のあいだに、高瀬川が流れていて、そこに沿っているのが木屋町だ。先斗町はもうひとつ先の、鴨川のすぐそばの通りである。今回行くことはなかったが、とても細い通りに飲み屋が連なっている。過去にもそんなところで飲んだことはない。ただ歩いてみただけだ。その町筋には横道が何本もあって、それぞれに「抜けられます」「抜けられません」という趣旨の看板がある。(具体的な表現は忘れた)。行き止まりの道か、それとも木屋町方面へ抜けられるかという案内なのだ。
 木屋町では一度、かつての同人誌仲間と飲み食いした。倉敷に来て間なしに再訪したときのことで、例のコロッケ屋や、まだ坊さんになる前(たぶん)の坊さんや、立命の夜間に通い始めていたNもいたかもしれない。妻もいた。コロッケ屋がカラオケにはまっていたころで、彼はぼくの妻とのデュオで、裕次郎を歌った。ニーチェがカラオケをやるようになるとは思いも及ばなかった。まだカラオケが一般的ではなかったころで、坊さんが苦笑いしていたのを思い出す。この店とコロッケ屋をモデルに、「平井真」を書いた。未完成に終わったが。
 今回、妻がぼくを導いたのは、別の場所である。いま話した通りはいずれも、四条通から北へ入っていく通りだが、妻は信号を渡って四条の南側の歩道を歩いていく。そしてやはり木屋町筋に来ると、それを南に曲がる。ぼくには記憶のない通りだ。
 日新電機に五郎さんという、少し大人びた人がいた。苗字は忘れた。みんなから五郎さんと呼ばれていた。何歳くらいだったのか、ぼくは年上の人の年齢に興味を持たなかったので、そのころから知らなかった。「大人びた」というのは年寄り臭いという意味ではない。若々しいのだが、大人の雰囲気があるということだ。
 ぼくらが阪急沿線の長岡天神のアパートで暮らしたころ、その人は同じ町に、ささやかだが戸建ての家を持って夫婦で住んでいた。親しくしてもらった。奥さんは立命の史学科卒で、北山茂夫の教え子だった。そのころぼくも北山茂夫をかなり夢中になって読んでいた。
 その五郎さんから、この近辺の居酒屋ふうの店でご馳走になったことがあるのだという。初めて聞く話だ。「たぶん、ここ」と言った店はもう違う店になっていた。
 ぼくの人生は間違いだらけだが、そのときも、彼女をつらい目にあわせていた。五郎さんはそれを思いやってくれたのだ。
 そういえば五郎さんの家は自宅だったのだから、長岡天神へ行けば会えたのかもしれない。50年経っているのでもう無理だろうけど、もっと早く気付けばよかった。以前10数年か20年くらい前に、長岡天神を訪れると、ぼくらのアパートがまだ生き残っていた。そのときにでも気づくこともできたのだ。
 だが、そのころはまだ、京都時代の友達の誰とも会う方法を失ってしまう日が来るとは想像できなかった。
 ぼくは友達を大事にはしなかったのに、彼らはみな、われわれが行き詰まったときに手を差し伸べてくれた。それなのに、ちゃんと別れもしないうちにみな死んでしまい、生きているだろう人たちとも連絡がとれない。
 これが50年間だ。次の50年はもうない。後悔だらけの50年だが、でも、たしかにそれはわれわれの50年だ。誰のものでもない。

清水比庵と「心の貧しい者」

 高梁の社会福祉センターで、清水比庵という明治生まれの歌人についての話を聴いた。1966年に84歳で召人を務めているから、それなりに評価のある歌人なのだろうが、名前を聞くのは初めてだ。短歌のほかに、書も画も達者で、絵を描いて短歌を添える。絵手紙を始めた最初の人で、むしろ、そのほうで名前がとおっているようだ。
 その人の孫が東京から来てしゃべった。孫と言ってもすでに87歳だ。日本石油(たしか、そう聞いた)の常務だとかを務めた人で、癌を二回やり、動脈硬化もあって、身体はぼろぼろだと言いながら、一時間立ちっぱなしで、張りのある声でしゃべる。とてもユーモラスで、聴衆を引き付ける。
 比庵は高梁出身で、岡大から京大を出て司法官となったが、健康がすぐれず、安田銀行に転職、そこも辞めて古河鉱業に行ったが、そこも辞め、日光町(当時)の町長を何期か務めた。単身赴任だった時代があって、そのときに子供や、孫たちにしきりに絵手紙を書いた。町長を退いてからはそういう活動に専念したということだ。
 子供は娘が一人だけだったので、その娘の産んだ五人の孫をとてもかわいがった。その一人が講演者である。当日、講演者(清水固という)は妹、娘、孫娘を引き連れての講演となった。奥さんを二か月前に亡くされたばかりだという。
 比庵の母親が高梁にある順正短大(当時は順正女学校。現在順正学園)の第一期生で、順正女学校を建立した福西志計子とも親しく、比庵も中学校時代に福西家の書生を務めていたという関係もあり、順正短大の校歌(彼らは学歌と呼んでいた)は比庵の作詞である。そういう関係で、順正学園と、それに連なる吉備国際大学のシンポジウムとして企画されたのである。
 じつはそのせいで、当初予定の会場が入りきれないほどに客が来て、うしろの戸を開け放つと、隣の部屋とつながった。吉備国際大学の学生たちが大挙して来たのだ。マレー系の学生たちだ。
 はじめのうち例によってお婆さんばかりかと思っていたら、途中から若いマレー系の男女学生がどんどん入ってきて、会場は一挙に華やかになった。
 妻の大津時代の幼なじみがこの地で短歌をやっている関係で行くことになった。この地の短歌の代表者数人がパネリストとなって講演後の第二部が始まったのだが、コーディネイトを務めた吉備国際大学の教授が一人でしゃべりまくって時間切れとなってしまい、パネラーはほとんどしゃべる時間がなかった。
 この若い教授は「いわゆる」とすぐ口に出す癖があって、「いわゆる」「いわゆる」「いわゆる」と連続して出てきて、それでよけいに時間を無駄にした感じがする。
 妻の友人は高梁とキリスト教の関係から、(本人、同志社大学出身だから)、新島襄の短歌について語ったのだが、もっとたっぷり時間をあげてほしかった。
 最後にコーディネイターの提案で、偶然シンポの聴衆として来ていた高梁教会の牧師が飛び入りでしゃべった。これはよかった。これだけはコーディネーターのお手柄だった。
 この人には、むかし会って、高梁教会で話を聞いた。その折は、新島襄の日本脱出の経過を調べていて、博士論文を書いているということで、熱心に話してくれた。ちょうど、京都旅行記でもふれた伏見の又従姉弟が来ていたときで、この人もクリスチャンで同志社女子大だから、高梁に連れて行って、妻の友人の紹介で教会を訪ねたのだ。
 牧師の話は、「心の貧しいものは幸いである」という聖句に関連したものだった。比庵がこれを書画にして、それを高梁教会に飾ってある。もともと福西志計子がクリスチャンだし、比庵の母もクリスチャンだった。妻鶴代は母すゑの兄の娘(比庵とは従兄妹どうし)だが、これもクリスチャンである。この笹田家というのは岡山県北の有漢という村の豪商だったらしい。比庵自身も洗礼は受けたのだが、それはクリスチャンでなければ結婚を許さないと鶴代の母に言われたからで、本人は教会にも通わず、キリスト教に興味はないのだろうと思われていた。ところが比庵晩年の随想に、「心の貧しいものは幸いである。これこそ、私の芸術の核心である」という趣旨の文章があるのだという。つまり、心が貧しいからこそ、何かを求める、それが芸術なのだということらしい。比庵とその芸術と「心の貧しい者」とがぴったり重なって、この日最後の収穫がこの若い牧師によって与えられた。
 この聖句は、むかし烏丸今出川に烏丸通をはさんで新しく建った同志社学生会館(いまはもうない)の一階大食堂の壁の高いところに大きな字で英語で掲げられていた。いっときその聖句の解釈をめぐってこのブログでもやりとりがあったし、ぼくの「失われた夜のために」というへたくそな小説の中でもかなり重要な言葉にしたつもりである。
 さて、もう少し続きを。
 比庵の墓所は笠岡にあるそうだ。笠岡は県境をはさんで隣の市で、自転車でちょっと走れば笠岡である。比庵の妹の嫁ぎ先が笠岡で、戦争中に疎開したこともあったようだ。笠岡の干拓地を望む古城山にも比庵の石碑があるという。
 そして、清水固の講演に戻る。講演の最後、比庵が、齢とってから「くれない」を愛したということで、「くれない」という語の出てくる短歌をいくつも紹介した。それを見て驚いた。福山に帰って以来何度も散歩に行く春日池公園にある石碑の短歌が、登場したのだ。その石碑はわが坪生村の出身でかなり有名な書家らしい桑田笹舟という人の筆跡を刻んでいるのだが、短歌の作者名がない。誰だろうと思っていたら、比庵だったのだ。二人は親しかったらしい。

 あさひいま のぼらむとして くれなゐに ひがしなかばを そめぼかしたり

若紫 2

 きょうの朝日に、全面使って若紫の記事が出たが、先日の研究者の記事とかなり違う。先日の記事では、大島本は俊成本からの直接の写本で、定家本ではないということだったが、今回の記事(たぶん記者が書いている)では、大島本も定家本の写本であると書いている。そういうことなら話はまったく違ってくる。今後、真相が明らかになることを望みたい。

中国地区集会

 民主文学の中国地区研究集会を、この26、27日に倉敷山陽ハイツで終えた。山口、呉、鳥取、岡山の各支部と、東京から櫂悦子が来てくれた。とても楽しい2日間だった。みなさん、遠路ありがとうございました。準備に奔走してくれた岡山の仲間たちにも、ありがとう。
 ぼくは何もできないので、せめて倉敷駅での出迎えだけ手伝った。その朝、駅に早く着きすぎて北口に出ると、たまたま共産党の市会議員が署名と対話の活動をやっていて、赤旗日曜版の見本紙をもらった。久しぶりに赤旗を見た。
 合評の場で、ぼくはいつもしゃべりすぎるので、出来るだけ大人しくしておこうと思うのだが、司会が促した後、すぐに発言が出てこないと、じれったくなってつい喋ってしまう。「ふくやま文学」では20人ほどが我も我もと発言するので、うかうかしていると何も言えないうちに次の作品に移ってしまう。民主文学はおとなしい人が多い。みんな控えめだ。
 今回、やはり作品の読み方はひとさまざまだなと実感した。かなり対立した。でも、だから、面白かった。みんな同意見ではつまらない。
 書く人間というのは、ある程度頑固でなければならないと思う。自分の感性を持つ、それに基づく意見を持つ、人の意見に耳を傾けるが決して同調しない。そういう人間でなければ物を書けない。
 櫂さんはさすがに鋭く深く読みこんでいた。彼女の創作体験も聞けて興味深かった。やはり作家を招んだら、個人的な体験を聞きたい。一般的な話は聞きたくない。
 ただ、いま思い出すと、書くほうの体験は聞けたが、読書体験を聞けなかったなと思う。作家がどういうものを読んできたかは気になるところだ。
 みなさんの作品をこまごまと批判させてもらった。内容はみな素晴らしいのだ。だが、言語を使って表現する以上、その根本的なところができていなければ評価の対象にはなりえない、というのがぼくの意見なので、あえて言わせてもらった。失礼をお詫びする。お詫びはするが、今後もこのとおりなので覚悟してもらいたい。

 山陽ハイツは寂れていると聞いていたが、そんなことはなかった。朝食堂は奥にも部屋があってどちらも次つぎと満席になった。客の朝食予定時間を確認したわけが分かった。修学旅行のシーズンのようで、小学生中学生の集団が順番にどっと入ってくる。たまたま混みあう季節だからなのか、バイキング料理の並べ方には不手際が目立ってよけい混雑した。コーヒーがすぐ売りきれて、一杯目をかなり待たされ、二杯目は飲みそこなった。

井上淳評(図書新聞)

〈老〉と〈死〉を根底・視座とする文学群――〈老〉を根底とする天野律子(「黄色い潜水艦」)・野上志乃の小説(「りりっく」)。親族のいない老人の〈死〉を描く井上淳の小説(「まがね」)。〈死〉を凝視する本多寿の詩(「サラン橋」)

 井上淳の「死ぬまでの日数を数えてみた」(まがね第61号)に、老いて目前に迫る死をどう迎えるかを考えさせられた。戸田は膵臓に腫瘍がある。余命四か月。七十七歳。定職に就かず、独身。親しい知人はゲーム仲間。以前は死が「気楽」で「待ち遠しい」気さえしていたのに、現実に〈死〉をつきつけられると「腹立たしく、悲しい」と思う。最後は仲間たちに囲まれ、「安らかに」息を引き取って荼毘に付され、骨は市の職員に渡された。「人目をはばからず、好きなように生き」たというから、救いはある。とはいえ、遺骸を引き取る親戚もなく、孤独であったことは事実だ。過疎、少子化……日本の未来は、戸田のような人生を送る人が多くなるだろう。

「図書新聞」の11月2日号(№3421)に載った批評です。評者、志村有弘。
「まがね」を初めて「図書新聞」に送り、早速取り上げてもらいました。「図書新聞」はめったに取り上げてくれません。評価されたということで、喜びたいと思います。
 なお、「民主文学」11月号の支部誌同人誌評では、同じ61号の妹尾倫良「終の住処」に、好意的な批評を頂きました。(評者、松田繁郎)。これはネットからコピーできないので、同誌をご覧ください。

若紫

「若紫」の定家本が発見され、これは現在活字になっているものより200年古いのだと報道されたが、じつはそうではないらしい。現在のものは大島本の活字化で、それは室町時代の写本だが、俊成による写本に、より忠実であると言われている。それに対して定家本は同じく俊成本を写したものながら、定家によって変更を加えられているということらしい。
 きょうの朝日新聞である。定家本はいままでに四冊確認されている。「花散里」「柏木」「行幸」「早蕨」である。大島本と大きな違いはない。ただ「柏木」では、薫が源氏のほうへ這っていく場面の描写で、大島本にはある続きの記述が定家本にはない。あるいは和歌の部分が、大島本では改行されていないが、定家本では改行されているという違いらしい。
 この記事を書いた研究者は冷泉家時雨亭文庫調査主任の藤本孝一氏だが、当時の物語は本来読み聞かせて耳で聴くもので、それに合った記述だったのを、定家本は黙読にむいた記述になっていると述べている。韻文部分を目に印象付けたり、しまいまで言いきらずに余韻を残したりしているということだ。耳で聴くものだった物語を、黙読という、より読者の想像力に依存する文学書にしたのであろうと述べている。
 この考察を、ヨーロッパ中世写本学の研究から導いている。ヨーロッパの朗読用写本は、単語を分けずにつながっているのだそうだ。

「樹宴」17号

 9月20日発行。220ページ。それでも収まりきらずに、作品のいくつかを小さいポイントにしている。さいわい、ぼくの戯曲は大きいポイントで載せてくれた。
 守屋陀舟が、2回まで連載した好評の現代作品を休筆して、平安朝の300枚を書きつつあるが、資料調べに手間取って間に合わないということで次号一挙掲載。
 ところがほかの作家だけで220ページになってしまった。
 大丘 忍「春のいぶき」192枚。65ページ。
 木沼駿一郎「愛と死と」240枚。79ページ。
 石崎 徹「コスモス」156枚。56ページ。
 それに木沼駿一郎のエッセイと、池田忠昌の、サンフランシスコ報告および日本脱出の青春記ということで220ページである。
 じつをいうと「コスモス」は400字詰めにしたことがないので、何枚なのか分からない。戯曲なので、400字詰めにはしにくい。木沼さんが勝手に156枚と書いてくれたが、どうやって計算したのかわからない。だが、ほかの作品と照合するとほぼそんなところだろう。
 池田さんのサンフランシスコ報告は毎回たいへん面白い。独自の観点から移民社会を書いており、新聞等では得られない見聞がある。今回それに加えて、青春時代に日本を離れる過程の連載が始まった。楽しみだ。
 10日間の旅のあとで、「ふくやま文学」と中国地区集会も間近に控えて、220ページがなかなか読めない。池田さんの2作品と、木沼さんのエッセイだけ先に読んだ。自作さえ、先日やっと目を通し、またまた間違いを見つけてしまった。
 きのう、「愛と死と」をやっと読了した。その感想は後日書く。たぶんいま木沼さんは入院中だ。一言だけ書くと、たいへん壮大な作品。ばらばらに見えていたことがらが、ラストでピタッとひとつにつながる。なかなか見事である。さまざまなトリックが張り巡らされている。加えて、木沼ワールドは、東京のさまざまな場所の、下町的な風景に味わいがある。何気ない情景描写にリアリティがある。そこが強みだろう。ただたぶん弱点は、人物描写。ストーリーに引きずられて人物が類型になっている。松本清張作品とよく似ている。これは読者の好き好きかもしれないが。あと問題なのは、誤字脱字、てにおはの間違い、漢字の誤用、つじつまの合わない文章、こういう初歩的なところを指摘しあって直していく修業の場が必要だ。小説は文字を使った表現なのだから、文字の使い方に気を付けるべきだろう。
「春のいぶき」は京大時代の話らしく、楽しみにしているがまだ読めていない。
 とりあえず中国地区集会の準備に入るので、それが済むまで、お預け。そのあと「ふくやま文学」の作品にかかるので、もっとお預けになるかもしれない。
「コスモス」については先日から書いているとおり、できがよくない。10年前に書いた元の作品が二つの劇の同時進行というややこしいものだったので、その片方を削除した。ところがその片方というのは主人公の内面劇だったので、それを削った結果、主人公の人物像が描けなくなってしまった。何を書いている劇なのかさっぱりわからない。失敗である。
 だから、今回増刷はやめた。将来決定稿に書き直すつもり。手元の5冊はすでになくなったので、もしご希望の方がおられたら、木沼さんに直接注文して下さい。いまは入院中だと思うが。そういえば、「文芸同人誌案内」に送る分も失くなってしまった。
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