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「樹宴」12号感想

「樹宴」も「まがね」もまだほとんど誰にも送付できていないが、「樹宴」追加入手の見込みがついたので、そのうち送ります。「まがね」はどうせエッセーだけだし、今回10数部しか受け取っていないので、あまり方々へは送りません。
 ということで、まだ送付できていないけれど、一応感想を。

「樹宴」12号

 守屋陀舟「遺書」

 今回の「樹宴」ではこの人の作品が際立っている。いつも良いものを書く作家だが、前号、前々号の戦争ものは、一般読者には少し難解だったかもしれない。
 今回はわかりやすい話である。一応謎解きになっているので、ストーリーの詳述は控える。
 自分の幼いときに死んだ母親の死の真相を知りたがった女性が、恋人と二人で方々を訪ね歩き、次第に謎が解きあかされていく。
 行く先々で、ひとつ謎が解けたかと思えばさらに謎が深まる、という展開で読者を引っ張っていく手法がうまい。
 文章表現力、とりわけ自然描写の秀逸さはいつもながらで、そこに日本的情趣が漂うのも、この人ならではだ。
 でありながら、今回は登場人物を軽妙に描いた。若い男女のやりとりがさわやかだ。これは今までの守屋作品にはなかったもののように思う。深い情景描写のなかに軽い人物表現がぽっかり浮かんでいる感じが、そぐわないようでもありながら面白い。
 読み始めたらやめられない作品。
 ただ、ラストはどうだろう。どこかで読んだような結末なのが気になる。もうひとひねり欲しかった。
 90枚くらいの作品。

 木沼駿一郎「誰か?(笹島の奇妙なアルバイト最終回)」

「樹宴」9号から4回連載の最終回、合計300枚ほどの作品である。
 この人の作品の特徴は、いろんなエピソードが無造作に並べられてその関連性がわかりにくいのだが、それはもう欠点というよりも個性と化している。
「笹島の奇妙なアルバイト」として始まった9号の作品は、この作家には珍しくまとまりがよくて感心したが、号を追うごとにこの人一流の個性が復活したようである。
 ひとつひとつのエピソードはいつもたいへん面白い。人物もよく描けていて、書いている内容も独特である。比較的下積みの人々の人間模様が描けているように思う。
 ひとつひとつ独立の短編小説として味のあるものに仕上がっていると思うのだが、どういうわけか作者はそれを雑然と並べて長編に仕立てたがる。
 見ようによっては井上光晴の小説に似ている。光晴の長編は二つ読んだだけだが、たまたまなのか、二つとも、エピソードの寄せ集めで、一貫した物語世界を読みとることは難しかった。おそらく光晴の意図はその混とんとした世界を提示することそのことだったのだろうが、読者にとってはかなり難解だった。
 そういう作品もあるわけで、木沼作品も読みとる側がどう読みとるかということなのかもしれない。
 推理小説なので、1回2回を読んだ頃は解読に努めたが、3回あたりから行き着く先が見えなくなって、4回でとうとうこんぐらかった蜘蛛の巣の真ん中に置き去りにされてしまった。そういう読後感を楽しむ小説なのかもしれない。
 作品からうかがうことのできるのは、かなりいろんな体験をし、いろんな人を見てきた、そしてまたいろんな本を読んできた、そういう人の作品だということである。
 こんぐらかった蜘蛛の巣にも、作者はそれなりに道筋をつけているようなので、もう一度読み直してジグソーパズルを完成しようと試みるのも面白いかもしれない。

 大丘 忍「誤診」

 医学の知識なしには書けない小説。専門知識を駆使し、また医学現場にあるかもしれぬと思わせる心理をえぐり出している。
 でも大衆小説のタッチなので、読みやすく、わかりやすい。そのためかえって誤解が生じるかもしれない。医者の心理をかなり誇張して書いており、振り回される患者の心理も説明不足のところがあって、深刻な問題が軽く扱われすぎていると感じるかもしれない。
 こういう作品は読者の側の取りよう次第だろう。ぼくとしては、戯画化されてはいるが決してないとは言えない医学世界の一面の傾向の暴露として肯定的に受け取った。
 医学も競争の世界であり、決してきれいごとばかりではない。(というのはわかりきったことではあるが)

 S・T訳  トルーマン・カポーティ「シェイプ・オブ・シングス」

 バージニアあたりを走っている汽車の中。1944年の作品。食堂車のテーブルにたまたま同席した見知らぬどうしの会話。若い海兵隊員の夫婦のテーブルに少し年上の女が相席になり、そのあと伍長が来て座る。この伍長は戦争帰りだ。
 非常に短い作品で、正直言って話は分かりにくい。説明なしにその場で起こったことと会話だけを書いている。そういう原作なのだろう。
 伍長がどうやら神経をやられているようで、非常に苦しそうにする。女が手助けしようとするのだが、伍長がごちょごちょ言い出して、気分を害した女は料理に手を付けずに金を払って立ち上がる。伍長が「食えよ、こんちくしょう」と言って終わりである。
 戦争が兵士の心に与える傷を書いているのだろう。
 原作者の書きたかったことは伝わってくるのだが、こういう短い作品の翻訳は大変難しいと思う。おそらく行間を読ませるような作品で、それを異なる言語に置き換えることには困難があるだろう。

神里達博

 朝日新聞にときどき載るこの人のコラムにいままでほとんど無関心だったが、きょう何気なく読んでちょっと驚いた。ぼくと同じことを言っている。
 <そもそも「鉄のカーテン」の存在は、西側諸国にとっては、過度な資本主義化を抑制する作用を持っていた>
 かつて存在したその東側の体制を、どういう名前で呼ぶかは人さまざまだが、それがその体制下の国民にはあまり好ましからぬものだったとしても、西側の国民には一定の利益を与えていた。
 つまり西側では、しかるべき自己抑制が働いて、資本主義にもそれぞれなりに社会主義的要素が取り込まれていた。ところが、東からの重しがとれると、資本主義は暴走を始めた。格差が急速に拡大した。そして30年経った。時代はまた変わろうとしている。「時代の音色に耳を澄まして」と神里氏は言う。

ジョージ・オーウェル

 ジョージ・オーウェルの「1984年」を読み返したいと思ったのは、村上春樹の「1Q84」を読んだときだった。でも結局、延び延びになっていたのを、最近になって、また読みたくなってきた。それは、長らく手元を離れていた浦沢直樹の「20世紀少年」が戻ってきて、立て続けに、二度も読み通してしまったせいなのだ。コミック本で24冊ある大作だが、小説は文庫本一冊がなかなか読めないのに、漫画本は24冊がすぐ読めてしまう。
「20世紀少年」と「1Q84」とは、どちらもオウム真理教事件にヒントを得ている。そしてどちらも基本的に「1984年」から影響を受けている。
 じつは読みたくなっただけでまだ読めていないのだが、あらかじめ見込みを言っておくと、「1Q84」よりも「20世紀少年」のほうが、ジョージ・オーウェルに近い。
 記憶で言うが、「1984年」で、作者は<ビッグ・ブラザー>個人には関心を示さなかった。オーウェルが書きたかったのは社会体制である。
 ちなみに、「20世紀少年」では支配者は<ともだち>と呼ばれ、あとのほうで正体がわかったときに、その生い立ちに少し触れられるが、この<ともだち>は物語のちょうど中間で死んでしまう。そのあとに現れる<ともだち>2号もその死後手短に生い立ちを書かれはするが、基本的に、「20世紀少年」においては<ともだち=ビッグ・ブラザー>がどんな人間であろうと意味がない。浦沢直樹が力を入れているのは、その組織とその成員とを書くことである。
 オーウェルの場合は組織やその成員さえも飛び越して、むしろその組織の支配する社会そのものを対象としていた。
 ところがぼくの記憶では、村上春樹は、社会にも組織にも組織の成員にも関心を示さずに、<ビッグ・ブラザー>個人にだけ関心を持っているように見えた。……とまで言ってしまっては言い過ぎかもしれないが、少なくともそういう傾向が感じられた。
 そしてこの点(ビッグ・ブラザーを重視するか、軽視するか)で、「1Q84」よりも「20世紀少年」のほうが「1984年」に近いと感じられたのだ。
 ぼくはオウム真理教について何も知らないのだが、関心を持つとしたら、麻原彰晃ではなく、麻原に騙された人々のほうだ。ふつうの人々がなぜ騙されるのかということのほうが重要なことに思える。村上春樹の作品では、組織の成員として出てきたのは、殺し屋かボディガードかたしかそういう(真面目に書かれない、記号としての)人物だけだった。

 まだ読めていないと書いたが、少し準備を始めている。手始めに「1984年」を取り出して、奥付を見た。いつ頃読んだのか確認したのだ。
 手元にあるのはハヤカワ文庫、昭和59年の第22刷である。25年足せば西暦になる。1984年だ。もっと早くからこの作品には関心を持っていたのだが、読んだのは1984年だった。たぶん新聞が大きく取り上げて読まざるを得なくさせたのだろう。
 ぼくはふつう本文より先に解説を読むことはないが、今回は二度目なので、まず解説を読んだ。新庄哲夫という翻訳者が10ページを超える解説を書いている。オーウェルその人についての多少詳しい説明。これがまったく記憶になかった。読まなかったのかもしれない。
「1984年」はぼくにはとても衝撃的な本で、どこが衝撃かというと、まったく救いのない終わり方だ。主人公が敗北して殺される話は多いけれど、ふつうそこにはヒロイズムがある。だがこの小説の主人公は、逮捕されて教育され、自分は間違っていたと心から悔い改め、ビッグ・ブラザーに感謝し、その瞬間に処刑されてしまう。
 どこにも救いがない。絶望だけしかない。ぼくは暗い気持ちになって本を閉じた。だから解説を読まなかったのかもしれない。
 解説はジョージ・オーウェルの生涯をたどり、小説はわずかしかないこと、「動物農場」でやっとブレイクし「1984年」を書いて間もなく死んだとある。
「動物農場」も同じころ読んだ。そのときは「1984年」のあとで読んだ。だがそっちが先ということなら、これも記憶が薄れているし、そっちから先に読もうと、本棚を探した。
 角川文庫、昭和59年の20版。やはり1984年だ。この本には開高 健が10ページ近く書いた後、翻訳者高畠文夫が60ページ書いている。ぼくはこの解説を読んだ記憶がない。
 オーウェルの生い立ちを詳述している。
 1903年、インド生まれ。父親は植民地の官吏。当時植民地で20年くらい働くと、40歳くらいで貯金もできるし、年金も支給されて、イギリスに帰って何とか生活することはできた。つまり帝国主義というのはそれほどの利益を上げていたのである。オーウェル家は階級で言えば、アッパー・ミドル・クラスの下のほうと説明している。
 8歳で帰国して予備校入学。14歳で奨学生としてイートン校入学。18歳で卒業。この予備校からイートン校への10年間、同級生は金持ちの子供ばかりのなかで、本人はとても惨めな生活を送ったと自分で書いている。ところが、同級生の後日談では、彼は成績も優秀だし、スポーツもできたということで、とくに惨めに見えたとは記憶していない。当人と周囲とのものの感じ方のズレという点で興味深い。ここで脱線して、「20世紀少年」から例を挙げるが、少年たちの同級生に、ヤン坊マン坊という並外れた体格の双子がいて、少年たちはこの二人にいじめられていた。ところが長じて問い詰めると、ヤン坊マン坊にはいじめっ子だったという自覚はなく、仲よく遊んでいたと覚えている。こういうものなのだ。いじめの問題。パワハラの問題。セクハラの問題にはこういう複雑さがある。立場の違いで認識が異なってくる。
 ケンブリッジ大学へも奨学生の資格を取っていくことができたが、本人はそういう生活にほとほと嫌気がさしていて、父親と同じ、インドで警察官となる道を選ぶ。すでに物書きになりたいという気持ちがあったから、40歳で年金生活に入れれば、それから好きなように書けるという思惑があった。
 ビルマで勤務する。だがじきに、イギリス帝国主義の植民地支配の実態を見、自分がその手先となってしまったということがオーウェルをいたく傷つける。階級差別に泣いてきた少年時代だったから、特に敏感に感じたのだ。で、結局24歳で帰国。パリでルンペン生活をしたり、さまざま下積みの生活をしながら、ものを書き始める。評論家に評価される作品は書くのだが、本は売れない。
 そうこうするうち、スペイン人民戦線政府に対してフランコが反乱を起こし、若い左翼文化人たちが義勇軍としてスペインに向かう。オーウェルは取材を依頼されて現地入りし、たちまち革命の雰囲気にのまれて、義勇軍に加わる。この現地入りの紹介を共産党系に頼んだが断られ、オーウェルが所属したのはアナーキスト系の小さな組織だった。そこで彼は喉に銃弾を受けて危機一髪の重傷を負うが、その上に彼の所属した組織が共産党系から弾圧を受ける。
 この問題は、ヘミングウェイも「誰がために鐘はなる」のなかで書いている。その記憶もあいまいだが、ヘミングウェイは個人の生きる姿勢を書く作家なので、政治問題には深入りしていなかったと思う。ただ、義勇軍の側にいろんな問題があるということは書かれていて、それが主人公たちの生死にも絡んできていた。
 要は、ヨーロッパの共産党がこの時代、反ファシズムのリーダー的な地位を獲得してきていたが、その背後にモスクワがいて、スターリン的な手法で主導権を握ろうとする動きがあったということなのだ。
 この問題もぼくは不勉強でよくわからない。しかし、この経験が「動物農場」と「1984年」とに直結していく。
「動物農場」刊行が45年、42歳。これが爆発的に売れて初めて経済的に小康を得る。
 49年、「1984年」刊行。46歳。
 50年、死去、47歳。

 この長い評伝を今回たぶん初めて読んで、たいへん興味をひかれた。
 さらにこの角川文庫版には、「動物農場」のほかに「象を射つ」と「絞首刑」と「貧しいものの最期」の3篇を収録してある。この3篇もたぶん今回初めて読んだ。「象を射つ」が非常によかった。「絞首刑」もよい。「貧しいもの」はちょっとまとまりが悪かった。「貧しいもの」はパリでの貧民としての入院経験を書いている。20年代のパリでこんなことがあるのかと驚く内容ではある。
「象を射つ」と「絞首刑」はビルマで18歳から24歳の間に経験した内容である。これらはいずれもエッセーとして書かれたようだが、短編小説として十分成り立っている。
「象を射つ」の象は、暴れ出して現地人を踏み殺し、その飼い主は象を探して反対方向へ行ってしまった。象はいま、おとなしく田んぼで草を食べている。20歳そこそこの警察官である著者は、一応自衛のためにライフル銃を用意した。ところが、現地人のやじ馬が、さあ、いまにも撃つぞと期待して二千人も集まっている。撃たざるを得なくなった著者は、とうとう無抵抗の象を撃ち殺してしまう。
「支配者は被支配者によって支配される」という格言そのものはありふれているのだけれど、それが青年の実体験から発せられるところに実感がこもる。さらに言えば、この作品の場合、細部の描写にとてもリアリティがあって、読者はその現場のど真ん中に連れていかれたように感じるので、これがまったくのフィクションだとしても、やはり訴える力を持っているだろう。
「絞首刑」でもやはり読者に迫ってくるのは、決して通り一遍な書き方をしないからなのだ。ビルマ人犯罪者の絞首刑に警察官として立ち会う場面の描写なのだが、犬が紛れ込むところ、死刑囚が処刑場へと歩く道でふと水たまりをよける、その瞬間「ああ、この男はいま生きていて、次の瞬間にはいなくなってしまうのだ」と初めて実感するところ。処刑が終わってしまうと、なんとなくみなほっとして明るい雰囲気が漂うところ、こういうリアリティが処刑の残酷さをいやがうえにも引き立たせる。

 さて「動物農場」である。二度目でもあり、寓話でもあるので、特にこれと言った感慨はない。しかしこんなに長いとは思わなかった。もっとちょっとした話としか思っていなかった。
 読み返してみると、なるほどロシア革命の戯画化だ。革命の指導者レーニン豚は早くに死んでしまい、スターリン豚とトロッキー豚との争いになる。トロッキー豚は、ほかの農場に使いをやって、世界同時革命に立ち上がらせれば、反革命を恐れる必要がなくなると言い、スターリン豚は、いや一国革命を成功させねばならないという。演説のうまいトロッキーと、組織工作のうまいスターリンの戦いはスターリンの勝利に終わり、その後、トロッキーは敵のスパイだったのだということになり、悪いことはすべてトロッキーの仕業にされてしまう。スターリンの代弁をして動物たちの説得に走りまわる要領のいい豚。真面目に働く馬。スターリンの護衛官となる犬たち。すぐに合唱を始めて議論をうやむやにしてしまう羊たち。
 過去に読んだ時にはこういうふうに具体的には考えなかった。ただ、組織というものにありがちの宿痾として、もちろん革命運動にもあることとして読んだ。
 そして実際、オーウェルの直接的意図はもちろんスターリン主義の断罪にあったわけだが、その物語はそれを超えて普遍的な物語になっている。
 この寓話は漫画家たちの材料となった。白土三平の「忍者武芸帳影丸伝」の中に出てくる「子供の国」がそうだし、水木しげるは、そのものズバリ「こどもの国」を書いている。(「くさった国」と併せて。朝日ソノラマ出版SUN COMICS「猫又」所収 昭和41年発行)
「影丸伝」のなかでは、戦国の世のみなしごたちの理想社会は仲間割れによって崩壊してしまう。水木しげるの作品中ではかなり「動物農場」に近い政治劇が演じられる。
 さらに、藤子不二雄の「宇宙船製造法」(小学館てんとう虫コミックス「藤子不二雄少年SF短編集第3巻宇宙船製造法」所収 1985年初版)はハッピーエンドだが、途中経過には「動物農場」に似た政治劇がある。
 たぶんいずれもオーウェルの影響を受けている。「動物農場」はそれほどにも典型的で普遍的なのだと言える。

 オーウェルは共産主義を批判する。それはつまりソビエト流の共産主義なのだが、歴史上すべての共産党がスターリン的なものを持っていたことは否定できない。
 しかし、「動物農場」を読んでも明らかだが、被支配者が支配され続けていればよいとは彼は思っていない。彼は社会主義者なのだ。だが現実に革命のたどった道はファシズムと変わらないものとなってしまった。そこに彼の相克がある。

「樹宴」12号 刊行

小説
 大丘 忍  「誤診」 14頁
 木沼駿一郎 「誰か?」(最終回) 32頁     
 守屋陀舟  「遺書」 32頁
 石崎 徹  「スプーン一杯のふしあわせ」(第二回) 36頁
翻訳
 シェイプ・オブ・シングス   トルーマン・カポーティ  5頁
                   訳 S・T
随想
 読書雑感            守屋陀舟
 すずめばち           大丘 忍
 才能の限界           木沼駿一郎

 頁はページ数 30頁台は約90枚です。

 定価500円 送料180円 128ページ(簡易製本)

 注文先
 〒125-0032 葛飾区水元3-1-14-204 深井方 樹宴文学同人会
 TEL 03-3600-2162
 e-mail kofu65y@yahoo.co.jp

「まがね」と「樹宴」

「まがね」59号と、「樹宴」12号も来たのですが、じつはまだどなたにも送れていません。町内会のほうで、頭がいっぱいということもあるのですが、いずれも入手した部数が少ないので、ちょっと迷ってもいるのです。
 迷っているうちに、「まがねブログ」に長文の批評が載りました。「まがね」を入手されていない方には関係ないでしょうが、一応お知らせしておきます。
 なお「まがね」59号の広告はすでに載せたので、「樹宴」12号の広告をいちおう載せておきます。

「民主文学」17年9月号 後半

 後半の3作品は、いずれもどちらかというとエンタメ的で、読みやすく、面白かった。これらを巻頭に持ってきた方が若い読者には受けたかもしれない。もっとも、若い読者はいないのだろうけれど、今後開拓していかねば雑誌が成り立たなくなる。

 川本幹子「千晶のさがしもの」

 読み終わってみるとなんだかよくわからない作品なのだが、読ませることは読ませる。
 短大を卒業して得意の英語を生かす仕事をしたいと思いつつ、どことも決めかねて、結局国際交流でニュージーランドに行く。ここでの経験がけっこう面白い。さまざまな経験から、日本で当たり前でも外国ではそうではないことがたくさんある、と知らされていく。
 一年いて帰ってきたが、中途半端で、満足な職に就けない。誘われて<女性の就業を応援するNPOの立ち上げ>にスタッフとして参加しようとする。冒頭が<設立へ今、大車輪>から始まり、過去をいろいろ書いた後、最後が、<考えさせてください><私のさがしものはきっとみつける>となっていて、最初と最後の整合性がとれていない。
 起業への意欲は大事なことだろう。だが、90%の起業が失敗しているのも事実である。まして非営利NPOだとするとどうやって成り立つのか、ここに書かれただけではわからない。
 <女性の持ち味生かす仕事>――もちろん戦略としてはそうだろう。でもそれは戦略であって、女性差別を批判している文脈からは、妥協でもあろう。それを理解して書いているのかもあやふやだ。
 ということで、面白いのだが、よくわからない作品なのである。

 北嶋節子「菫の蕾」

 共働き家庭の(いまどこもそうだが)一人娘が高校受験を目の前にして、いじめから不登校になり、独り住まいの祖母宅に預けられる。そこの図書館でやはりいじめられてきた女の子と友達になり、その出会いを通じて立ち直る話。爽やかな読後感の作品である。

 馬場雅史「廃坑のカナリアよ」

 59名を坑内に残したまま注水した、81年の北炭夕張事故を背景に、そのとき父を亡くした少年を軸にして、北海道全体で延べ50万人の朝鮮人が半ば強制的に働かされ、大勢の死者を出した歴史が語られる。
 その少年奥田君が高校時代の恩師山本に15年ぶりに掛けてきた電話から小説は15年前に遡って、奥田君と山本とがその廃坑を訪ねていく行程での、二人や、その他関係者との語らいが小説の内容となっている。
 15年前の山本と生徒たちとのやり取り、奥田君の家出の顛末など、軽快な会話でアップテンポに始まって読ませる。
 ところが山本と奥田少年が廃坑に向かうあたりから、なんだか芝居の台本を読まされているような感じになってくる。読み終わってみると結局奥田君のイメージがはっきりしない。作者は奥田君を書くことを忘れて炭鉱の歴史を書いてしまったようだ。
 小説は最後の章で15年後に戻ってくる。いま30過ぎの奥田君が<ながなが話して>と電話のなかで謝って終わるのだが、しかし第1章で<ぼくが人の親になるなんて、奇跡ですよね>と語り始めた奥田君は、最後の章でもやはり<本当に、親になるなんて、奇跡ですよね>と語るだけである。いったい<ながながと>何を語っていたのだろう。<ながながと>二人の過去を語っていたのは、山本先生が読者に対して語っただけなのである。奥田君が何を<ながながと>語っていたのかは書かれていない。作者は勘違いしてはいないか。
 この作家は若い人を生き生きと描く才能は持っているのだが、上滑りする傾向があるようだ。

 乙部宗徳「文学・思想から考える教育勅語」

 日本近代史に馴染んでいる人には常識的な内容なのかもしれないが、ぼくは日本史を鎌倉幕府の成立で止めた人間なので、なかなか参考になった。
 教育勅語の成立過程から、そのたどった歴史、人々に与えた影響を一次資料をひもときながら要領よくまとめている。
 特に印象に残ったのは内村鑑三と教育勅語との関係である。
 内村鑑三は、勅語の内容は良しとしながら、最敬礼を拒み、「ちょっと頭を下げただけ」でその場を離れる。それが「不敬だ」と世論を湧き立たせ、一高の辞職に追い込まれた。
「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに返しなさい」という聖書の教えに彼は従ったのだ。地上の支配者が天皇であることは認める、しかし天上の支配者は神であり、したがって単に地上の文書に過ぎない教育勅語に対して、聖書に対するかのように最敬礼することはできない。
 きわめて穏当な立ち位置であり、何ら反逆するものではない。しかし天皇を神格化する側にとってみれば許すことのできないことなのである。

 森友問題に関し、国有地が総理大臣の友達に格安で払い下げられたという疑惑のほうに関心が集中してしまい、もちろんそれも追及すべきことではあるが、日本の国家権力をいま握る人たちが、教育勅語に対して反省していないというきわめて深刻な問題がなおざりにされてしまっている。

「民主文学」17年9月号

 稲沢潤子「生きる」

 上関原発への祝島反対運動を書いている。かつて山口の野村邦子がいいルポを書いていた。彼女の消息を聞かなくなって久しい。お元気だろうか。
 稲沢潤子は取材者(作者)を表に出さずに現地の人々の声を直接小説形式で書いている。30年間にわたり建設を阻止してきた。福島の事故で、もう闘わなくてよいだろうと思ったら、またぞろ蒸し返されつつある。
 そういった30年間の経過を報告形式で書くのではなく、一人一人の島民に寄り添い、島民の声を拾い集めて書いている。
 ノーベル賞を取ったスベトラーナ・アレクシェービッチの「チェルノブイリの祈り」に似た形式なのだろうか。(じつはまだ読めていないのだが、漏れ聞いたところで)
 経過もわかりやすく、人間性も伝わってくる。いい作品だ。
 ただし疑問が二つ。
1、上関や祝島の実名を出せない理由は何なのだろう。
2、冒頭に大内登喜男を登場させる必要があったのか。6ページから7ページの上段へと続く風景描写を、大内登喜男が見ている風景とすることには少し違和感がある。ここは取材者(作者)による客観描写として、大内登喜男はそのあとから登場させればよいだろう。

 高橋英男「八月のサツキ」

 1978年、およそ40年前の話である。あえて昔の話にしなくても今でも通じる話だろうと思うが、おそらく作者の経験を書いているので、その時代において書かねば細かいところのリアリティを描ききれないと思ったのだろう。
 視点人物は診療所の事務長である。寝たきり老女への定期的往診を、同居する義理の娘(死んだ息子の未亡人)から頼まれた。良心的な診療所で、手を尽くして、老女が床から起き上がって歩けるところまで回復させた。すると義理の娘が「もう来ないでください」と言い出した。自分が働かねば生活は成り立たない。いままでは義母が寝たきりなのでなんとかなった。動けるようになって、家じゅうにウンコをまき散らす。毎日その後始末がたいへんである。もう限界だ。もとどおり寝たきりのほうがよい。
 深刻な話で、40年経ってもまだありそうな話である。身につまされる。
 書く価値のある話なのだが、文章が読みにくくて閉口した。最初の数行から読みにくく、だんだん慣れてはいくのだが、すらすらと読めないのは、内容が深刻なせいだけではないだろうと思う。文章のどこかに問題があると思うのだが、それがどこなのかよくわからない。
 ひとつ気になったのが「小山婦人」という書き方である。義理の母が「小山サトさん」であるのに対して、義理の娘のほうは「小山婦人」として書かれる。一般には「小山夫人」であろう。「○○婦人」という書き方をいままで目にしたことがない。作者は意図的に「婦人」と書いている。夫がすでに死んでいるという事情や、「夫人」が夫に隷属している感じを与えるということを考慮したのだろうか。
 ぼくの語感では「婦人」はより普通名詞的で、「夫人」は固有名詞的である。時代的には「夫人」を嫌って「○○婦人」と書いたころもあったそうだが、どうもぴんと来ない。
 日本語には「さん」という便利な言葉があるではないか。「さん」は誰に付けてもおかしくない。誰にでも付けられる。「○○さん」でよいではないか。
 この「小山婦人」が一度や二度ならよいが、後半しきりに出てくるので、そこで引っかかってよけいに読みにくかった。

 梅崎萌子「夏の木陰は」

 読みづらい作品を読んだ直後に読んで、冒頭の数行で、「なぜこんなに読み心地が違うのだろう」と思ってしまった。この作品は最後まで読みやすかった。
 ところが自ブログの内部検索をしてみてびっくりした。13年と14年に、この人の作品は論の対象とならないとして頭から切って捨てている。
 その二作品を読み直していないので、わからないのだが、たまたまその二作品の出来が悪かったのか、それともぼくの好みがこの数年ですっかり変わってしまったのか。ともかく今回作はおすすめなのである。
 たいしたことは書いてない。内容的重要度から言えば、高橋作品のほうがずっと上かもしれない。
 絵を画くことに夢中で夫に逃げられ、子供二人抱えて絵画教室で何とか食べてきた。それだけでせいいっぱいで、自分の作品が売れてもそれで食べていけることにはならない。すでに70歳。子供たちはとっくに独立した。自営業の悲しさで、年金は5万円しかない。だから絵画教室はやめられない。
 詐欺にあって3万円を盗られた。ぎりぎりの生活の中で3万円盗られたことも痛いが、詐欺の対象になる金がそれだけしかなくて詐欺師にばかにされたことがもっと悔しい。
 という話で、明るい話でもないし、ユーモラスに描いているわけでもない。ところが気持ちよく読める。何故なのかと考えていくところに、文学の秘密のカギがありそうにも思うのだが……

 前田 新「ある老避難者の死」

「ある」を付けるのが流行り始めたかな、という感じなのだが、このタイトルもふさわしいかどうかわからない。
 書いていることは途中まで高橋作品によく似ている。(最後にサプライズがあるのだが)。でもこれは、梅崎作品のようなうまさはないのだが、高橋作品よりはずっと読みやすかった。やはり文章のどこかに違いがあるのだろう。はっきりわかる違いは「神山さん」である。「神山婦人」ではなく、「神山さん」で通している。このほうがずっと読みやすい。
 視点人物は、高齢になってそれまでの職を解雇され、老人施設の運転手となった上村。会津である。「神山さん」は福島原発事故で会津の仮設に避難し、そこで骨折して施設入りとなった。1923年生まれ。作品の大部分は上村が本人から聞き取った「神山さん」の人生記である。彼女が早く亡くなった上村の母と同じ年ごろなので、気になったのだ。
 岩手の貧しい農家から裕福な農家に奉公に出され、満州にわたって結婚、その夫は軍にとられ、シベリアに抑留されたが、やがて帰国し、夫婦で福島の開拓地に入植する。乳牛を飼って息子を育てたが、息子はバイク事故で死んだ。夫も死んで乳牛は手放した。年金は安いが食べるものを自分で作るので暮らせる。ところが原発事故で人生の最後になってすべてを再び失った。でも「神山さん」の口調に必要以上の暗さはない。
 やがて「神山さん」は亡くなり、上村はその遺品の中に「神山さん」の手記を見つける。雑然と書かれた手記だが、その内容は、満州の地で敗戦を迎え、女たちは子供を殺して死のうということになって、「神山さん」も二歳の長男を殺した、という事実と、そのことへの忘れることのできない悔いであった。
 このラストが少し唐突なのだが、衝撃的ではある。

 内田美子「赤いほっぺ」

 一と二に別れていて、短編を二つに割るのかよ、と思ったが、読んでみて納得した。一は表題にふさわしくどこかほのぼのとしたムードのなかにかすかに不穏な予感を忍ばせているのだが、二に入って一変する。赤いほっぺどころではなくなる。
 25年前養護教諭として勤めた中学校で先輩教師に養護教師としての在り方を全否定されて、うつを発症した女性の記録である。
 半年の入院と二年間の休職(結局復職はしなかったのだが)を経て治癒したが、25年経っても傷が完全に癒えたわけではない。
 <周囲のすべてがモノクロで、スローモーションビデオを見るようにゆっくりと動いていて、そしてゆがんで見えた。風船が割れるように麻衣子の中で何かがはじけて飛んで、自身が壊れてくのを感じていた。感覚がばらばらになり、涙が枯れるほど泣いた後の顔は、仮面のようだった>
 すさまじい描写がおよそ2ページにわたって続き、医師と夫の努力でやがて快方へと向かう。ほとんど命の危険と隣り合わせだった。
 どこまで経験を書いているのか、創作なのかわからないのだが、リアリティがある。
「心の病」と言うが、心のありかは脳細胞のひだの中であり、脳細胞が肉体である以上、心に負った傷は脳細胞という肉体の機能を傷つける。以前にも心を病んで風景がモノクロに見えたという描写を読んだことがあるが、現実に脳が色彩を感知できなくなるのだろう。
 それは我々の経験を超える世界であり、生き物というものの不思議、存在というものの不思議を思い知らせてくれる状況である。
 外からの観察としてではなく、本人の体験として書く、それがほんとうに体験なのか、それとも創作なのかはわからないのだが、そういう詮索を超えて読ませる力を持った作品である。
 この事件のあと、その中学校のありかたは改善されていった。いまそのことを聞かされて女性はようやく自分を納得できる。自分をいじめた教師もまた事の成り行きに衝撃を受けて自ら僻地を希望して転勤していったという。
 自分もまた幼かったのだと女性は振り返る。

 ここまで書いたところで町内会がめちゃに忙しくなって中断した。あと三人の作品と、乙部宗徳の文章も読んだのだが、少し日にちが経ってしまったので、記憶を取り戻すのに時間がかかる。次回ということにしたい。

憲法9条 13年11月20日

 13年11月20日に「憲法9条」と題して書いています。いまとなってはすでに情勢が先にいってしまっている感じではありますが、こういう方向で考えているのが、ぼくです。少し長いのが難点です。
 ただし「憲法9条」で検索しても出て来ません。「領土問題」で検索してください。
 間違えました。「憲法9条」でも出て来ます。ただし、HOMEから検索してください。HOME以外からの検索だと限定されるようです。

参考

 参考までに。このブログの検索窓に単語を入れていただけば、過去に書いた関連記事が出て来ます。たとえば「領土問題」と入れれば、いくつもの記事が出てくるなかで、共産党の領土政策を批判した記事がいちばんまとまっているかもしれない。
 もちろん中国の対外膨張傾向はいまでは単に尖閣の問題ではなくなっています。でも問題はひとつひとつ見ていく必要があろうと思います。「尖閣」でもいくつかの記事が出てくるし、「中国」でも同様です。
 ひとつひとつが複雑なので、それを要約することは困難なのです。(というか、ぼくは要約が苦手なのですよ)。

瀬崎さんへ 2

 下の文章を書き終わったところであなたのコメントに接しました。
 どうやらぼくはあなたを怒らせたようですね。
 ぼくが最初にブログに書いたのは、「自分たちは果たして考えの異なる人と実のある対話をできるような言葉を持っているのか」という反省でした。
 あなたの指し示す結論は日常的に接する内容ですが、しかしそこにいたる思考経路にはそれぞれその人独自のものがあること、それもまたこの田舎でさまざまな人と接するなかで感じていたことですが、今回もあなたの論理の独自性は感じとったつもりです。
 正直に申し上げて、あなたの展開されたさまざまな論点に対して、要約して反論できるだけのものをぼくは持っていません。とりかかり始めたら膨大なものになってしまいます。もちろんそんなことでは人を説得できないので、それがぼくの反省点なのです。
 ぼくが何か書くといつも人を怒らせてしまうようで、「おまえはトラブルメーカーだ」と言われます。ちゃんと言葉で説明できないなら最初から書くなと言われればその通りかもしれない。その点はお詫びしたい。でももう書いてしまったし、簡単には説明できないのも事実だし、まあ、徐々にやっていこうじゃないですか。問題はとても複雑ですよ。

 以下はあなたのコメントを読む前に書いた文章です。あなたの指摘に答え得ていませんが、まずは問題提起です。

 被害の程度や性質、その受けとめ方はさまざまだとしても、あの愚かな戦争から影響を受けなかった家族は存在しない。
 戦争はいやだという点では大方の意見は一致しているのである。意見の違いは、どうすれば戦争を避けられるかについてなのだ。
 防衛力を重視する意見と、それはかえって戦争を招く、話し合いの努力をすべきだという意見とがある。
 いま中国、北朝鮮があまりにもおかしいし、ロシアもやはりおかしいので、話し合い主義者は形勢が悪い。世論は防衛重視に傾いている。
 防衛論にもいろいろある。
 瀬崎さんは日米安保条約を重視している。しかしそれは、アメリカに幻想を抱いているからではない。アメリカを支配している軍産複合体が第二次大戦後世界中で何をやってきたかということを十分理解したうえで、現実的選択をしようとしているのだ。
 アフガニスタンとイラクに対して一方的に戦争を始め、世界を大混乱に巻き込んでしまったのがアメリカだとしても、東アジアではアメリカの軍事力が役に立つという功利的判断なのだ。
 中国、北朝鮮からの軍事的脅迫に対して、日本一国では防衛できないから、アメリカの力を借りよう、それが現実的選択だ、という判断なのだ。
 この問題一つとってもじつに多方面から論じる必要のあるテーマで、ブログにちょろちょろと書いて済ませることのできる問題ではない。
 それ以前に歴史問題がある。日本人が過去の侵略をほんとうには反省していないので、同盟国であるはずの韓国とさえ、友好関係を結べないでいる。そういう状態では東アジアの平和について語ることはできない。
 そういう基本に立ち返って考えていかねばならないだろう。
 百歩譲って日米安保の必要性を認めるとしたら、その国内的国際的正当性についても考えるべきだ。
 基地を沖縄に押し付けて平気でいる。基地が必要だというのなら、全国が公平に負担すべきだ。
 米軍は日本の上空をずいぶん自由に使っている。また罪を犯しても基地に逃げ込む。同じ敗戦国でも、ドイツは駐留米軍を厳しく規制している。いかなる意味でも治外法権を許したりしない。
 日本の現状は国際的には異常なのである。
 尖閣諸島ひとつとっても本を何冊書いても足りないだけの論点がある。
 北朝鮮問題では、さしずめ小泉訪朝後の経過を検証し直すことが必要だ。
 テロ問題ではそれこそアメリカが中東でやってきたことを検証せねばならない。
 テロ等準備罪の理解のためには、2002年のスピルバーグ監督、トム・クルーズ主演の「マイノリティ・リポート」が役立つだろう。
 集団的自衛権の理解のためには、松竹伸幸「集団的自衛権の深層」(平凡社新書)が役立つ。
 経済や福祉の問題に立ち入るならば、行き過ぎた規制緩和と行き過ぎた自由競争とが資本主義を化け物のようにひずませてしまって、誰も解決策を見いだせずにいる現状を見ねばならない。これもテロの温床なのだ。
「Chikirinの日記」という人気ブログは、規制緩和と自由競争の必要性を力説し、それが不十分なためにアメリカに負けていると書いている。だが、そのアメリカが陥っている貧困に目がいっていない。
 自由競争は大切だ。だが現在はその弊害が人々を苦しめている。

 以上は参考までにである。一言で結論を示しえないということはぼくの反省点である。前提をもとにものを考えてきたというわけでもないつもりだが、考えの異なる人との対話が少なすぎた。

 ここまで書いたところであなたのコメントに接しました。参考にもならない内容ですが、ぼく自身のための論点整理だと受け取ってください。

 いまアップしようとしたら、またあなたのコメントが来ていました。この文章はよけいあなたを怒らせるだけかもしれませんね。だってここには何も内容を書いてないのですから。

 列挙したさまざまなテーマについて、このブログの中で過去にそれぞれ書いています。それぞれがそれなりに長い文章です。それを要約することは難しいというのがぼくの現状です。どうかお分かりください。

瀬崎さんへ

 正面から対応してくれて、ありがとう。
 冒頭にアメブロのコメントを消したのかと書いてあったので確認したところ、残っていましたよ。ぼくが投稿したのはあの数行だけです。
 書かれた内容にわからないところというのはありません。ごく平均的な内容です。ぼくも別に左翼とだけ付き合っているわけではないので、さまざまな考え方には日常的に接しています。
 表面的に出てくる言葉が似通っていても、その背後にはその人固有の経験や感性や思考経路があるということも日ごろ感じていることです。
 今回も、瀬崎さんの言葉が非常にまじめな地盤から発していることを感じとることができました。
 左翼の主張がステレオタイプ化しているのは事実です。仲間内の了解事項となってしまっている前提から言葉を発しているので、現実とのあいだに乖離を生じかねない危うさがあります。
 考え方の違う人と日常的に接してはいても、真剣に話し合うことを避けてなんとなくあいまいに過ごしているので、一切の前提を排して、ゼロから話し合う言葉を持ち得ていないという自覚があります。
 瀬崎さんの述べられた複雑な現況を、一つ一つぼくの認識のほうから書き直していくことは簡単にはできません。
 今回は瀬崎さんの考えは承ったということで、宿題とします。ぼくの考えはぼくの書いていくもののなかにひとりでに出てくるだろうと思っています。

日本基督教団・在日大韓基督教会平和メッセージ

 きょう、久しぶりに「金の牛」を開いて、8月11日の記事にびっくりした。
 日本基督教団・在日大韓基督教会平和メッセージなるものを全文掲載したあとに、当ブログの主催者として、このメッセージを全面否定している。
 近年顕著になった中国の海外膨張的政策、および北朝鮮によるなりふり構わぬ軍事的脅迫を前にして、主催者は現在の日本政府の立場を完全に支持し、これを批判する教団・教会メッセージを受け入れられないとしている。
 この主催者は多少の文学談義をともに交わしあった人だと思うのだが、文学以前にこうまで基本的見解が異なるとは知らなかった。
 ぼく自身は伝統的左派としてこの教団・教会平和メッセージを全面的に支持する。主催者による批判は受け入れることができない。
 しかし、いま、伝統的左派の主張も、かなり深刻な吟味を必要としていることも確かである。
 中国や北朝鮮があまりに度外れにひどいので、国民世論が右へと自然に傾いていきつつある。
 こういう世論の動きにもっと敏感でなければならないだろう。
 そして、こういう世論との間に建設的対話を成り立たせるための説得力ある言葉を持たねばならないだろうと思うのだ。
 従来の言葉では対話は成り立たない。平行線をたどるだけである。
 新しい言葉がいる。そしてそれは意外と難しい。というのは我々もまた従来、話の合う人とばかり話してきて、違う意見の人と真剣に話し合ってこなかったからではないのか。

 いまとりあえずこの主催者に、一言だけ言いたいのは、次のようなことだ。戦争への備えはすればするほど戦争を招いてしまう。平和への努力をどれだけしたのか。したと言えるほどのことを果たして何かしたのか。そのことのほうがずっと重要なことだろうということ。
 あと国際政治の裏側を歴史的に検討する努力をしてほしいということ。
 ベトナム戦争世代はアメリカが世界中で何をやってきたかを知っている。アフリカで、中南米で、中東で、東アジアで、彼らの犯してきた汚い戦争の数々を知っている。それはまだ終わったわけではない。世界情勢の裏側で巨大な利権がうごめいている。
 現代人はアメリカへの認識が甘すぎるのではないか。

小熊英二 補論

 交換価値のあまりに高すぎた時代には、それは需要と結びつかず、従って価値でさえなかった。コストダウンし、誰でも買えるようになった時、即ち価値が下落したとき、初めて需要が生まれ、事実上このとき価値もまた初めて生まれた、とも言える。
 というところまでは、ぼくも異論はないのです。ただ技術の進歩=需要の拡大というふうにイコールで結び付けられると、それは違うと感じてしまう。これがイコールであるためにはやはり別の要素、購買力という要素が絡む。安くなったから購買力が生まれた、それでいいじゃないか、という声が聞こえてきますが、安くなっただけ資本家が賃金を下げれば、同じことです。購買力が拡大するためには、どうしても資本の側と労働の側との力関係が反映されてきます。
 定期的に需要を失い、循環的に不況に陥って、前世紀前半にはすでに危機にあった資本主義が、第二次大戦後奇跡的な経済拡大をとげたのはなぜか、という問いへの答えを技術の進歩に一元化することはできない、とぼくは考えています。
 技術の進歩は必要です。でもそれは車の片輪です。もう一方の輪は別のところにあります。
 小熊英二の論壇時評において、彼が引用した論者たちの結論と、ぼくの結論とが一致したのは、そういう昔なじみの考えによるもので、小熊英二はそれとは別にITそのものを論じているように思われ、それに関心を持たないわけではないが、ぼくの当面の主要関心事ではなかった。
 ぼくはただITを技術一般として取り扱っただけの話です。

 まったく別の話になりますが、多少の関連からここで確認しておきたいと思うので、ちょっと述べておきます。
 ぼくは生産現場の労働者だったことを誇りにしていますが(いま思うとあまり誇れるような労働者ではなかったけれど)、それはそういう労働を必要とする社会だからで、社会にとって不必要なことをしていたわけではないからです。誰も労働しなくてもすべての人の必要が満たされる社会が実現すれば、それはそれで歓迎すべきことで、別に労働が永久に価値あるものだなんて思っていません。
 コストダウンは商品やサービスの価値をどんどん下げていくし、価値がゼロになるときとは誰も働かなくてよくなったときで、即ち理想社会です。価値とは労働時間だが、それは交換価値=商品価値だというだけの話です。
 そして使用価値とは人間の欲望のことです。それが胃袋からのものであろうと精神からのものであろうと、です。それはそれのみでは商品を形成せず、経済を構成しません。経済学用語としての価値は、商品の値段のことであり、そこに道徳が入り込む隙間はありません。それは純粋に客観的科学ですから。
 つまり人々が「価値」という言葉に込めたがる何か神聖なものを、それはそれとして求めればよいけれど、それと経済学とを混同されては困ります。

前項に(小熊英二)

 数日前の新聞記事をゆうべふと思い出して前項を書き、すぐアップして寝に着いてから、どうも気がかりだった。論理が明快でない、小熊英二を理解できていないと思えた。
 技術の進歩は、新たな欲望を産み出してきた。暑いとき、木陰で涼むか水に入るしかなかった人間に団扇が現れると、団扇を欲しいという欲望が生まれた。団扇の存在を思い付きもしなかったときにはありえなかった欲望である。ここに新たに使用価値が生まれたのだ。
 もしこの団扇のために労働時間が必要ならば、それは商品となり、市場が生まれ、交換価値が生まれる。つまり新たな経済が発生する。
 団扇は扇風機になり、エアコンになり、エアコンも日々改良されていく。それに伴って欲望が開発されていっているとも言える。欲望、つまり使用価値が、である。
 小熊英二が言いたかったのは、「この欲望は新しく見えても実際には、もとからある欲望の延長上のものに過ぎない」ということなのだろう(たぶん)。「まだ暑い。もっと涼しくなりたい」という欲望が、商品の開発に連れてエスカレートしていったのだ、と。そしてITの産みだすものも同じように、新しいものではなく、延長上のものなのだ、と。
 資本の側が主張するのは、商品を開発すれば開発された商品への欲望が生まれ、つまり新たな使用価値が生まれる。これが新たな需要となって経済が活性化するということだ。
 このとき彼らが忘れているのは、欲望=需要ではない、ということ。欲望が需要に転化するためには購買力を必要とする。金がなければものを買えない。つまり使用価値はあり、労働時間もあるのだが、金がなくて交換されないので、市場が生まれず、経済は活性化しない、ということだ。
 第二次大戦後の大景気と呼ばれた時代(日本では高度成長と呼ばれたが)、資本の側が主張してきたのは、技術の進歩が経済成長を産んだということだった。技術の進歩が、新しい使用価値を生み出し、技術の進歩によるコストダウンが、それを需要に結びつけたのだと。
 このとき彼らはやはり忘れている。80時間の労働で生産されていたものが40時間で生産できるようになれば、その商品の価値は半分に下がる。したがって資本家は5人を解雇せねばならない。あとの5人に払う給料の総額は今まで10人に払ってきた額の半分、即ち一人がもらう金額はいままでと同じである。
 技術の進歩は、需要の拡大に直結しない。需要が拡大するためには購買力が拡大せねばならない。即ち労働者の給料が上がらねばならない。第二次大戦後それが可能となったのは、労働者の力が強くなったからだ。
 資本と労働のがわとの取り分がうまく釣り合っていれば、資本主義はうまく回転する。ところがいまはその均衡が極端に崩れ、どんどん崩れていっている。
 つまりぼくは昔ながらのこういう考えのすじみちで、小熊英二があの日書いたのと同じ結論にいる。結論は同じなのだが、小熊英二の言っているのはもっと別のことのような気がして、それがはっきり把握できないもどかしさを感じているのだ。
(ちなみに、小熊英二が書いたのは朝日新聞の7月分の論壇時評である。これは毎月月末が近づくと載る。何日だったかは記憶にない。新聞はすでに廃品回収されてしまった)

小熊英二とIT

 小熊英二が7月末の論壇時評で、誰かの言葉を引用して、「ITは新しい価値も需要も生まない」と書いていた。さらに違う人の言葉から、「ITは一方に失業を、もう一方に長時間労働を生むだけだろう」とも書いている。(すなわち一方に餓死を、もう一方に過労死を)。つまりいまの体制のままでITが進むならという話である。
 書かれている結論はまったく正しい。気になったのは「価値」という言葉の使い方だ。小熊英二は「使用価値」というだけの意味で「価値」と言っている。つまりITは現に存在するものの集計、分類、総合であるから、新しいものは生まれない、というところに力点を置いている。出てくる結論は上記の引用部分であるから、それはぼくの結論と一緒なのだが、そこでは「交換価値」は問題になっていない。「新しい使用価値」が生まれないと言っているのである。そこのところはぼくにはよくわからないのだが、結論は同じなのだ。
 ぼくにとってIT問題は以下のような問題である。
 もし経済を論じようとするなら、「使用価値」について百万言を費やしても無駄のように思える。「使用価値」がそれそのもので「経済」を構成することはありえない。「経済」がありうるためには「交換」が、即ち「市場」がなければならない。「使用価値」が「商品価値」に転じるためには、「労働時間」がなければならない。
 ITの導入効果とはまず何よりもコストの削減である。10人が一日8時間、即ち80時間かかって作っていたものが、40時間で作れるようになる。交換価値とは労働時間であるから、このときこの商品の価値は半分に下がったことになる。
 つまり、ITとは価値を下げるものであって上げるものではない。
「ITの産みだす新たな価値や需要」即ち「新たな使用価値」つまり「新たな欲望対象」が新たな経済活動を産み出すか出さないか、小熊英二はその問題に限って論じているのだろうが、それはぼくには一義的な問題であるとは思えない。何を産み出すにせよ、要するにつきつめれば「スピード化」の問題である。最終的には「数字」に還元される。IT問題の基本がそこから動くとは思えない。
 さてITの導入結果、8時間働いていた労働者は4時間働いて同じ商品を手に入れることができるのか? そうではなく5人が解雇され、残りの5人が相変わらず8時間働くだけの話である。即ち一方に餓死を、もう一方に過労死を。
 必要なのは、ITではなく、社会構造の変換なのだ。

「まがね59号」発行

 長らくお待たせしましたが、「まがね59号」が発行されました。
 ぼくは例によってエッセーだけですが、昔懐かしいアーノルド・ウエスカーについて書いています。
 小説6篇、いずれも(?)力作です。
〇妹尾倫良 「消えた子」35枚
 1945年10月16日8時40分 岡山県福渡町石引地区にて火薬爆発。総量5トン。轟音は四国まで届いた。死者5歳男児1名、陸軍曹長1名、重傷20名、軽傷300名、
 何があったのか、真相を求めて訪ね歩く。ミステリータッチのルポ的創作。著者渾身の作品。
〇笹本敦史 「アンジー」30枚
 僕 24歳、香川麻衣 2~3年上、二人の恋愛の行く末は?
 甘いムードに乗せて、先の見えない時代の揺れ動く心を描く。
〇桜 高志 「桜の花が咲く頃」15枚
 俺、介護サービス新米職員、61歳、独身。般若のお京、ベテラン職員、46歳、シングルマザー。俺はお京にいじめられっぱなし。でも、二人の間にもついに春が……
〇井上 淳 「結婚願望相談所」32枚
「願望」と付いているところがミソ。俊彦、40歳、独身。お見合いパーティでついに絶世の美女をゲット。その裏には何があるのか? この作家の作品は決して当たり前には終わらない。

 総77ページ。定価700円。送料140円をそえて下記まで、お申し込みください。

〒703-8256 岡山市中区浜372-1-602 妹尾倫良方 まがね文学会

みたびモース

 最近のぼくの記憶力減退ぶりを再確認してしまった。モースの「贈与論」への高原さんのコメントを読んで、ちょうど1年前にも、ほかならぬぼく自身がモースの「贈与論」について書いているのだと教えられる結果となった。ブログ内検索をしてみると、内田・白井対談から引用していた。そこに書いた内容には記憶があった。だが、それはそっくり高原さんの文章から読んだのだと勘違いしていた。
 こんな調子です。お許しあれ。

マルセル・モース「贈与論」

 最近この種の記事の断片を見かけたと思っていたら、昨日少しまとまった記事が朝日に載った。
 マルセル・モースが1924年に発表した「贈与論」である。高原さんがずっと話題にしていたのはこれだったのかと気が付いた
 マルクスは「資本論」を論じるにあたって「交換」から始めた。「交換」のメカニズムを明らかにせねば「資本」の構造が解明できないからだ。しかし彼は「交換」の「起源」には興味を持たなかった。それは彼の研究対象とは当面関係なかったからである。
 モースがこれに関心を示した。どこから、なぜ、「交換」が始まったのか。そこにこそ経済活動の根源があるのではないか。
 モースによれば「交換」は「贈与」から始まった。「贈与」と「お返し」こそが「交換」の「起源」であった。
「贈与」とは「無償の行為」である。人はなぜ「無償の行為」をなすのか。
 ところが本来「無償」である「贈与」に対して人は「お返し」しようとする。この「お返し」によって、「贈与」はその本来性を裏切って結果的に「有償」となり、ここに「交換」が生まれる。人はなぜ「無償の行為」に対して「お返し」をするのか。
 モースはアメリカ先住民や、太平洋諸島の人々の社会生活を研究して、その実態を克明に記録した(らしい)。しかし、人がなぜ「贈与」し、「お返し」するのかという根源的な問いには結局答えることができなかった。彼はマオリによる説明を回答として記した。
 いわく「贈与された物には精霊が宿っていて、受け取った者に返礼を強いるのだ」
 人間はまだ謎に満ちた生物である。
 高原さんもこの問題にずっとこだわっていたが、はたして何らかのヒントは得られたのだろうか。

高原さんのコメントに(文章を一部修正しました)

 高原さんの文章は長いのでまだ初めの部分だけしか読めていませんが、高原さんの文章のどこに違和感があるのかということが今回ふと分かったような気がするので、そのことを書きます。

「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」(高原文)

 高原さんの言おうとしていることへの反発ではないのです。きわめて単純に、文章表現への疑問なのです。

「人類が生きるとは」というフレーズで始まると、「人類にはこういう生き方しかない」というふうに聞こえてしまいます。さらに結末が「ことである」となっているので、そういう意味あいが強調されています。
 そこでぼくのような人間は、「人はもっとさまざまに生きているよ」と言いたくなってしまうのです。

 しかしよく読んでみると、高原さんが言いたいのは、人類の生き方を(あなたの文章が客観的に表現してしまっているような)狭い範囲に押し込めることではなくて、生きるということのひとつの側面を言っているに過ぎないのだということがわかります。人の生き方はさまざまとは言え、「事実の認識」「目的と手段の仮説」「その検証」という一連の作業を意識的であると無意識的であるとを問わず、繰り返しながら生きてきた、とは言えるでしょう。それは言ってみれば常識的なことで、それなのになぜ理解してくれないのかという高原さんのいらだちがあったようです。

 そこにぼくらのあいだの誤解があります。単純なことなのです。「人類が生きるとは」と「ことである」とを削除して言い換えれば済むことです。

「人類が生きるとは」→「人は」
「ことである」→「生きてきた」

 参考例

 人は現実のただなかにあってその現実を解釈し、価値判断し、それにそって仮説的な目的を立て、それを実現するためのこれも仮説的な手段を見出し(行動し)、その目的と手段とを現実によって検証し、修正しながら生きてきた。

 こういう文章ならば、生きるということの一側面の表現として理解しやすく、だれも反発しないでしょう。

 もっとも高原さんにとってそれは一側面ではなく、生きるということのすべてなのだと言いたいのなら(高原さんの文章はそうなってしまっているのです)、それに対してはいっぱい言いたいことがあります。

哀悼 劉暁波

 劉暁波が死んだ。冥福を祈る。言いたいことはいっぱいあるが、いまはただ悔しさだけが募る。

「民主文学」17年8月号

 前項に書いたことは、今後政治や政党についていっさい発言しないということではない。いままでどおり思いついたことを書いていく。ただ共産党に対して持っていた特別なこだわりがなくなった、日本社会が持つ政党のひとつとして客観的に見るようになった、という程度の意味である。批判しないということではない。ぼくの政治的関心の中心点が他の場所に移ってきたということだ。

 さて、文学である。小説についても、小説はさまざまなのだから、人の小説についてくだらない感想を書いている暇があったら自分の小説を書きなさい、と幾人もから言われた。おまえはトラブルメーカーだとも言われた。
 なるほど自分の小説を書きなさいという忠告はありがたく承るが、感想を書くことが罪になるとは思わない。
 ぼく自身は書き手としては感想を欲しがるほうである。反応のないのがいちばん虚しい。誉められればうれしいが、はたして本気かなと疑ってしまう。むしろ指摘をもらうとうれしい。そして小説に関係の深い人からよりも、一般読者からの指摘のほうが、ぼくを立ち止まらせる。
 感想なんかほしくないという書き手もいる。ほしくないのはその人の勝手、感想を書くのはぼくの勝手だ。

 ということで、「民主文学」8月号。

 倉園沙樹子「巨艦の幻影」
 何故この作品が良かったのかなと考えていた。ついでに書いておくと、タイトルはぴったり来ない。そこに注意を向けて読ませたかったのだとしたら、作家のねらいとぼくが受けとったものとは微妙にずれる。ぼくはもっぱら峰山家の人々に惹かれてこの作品を読んだ。タイトルもそれを象徴するもっとつつましいものであってほしかった。
 この作品の次に掲載されている青木氏の作品を読んでいたときに、倉園作品にぼくが惹かれた理由が自然に浮かび上がってきた。両作品は対照的だ。
 書かれているのは1942年の峰山家の人々である。造船所の職工の父がいて、戦艦大和(?)を造っている。父はそれが誇りだが、軍事機密であって洩らしてはならない。それを歯がゆくも思っている。母がいて、16歳の勇少年がいて、海軍に志願した兄と、14歳の妹がいる。ほかに故あって峰山家で育ったがいまは独立した21歳の原口君がいる。叔父一家も登場するが、主要な登場人物ではない。
 写実的な小説スタイルではない。当時を知る読者には違和感があるかもしれない。寓話的な作品のようにも感じる。だがまた、当時の現実というのは意外にこういうものでもあったかもしれぬとも思わせる。
 父の視点で書いていく。作者は説明しない。書かれているのは一家の会話と立ち居振る舞い、その時々の父の思いである。ひとり一人がどういう人間であるかという説明がないままに物語が進んでいき、進んでいくなかで登場人物たちの意外な面が表れてくる。読者にとっても意外なら、視点人物である父にとっても意外なのだ。そして父その人の思いも、読者にとって意外な面を顕わにする。
 類型的な人物がいない。人物が常に読者の予想を裏切る。だから人間たちが生きている。小説技法としてもすぐれているし、それはまた作者の人間観の確かさなのだ。
 一ヶ所だけ引用する。勇の留守に警察が来て、勇の本棚から「改造」と「赤と黒(!)」とを没収して帰った後の、母が勇を説教する場面、自分が説教するつもりだった父は妻に先手を取られて黙って聞いている。

 <「勇、何が正しいとか何が間違うとるとか、そんとなこと、世間様に逆ろうてまで見極めんでええの。そんとなこと、知らにゃあほうが、人間は幸せになれるけえ」
 おかしな説教をしよる、と清吉は思った。何が正しいことなのか見極めろ、と言うべきなのだ。だが、口出しできぬような厳粛な空気が、妻と次男を包んでいた。(中略)
「……何が正しい、何が間違うとる、そんとなことより、身の安全と毎日毎日の生活のほうが大事なことなの。余計な知識なぞ、生きていくのに邪魔なの。今、お父さん、お母さんの前できっぱりと約束しんさい」
 おいおい、違うぞ、妙子。心の中で清吉は叫んだ。こういう場合、何が正しいことなのかを教えなければならないのだ。(中略)
「勇、黙っとらんで、ちゃんと返事をしんさい」
 すると、勇はやっとくぐもるような声を発した。
「なして……」
 その一言を聞いた瞬間、妙子は勇の頬を平手で打った。
「『なして』はもうけっこう」
 妙子の鋭い一声が清吉の鼓膜をふるわせた。>

 青木資二「グラデーション」
 この作家の作品は過去にとりあげているはずだと思ってブログ内検索をしたら、2件出てきた。13年と14年である。
 13年の作品にはもろに「類型だ」と書いている。14年のものにも似たようなことを書いている。
 もちろんこの人の小説を好きな人もいるだろう。だが、ぼくには退屈だ。いつも人間がパターンを出ない。驚きがない。読者を裏切らない。わかりきったことしか書いていない。
 で、これを読みながら、倉園作品がなぜ良かったのかがありありとわかったというわけだ。
 しかし、評価すべき点はある。現代の高校生を書いている。挑んでいると言うべきか。おそらく中高年の誰が書いても失敗する確率の高い仕事だ。現役の高校生が書くものに勝てないだろう。庄司薫が「赤ずきんちゃん、気をつけて」を書いたのは30歳くらいのときだったか。その年齢ならまだ書ける。
 だが漱石が「三四郎」を書いたとき、彼はすでに40代だった。ドストエフスキーが「未成年」を書いたのは晩年に近くなってからだ。そのときドストは「試みて過つしかないのだ」と言った。挑まねばならない。しかし困難な課題なのだと覚悟せねばならない。
 吉岡淳という少年の視点から書いているのだが、淳自身のセリフがほとんど出てこない。家庭の会話で書かれるのは両親のセリフだけである。淳は黙っているのか? そうではない、淳もしゃべるのだが、<淳は毛頭、座を取り持つつもりではなかったが、ホームルームの様子を掻い摘んで伝えてみた> ぼくは淳がどのような言葉でどういうふうに伝えるのか知りたいと思った。掻い摘んでみても、多少複雑な内容である。それをどうしゃべるかに淳の人となりが現れるはずだ。淳の肉声が聞きたいと思った。だが、肉声を響かせるのは大人たちばかりなのだ。
 淳が無言で大人たちを観察しているのならいい。だがそうではない。しゃべっているのに作者はその声を聞かせない。
 <白井先生は詳しく語らなかったが、職員会議で生徒に揚げさせることは憲法や子供の権利条約に反するから止めてほしい、と訴えたようだ>
 <訴えたようだ>は客観的な用語ではなく、主観による推測だから、誰が推測したのかが必要である。この場合、視点人物である淳だろう。<白井先生>が<詳しく語らなかった>ことを淳がどのように推測したのか。あとの文章からのつながりで言うと理沙から聞いたと解釈できるが、文章からは主観と客観とがちぐはぐしているように感じる。
 全体に作者がどこに立地点を置いているのかがはっきりしない。淳の姿が浮かび上がってこない。飛び交うセリフは大人たちの没個性なセリフ、誰が言ってもかまわないような、何の匂いもしないセリフばかりである。
 繰り返すがそれを淳が黙って観察しているのならそれでいいのだ。その無意味なセリフのなかからそれを黙って聞いている淳の姿が浮かび上がってくるならそれでもいいのだ。だが、この作品ではそうではない。作者はむしろ大人たちのセリフを書きたいのだ。淳のことはあまり頭にない。
 子供には子供の世界、若者には若者の世界がある。若者を書こうとしたらそれを書かねば駄目だろう。大人たちを出しゃばらせたらおしまいだ。「赤ずきんちゃん」のどこに大人がいるか。作家たちは自分の少年時代を書くときに、こんなにも大人を出しゃばらせるか。子供にとって、大人は常に背景でしかないはずだ。

 草川八重子「第二室戸台風」
 ほとんど作者の経験をそのまま書いている(と思われる)。34年生まれの私(たぶん作者自身)が61年に経験した台風の話である。台風は室戸岬に上陸して京阪神地方を襲った。同じコースが二度目だから第二だ。
 <私>一家は寝屋川の長屋に住んでいた。風呂もない、洗濯機もない、冷蔵庫もない。なんにもない。4歳と6か月の男の子二人を抱え、もちろん紙おむつなんかない。台所からホースを引っ張って道路べりで盥でおむつを洗濯し、側溝に流す。夫は電話局の労組の専従で、現役の給料に見合う額を労組からもらっているが、そもそもが安い。まだ安かった時代だ。<私>も電話局勤めで、育児休暇中だが、無給である。貧乏の話がいっぱい出てくるが、明るい。貧乏を楽しんでいる。いまだからそういうふうに書けるのか、もともとなんでも楽しめる性格なのか。読んでいる方も楽しくなる。
 そこへ台風が襲い掛かる。夫は電話局の仕事で何日も帰宅できない。玄関の窓ガラスに瓦が飛び込んで割れ、そこへ畳を一枚立てて必死で風の侵入を防ぐ。4歳の息子が幼いなりに手伝う。そういうなかにかつて組合の若者たちが赤旗を立てインターナショナルを歌いながらボランティアに行った和歌山かどこかの被災地の思い出話が入る。
 短い作品だが、楽しく読んだ。作らない作品(たぶん)の面白さだ。

所感

 なんだったのだろう、あれは? 共産党について誰も読まない長い文章を書き連ねた日々は?
 共産党外の人には何の意味もない文章だし、共産党にとっては、よけいなお世話でしかなかった。
 共産党はぼくではない。ぼくと共産党が食い違うのは当たり前のことだし、それはぼくとは関係ないことなのだ。ぼくは自分と関係ないことについて余計なお世話をしていた。
 たぶん、一度党活動を経験し、不完全燃焼のまま中途半端に離党した人間は、いつまでも党にこだわる。そこは母校のような存在で、自分は同窓生のような感覚なのだ。
 でも気付いてみると、それはもう終わっていた。いまのぼくは共産党に対してどんな特別の感情も持っていない。
 共産党が現状とはかけ離れたと言えるほどの支持を得る日はおそらく来ない。だがそれはもはや共産党の問題というよりも、党というもの自体の問題なのだ。従来的な感覚の政党というものの時代は終わった。
 社会は変化していき、人間も変わっていく。政治スタイルも変わる。従来的スタイルは歴史博物館に行く。別のものが生まれる。
 何が生まれるのか。ぼくにはまだわからない。おそらく誰もまだ知らない。でも言えることは、それを生みだすのは理論じゃない。試行錯誤なのだ。新しい人たちが生まれ、さまざまなことを試みていく。そしてそれがいつか形となる。
 何かを生み出すのは実践である。行動である。誰からの評価も期待しない行動を、信念を持ってこつこつと続けていく人たちがいて、彼らがやがて人々の心をつかむ日が来る。そのとき理論も新しく形成される。
 そして現状の政党は、共産党もほかの党も、欠陥と限界とを持ってはいても、現状では欠くべからざる役割を果たしているのであって、それはそれで必要なのだ。それぞれに果たすべき役割があり、それが自分の理想と違っていても、それはそれ、ぼくはぼくなのだから、つべこべ言っても始まらない。

 ま、おおざっぱに言うと、いま、こういう感じです。

「私は天皇主義者になった」

 かなり日数が経ってしまったが、内田樹がついに「私は天皇主義者になった」と右翼雑誌に書いたそうだ。雑誌を読まずに朝日の紹介記事だけだが、以下のようなことを語っていた。この間の退位問題をめぐる諸氏の発言のなかで、右翼の一部が次のように言ったことが内田氏を驚かせた。
「天皇はうろちょろせずに、宮中の奥深くでじっと祈りを捧げていればよい。余分なことをするからくたびれるのだ」
 じつはぼくもこの発言を新聞で読んだとき驚いた。右翼は天皇を尊敬しているのだとばかり思っていた。そうではなかったのだ。右翼が好きなのは天皇制という制度だけである。そこに座っているのがどんな人間だろうが、彼らには関心がない。それどころかたぶんいまの明仁美智子夫妻を嫌っている。
 もちろん右翼のすべてがそうだというわけではないが、どうも多かれ少なかれそういう傾向が右翼にありそうだということが、ぼくにとっても、内田氏にとっても驚きの発見だったのだ。
 一方で、明仁美智子夫妻が、広く国民から愛されているという事実がある。彼らは必ずしも天皇制を愛しているわけではない。夫妻を人間として愛しているのだ。その人々は決して右翼的な体質の人々ではない。夫妻はむしろ左翼的な人々から敬愛されていると言ってもよい。
 政権が右翼的世論の支持を得て右翼的方向へ走ろうとしているなかで、ある意味天皇夫妻がブレーキになっているようなところがある。
 内田樹はそれを大胆に支持したのだ。
 もちろん朝日記者は疑問を呈した。「それは天皇の政治利用にならないか。危ういことではないのか」
 内田氏にとって、そういうことは当然思慮のうちである。しかし現実にいま天皇制をめぐるこういう世論の状況がある、これをないことにしてうやむやにしてしまうことの方が危険だろう、と彼は考えた。現実から出発しよう、そこから考えようというわけだ。
 ぼくにも朝日記者が表明したような危惧はある。だが理解はできる。天皇夫妻も人間だ。人間に対しては当然払うべき敬意がある。右翼は最低限それさえ払っていないように見える。
 ずいぶん昔のことになるが、NHK日曜日の将棋番組の米長邦雄のユーモアあふれる解説をぼくは好きだった。ところが石原慎太郎が彼を東京都の教育委員に任命すると、天皇と会ったおりに、「君が代日の丸を徹底していきたい」と発言した。ぼくはこの発言でいっぺんに米長を嫌いになったが、このときの天皇の回答は、「それは強制的な方法ではないほうがよいと思います」というものだった。この回答はぼくの記憶に残った。

倉園沙樹子「巨艦の幻影」(民主文学8月号)

 百枚をしっかり堪能させてもらった。1940年の話で、変に現代につなげようとせずにその時代だけを描いているのに、しかも現代に迫ってくる。癖のない文章で始まり、癖がないということは逆に個性に欠けて面白みがないなと感じたのは最初のうちだけだった。じきにぐいぐい引き付けられていく。表現方法は十分個性的で、退屈させない。初めて目にした名前だが、才能のある人だ。
 満足した作品に関してはあまり書くことがない。ぜひ読んでみてほしい。
 一ヶ所だけ。32ページ下段終わりから4行目。清吉と原口の場面に、いきなり勇が登場する。ここは面食らった。少し文章を付け足すべきだった。

社会党

 名前をメモしておかなかったのでわからないのだが、国労組合員の解雇撤回闘争を主導してきた人だったと思うが、次のようなことを朝日のインタビューで答えていた。
(中曽根がのちに何かで語った内容として)「国鉄を分割民営化すれば、国労がつぶれる。国労がつぶれれば、総評がつぶれる。総評がつぶれれば社会党がつぶれる。社会党がつぶれれば憲法を改訂できる。国鉄分割民営化の目的はその一点にある」(と言ったらしい)。この人はそれを何かで読んで、「自分たちは生活のことに必死で、そこまで考えることはできなかった。そのような大きな構想に対してはとても太刀打ちできなくて当然だった」という感慨を持ったという。(一部引用が不正確かもしれないが、およそそういう趣旨として読んだ)。
「風が吹けば桶屋が儲かる」式の展開だが、まさにそれが自民党の側の目的だったのだろうし、それは当時から指摘されていたことではある。しかし、中曽根自身がはっきりそう言ったという話だったので、(ぼく自身が確認したわけではないが)ずいぶん正直に言ったものだなと感じるとともに、一方で、戦後政治に社会党が果たしてきた役割についても、改めて感じるところがあった。
 かつて社会党が果たしていた役割をいまどの党も果たせていない。有権者からすれば共産党は左すぎるし、民進党は自民党との違いが見えない。社民党は力がなさすぎる。そこで、そのときどきで、みんなの党に行ったり、橋下維新に行ったり、小池ファーストに行ったりする。かつて社会党に投票していた層の受け皿がないのだ。

小熊英二と建国72年

 たぶんすでに1か月ほどになろうが、小熊英二が朝日で次のように書いていた。
「今年は戦後72年なのだという。どこの国でも、戦後と言ったら戦後数年のことである。日本はいつまで戦後何年と言い続けるのか。答えは<永久に>である。何故なら、1945年を境に日本という国が根本的に変化したという意識が人々の頭に潜在的にあり、でありながらそれを表現する言葉がほかにないからである。1945年に大日本帝国が戦争に敗れて崩壊消滅し、新たに日本国が生まれたのだ。今年は日本国建国72年なのである。だが右翼はもちろんそれを認めたくないし、そのほかの人々はそこまで思いつかなかったというだけだ。ところでこの日本国に対する反体制派は、じつは日本政府を構成する与党なのである。彼らは日本国を疎ましく思ってこれを覆そうと72年間画策してきたが、政権を保持しながらできずに来た。云々」
 そこから先の論理展開は忘れた。ここまでのところが特に面白いと思った。

「暦の上では」 「梅雨入りしたのに」 「安全であるはずの」

「立春」について書いたのは、新聞、テレビや日常会話のなかに妙にひっかかる言葉がいくつかあって気になっていたからだ。
1、「きょうから暦の上では春なのに、まだ寒い」
2、「梅雨入りしたのに雨が降らない」
3、「安全なはずの学校」「安全なはずの通学路」
1についてはすでに書いた。

2、「梅雨入り」とは何か。「梅雨入り」と「入梅」とは違う。「入梅」は24節気には含まれない「雑節」と呼ばれるもので、諸説あるようだが、ほぼ新暦6月11日ころを言う。季語でもある。
「梅雨入り」はその年の気圧配置や前線の位置、雨の降り方などを見て、気象庁が宣言する。しかし、気象庁が宣言するから梅雨入りするわけではない。梅雨入りを決めるのは自然であって、人間ではない。梅雨入りしたと気象庁が思ったから宣言しただけで、宣言したら梅雨入りするわけではない。宣言しても梅雨入りしていないときも当然ある。
 だからこの言葉は次のように言うべきだ。
「気象庁が梅雨入り宣言したが、梅雨入りしていなかった」

3、「はず」という言葉は用例を見るとかなりいろんな意味で使われている。だからたぶんここでは「安全であってほしい学校(通学路)」、「安全であるべき学校(通学路)」という意味あいで使われているものと思われる。そういう用例もあるのだから間違いではないのだろう。
 引っかかるのはぼくだけなのかもしれないが、「べき」と「はず」とは語感が異なる。
 じつは日本語を習う外国人にとって「べき」と「はず」の違いは難しいらしく、そういう質問がネット上にある。
 ネット上の日本語教師は、日本人にとってこの違いは明確なのに、なぜ外国人に理解できないのかと自問し、どちらも英語ではShouldだからなのだと納得している。
 別の回答者が次の用例で説明している。
「約束は守るべきです。そうしないと信用を失いますよ」
 前のセンテンスだけなら「はず」でも可能だが、この場合、あとに続く言葉からの意味あいで言えば、「はず」を使うことはできない。
 つまり「はず」は客観的で、「べき」は主観的である。
「はず」→(相手の)様子や条件から判断して、そうなる可能性が非常に高いとき。
「べき」→そうする必要があると自分(発言者)が考えたとき。(ネットの引用による分類)
 また他の回答者は次のように区別して英訳している。
「はず」→He will come here.(I`m sure he will come here.)
「べき」→He should come here.

「安全であるはずの学校」という言い方に疑問を呈しているネットもあった。
「学校は安全であってほしいし、安全であるべきだろうが、現実には安全であるはずがない。むしろ危険であるはずだ。だって自由に出入りできるし、身を隠す物陰も多い。子供が大勢いるのに、大人の人数は少なく、子供を守る訓練も受けておらず、装備も持っていない」
 つまりこの人は、ネット上の日本語教師たちが区別したのと同じように「はず」と「べき」とを区別したのだ。
 そしてぼく自身も、彼同様「安全であるはず」という言い回しに対して違和感がある。彼やぼくの語感が狭くて誤解しているのか。「はず」と「べき」とは区別するときもあるが、区別しないときもあり、この場合、「べき」の意味で使っているのだと理解するべき(はず)なのか。誤解を生じやすい使い方だと思えるのだが、誤解しているのは、この人とぼくだけなのだろうか。

立春

 立春て何だろうと思って調べていたら意外なことがわかった(ぼくにとってだけ意外だったのかもしれないが)。立春を旧暦だと思っている人が多い。だが違うのだ。旧暦は太陰暦であり、月齢に基づいている。だから旧暦では、満月は毎月15日か少なくともその周辺である。だが立春は旧暦では毎年日が違う。むしろ新暦でこそ毎年2月4日か、その周辺なのだ。
 立春は24節気で、これは太陽暦なのである。中国では春夏秋冬の区切り方が西洋とは異なる。春分、夏至、秋分、冬至を、春夏秋冬の中心としてとらえる。したがって、冬至(冬の中心)と春分(春の中心)の中間日が立春(春の始まる日)である。同様にして、春分と夏至の中間日が立夏、夏至と秋分の中間日が立秋、秋分と冬至の中間日が立冬である。
 これは太陽暦だから、新暦では毎年ほぼ同じ日になる。旧暦では毎年違う日である。旧年のうちに立春したり、新年が始まってしばらくして立春したりする。立春が一度もない年もあれば、年に2度(年初と年末に)立春があることもある。30年に一度くらい旧暦の1月1日が立春と重なるそうで、それはたいへんおめでたい年なのだという。(近年では1992年、次は2038年)
 春が立つとは「いまからだんだん春になりますよ」ということであって、「春が来た」ということとは少し語感が異なる。それでも大陸では立春から気温が上がり始めるそうだ。海洋国日本では一番寒いころが立春なので、違和感がある。
 気象庁が「きょうから暦の上では春です」などと言うので、「たぶん、旧暦の2月4日が立春で、新暦では3月なのだ」と思ったら大間違い、もともと立春は新暦の2月4日なのである。8月にやるべき七夕を新暦の7月7日にやってしまうのとはわけが違う。
「きょうから暦の上では春です」という言い方は「立春」という言葉の本来の意味から少しずれているように思える。だいたい、「暦の上」の「暦」とはどの「暦」のことを言っているのか、誤解が生じる。もちろん旧暦ではない。では新暦なのか。新暦なのだが、季節の区分方法が現代とは異なる。現代の「暦の上」ではない。大陸人がむかし日本に伝えた「暦の上」(24節気)である。しかも、その意味は、「春が来た」なのではなくて、「春に向かって立った」なのである。

竹内七奈「或る家族の瓦解」(民主文学17年7月号)

「或る家族の肖像」というタイトルの作品を最近読んだばかりだと思っていたら、勘違いしていた。「ある作家の肖像」だった。そういうフランス映画がつい最近(2013年)にあって、吉開那津子が同じタイトルで書いたのが記憶に残ったのだ。
 でも「ある家族の肖像」も、映画にもあれば、レンブラントの絵画にもある。レンブラントの絵画の英語名はFamily Portrait、直訳すれば「家族の肖像」だが、日本語で「家族の」と書くと自分の家族のことのような語感がある。Family Portraitは「どこかの家族の」という意味だから、「ある」を付けるのが妥当だろう。
 ところで言いたいことは、「ある作家の肖像」も「ある家族の肖像」もぴったりしたタイトルなのに、「ある家族の瓦解」と聞くとどこかぎこちない、ということ。何故なのか、(ぼくの思い違いかもしれないのだが)たとえば次のようなことを考えた。
「肖像」は静的だが、「瓦解」は動的である。「肖像」が一人の作家なり、ひとつの家族なりの在りようを描き出すのに対して、「瓦解」はむしろストーリーに比重を置いているような語感がある。
「肖像」の場合の「ある」は、「どこかの作家」「どこかの家族」である。作家はそれを静的に観察しており、距離がある。
「瓦解」と聞くと、たとえば「アッシャー家の崩壊」のように観察者の目の前で荒々しい出来事が起こっており、あるいは観察者も巻き込まれている。それなのに「ある」というなんとなく他人事のような接頭語は似つかわしくない、とそのように感じるのだ。
 これが観察者とまったく無縁な「どこかの」家族の話だったら、違和感がなかったのかもしれない。そういう問題なのかもしれない。よくわからないのだ。

 内容に入る。と言ってもまずは言葉の問題だが、難漢字の多用はあいかわらずである。だが読者のほうで馴染んできたようなところがあって、前ほど引っかからなくなった。明らかな誤用が目につかなかったからかもしれない。もっとも、当方が漢字に詳しくないので、正誤の判断が必ずしもできない。

 さて、書かれているのはまさに「家族の瓦解」である。その意味ではタイトルは当たっている。ただし、87歳と89歳のおばあさんが書いた前二作(高沢英子、杉岡澄子)のような家族ものとはかなり違う。あれらの作品では作者は対象とほどよい距離をとって、まさに「ある家族」を描写するなかに、時代の空気や、その中で呼吸する人間の普遍性を感じとらせる。
 竹内七奈の場合は、主観が強く入り込む。ただどこまでが事実でどこからがフィクションなのかを作者は判断させない。ひょっとしたらすべてが作り上げた物語なのかもしれないのだ。(そうだとしたらかなりすごい)。
 <私>の祖父母は海の近くで釣具屋をやっていた。よく釣れていたころで客も多く繁盛していた。ところが長男も次男もあとを継がずに出て行って、三男が残った。これが<私>の父だ。この父は無口で人づきあいができず、商売に向かない。それで漁師をやっている。それもまともに働かずに、稼いだ金を遊興に使ってしまう。
 <私>の母は、父と正反対で社交的でおしゃべりである。この二人がなぜ夫婦になったのか<私>にはわからない。母が祖父母を手伝って釣具屋をやり、祖父母なきあとは一人でやっている。客あしらいがうまく、釣りの知識も身に着けたので、変わらず繁盛している。
 父は家を空けがちで、母は客に人気があり、必然の結果として、母は客とできてしまった。ついに家を出て客の一人と別のところに釣具屋を作った。
 <私>は父の性質を受け継いでしゃべることが苦手で、口で自分を表現できない。人と付き合えない。で、中学卒業後は進学も就職もしなかった。
 母が別の男と店を構えてからは、店番に行くようになった。でも客ともしゃべれず、釣りの知識もないので、満足な店番はできない。母のくれる金もわずかである。海の環境が変わり、魚も釣れなくなって、店も前ほど繁盛していない。
 しゃべれない<私>だが、書いてみると書けた。短編小説が賞を取り、ほそぼそと書いている。

 というところまで書いて忙しくなって中断してしまった。何を書こうとしていたか忘れてしまったので、手っ取り早くまとめる。
 作中の<私>は自分を発達障害であるといい、しかるべき生育環境を与えられなかったために、障害を重くしてしまったのだとして、自分をかまってくれなかった両親への恨みつらみを書き連ねる。
 これを<私>という人物の書いている手記という体裁をとった客観的な症例レポートであるとして読めば、かなり興味深い内容である。
 自分の人生に負の影響を与えた両親なり、だれかれなりに対する恨みつらみ、こういう思いを多少とも持っている人はどこにでもいるはずだ。自分の人生を肯定できないでいる若者にはありがちのことだ。
 問題はそれをどう描いたら文学として成立するのかだろう。さまざまなアプローチがあり得るとは思うが、問われるのは作者がどれだけ客観的な目を持っているかだ。
 この客観的な目というのも、取り扱いの難しいものである。それがあからさまに作品に出てしまえば、もはや文学ではなくなって解説書になってしまう。それは秘されていなければならない。作品そのものは葛藤する精神世界の表現でなければならない。でありながら、どこかにそれを見つめる作者の客観的な目を感じさせる、そういうときそこに芸術世界が生まれる。

 この作品で気になるのは、たとえば「発達障害」という言葉があまり安易に使われていないかということだ。脳機能に関することはまだわからないことが多く、「発達障害」もほとんどわかっていない症例である。先天的なもの、後天的なもの、物理的損傷によるもの、生育環境によるもの、どこまでが障害と呼ぶべきもので、どこからはそうではないのか、そういう不分明なものに対して、具体的に書いていくところまではいい、しかしそれを一つの名前にしてしまえば、そこから作品は文学を離れていくのではないか。

 作品の終わりのほうでは和解らしきものに向かおうとする人の心も描かれていたように記憶する。そこに主人公の成長と、作者の視る目の広がりが垣間見えていたようでもあった。

旭爪あかね「シンパシー」について (15年10月) 再掲

 ある人との手紙のやりとりで、「私小説」に関する私見を書き始めたが、いま複雑な気持ちがあってまとまらない。その複雑な気持ちを書いた文章がここにあるのを思い出したので、再掲して現在の気持ちの表現とする。

 ベタな私小説。太宰治や宮本百合子のような……。こういう小説でいつも一番気になるのはなぜ「私」でなく三人称で、しかも作者と違う名前なのか、ということだ。
 それはたぶん、まるっきりほんとのことじゃなくて、嘘が入っていますよ、という弁解や言い逃れと、あるいは嘘が入っていることを前提に読んでください、という読者への注文であろうか。それでいて自分自身や身辺の誰彼がモデルであることをあからさまに、これ見よがしに提示し、そういうことを類推して読んでくれるよう、読者にたいして要求もしているのだ。
 太宰治に入れこむことから文学的経歴を始めたぼくだが、私小説を評価できなくなって久しい。
 それは自分のことを書いているかいないかということとはまた違うのだ。ヘミングウェイの初期短篇は自分の子供のころの話だ。彼はむしろ話を作ってはいけないと言った。渥美二郎は自分の身辺しか書かない。だが、ヘミングウェイや渥美二郎の作品を私小説だとはぼくは感じない。
 それはスタイルの問題なのだ。日本の伝統的自然主義私小説には、共通のスタイルがある。まるっきり嘘八百を書いていてさえ私小説のジャンルに入ってしまうような、特有のスタイルがある。このスタイルに長く違和感を持ち続けてきた。
 のだが、今回この作品を読みながら、私小説もけっこう面白いじゃないかという気持ちになったのである。
 それがなぜなのか、よくわからない。とりあえず以下のようなことは考えられる。
 まるっきり知らない作家じゃない。「稲の旋律」を読んだので、少し親近感がある。だから、多少ゴシップ趣味で惹かれるところがある。私小説が日本で長く支持を保ってきたのはそういうことではあるだろう。太宰治や宮本百合子のプライバシーに興味を持ちつつ人々は彼らの作品を読むのだ。
 ただ、結論から言うと、どんなスタイルの作品であろうと、私小説であろうと、そのことだけで偏見を持つのはやめよう、という考えに今回落着いた。
 それはともかくとして、ストーリーに入っていくことにしよう。
「民主文学」の(ここは下手な偽名を使わず、ずばりそのまま「民主文学」で登場する)、合評会から話が始まる。その年の新人賞の受賞者たちを集めて、合評している。参加者の一人ちづるは、彼らを選んだときの審査員でもあった。このちづるが何故ちづるであるのかはよく分からない。彼女が「私」であっても作品はまったく同じように書けただろうと思う。
 いま取り上げているのは、長谷部美代子の「リバティー」である。これはつまり、長谷川美智子の「リバティーに愛をこめて」なのだ。これを、そうとはっきり分かるように偽名にする意図も、全く不明である。不明であるが、これが日本伝統の私小説のスタイルなのだ。
 ちづるは審査員ではあったのだが、この作品に一部疑問を持っていた。それをこの合評会の場で披露する。と、反論に出合った。それを聴いてちづるは自分の想像力が衰えているのだろうかと自己懐疑を持ち始める。これが全編を貫く縦糸である。
 ちづるの過去も描かれる。引きこもりから、20年近いまえ、「民主文学」の新人賞をとって以来、少しずつ種々の運動の責任を分担するようになった。いま「民主文学」から派遣されて、原水禁世界大会の運営委員をしている。この世界大会の分科会の責任者の一人としての活動が物語の全体を占める。
 人間関係に不器用なちづるは、完璧でない自分を許せないことで引きこもりになったが、それを逆手にとって小説化することで立ち直りのきっかけをつかんだ。だが、そこから、なんとか人間関係を再構築しようと一生懸命なちづるの姿を、読者の眼から見ると、またしても完璧主義者の危ない罠に近付いているようにも見える。
 読んでいて、なんてセンシティブな存在なのだろうと、はらはらしてくる。この作者を月末の中国地区研究集会の講師として呼んでいるのだが、なんだか呼んだことが気の毒に思えてくるほどだ。(でも、そう思わせるところがこの小説の狙いかも知れない。小説家というのは基本的に嘘つきだから)。
 興味を持たされたのは、原水禁世界大会に向けての運営委員たちの活動内容である。この作品は、その活動のレポートとして読める。文学にはそういう機能もあるのだ。もっともルポ的にではなく小説的に書いている。
 この作家は66年生まれだが、ぼくが東京での世界大会に参加したのは65年だ。だが、代々木公園近くのどこかで催された大会の内容をぼくはまったく覚えていない。京都からの貸し切り夜行バスに乗りこんで、英文科の女の子たちの見送りを受けたのを覚えているだけである。彼女たちは、入学当初からバリバリの活動家で、自治会選挙に勝って英文科代表の委員になっていた。ぼくの方は、運動の端の方でうろうろしていて、どこへ行くかも定かではなかった。だから、そういうぼくを運動の雰囲気に浸らせようという策略のもとに、彼女たちはぼくを東京へと送り出したのだ。(結局、最後まで彼女たちの思うような人間にはならなかったが)。
 以上はぼく個人の思い出話として、ともかくもそれは原水禁運動の分裂直後の話であり、「いかなる国」論争の真只中だった。そして以後50年間日本の反核平和運動は分裂を克服できずに来た。
 いま、なるほど運動は生き残っているらしい。運動の全体像は描かれていないが、運営委員会の様子や、分科会の様子を読んで、それが活動家たちの交流の場として、また新たな活動家を生みだしていく場として、なんらかの役に立っているらしい様子は分かる。そのために一生懸命な人たちのご苦労ぶりも分かる。
 ただ、日本の平和運動をいかにして再統一していくかという方向への問題意識はまったくないようで、もちろんそういうことはもっと上の方で論議しているのだろうが、ほんとうは一人一人の活動家たちの最前線で、そういう問題意識が起こってほしいという残念な気持ちはあった。
 すでにまったく作品評ではなくなってしまったが、そういうもろもろをつつみながら、ストーリーの底流には絶えず、想像力の問題が流れ続ける。その問題を自分のなかからも、外からも、いろんな角度から扱ってみた、という小説であろうか。
 それなりに面白く読んだが、また複雑な気持ちを残させられもした小説であった。(この稿では想像力という作品のテーマ自体に入れずに終わってしまった)。
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