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「異邦人論」はほぼ終わったが、これから手直しにかかる。いろんなことを書いたので、続き具合がおかしくなっている。それにまだ書き足りない箇所もある。25×22で60枚、20×20に直すと、80枚だ。少し長すぎるとは思うが、書きたいことが多すぎるのでそうなる。全体をきちんとまとめられるか、そこが少し不安。論全体がストーリーを持っていないと、読むほうは退屈してしまうだろう。

「異邦人」132刷――売れているじゃないか

「異邦人」が家に何冊もあると思っていたので、正月に来た娘に比較的新しい一冊を押し付けた。もう一人の娘が、むかし読んで、「ペスト」はよかったけど「異邦人」は感動がなかったと言ったので、、読んでないほうの娘の感想を知りたいと思ったのだ。今とてつもなく忙しい年代らしいので、いつ読めるかはわからないが。
 そのあと66年版を引用に使っていたが、字が小さいうえに黄ばんでいて読みにくい。もっと新しいのをと思って探したがなかった。そこで買いに行った。大きい店まで行かねば無いかなと思ったが手近の店にあった。
 そのとき、新潮文庫で探したら、日本の小説しか置いてない。隣に文春文庫があったが、そこもそうだ。ぐるり見るとどの社の文庫も、置いてあるのはすべて日本の小説だけである。おいおい、ほんとうかい、と絶望しかけて、いちばん端を見ると、その一角に翻訳小説をまとめておいてある。いちおう名のある作家は並んでいる。カミュは「異邦人」と「ペスト」だけあった。
 ぼくらの時代には、どの店に行っても、文庫本の国内ものと海外ものとの棚は同じ大きさだった。いまでは海外まとめて国内一社分である。しかも今文庫を出している会社がやたら多くなったので、海外ものは本当に目立たなくなった。単に本離れという以上に、翻訳物が読まれなくなっている。
 ということは、まあ、いいとして、感動もあった。印刷年を見ると、一昨年だ。もっとずっと前のしかないだろうと思っていた。ところが、2018年である。しかも、132刷である。なんだ、けっこう読まれているじゃないか。内容を見ると何度か改版している。翻訳も違うところがかなりあるし、解説も書き換えている。なんといっても文字が大きくなった。紙も白いし、たいへん読みやすい。本文131ページだったのが、157ページになった。
 ということは、いまの読者向けに書くとしたら、引用ページ数を、2018年版で書く必要がある。引用はすでに66年版でやっているので、両方のページ数を並べることにした。
 翻訳の違いなど、読み比べる必要が出て来た。また、白井浩司が1995年に解説に書き加えているなかに面白いものがあった。先日ぼくの「異邦人論」に書いたばかりのことを白井浩司が書きこんでいる。24年まえにすでに人が発見していたことを、いまさら見つけたのかと思うとがっかりだが、やむをえない。40年間ぼくは違う世界にいたのだから。
 値段も変わった。80円だったのが、税別460円になった。税をつけると、506円である。6倍以上の値上げだ。

異邦人論について

 正月からこっち、なかなか気が向かなかったが、少しずつ書き始めた。樹宴の書式(25×22)の縦書で書いている。最初に書式をあわせておかないといろいろ不自由が生じるから。それでいま23枚。これは原稿用紙で何枚くらいだろうと思って20×20に変えてみたら、31枚だ。まだ長すぎるというほどではないだろう。あと20枚くらいでたぶん終わる。

「異邦人論」にもらったコメントに

 瀬崎さん、ありがとう。
 カミュが時代遅れになったわけではないと教えてもらって、とても救われた気持ちです。あまりの落差なので、ぼくはもう引退すべきときなのかとさえ思っていたのです。でも、たぶん、たまたま、今回「異邦人」を読んでもらった人々とのあいだで文学的感性が合わなかったということなのでしょうね。ただ、ほかの人にもあたってみて、「ペスト」は感動したが、「異邦人」には感動がなかったという回答もありました。それで、今年のふくやま文学の合評会では、ぜひともみなさんに聞いてみたいと思っています。
 今回「異邦人」を読み直して、(老化現象で涙もろくなったせいでもありますが)いまでも読むたびに泣けてくるのです。そんなぼくは異常なんだろうかという疑問が湧いたりしたのです。
 ところが、正月で6人の孫と遊び惚けているあいだに、少し気分がカミュから離れてしまいました。今月中には書き上げねばならないのだけど(樹宴で発表するつもりなので)、気分屋なので、気分の乗らないときは前に進まないで困っています。

 40年前に、書こうとして目を通した資料を参考までに挙げてみます。
「直感」新潮社 1974年
「太陽の讃歌」新潮社 1973年
「反抗の論理」新潮社 1971年
 以上三冊はカミュの若いとき(20歳前後)の日記です。
「幸福な死」新潮社 1972年
「異邦人」に先だって書き、発表しなかった作品。「異邦人」とも共通性があるが、「太陽がいっぱい」も少し連想させる。
「若き日のカミュ」高畠正明 山梨シルクセンター出版部 1971年
「カミュ」ジャン・オニミュス ヨルダン社 1973年
「アルベール・カミュ」P・ソディ 紀伊国屋書店 1972年
「カミュ」エマニュエル・ムーニエ 審美社 1972年
「カミュの異邦人」ベルナール・パンゴー 審美社 1975年
「カミュ論」アデル・キング 清水弘文堂 1973年
 これはどういうわけか、同じ本が二冊ある。
「シチュアシオンⅠ」サルトル 人文書院 1972年
 ちなみに、年数は、発行年ではなく、買った本の印刷年です。
 こうして並べてみると、ほんとうにこれだけ読んだのだろうかという疑問も湧きます。というのはその内容をいまでは覚えていないからです。でも、パラパラとめくってみると、ところどころ線を引いてあります。若いころは線を引きながら読む癖があったのです(いまはしませんが)。
 ぼくが気に入らずに無視したという本はたぶん、ジャン・オニミュスです。次のような箇所に線引きがあります。
 10ページ <良心の欠如した男ムルソーは>
 80ページ <この主人公(ムルソー)は完全に不毛の人間であり、その生きる姿を見ればすべては見せかけにすぎず、その装飾の背後には何もない>
 82ページ <ところが我慢できないのは、まさに、このほかになにかを持たないということである。こうした生活は「人生」とは言えない。物語全体がそれとなくそのことを暗示し、そのようにして悲劇につながっている>

 いま全体を読み直す余裕がないのですが、カミュについて一冊の本を書くくらいだから、おそらくカミュの全体にはそれなりに高い評価を与えているのだろうと思います。たまたま「異邦人」を批判している部分が癪にさわっただけなのかもしれません。当時それらの本を、どこまで読んだのか読まなかったのか、いまとなってはわかりません。なにぶん50年前、20代のときなので、ぼくにとってははるかな昔で、たとえれば江戸時代のことを語るようなものです。
 著者について、とくにキリスト教関係者という記述はまだ見つからず、出版がヨルダン社なので、勝手にそう思っただけかもしれない。

 今回、これらの本を読み直す余裕はなく、いまぼくの持っている方法論だけで「異邦人」を読み解いてみたい。こういう読み方をしてみたらどうですか、というものを書いてみたいと思っています。

トランプの馬鹿

 トランプがしてはいけないことをした。
 もともとCIAが世界中で汚い人殺しをやっていることは誰でも知っている。でも、アメリカ政府が公式に認めないので、それは秘密であるという建前になっている。
 じつはこれは大事なことなのだ。今回は、CIAではなく、国防総省がやった。国防総省が大統領の命令なしにやればそれも大問題だが、今回、トランプは自分が命令したと公式に認めた。
 トランプはアメリカの退路を断つと同時に、イランの退路も断ったのだ。
 バレバレでも秘密ということにするか、それとも公式に認めるかということには大きな違いがある。つまりイランが自重できるか、それとも世論を押さえきれなくなるかということだ。公式に認めなければ、報復しなくてもイランのメンツは立つ。だが認めてしまったので、そうはいかなくなった。
 われわれとしては、イランが自重してくれることを祈るだけである。報復しても誰も得をしない。報復合戦がどこまで行くか、チキンゲームに突入する。アメリカとイランだけですまなくなる。下手をすれば、「渚にて」の世界が現実となる。
 トランプがバカだということは誰でも知っている。でも、米軍を世界から撤退するようなことを言うので、少しは期待したのだ。もちろん、「金を出さねば撤退するぞ」というのが本意で、金が欲しいだけなのはわかっていた。でも、イラクから退き、シリアから退き、アフガンから退くという方向に現実に進みつつあった。
 北朝鮮問題では、さんざん緊張を高めるようなことをやっておいて、いきなりトップ会談に持ち込み、「これはマッチポンプじゃないか」とは思ったが、でも結果には大いに期待したのだ。ところが手のひら返しだ。北がおとなしくなったら日本が戦闘機も迎撃システムも買ってくれなくなると誰かが入れ知恵したのだろう。アメリカの経済は死の商人でまわっているから、世界平和こそ最大の敵なのだ。
 ISとの戦いでは米軍にも存在価値があった。だが、これも、もともとアメリカが蒔いた種だ。イラクをフセインに任せておけば、過激派の出る幕は絶対になかった。イラクの統治機構をアメリカが破壊したので過激派がはびこったのだ。
 イランの危機は、まったくトランプが一人で作り出した危機である。大勢が何年もかかってむずかしい交渉をやって、ようやく作り上げた核合意を一人でぶち壊してしまった。サウジアラビアや、国内のシェールガス業界からの働きかけがあったのだろう。つまり原油の価格を維持するうえで、イラン原油は邪魔なのだ。
 アメリカが勝手に世界中に命令できるのは、世界の金融システムがドルを基軸にしているからで、アメリカに逆らったら経済が成り立たなくなるからだ。
 不都合な現実だが、不都合でも現実である。だからアメリカ政権の責任はとりわけ大きい。そこにバカを座らせたのは、人類史的痛恨事だった。
 神に祈るしかない、イランが何もしないことを、イランの施政者がトランプよりもずっと賢明であることを。

「異邦人論」の日々

「異邦人論」にてこずっている。考えてみれば、ぼくが評論らしきものを書いたのは「浜野博論」が最初で最後だった。40年前の話だ。当時から「異邦人論」はたくさんあった。たくさん読んだが、みな忘れた。40年経っていまではうなるほどあるだろう。そこへ付け足してみても意味がないのかもしれないが、(それにフランス語を知らずに日本語訳でやるのだし、ほかの人の論を読まずにやるのだし)、学問的に意味がないのはわかっている。でもぼくとしてはやりたい。やることで、ぼくなりに納得したいと思っている。人に説明できないようでは、何もないに等しい。形にすることが必要だ。
 唸りながら、毎日少しずつ書いては消している。

「異邦人」論の計画

「異邦人」論を書き始めた。もう正月だから、書きあがるのは来年になるだろう。40数年前、30歳前後に一度、書こうとして資料を収集した。「異邦人」には一言で説明しつくせないところがあり、その部分に迫ってみたかった。
「シジフォスの神話」は「異邦人」と同時に読んでいた。「ペスト」もじきに読んだ。「裏と表」もたぶん読んでいた。このとき新たに読んだのは、カミュの10代からの日記(上下2巻)と、カミュが「異邦人」を書く数年前に書いて発表しなかった作品(異邦人と似た部分がある)、それにフランスで出版され日本でも翻訳出版された5~6冊の「異邦人論」である。「異邦人論」はさまざまな立場の人が書いていた。一人だけ、キリスト教関係の著者が見当違いのことを書いていて、これは相手にする必要がないと思った。それ以外はすべて「異邦人」に好意的だったが、それでもぼくの理解との間に食い違いがあった。それで、「ムルソー・ノート」と銘打ってメモを取った。さまざまな「異邦人論」から検討すべきところを抜き書きした。パソコンもワープロもない時代である。コピー機くらいはどこかにあったのかもしれないが、目に付くところにはなかった。それでガリ版で切って、謄写版で刷った。そういう道具はたぶん金光教の教会で借りたのだと思う。何人かに配ったが、なにぶんまだメモの段階なので反応を期待するほうが無理だった。
 定年後福山に来て書類を整理していて見つけた。でももう用がないと思ったので、捨ててしまった。
 あのとき挫折したのは、翻訳ではわからないところが出て来たからだ。検討しようとしている事柄が微妙な問題だったので、翻訳では手が届かないのだ。それでこれはフランス語を勉強しない限りここから先へは行けないと悟って、結局諦めた。あきらめずにフランス語に挑戦すべきだったのだが、そうしないところがぼくの駄目なところだった。
 今回はそういう欲張ったことをめざすのではない。
「異邦人解説」みたいなものを書いてみたいと思う。というのは、現代人が「異邦人」に対して異邦人であるという現実にぶつかってしまったからだ。
 50年前、誰しも「異邦人」を読んでいたし、みんなカミュのファンだった。いや、ひょっとしたら、たまたま、そんな人ばかりがぼくの周りに集まっていただけのことかもしれないのだが、ぼくは、ほかの人々も、読む機会がなかっただけで、読めば必ずファンになるだろうという気がしていた。ところが、読んでも誰も「異邦人」に関心を示さなかった。わずかに関心を示しても、ぼくがこれは検討に値しないとして捨てた、例のキリスト教徒による解説書に書かれていたのと似た反応だった。
 これはショックだった。このままではぼくが立ち上がれそうにないので、「異邦人の読み方」みたいなものを書く。もし、来年早めに書きあがったら、「樹宴」に出すかもしれない。「樹宴」の締め切りを1月半ばと言ってきたが、もう倉庫に何もないのだ。

図、フィクション、言葉

 こういう考えが頭に浮かびました。あなた方工学系の人たちが図を示してイメージを与えようとするのは、私達がフィクションを創ってイメージを受けとってもらおうとするのと、同じことなのではないかと。言葉というものはどこまでいっても不完全なもので、すでに語られてきたこと以上のことを語ることはできない。そういうことについての言葉はまだ存在しないからです。だって言葉というものは、語られることで生まれてきたのだから、まだ語られていないことについての言葉はありません。
 だが、人間がものごとを明確に理解するのは言葉によってだから、言葉にならないものについてのイメージは、伝えようとする側にとってさえ、不明確たらざるを得ません。そこで人はまず自分においてものごとをはっきりさせるために、図にしたり、フィクションにしたりします。伝達という行為は、まず自分に対して行われるのです。しかるのち人はそれが他人に伝わるかどうか試してみるのです。それぞれの得手不得手にもとづいて、図であったり、フィクションであったり。
 受け手の側にも得手不得手があるので、図を見ても少しもイメージが浮かばない人もいるし、フィクションを読んでもイメージが浮かばない人もいるのでしょう。もちろんどちらも可能な人もいるのでしょうが。
 そしてたぶん、評論は、図もフィクションも使うことなく、なんとかそれを言葉に置き換えてみようとする試みなのではないでしょうか。

実存は本質に先立つ

 朝日で中村文則の連載小説「カード師」を読んでいる。つくづく連載小説というのは読むのも書くのもたいへんだと思う。いま新聞の活字が大きくなったので、連載小説は一日分が882文字しかない。原稿用紙2枚分だ。その分量で毎日読者を納得させながら、日と日とがつながるように書かねばならない。いまのところこの作者はうまくやっている。だから読むのはたいへんじゃないが、書くのはたいへんだろう。
 読むのがたいへんなのは「民主文学」の連載だ。今度こそ毎月読もうと思って一回目を読むが、結局挫折する。一か月間こころざしを持続するというのが簡単じゃない。そんなわけだから、一年に一回しか出ない「まがね」に三回連載の「タイムマシン」など、まあ、読めなくてあたりまえだろう。
 朝日の日曜版(土曜版かな)には桜庭一樹が手塚治虫の「火の鳥」を連載している。こちらはあまり面白くないが、手塚が何を書こうとしていたのか、という興味で読んでいる。どこまでが手塚の原案なのか不明だ。漫画を小説にするというのは、これも難しいと思う。絵で書く部分を言葉で書かねばならない。すると説明的になってしまう。現状は絵のない漫画という感じで、中途半端だ。いっそ、漫画というムードを無視して、完全な小説として書くべきだった。

 ところで、そういうことを書きたかったわけじゃない。ここからが本論。
 中村文則がその主人公に「実存は本質に先立つ」と言わせた。なんと懐かしい言葉だろう。この50年間聞かなかった。なんだかうれしくなってしまった。やっと同志を見つけたという感じ。彼はまだ42才だ。そのこともうれしい。おれたちの時代が完全に終わってしまったわけじゃない。
 ところで、実存は人間存在のあり方を意味するが、いまふと思いついたのは、これは人間存在に限らないのじゃないか、ということだ。先般から気になっている工学的思考法の問題が頭に浮かんだ。工学畑の人は、まず設計図を書く。紙の上にしろ、頭の中にしろ、ともかく設計が先である。しかる後それに従って物を組み立てる。つまり、存在の前に、その存在に関するイデアがある。それゆえに、イデアのない存在を彼らは想像しにくいのじゃないか。
 だが、現実には、物はまず存在する。誰が設計するわけでもない。どこかにイデアがあるわけじゃない。物質だろうと、生物だろうと、まずそこに存在するのである。この存在に関するイデアなるものは、存在のあとから人間的思考方法に従って秩序付けたところの、その限りでのイデアに過ぎない。本質があって存在があるのじゃない。存在はまず無前提にそこに投げ出されている。
 言葉にできるのはいまのところまだここまでだ。つまりこれ以上のことをぼくはまだ把握できていない。だから説明できない。しかし、この間に起こった工学系の人たちとの認識問題上の不一致というのは、こういう問題なのじゃないかという予感がある。
 少し続けてみると、「人間は」「社会は」「かくあるべき」という方向での論理展開は無意味だとぼくは思っている。
 ぼくは「人間は」「社会は」「現実にどうあるのか」という方向でしかものを考えない。
 つまり、それらはすでに与えられているので、それを把握することがすべての出発点である。しかもなおかつ、それらはまだ与えられていないとも言いうる。何故なら、それらは日々変化していくから。

 ぼくが小説を書く立場だから、それでこういう考え方になるのかもしれない。

スターリン

 中国問題での朝日の記事に一箇所間違いがある。
 <日本共産党はソ連のスターリン、中国の毛沢東の時代に中ソ共産党と対立し、決裂した>
 これは正しくない。ぼくの記憶が違っていれば指摘して欲しいが、日本共産党の分裂時代に、スターリンとの関係がどうだったのか、そこはまったく知らないが、統一後の、宮本体制下でのソ連との決裂は、フルシチョフがスターリン批判をしてからだ。日本共産党はむしろスターリンを支持する立場からフルシチョフを批判し、毛沢東と手を握ったのである。
 フルシチョフの平和共存政策、部分的核実験禁止条約の問題があった。このとき社共が対立し、日本の平和運動、市民運動、ひいてはゆくゆく、労働運動まで分裂させてしまうという非常に不幸な時代を招くきっかけとなった。
 けれども毛沢東が文化大革命というメチャクチャなことを始めたので、これとも手を切ることになった。このころになるとフルシチョフも失脚し、ブレジネフらによるいわゆるトロイカ体制になっており、日本共産党がソ連への批判的姿勢を若干修正したように見えるのは、スターリンを批判したフルシチョフが失脚したからで、日本共産党はまだスタ-リンを批判するには至っていなかった。このころベトナム訪問団が、口先ばかり勇ましい中国からの支援は少なく(貧乏だったから仕方ないのだが)、平和共存路線にかじを切ったはずのソ連からの物的支援が対米戦争を支えている、という現実を持ち帰ったことからも、口先よりも現実を見ることの大切さを、日本共産党が学んだとも言えるだろう。
 赤旗はモスクワに支局を開設したが、北京にはできなかった。北京とは激しく対立し続けた。
 スターリン批判を始めたのがいつからなのか、それはぼくには記憶がない。少なくともスターリン時代ではない。フルシチョフ時代でもない。もっとずっと後のことである。

中国問題など

 今朝の朝日によれば、日本共産党の綱領改定はいまからのことだが、中国に対する批判は2017年からやっていたのだそうだ。
 それは知らなかったが、ぼくの党綱領批判はそれよりずっと以前からの話である。
 ぼくが退職したのは2009年で、県の党書記長との定期的対話があったのは、まだ働いていたころからだから、10年以上前の話だ。
 不破哲三がその著書で、ソ連についてはわれわれには情報がなかった、ソ連崩壊後情報がどっと出てきて初めて実態が分かった、という間の抜けたことを書いていたので、「中国についてもいまのうちにちゃんと書いておかないと、10年経ったら、中国についてわれわれには情報がなかったと書かねばならなくなりますよ」と言ったら、その県書記長は「そのときはそうすればいい」と答えた。
 ぼくはあっけにとられたが、いま思うと、やむを得ないのかもしれない。党の地方役員は仕事をいっぱい抱えていて、そういう方面ではその道のプロであり、その人にしかできない仕事をやっている、そのうえさらに、当面地方では必要性の乏しい理論問題にまで頭を突っ込む余裕はない、そんなことは中央でちゃんとやってくれということなのだろう。
 実際彼が言ったのは、中央は批判を受け付けているから、そういう書類は中央に送ってくれということだった。ぼくは、「国民の意見を中央に届けるのが地方機関の役目だろう」と言ったのだが、まあ、無理な注文だったかもしれない。

 中国は社会主義ではないと感じ始めたのは、30年以上前、ひょっとすると40年くらい前だ。30歳前後に地域で読書会をやっていて、その場で「社会主義の中国」という発言が出たとき、「中国って社会主義なの?」と問い返した記憶が鮮明に残っている。「社会主義でなかったら、なんなの?」と逆に問われて即答できなかったという、ちょっと苦い記憶がある。
「社会主義」という言葉はさまざまな意味で使われ、使う人によって意味が異なるから、定義づけ不可能な言葉なのだ。

 それはさておき、今回、志位和夫は、「千島列島は全島返還を求める」と、まだ言っている。そんなことを言っていては何百年経っても問題は解決しない。解決しなくても困らない人の発言だ。解決を真剣に望んでいる人々がいるのに、その人々は誰からも省みられない。
 現実的に考えれば、実効支配を認めることが出発点である。帰属の問題は留保して、まず実効支配を認める。歯舞、色丹を含む千島列島はロシアに、竹島は韓国に、尖閣諸島は日本に、その実効支配権を認める。
 そのうえで、解決すべき問題を権利関係者立会いのうえで話しあう。即ち、漁業権の問題、海底資源の問題、往来の自由の問題、残存財産(不動産など)の問題である。
 実効支配を認めても、歴史的経過から考慮されるべき権利関係は残る。その主張の正当性を認めることと、実効支配を認めることとをリンクさせればよい。
 こういう現実的な、生活に直結する問題、一日も早く解決しなければ日々損なわれていき、取り返しの利かない、緊急性のある問題を解決できれば、帰属の問題などはほとんどイデオロギーの問題、すなわちナショナリズムの問題に過ぎない。
 もっとも国民がバカだから、この問題が一番厄介なのだが、バカな世論に政治が引きずられてはいけない。政治は世論を正しくリードすべきだ。世論を無視せよとは言わないけれど、それも場合によりけりだ。ナショナリズムに引きずられるのは絶対にいけない。

中国 党綱領 そして劉暁波問題

 赤旗を読んでいないので周辺情報だが、中国は社会主義を目指してはいないと、日本共産党が認めた。綱領も書き替えるそうだ。周回遅れだが、ともかく一歩前進だ。
 では何を目指しているとするのか。ぼくの考えでは、鄧小平以後、資本主義を目指していたが、それは一応達成したので、習近平になってからは帝国主義を目指している。相当危険なところに来ている。
 香港問題では、中国政府も中国共産党も間違っていると日本共産党が認めたとも漏れ聞いた。どこまで確かかわからないのだが、自民党の某議員が、共産党まで認めているのだから国民的コンセンサスがある、だから、習近平の国賓待遇招待はやめろと言ったらしい。
 ぼくの考えではやめる必要はない。国家間の対話はいつだって、誰とだって有益だ。話し合いはせねばならない。話し合いをして正直に意見交換するべきだ。
 国家間の問題は複雑であり、政府と政府与党にはある程度慎重な対応が要求されるだろう。だが、日本共産党は野党なのだから、野党にふさわしい対応がある筈だ。中国には、香港、台湾、チベット、ウイグルはじめ、そのほかにも人権上のさまざまな問題がある。これを指摘するのは野党の取るべき態度だ。
 内政不干渉が口実になっている。けれども、内政不干渉が正しかったのは、その時代における正しさであって、永久不変の原則ではない。
 かつて先進国と後進国とのあいだには大きな格差があった。社会の歴史的発展段階は大きく異なっていた。まだやっと国家の形成が始まったばかりの国に、先進国的基準をそのまま押し付けるわけにはいかなかった。後進国のほとんどが独裁国家であり、民主主義らしきものはまだなかった。
 だから、そういう事情のもとでは、内政干渉が正しいとは言えなかったのだ。それぞれの国のやり方を尊重する必要があった。
 しかし、歴史は動いている。すでに発酵し、沸き立っている酒をいつまでも古い革袋に入れておくわけにはいかない。

 過去を語りだすときりがなくなるのであまり書かないが、党綱領問題ではやっとぼくの永年の主張が認められたわけだし、(一例だが)劉暁波問題でも、たとえ彼が文学者ではなかったとしても、言論の自由という問題に文学者が無関心であることは許されないということ、それは劉暁波の主張の内容とは無関係にそうなのだ、ということを、かつて否定した人々が認めてくれる日が来ることを望む。(劉暁波は死んでしまったが)

「コンパクト」「鉄砲百合」そして「八月の遺書」

「コンパクト」と「鉄砲百合」が面白かったというコメントをもらったので、読み返してみた。その感想を書く前に、能島龍三「八月の遺書」に、ひとこと触れたい。これも読んだときは引き込まれて読んだのだ。ところが一月以上経って内容を忘れていた。今回まだ読み直してはいないが、めくっていて内容を思い出した。もう一度読むつもりだが、これは重要な作品である。従軍看護婦が中国での生体解剖に加担した、させられた、という重い話をめぐって、さまざまな角度から書いている。読み捨てにはできない作品だと思う。後日また触れる。
 さて、「コンパクト」は確かによかった。だが、「鉄砲百合」はどうかな。両作品の書き出しはこうである。
 <森田道代が共同保育所の保母になって十二年が経ち、施設長として働いていた一九八八年のある日>(コンパクト)
 <一九九九年十一月末の夜、夫と二男の三人分の夕食後の洗い物を済ませ、一日の終わりに一息ついて新聞を広げた私は>(鉄砲百合)
 年代を明らかにして始まる、似たような書き出しである。ところが受け取る側の印象はまるで違う。少し読み進んだだけで、前者の年代明記は素直に受け取れるのに、後者には、なんだかそぐわない感じがしてくる。それは最初のうち、ぼんやりした感じで、理由がよくわからない違和感なのだが、最後まで読むとはっきりしてくる。
 前者は、特殊な障害を持った子を預かる話で、医学や、保育や、その他もろもろの社会事情が絡んでくるので、ぜひとも年代を明らかにする必要がある。取り上げた問題がひとつに絞られており、そしてそれはその年代に起こったことなのだ。
 後者は、その年代が話のきっかけに過ぎない。小説の実際の内容は、その1999年からさらに何十年もさかのぼって、主人公の小学生や中学生のときの話であり、1999年11月末のある夜という書き出しがなんともそぐわないのだ。むしろ、小学生のときが何年ころだったのか、そこで書けばよかった。と、思ったら、そこでも書いている。<私は一九五五年四月、山肌に沿って六つの集落が集った村里のほぼ中心に位置する小学校に入学した>
 大げさな表現だと感じませんか。例えば次のように書けばまるでイメージが違う。
 <私が小学校に入ったのは、一九五五年ころだった>
 人間は時代の雰囲気のなかで書かれるべきなので、もちろん何年の話なのかということは重要である。ただし、ほとんど個人的なことを書こうとするときに、<何年のことであった>などと書かれると、読者は引いてしまう。そんな大げさな話なのかという気がするのだ。
 という感想をぼくは持ちました。もちろん、読者はさまざまです。
「コンパクト」はたいへんいい話で、構成も文章もしっかりしている。ただし、タイトルがそぐわない。もっとぴったり来るタイトルがありそうなものだが。

「民主文学」1920年1月号

 50年前に読んだ本は細かいところまで思い出せるのに、きのう読んだ本の内容を思い出せない。これはすでにれっきとした事実だから、承認するしかないのだ。
 読んだ本の感想を書くのは、それゆえの備忘録だ。ところが自分の書いた感想すら忘れてしまい、挙句、感想を書いたということまでも忘れてしまう。
 悔やんでいてもしょうがないので、先へ進もう。

野里征彦「わが心、高原にあり」
 連載第1回。<意識はとっくに戻っていた> プロ級の人なので、出だしからうまい。こういうものを繰り返し読んでいれば、うまい文章を書けるようになるかもしれない。もっとも、内容が面白いからこそなのだが、文章のうまい人はだいたい内容も面白い。引き寄せられるように読んでしまう。締めがまたうまい。
 <ぼくの気持の隅に張り付いていた「きえええーっ」という得体のしれない奇妙な叫びの正体に気づいたのは、そんなことの一つだった>
 と来ては、来月号を期待せずにいられないではないか。
 しかしこの話、同じ作家の短編で一度読んだような気がする。人生に絶望した青年が山のなかで木を切る仕事を始めて元気を取り戻すという話が、たぶんこの作家だったような気がする。あれがテレビドラマなら、今度は劇場版ということかな。
 一箇所、誤植。16ページ下段。(耕地面積一反部)⇒(耕地面積一反歩)の間違いだろう。

 ちなみに今月号はいたるところ誤植が目立つ。
 中西繁「油絵紀行」99ページ上段。13行目の<パリのマドレーヌ寺院>から、21行目<ドラクロワが描いたショパンの有名な肖像画の複製が飾られている>までが、その21行目から下段の2行目にかけてそっくり繰り返されている。いくらか表現が変わっているので、おそらく推敲の段階で、前の文章が消されずに残り、推敲後の文章と併存したものと思われる。
 最近、WORDの機能が著しく劣化して、さまざまな問題が生じ、使いづらいソフトになっている。その一例かも知れない。
 ただ「民主文学」は、少ない人数のボランティアに近い編集部でやっているだろうから、行き届かない面があるだろう。そのぶん、著者の本人校正を慎重にやることが望まれる。

田本真啓「メトロノーム」
 最初に誤植の指摘。30ページ上段。<僕は先生のことを嫌いなった>⇒<嫌いになった>の間違いだろう。
 この人の作品は第一作のピーターパンとカントの出てくるやつ(題名は忘れました)が大変気が利いていて面白かったのに、2作目、3作目はパッとしなかった。今回作は久々に<田本リズムを取り戻した>という感じで面白く読んだ。特に、袖口から蛇の出てくる場面は圧巻だった。この調子で頑張ってください。

かなれ佳織「青いゾウ」
 これもうまい作品、読ませる作品である。若い世代を巧みに書いたなと思う。でも、現代の若い男性というのは、ほんとうにここまで謙虚なのだろうか。まあ、独身社員のあこがれの的を自分が射抜いたとあれば、そうあってしかるべきか、こういうやさしい男もいるのだ。いま、それだけではまずいと自覚して変わろうとしているところだからいいではないか。彼女のほうも「変わりなさい」と言ってくれているし。

須藤みゆき「水入らずの日」
 この新しいシリーズの二作目?
 この人は独特のムードを持っていて、それにふさわしい独特の文体を持っている。センテンスが長い。長くてねじくれたセンテンスなのだが、にもかかわらず気持ちよく読めるのだ。下手な人にありがちなねじくれかたと全然違う。意図的に、文学的必然性をもって、ねじくれさせている。ねじれと、畳みかける文体、これがこの人のものだ。
 10年前の5歳の娘の事故死と、その後の離婚を抱えた暗さはあるのだが、全体の筆調はむしろユーモラスだ。自らの少女時代を語ったときの一面的な暗さからは明らかに切れている。背負ってしまったものを、背負ったままで、その場所で生きていこうとする強い意志を感じる。自分のことよりも周囲の人々のほうをより多く気にかけ、より多く描き出すところに何かを獲得した姿勢が見える。
 <私はここで、生きてゆくのだ>

鶴岡征雄「交尾」
 前作から、この人の作品に興味を持った。タイトルを忘れたが、初めて出会った女性に自分の失恋の打ち明け話をしているうちに、結局その女性と寝てしまう、まだごく若く、純情そうに見えて手の早い青年の話。あれは面白かった。女性も魅力的に書けていた。
 今回作も途中まではたいへん面白いのだ。高齢の医者と、彼が通うバーの25歳のバーテンと、来始めたばかりなのに馴れ馴れしい弁護士事務所勤務の三十路の女。このバーテンは役者崩れで、客あしらいがぞんざいなのを逆に面白がられている。胃潰瘍が進んでいるのに医者のいうことを聞かない。この三人の掛け合いの面白さで読ませる。
 ところが終盤になって、次々と新しい話題が出てくる。この三十女には統合失調症で自殺した弟がいた。その自殺に彼女は責任がある。
 医者の姉とされている人は、じつは医者の母親で、そこにも長い物語がある。三十女は和子、医者の姉は松子、このふたりの物語が始まるまで小説はバーを舞台に三人の掛け合いを中心にしてゆっくりと進んでいくのに、終わり近くになって、和子と松子の、いままでとはまったく無関係な二つの、それもお互い無関係で、しかもどちらもいたって重い物語が、いきなりばたばたと駆け足で飛び込んでくる。
 これはめちゃだ。この二つの話はそこまでの話とまったく関係がない。それは別のところで書くべきだ。もし三つの話をひとつにしたいのなら、少なくともこの三倍は書かねばならないし、それがひとつの小説になるための必然性をも作り出す必要があるだろう。
 欲張りすぎて失敗してしまった。
 ところで年代設定はどうなるのかな。松子の恋の相手、つまり医者の秘密の父親だが、学徒出陣で死んだ。その息子である医者が77歳だから、ほぼ現代の話、三十路の女も、25歳のバーテンも、いまのこの時代に30代であり、25歳なのだということになる。それにしては二人とも少し時代がかっているように思う。現代では30代の女を三十路の女とは言わない。アラサーというのだ。一方、統合失調症は最近の言葉だろう。むかしは分裂病と言ったのだ。
 その上に、医者には40数年前に結核で死んだ双子の兄弟がいた。この医者は77歳、その秘密の父親は学徒出陣で死んだのだから、双子が生まれたのは、戦争の始まる少し前だろうか。双子の片割れが死んだのは、戦後30年以上、早くても1970年代末以降のことになる。そのころには結核は不治の病ではなくなっていた筈である。するとこれはもっとずっと時代をさかのぼるべきなのだろうか。だが、そうすると、学徒出陣で死んだ秘密の父親の年齢が合わなくなってしまう。
 前作は、1960年代に設定して書いた。だからその時代の雰囲気をうまく出せた。今回作は少し無理があるようだ。

橘あおい「こもれびの病棟」
 精神病の話。内容は書かれるべき内容であり、読まれるべき内容である。だが、小説としてどうなのか。文章は整っている。癖のないのが長所でもあれば短所でもあるという文章。
 さまざまな症例、さまざまな問題点が列挙される。だが、列挙を責めるなら、ぼくが今回傑作とした「まがね」61号の桜高志「介護の神様」を否定することになってしまう。あれはエピソードの羅列に過ぎないといって批判された。その批判は当たらないと言ってぼくは抗弁した。羅列に価値がある、作者が口出ししていないところに価値がある、というのがぼくの意見だった。
 ではこの橘作品はそれとどう違うのか。
 読者としてのぼくのほうに問題があるのかもしれないが、ぼくは以下のように感じた。ごたごたしている。統一感がない。モードの一貫性を感じとれない。絵画で言うならば、地の色が不鮮明である。音楽で言うならば、モチーフ(一貫して流れる旋律)に欠ける。
 もちろん内容面で言っているのではない。内容は精神病の問題で一貫している。表現方法上の問題である。一番損ねているのは、<私>の存在だろう。この作品では、ときどき顔を出す<私>が邪魔になっている。<私>はこの作品には不必要な人物だ。いないほうがいい。
 何が問題なのか。小説はそこにバーチャルな世界を作り出すのだが、ここでは、主張したいことが前面に出てしまって、世界が描かれていない。むしろルポルタージュとして書けば成功しただろう。
 ルポルタージュ、あるいはドキュメントと呼ばれる世界、そういうものが日本では不当な扱いを受けていると感じる。そういうものを読者が読まないので、読者に読まれることを目的として、ルポで書くべきものをむりやり小説にしてしまう。小説のほうが読者に馴染むからだ。その上小説はルポほどの正確さを要求されないという利点もある。
 これからの日本の文学は、小説至上主義を捨てて、ルポ、ドキュメント、エッセー、批評、あるいは伝記や、詩や戯曲など、多面化していったほうがいいのではなかろうか。小説が逃げ道になってはいけない。

青木陽子「夏休み」
 これはさすがプロの作品。ケチの付けようがない。うまいので、なだらかに読んでいける。読んでいて場面が眼に浮かぶし、子供たちの姿が鮮やかだ。
 時代の変化についていけないわれわれ世代の嘆き節で、嘆きの内容がよくわかる。反発もあり、寂しさもある。半面、われわれの親もわれわれに対してそうだったのだろうなとも想像してみる。
 日々、直面し、どうしてよいか分からずに立ち尽くしている。すごい勢いで日常生活のツールが変わっていき、それに伴って人間関係が変化する。馴染めないものに馴染もうとは思わないが、利用できるものは利用できる限りで利用しようとする。新しい世代に対して何かできるのか、何もできないのか、よくわからない。できるだけ繋がっていたいと思うだけだ。「ウザイ」と思われているかもしれないが、そんなことには負けないぞ。

「コンパクト」「鉄砲百合」

「民主文学」11月、12月へのコメントありがとうございました。「コンパクト」と「鉄砲百合」が面白かったそうです。読み返してみます。

ムルソーとはなにか

「異邦人」に対する人々の反応にショックを受けている。反発するというのならまだわかる。どうやら関心を持てないらしいのだ。「これが世界の名作? なんで?」という反応である。ここまでとは思わなかった。あまりに衝撃的で、自分自身を「異邦人」と感じてしまった。
 歓迎してくれると思っていたわけではないが、落差の大きさに、うまく言葉が出てこない。どう解説してよいのかわからない。
 考えてみると、この作品を受け入れる感性というのは、自分自身を「異邦人」であると感じる人々のものなのかもしれない。
 世間の人々とのものの感じ方の違い、この違和感による生き難さ、自分はこの世界の住民ではないと感じること、まず基本にあるのはそういうものだ。日本ではそれを代表するのが太宰治である。
 ところが「ムルソー」はそれを突き抜ける。「ムルソー」はぐだぐだと悩まない。その場で開き直る。
「虚無主義ではないか」と言われた。たしかに哲学的には虚無主義である。だが、「明るい虚無主義」だ。太宰の「暗い虚無主義」の対極にある。
「人生は無意味である」。その意味するところは、人生にはあらかじめ与えられた「意味」は存在しないということである。しかし、だから暗く生きなければならないという理由はどこにも存在しない。偶然与えられた人生を十分堪能して生きればよいのだ。
 人々がぐだぐだと悩むのは、人生には意味がある筈だと思ったり、ありもしない「希望」を持ったりするからだ。
 生命は偶然の産物で、死は絶対的で、ア・プリオリな意味は存在しない、人間は自由であり、自由に生きてよいのだと知ること。
「失われた夜のために」のなかに書いたが、あれは実際に見聞きしてきたことだ。即ち、太宰治にとりつかれた人たちは、そのあとカミュに夢中になる。そして人によっては共産党に入党する。そういう実例をぼくはいくつも見た。周知のように、太宰治もカミュも青春の一時期共産党に入党している。
 カミュとは、「異邦人」とは、「暗い虚無主義」からの開放なのだ。太宰治から救い出した青春なのだ。われわれが「異邦人」のなかに見たのは「明るさ」である。「太陽と海」である。「異邦人」が暗い小説だと感じたことは一度もない。ぼくらは「異邦人」に太陽と海を感じたのだ。その焼けつくような輝きと底抜けの明るさとを受けとったのだ。ぼくらは「異邦人」を得たことでようやく人生を肯定することができたのである。
 なるほど、そういうものと無関係だった人々にとっては、「異邦人」はなんのことかさっぱりわからない代物なのかもしれない。われわれはたぶん救われる必要のある人間だったのであり、そこで救われただけのことだった。
 そして、この小説が世界中で歓迎されたという事実の裏にあるのは、自分を「異邦人」であると感じ悩んでいた人たちが、それだけ多かったということなのだろう。
 今回、まず、文体でつまずいた人が多かった。「これが文学の文体か?」「翻訳だからこうなるのだろう」「日本語の小説としてはありえない」
 そういう側面もあるかもしれない。だが、この文体は翻訳だからの文体ではない。原文自体が、わざとそういうふうに書いてあるのだ。文学的必要性によって択ばれた文体なのである。
 直接的にはレイモンド・チャンドラーの影響が指摘されるし、実際そうなのだが、そういう文体が、自分の現わそうとする世界を描くのにふさわしいと感じたから、カミュが選んだものなのだ。
 犯罪と裁判の記録なのだから、そういう意味でもこの文体はふさわしい。主人公の心のなかを分析的には書かない。松本清張は探偵の推理の過程をそのまま綴っていくが、すぐれたミステリーはそんなことはしない。探偵の見聞きしたものはすべて読者に見せる。だが、推理の過程は見せない。読者に推理させる。それが読者にとってはミステリーの楽しみだ。
 それはそれとして、この作品は、一人称小説だが日本の私小説の対岸にある。日本の私小説は、自分の心理をあれこれと分析してみせる。しかし、現実の人間はそういうようには生きていない。あれこれと自分を分析しながら生きているわけではない。人間の意識はもっと切れ切れで、その場その場の瞬間的なものであるはずだ。私小説作家の書くのは、すべて後付けだ。あとで考えたアリバイに過ぎない。
「異邦人」に記録されるのは、ムルソーの眼に映ったこと、人々の行為と自分の行為、人々のセリフと自分のセリフ、そしてその場その場で自分の心に浮かんだあれこれの印象だ。
 リアリズムを言うなら、このほうがリアリズムなのである。
 もちろん必要以上に主人公の心を隠しすぎているのじゃないか、という指摘はありうる。それはこれがある意味ミステリーとして成立するための必要性によるのだ。文体のなかから、その隠されたものを読者に発見してもらうために隠している。下手な小説にある読者への不親切とは違う。必要だからそうしている。
 キリスト教の問題がある。これは無神論の小説だ。1942年、キリスト教がまだ強い影響力を持っていたヨーロッパ社会では、「神を信じない」と公言することには強い反発があっただろう。
 だが、いまはもう無神論は常識となり、宗教が少数派となった世界で、無神論はもはやインパクトに欠けるのじゃないか。そもそも日本にはキリスト教が存在しないし、日本人は最初から無神論者だから、日本人の読者にとってはなんの意味もない、と。
 たしかに、具体的に書かれているのはキリスト教だから、表面的に読めばそういうことで済ませてしまえるのかもしれない。
 つまり、ドストエフスキーも、アンドレ・ジッドも、ヘミングウェイも、サルトルも、いっさいの無神論小説はもはや意味を失った、いや、そもそも日本では最初から意味がなかった、と。
 けれども、カメル・ダーウドはイスラムの立場からカミュへの賞賛を惜しまなかった。「小説を知らなかったら、自分はイスラム過激主義になっていただろう」とダーウドは書いている。幼いころはイスラムに傾倒した、自分を反イスラムだと言って攻撃する連中よりもずっと深く自分はコーランを理解している、だが、小説を読むことで世界が開けたと。そしてその自分の小説のなかで、ムルソーが司祭に向けて発したとそっくり同じ言葉を、イスラムに対して向ける。
 なるほど、あのアラブ人たちの世界には、まだその問題、神の問題が残っている、だが日本人には存在しないのだ、というのだろうか。
 カミュは、「無神論は宗教への無関心ではない」と言った。「宗教への無関心には文明に対する無関心を感じる」と。
 明治維新以来、必要に迫られて西洋文明を必死になって取り込んでくるなかで、その文明の神髄ともいうべきキリスト教も、さまざまな形で受容してきた。社会主義でさえ、日本に最初に入ってきたのはキリスト教社会主義だった。
 ある時期まで、日本の知識層には常識としてキリスト教があった。
 高度成長以後、日本はずいぶん変質した。高度成長と、その終焉、バブルとさらにその崩壊も経て、妙なナショナリズムが多かれ少なかれ人々を侵食している。外国文学を読まない。日本の小説だって読まないというが、そんなレベルではない。比較にならない。精神的な意味では、日本の鎖国時代がまた復活して来つつあるような気さえする。
 日本人の精神を形作ってきたのが仏教であるとするなら、仏教への無知もまた責められるべきことではあるだろう。だが、だからと言って、キリスト教は日本人には関係ないので知らなくていいのだ、ということにはならない。

アルジェリア略史と異邦人

 アルジェリアを含むマグレブに、もともと住んでいたのはベルベル人である。ただし、これはギリシャ人からの呼称で、わけのわからない言葉をしゃべる連中という意味だそうだ。古代の遺跡が発掘されている。
 最初に征服したのはジュリアス・シーザーで、ローマ帝国の版図にとりこまれた。やがてキリスト教がローマの国教となると、ここにも入ってくる。キリスト教哲学の父と謳われるアウグスティヌスはアルジェリアの出身である。
 600年ころ、日本では聖徳太子から大化の改新のあいだくらいだが、アラビア半島にマホメットが生まれ、たちまちのうちに、地中海東岸・南岸からイベリア半島まで、征服する。世にいうサラセン帝国である。だが、これもヨーロッパ人による呼称に過ぎないそうだ。いまはイスラム帝国と呼ぶらしい。
 この時代に、支配者としてアラブ人が入って来るとともに、混血も進んだろうし、ベルベル人の文化的アラブ化もあって、人口比率が大きく変化してくる。
 やがて1500年ころ、今度はオスマントルコが征服する。室町時代の終わりころである。トルコはアラブ世界全体を支配下に収めたが、その支配構造はアラブの機構をそのまま流用したようだ。これが300年続いた。
 1800年代、もうじき明治維新というころ、オスマンのアルジェ太守がフランス大使を扇で打つという事件が起こり、ナポレオン後のブルボン王朝復活期だが、フランスが軍隊を派遣、全面的な戦争に発展し、結局オスマンを追い出してフランス領としてしまった。1830年のことである。
 そのときから、1962年の独立まで、130年間にわたってフランスの支配下に置かれる。
 スーダンがふたつに別れたいま、アルジェリアの面積はアフリカで一番広い。だが、その大部分はサハラ砂漠である。人口は地中海沿岸に集中している。地中海海洋交易の拠点港として発展してきた。背後はすぐ山だが、農地もあるようで、葡萄の産地だ。
 現在、人口4000万人、アラブ人が8割、ベルベル人は2割だが、62年の独立の時点では、全人口1000万人、そのうちフランス人が百万人であった。この百万人はほとんどがフランス本土に逃げ帰り、本土で差別されたという。
 普仏戦争で、アルザスがプロシャに奪われたとき、大勢のアルザス人がアルジェリアに流れてきた。カミュの祖先もそうである。彼らはアラブ人の土地を奪いとって自分のものとした。しかし必ずしも豊かだったわけではない。カミュも貧しい家庭で育っている。「だが、アルジェでは、海と太陽とはただである」
 フランス人は海岸地帯のアルジェ中心部に住み、その背後にそびえる山岳地帯が、アラブ人のスラムだった。これがカスバだ。解放戦線はこのカスバを拠点として都市ゲリラを戦った。そこは一歩入ると出口を見失う迷路である。
 アルジェリア在住のフランス人たちは、自分たちのことをアルジェリア人と称していた。フランス国籍を持たない原住民は、アルジェリア人ではない。彼らはアラブであり、モールなのだ。
 ドゴールが独立容認に踏み切ったとき、カミュでさえ、(独立の直前に死んだが)、これに反対し、ドゴールの裏切りを責めた。そこで生まれ、そこで育った者にとって、そこは祖国だった。だが、アラブ人にとっては、彼らはあくまでも「招かれざる客」である。独立戦争では何十万人も死んでいる。
 第二次大戦後の独立運動は多かれ少なかれソ連と社会主義の影響を受けていた。社会主義でないまでも、少なくとも世俗主義だった。解放戦線がそのまま政権にすわり、あるいはエジプトやトルコのように共和革命や軍事クーデターで成立した政権は、どれも独裁的ではあったが、宗教的ではなかった。
 だが、独立後も苦しい生活、政権の腐敗、専横、無能、などが、次第にイスラムを台頭させていく。一方に独裁政権、他方にイスラム原理主義。
 カメル・ダーウドのように、独裁政権にもイスラムにも屈しない人間は、まさに「異邦人」なのかもしれない。

「ムルソー再捜査」は「異邦人」を読んですぐ読むと、その機知の鋭さに舌を巻きながら読んでいくことになるが、引用と比喩で構成された文章は、必ずしも読みやすくはない。だが、あきらめずに最後まで読んでほしい。はじめのうち、まわり道ばかりしているように見える文章が、次第にそれ自身のストーリーを語り始める。<僕>による第二の殺人が起こり、美しい女子大生の恋人も現れる。物語は躍動してくる。そして終盤、逮捕され、尋問される。ムルソーの物語がそっくりそのまま繰り返される。
 なおそこに至る過程で、まだイスラムが支配的ではなかった独立直後のアルジェ、それが次第に息苦しくなっていく様子がうまく表現されている。

カメル・ダーウド「もうひとつの『異邦人』ムルソー再捜査」  鵜戸 聡訳 水声社 2019年 2200円(税込)

 名作である。カミュのファンにはぜひ読んでほしい。「異邦人」を、ムルソーに殺されたアラブ人の側から書きなおしたものだ。「異邦人」そのもののフレーズとイメージで埋めつくしつつ、しかも、それを裏返し、アラブ人の物語として成立させた。
「異邦人」が半世紀以上にわたって避けがたく持ち続けた、たったひとつの傷を、この作品がみごとに修復した。この二冊はセットで読まれるべきだ。

 今日、マーはまだ生きている。
 と、始まり、
 僕の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、僕を迎えるだろう。
 と、終わる。

 ここにあるのは原作に対する限りない尊敬と、フランス人であるが故に書けなかった部分=アラブ人の視点を補おうとする誠実な努力だ。しかし、その筆調は、原作への皮肉に満ちており、読者は読み進むごとにそれを見出して、笑ってしまう。その見事な皮肉のために、笑わずにはおれないのだ。作者が何度も、ほとんど暗唱するほどに、原作を繰り返し読みこんでいることがわかる。
 引用は、「異邦人」からだけではない。「シジフォスの神話」からの引用を二箇所見つけた。引用と断って書いているのではない。本文のなかになにげなく書かれている文章が、引用だらけなのである。ぼく自身はカミュを読まなくなって久しいので、気付かないが、おそらくほかのさまざまなカミュ作品からも引用しているのだろう。

 舞台はアルジェリア第二の都市、「ペスト」の舞台にもなったオランである。それがちょっと残念。なぜアルジェではないのか。アルジェで書いたほうがイメージがより重なり、豊かになっただろうと思われるのに。だが、それにはたぶん作者なりの理由があるのだろう。
 オランのバーで、ある人物(僕)が、ムルソーの事件をアラブ人の側から語る。彼はムルソーに殺された男の弟で、彼が語る相手は、「異邦人」をポケットに外国からやってきたファンか研究者だ。
 カミュが「異邦人」を書き上げたのは1940年、27歳の時だが、出版されたのは1942年である。バーの男は殺人事件があった時間軸を、その年、1942年のこととして語る。しかも作者は、ムルソーとカミュをわざと同一人物視させて、殺人者が「異邦人」を書いたごとくに、彼の主人公に語らせる。
 殺人のとき、<僕>は7歳である。カメル・ダーウドがこの作品をフランスの出版社から出したのは2014年、じつはその前年にアルジェリアですでに出版されていた。カミュ生誕百年の記念であった。
 作品のなかで<僕>が語っている時間軸を現代、すなわち2013年とすると、それは事件から71年後であり、<僕>はすでに78歳だ。だが、語る内容は、7歳から始まって、アルジェリア独立の1962年、<僕>が27歳(カミュが「異邦人」を書いた年齢と同じ)のころのことだから、翻訳者はこれを老人の思い出話ふうには翻訳しなかった。若者の言葉らしく訳した。日本語にはそういう問題があるので、そこに翻訳者の苦労の一端を見る。
 バーには、語り相手のほかにもバーテンダーや、それから、ずっと彼らの話に耳を傾けている謎の男がいる。最後にこの男はじつはろうあ者で言葉は聞こえないのだ、ということが判明する。唇を読むことはできるらしいが、じつは彼は何も聞いていなかったのかもしれない。そして彼が語っている相手とは何者なのか。これはたぶんほんとうはバーにいるのではない。我々読者こそが聞き手であり、彼はわれわれに向かって話したのだ。
 引用と比喩とで、たいへんに凝った複雑な構文になっているので、翻訳者はずいぶん苦労したようだ。ちなみに翻訳者はまだ若い。38歳くらいである。その苦労の末の翻訳を読んでもわからない箇所はたくさんある。引用や比喩が、その直前の文章に向けられたものなのか、それとも直後の文章に向けられたものなのか、判断に迷うところがある。カメル・ダーウドがどちらともとれるように書いたのか、それとも翻訳の問題なのかわからない。将来の課題だろう。

 カメル・ダーウドは1970年の生まれ。49歳だ。独立から8年後の生まれだから、この本に書いた時代を実際に経験しているわけではない。オランのフランス語新聞社の記者としてコラムなどを担当する一方、小説もフランス語で書く。この作品は何冊目かである。
 アルジェリアは独立戦争をたたかった解放戦線から引き継がれた独裁政治のもとにあり、他方には、イスラム原理主義がある。ダーウドはその両者を批判する立場である。背教徒として、イスラムの一派の指導者から死刑の宣告を受け、一方では独裁政権がその指導者を脅迫罪で告訴するという複雑な地政学上の世界に生きている。
 カミュを読んだのは、「シジフォスの神話」が先らしい。そこから関心を持って「異邦人」へと進んだ。
 フランスの新聞記者たちが来ては「異邦人」についての意見を聞こうとする。それにいらだったのが、この作品を書くことになったきっかけだという。

 今回久しぶりに「異邦人」を読み直し、また「もうひとつの異邦人」も読んで、得たものは大きかった。

 話はときたま現代のアラブ世界にも及び、イスラム原理主義が目立ち始めたのが、じつは1990年以後であること。即ちソ連の崩壊以後だ。ソ連のアフガン侵略や、アメリカによるイスラムの利用。社会主義への幻滅と、イスラム主義の台頭。こういった背景に対して、62年当時(作者はまだ生まれていなかったとしても)と、現代のアルジェリアとの、風俗の変化などをさりげなく書くことで、貴重な証言を与えてくれている。
 さまざまな意味で収穫の多い本である。

「異邦人」と「もうひとつの異邦人」

 ずっと抱えていた諸々にいちおう一区切りついたので、「異邦人」を読み直した。若い頃に何度か読んだが、最後に読んでから40年以上になる。土曜日に「まがね」で取り上げるので、久しぶりに手にした。
 むかしは少しでも小説に興味を持っている人で「異邦人」を読んでいない人を見つけるのは難しかったが、いまの人はわりと読んでいない。どういう感想が出るか、まったく予期できない。
 いま読んでもやはり名作だ。何百年経っても残る名作だと思うのだが、どうだろう。
 何度読んでも謎の残る作品である。よくわかるように完全に説明しろといわれても出来ない。
 たぶん、パートごとに分けて理解するのが捉まえやすいと思う。
 第1部は、葬儀の場面と、そのあとの展開とに分ける。第2部は三つに分ける。裁判と、刑務所生活と、そしてラストの司祭との対決だ。
 それぞれの場面に、何百枚も書いて説明しなければならないような内容が、それぞれ、別々に詰め込まれている。非常に凝縮された作品である。400字詰めに換算して、たぶん300枚くらいしかない。薄っぺらな文庫本一冊だ。
 今回、特に印象深かったのは、主人公の出会う人々、目にする風景、あるいは思い出のなかのそれらが、まことにきめ細かく丹念に書き込まれていること。その点では文学の伝統をきちんと受け継いでいる。これが小説だと思う。小説にはこういう細部のリアリテイが必要だ。われわれはこれがなかなかできないから小説にならない。
 じつは「異邦人」で、ひとつだけずっと引っ掛かっていたことがあった。
 ここに書かれているのは、フランス帝国主義の側の人間が、その支配地のもともとの住民を撃ち殺すという話である。アルジェリア人の側から読んだら、これはどういう話になるのか。
 50年来のこの引っ掛かりに解答を与える本がどうやら翻訳出版された。
「もうひとつの異邦人 ムルソー再捜査」カメル・ダーウド 水声社 2200円。いまからこれにかかる。

池戸豊次 「水のまち」 一粒書房 2019年 1500円

 収録作品
「鹿を殺す」25ページ
「春の獅子」29ページ
「水のまち」39ページ
「憂いの王」69ページ
「寒晒し」 40ページ
 合計   202ページ

 ページ数はそれぞれの作品の(タイトルを除いた)所要ページ数。400字詰め換算では全体で283枚とあとがきに書いてある。ページ数の4割増しくらいが400字詰め換算枚数だろう。
 それぞれを完結した短編としても読める。連作作品なので、全体をひとつの中編小説として読むこともできる。
 作品は、2006年の冬に始まり、春、夏、秋ときて、2007年の冬で終わる。
「憂いの王」だけは秋の数カ月に及ぶ話だが、あとはほとんど一日か二日の話である。読んでいて一日の長さに驚いてしまう。作者は長い物語を一日のなかに凝縮する。決してだらだらと書かない。
 作者は1962年の生まれだから、この作品の年代のときは44歳。主人公たちは、それより10歳くらい若い。
 直次 38歳
 キシ 35歳
 いろんな読み方のできる作品だが、全体を通すと、この若い夫婦の恋愛小説としてだけ読んでも、十分に堪能できる。だが、もちろんそれだけではない。
 はじめにあらすじを大雑把に見てみよう。

 ところは岐阜県郡上八幡に近い山村。にぎやかな観光地から曲がりくねった山道を延々と上がっていったところ。しかし、商店街があり、スーパーマーケットがあり、病院らしきものもあるようなので、それなりの村ではある。
 主人公直次は、ここで水道工事屋をしている。妻キシは裏方いっさいを引受けている。子供はいない。忙しいときは職人を雇う。父親は炭を集めて卸す営業をしていたが、時代が変わって水道屋に転身した。十数年前母親が50歳で亡くなり、それまで名古屋で会社勤めをしていた直次は帰ってきて父親を手伝い、いま脳梗塞で入院した父親に代わって切り盛りしている。
 母は若いとき郡上八幡の役場に勤めて、その地で食堂を経営している家に下宿していた。郡上八幡には親戚もいて、母は結婚して直次とその姉を生んでからも、しばしば郡上八幡に連れていき、世話になった家にも立ち寄った。その家に孫娘がいた。神戸で生活しているが、夏休みになると実家に預けられる。これがキシである。三歳違いの二人は小学生のころ一緒に遊んでいた。
 1995年、神戸は震災で壊滅する。キシは24歳である。婚約者がいた。その二人の間に一波乱あって、(何があったかはご自分で読んでください)、傷心のキシは郡上八幡にしばらく滞在する。翌年、春の祭りにも来て、直次と再会、三年間の遠距離恋愛ののち、結婚、大都会神戸を離れて、山村での生活が始まる。

 というのが、あらすじというよりも、この物語の設定である。そこから話は始まる。過去のもろもろのいきさつは、そのつどそれぞれの作品のしかるべき箇所で明かされる。
 というように、ときたま過去に帰りながら、しかし、小説そのものは日々の出来事、あるいはただ一日だけの出来事を記していく。これは過去を書いた小説ではない。2006年の現在を書いた小説である。過去は重要な意味を持っているが、それが現在に照り返してくる限りでの意味であり、常に現在というトーンのなかで話は物語られていく。
 どういう物語か。
 生活の物語だ。山村の水道屋の労働と生活の日々が綴られる。書かれているのはほんとうに日常的なことである。だが、この作家の手にかかると、日常が芸術となる。
 この作家の世界には、色彩がある、音がある、手触りがある、臭いがある。描き出される世界が濃密なのだ。
「鹿を殺す」は2016年9月号の「民主文学」に掲載され、ぼくはそのときだけで、この作品を3度読んだ。あいだの3作品は初めて読んだが、最後の「寒晒し」が「民主文学」の19年度新人賞佳作となったので、そのとき「鹿を殺す」をまた読みなおした。4度目である。そして今回本になって初めから読み直したので、「鹿を殺す」は都合5回読んだことになる。
 読んでみたら読者も感じるかもしれないが、「鹿を殺す」の書き出しは、決して器用な文章ではない。ちぎって投げたような、ぶっきらぼうな文章で、初めて読んだとき、下手な文章だと思った。ところが読み進むにつれて、冴えわたってくる。
 3年前、このブログに感想を書いたとき、作中からいくつかの文章を紹介した。今回、それは繰り返さないので、もうひとつ別の文章を取り上げてみよう。
 認知症の老婆が川でおぼれたときのこと。
 <あの日、老婆が行った小屋には何も無かった。以前は田起こしの機械や田んぼの肥料が入っていたが、もう何年も前に稲作は止めてすべて処分していたのだ。床に古い筵がしかれただけの空っぽの空間を自身の頭の空洞のように見回して、激しい恐怖と孤独を老婆は感じた。豪雨がトタン屋根を叩き始めると箱をたたかれた小動物のように外に飛び出て、濡れて重くなった服で、水があふれる水路をまたごうとして足を滑らせて流された、と暗く想像した>
「寒晒し」からも一箇所だけ引用する。
 <雪はすべての色彩を奪ってしまう。山も田畑も家の屋根も、何も描かれていない画用紙のようにしてしまう。そんななか、赤く染まった地蔵の姿は、赤鉛筆の先っぽのようになって、直次の脳を突っついた。(中略)そのとき、「お前はどこに行くのか?」と真ん中の一番大きな地蔵が喋った。幻聴か。やはり俺は今、普通ではないのか>
 うまい文章だが、うまさが大事なのではない。もちろんテクニックは必要だが、それによって表現されているもののほうがより大事である。
 作品の基調となっているのは、生命である。鹿の生命、猫の生命も含めて、作者は生命を描き出そうとする。生命とは何かと理屈で問おうとするのではない。生命を生命として描き出し、これが生命だと読者の眼前に差し出す。

 夫婦が生活し、働いているのは、村の閉ざされた共同体のなかである。直次はここで生まれ育った。お寺のトイレを修理しに行くと、そこで出迎える奥さんは、むかし小学校で鉛筆の持ち方を直してくれた恩師である。認知症の妻を大雨のとき川で失った炭焼きのじいさんは、かつて父がその炭を購入していた相手である。
 直次が所属する消防団はときおり寄合いを持ち、頼母子講の定期的会合もある。
 一方、一歩出れば村人たちの視線にさらされる。荒物屋のもと子は放送局で、「人の心に土足で踏み込んでくる」。
 直次にとってはこれが自分の住む世界だ。だが、神戸育ちのキシには時にそれが疎ましい。「なぜほっといてくれないのか」「なぜ監視し、干渉するのか」
 共同体に慣れ親しんでいる直次と馴染みきれないキシとの葛藤がある。

 3つの作品は直次の視点で書かれるが、「春の獅子」と「憂いの王」とはキシの視点である。男性作家が女性の視点で書き、女性作家が男性の視点で書くというのは、プロの作家では珍しくないが、同人誌作家が書くと、たいてい違和感がある。難しいのだ。読者の先入観をうまくかわせない。
 この作者は成功している。まったく違和感がない。なぜだろうと考えてみた。
 直次は作者の若いときをモデルにしたような人物と思えるが、それを視点人物にして書くときにも、作者は直次に同化しすぎない、どこか突き放したような目で直次を見ている。視点人物と作者の距離の取り方に、直次を視点人物にしてもキシを視点人物にしても共通したところがあり、それが成功しているのではないか。
 その上にまた、この作者は女性の心のひだを見事にとらえているように、男のぼくは感じる。女性読者はどう読むのだろうか。

「憂いの王」は村芝居の話だ。
 だが、それに入る前に、直次が詐欺にひっかかる話がある。関西から流れてきて古家を買い取り改装するということで、水回りを中心に、大工への外注まで段取りして完成させるが、注文主は代金60万円を払おうとしない。人のいい直次ではいつまでも解決しない。キシが、偶然のことから弁護士に知恵を借り、それを武器に、これまた偶然つかんだ、相手の弱みに付け込んで、とうとう分割払いを承知させる。この場面のキシの姿はテレビドラマを見るようで痛快だ。
 さて、芝居である。郡上に実際にあった百姓一揆の話で、郡上八幡の民芸館の主人水上が脚本を書いたということになっている。
 直次が殿様を演じ、日系ブラジル人の若い女性が殿様と恋仲になる町娘を演じるはずだったが、その女性が妊娠して、急遽、キシが代役になった。この章の後半、現実と芝居の中身とが交差するような形で進んでいく。これもなかなかうまい。
 この脚本を水上が書いたという設定になっている。だが、その前、水上が江戸時代の文書を講義する場面に関して、作者はあとがきでその文書の引用元をあきらかにしている。そこから見て、この脚本が他人のものなら作者は当然その旨を断るだろうから、これも作者自身の作品なのだと思われる。
 この章が連作中最も長く、おそらく400字詰めにして百枚くらい。キシの視点で書かれ、ドラマチックな仕上げになっている。

 最後の「寒晒し」は「民主文学」佳作になった作品から、かなりの部分を削除している。佳作になったときの選評で、すべての審査員がこの作家の才能を認めたが、「鹿を殺す」と重複した場面があることを問題にした。今回その部分を取り除いてすっきりさせた。全体がひとつの小説として無理なく読める内容に整理されている。

 全体を通して強く感じるのは、描かれているのが日常生活であり、周辺の平凡な人々である、ということ。
 で、ありながら、そこにはじつに濃密な時間が漂い、ありふれた世界を、ありふれていないもの、オリジナルものにしている。特に凝った文体を使うわけではない。しかし、時にその切り口の鮮やかさが、見慣れたものを新鮮なものに変換させる。
 郡上八幡の季節々々の祭りや行事を巧みに織り込みながら書き進み、郡上八幡と周辺の様子を丁寧に描写しているので、観光案内としても読める。帯に書いてあるとおり、読むと「郡上に行きたくなる本」である。

 直次の視点と、キシの視点を交差させることで、共同体の正の側面と負の側面とを複合的に描き出した。この点は特に注目に値する。

 ここに紹介しきれなかったが、さまざまな人物が登場して、さまざまな情景が繰り広げられていることを付け加えておく。
 1点だけ苦言を呈する。誤字脱字が多少目に付く。立派な本にしたのだから、校正だけはきっちりやってほしかった。

発注先 一粒書房
    〒475-0837 愛知県半田市有楽町7-148-1
    TEL 0569-21-2130

マタイとルカ

 高原さんのコメントを公開しました。コメント欄でクリックしてください。多少わかりにくいかもしれませんが、以下のような内容です。
「失われた夜のために」の第6章、主人公とキリスト教の女との対話のなかでふれたマタイ第5章、「心の貧しいものは幸いである(Blessed are the poor in spirit)」の解釈について。
1、女の解釈が正しく、今回、石崎が提出した新たな解釈は、それを単に敷衍したに過ぎない。
2、ルカ第6章20節では、「あなたがた貧しい人たちは(Blessed are you who are poor)」となっており、某牧師の提示したという経済的貧しさという解釈も間違っていないかもしれない。

 むかし、聖書を読み始めたころ、「ルカが一番わかりやすい」と言われてルカから読んだのを思い出す。50年間読んでいないので、みんな忘れてしまった。
 いまめくってみると、たしかに同じ場面のように思える。ただそれを伝えた人が、マタイかルカかの違いだ。イエスその人の思想というのはわからない。伝えた人々の思想だ。ルカで、「飢えている人たちは幸いだ(Blessed are you who hunger now)」となっている箇所も、マタイでは「義に飢えている人たち(Blessed are those who hunger and thirst for righteousness)」となっており、大きく意味が異なっている。それぞれをそれぞれとして解釈するしかないだろう。

高原さんへ

 マタイ伝へのコメントありがとう。この問題は興味を持っておられる方がほかにもおられるので、公開したいのですが、非公開が指定されているので、公開できません。
 できたら非公開を外してください。

「民主文学」2019年 11月、12月

 11月号は全部読んだのだが、2ヶ月近く経って内容を忘れてしまった。どれも面白かったという記憶はある。だが、記憶力が著しく減退している。請御容赦。
 最上裕「波濤の行方」だけは少し印象が残っている。これは前作「オルモックの石」の続編ともいうべき作品で、前作ではオルモックで戦死した伯父の行方を追って、防衛庁まで出向いて資料を探す、という執念の作品だった。今回はそれをフィクションに仕上げている。捜す過程ではなくて、戦地における伯父の姿をフィクションで作り上げており、臨場感のある作品に出来上がっている。一読の価値あり。

 12月号は支部誌・同人誌推薦作品特集である。
 支部からの応募、28。支部外から、11。内、小説、37。
 最終選考に、16。優秀作、1。入選作、3。
 最終選考通過作の内、支部誌、11。その他、5。
 優秀作、入選作、ともに支部誌であった。

 支部誌が多少優遇されるのは、結社としての性格上やむを得ないだろう。
 また、入選作がいちおうのレベルをクリアしているのは認める。しかし、それにしても不満は残る。今回、「樹宴」からも、「まがね」からも推薦作を提出したが、どちらも最終選考16編に入らなかった。入選作のレベルから見て、最終選考通過作品が、われわれの推薦した作品よりもそんなに優れているとは思えないのだが、という無念がある。
 しかし、小説というものは読者の好みがあって、一次選考は何人かが手分けして読むのだろうから、当たり外れというのはある。
 ということで納得するしかないだろう。

 優秀作、渡部唯生「歴史の吐息」
 若い人の作品である。
 左翼活動家のたまり場になっている居酒屋が、じつは戦前はキリスト教の教会で、天皇制の戦時下体制で弾圧された。その地下室からオルゴールが出てくる、という話。多少作り過ぎの感はあるが、面白い設定である。小説つくりの出来る若手と思える。
 だが、そこにいたる導入部がつまらなさ過ぎた。面白い話に入る前に読者は投げ出してしまう。小説のポイントは後半にあるのだから、それを生かす構成にすべきだった。後半の面白さに対して、前半の愚痴っぽい部分がいかにも浮いている。全部カットだ。
 タイトルもふさわしくない。面白さを表現できていない。読んでみれば実際面白い話なのだ。タイトルと前半とで損をしている。

 馬場ひさ子「冬芽」
 ぼくならこれを優秀作に推す。
 不登校がテーマである。不登校はもはや現代の最も緊要なテーマのひとつと言えるだろう。
 作者は、不登校の原因も解決策も示すわけではない。当然だろう。現実に原因も解決策も見いだせないで大勢が悩んでいる。それを一篇の小説で解決することなんかできるわけがない。
 小説の役割は解答を与えることではない。問題を提出し、みんなに考えてもらうことだ。
 ここに提示されるのは、ひとつのケースである。問題はひとつひとつ異なる。すべてを網羅することはできない。提示されるのはあくまでもそのなかのひとつだ。だが、おそらくそのひとつのケースのなかには、他のケースにも当てはまるかもしれない普遍的なものが含まれている。
 小説とはそのように書かれるものだろう。個別性を取り除いてしまったら、それはもはや小説ではない。ひとつの個別的なものを個別的なものとして描き出すことで、そこにおのずから普遍的なものが立ち現れてくる。
 文章がいい。相当書きなれた人の文章だ。すぐれた文章はそれを書いた人の人間性までも表現するところがある。
 加えて、いい文章にはゆとりがある。しゃちこばっていない。遊びがある。そしてユーモアがある。
 ユーモア? 切迫していないのか?
 現実は切実なのである。原因もわからず、解決策もわからず、子供は不登校のままどんどん齢を取っていく。せっぱ詰まっているのが現実だ。みんなほんとうに悩んでいる。
 しかし、だから、暗い小説を書けというのは違う。暗く書いても問題が解決するわけではない。だとしたら、暗く書く必要なんかない。どんなに問題を抱えていても、人は日々を生きていかねばならない。暗い顔ばかりして生きていくわけにはいかないのだ。

 小学5年生くらいから不登校になり、いま、中学2年生の男の子。学校に行かずにゲームばかりするので、母親はさじを投げて、ばーちゃんが預かっている。ばーちゃんは作者とおぼしき年ごろに思える。作者は1952年生まれである。
 その子の母親である娘から、スマホとゲームは与えるなと言われていたのに、じーちゃんはゲームのひととおりのセットを買ってくる。大きな画面に映し出して、ネットで世界中のゲーマーとつながって、会話しながらオンラインゲームができるという代物だ。
 じーちゃんと娘とが大げんかする。それをばーちゃんが横で見ている。この場面は圧巻である。
 娘は、少年がすでにゲーム依存症で、これにゲームを与えるのは麻薬患者に麻薬を与えるようなものだ、「パパは悪魔だ」と責めたてる。
 じーちゃんは、「おまえが厳しすぎるのがよくない、一生ゲームをするなんてことはありえない、やりたいだけやらせてやれば、そのうち飽きる、おれはこの子を信じている。だいたい現代は何にでも病名を付けて、話をややこしくする。病気ではないのだ」という。
 二人はばーちゃんの目の前で、激しい言葉でやりあう。それを見ながらばーちゃんは、この父と娘とはこういう性格がまるでそっくりなのに、二人ともそのことに気づかずに、自分とそっくりの相手の性格を責めている、ということをおかしく思う。
 ここが素晴らしくユーモラスに描かれている。深刻な話なのだが、その深刻さのなかに作者はユーモアを忘れない。この父と母と娘とのあいだに醸し出されるいかにも家族的な雰囲気がすばらしい。
 これを深刻な家庭内対立と受け取るのは間違いだ。どの家庭にだって意見の違いはある。それをお互い気を使いすぎてなかなか表に出せないことが多い。この二人は信頼関係があるからこそ、まともにぶつかりあうのだ。
 ばーちゃんは孫を決して甘やかさない。彼を責めることはしないが、「おまえはうちの居候なのだから、うちのルールに従え」と言って、朝は早く起こし、「日本人だから朝は味噌汁を食え」と言って食べたがらないものでも食べさせる。ひいばーちゃんが入っている老人ホームにも毎日通わせる。そこはすぐ近くなのだが、わざと遠まわりして行けという。体力の衰えを回復させるためだ。毎日ドリルをやらせる。そのあいだゲームはやらせない。どのみち、クラスメートが学校に行っているあいだは、オンラインゲームをする相手がいない。
 ところが、午前中から、相手ができたのでゲームをしていいかと言い出した。不登校の相手を見つけたのだ。この一家は横浜に住んでいるが、相手は山形と宮崎だという。声は聞こえるが顔は見えないので、子供だという保証はない。大人がなりすましているのではないかとばーちゃんは疑う。だが、聞こえてくる声は子供らしく聴こえる。
 会話を交わしながら、協力しあって画面のなかの敵と戦う。
「アップルさん、その建物の影にいるから気をつけて、あー、やばい」「これはおれがやる」「まじやばい」「アップルさん、ドラゴンさん、まじ申し訳ない」といった調子で、瞬間的に判断しながら、猛スピードでコントローラーを操作していく。「まじ」と「やばい」の連発だ。
 こういうところをこの作者はじつに具体的に書いていく。少年たちの姿がほうふつとしてくる。ラストはこんな感じ。
 <今日、天気予報ではアップルさんの住む山形は大雪注意報が出ており、反対にドラゴンさんのいる宮崎は晴天、と伝えている。タケルと私がいるこの横浜には乾燥注意報が出ている。そして、タケルの部屋には「アップルさん、危ない! ドラゴンさん、フォローしてくれ。そっちはおれが倒す。ぎゃあ!」と危うげな変声期の声が響いている>

 まさに名作というべき。
 ただ一点。この作品も書き出しがもたついている。不登校生を集めた学校に孫を連れてばーちゃんが見学に行くのだが、この学校は結局解決にはなりそうもなく、二度と出てこない。まったく不必要な場面とは言わないが、少し読者を退屈させた。ここは書きなおしてほしい。

出生地

 両親に関する書類を調べていてもうひとつ判明したのは、我々姉弟3人の出生地である。それがすべてばらばらだ。
 姉は左京区下鴨貴船町、ぼくは左京区一乗寺松田町、弟は上京区紫竹桃ノ本町。
 ばらばらだが、すべて京都市内である。
 両親の結婚は1941年12月17日で、真珠湾攻撃の直後である。半年後には軍隊に招集されている。さいわい内地勤務だったが、いつ習志野に赴いたのかは不明だ。少なくともこの時点で足利生活は終わった。母は京都に帰ったのだろう。
 戦争が終わり、父も京都に帰ってきて、市内で住むところを転々としていたようだ。敗戦当時の落着かぬ世情が眼に浮かぶ。
 その当時、両親はまだ30代になったばかりである。出生以来、二人とも日本列島各地に住まいを移動し、どこが故郷とも知れぬ生活を強いられた後、40歳を間近にした1953年、何のゆかりもない福山に、たまたま草鞋を脱いで、やっと落ち着いたということだったのだろうか。

 両親とも亡くなったいまになって、彼らの人生にわずかながら、思いをはせている。わからないことばかりなのだが。

両親の履歴

 必要があって、両親の履歴を調べていて、いろんなことが分かった。何となく知っていたこともあれば、今回初めて知ったこともあった。他人には関係のないことだが、備忘録として記す。
 父の本籍はもともと富山である。富山県富山市稲荷となっている。ぼくは富山に一度も行ったことがないので、それがどのへんなのかさっぱりわからない。とりあえず、石崎の祖先の地なのだろう。
 生まれたのは、岐阜県吉城郡船津町鹿間、それもどこなのかわからない。父の生まれた時、その父親はすでに死んでいたので、これはたぶん父の母親の里なのだろう。岐阜県生まれというのは初めて知った。
 13歳で旧制中学校入学。尋常小学校の卒業が12歳だとすれば、高等小学校に1年行ったのだろうか。静岡県立沼津中学校。ぼくの行ったことのない県ばかりだ。これは母親の再婚にともなって母親の手を離れ、石崎の唯一の相続人として、このときまで、母親の兄弟の家庭で育ったのである。その家はもちろん石崎ではないので、家族の中で一人だけ石崎だった。
 翌年、富山県立富山中学校へ転校。父の父方の祖母が、富山でまだ生きていたらしい。
 18歳で卒業。旧制中学は5年制だ。
 同年、京都高等工芸学校図案科入学。
 4年後、22歳で卒業。
 同年、栃木県立足利工業学校教諭として赴任。
 これも初めて知った。卒業後は京都で教えていたのだと思っていた。沼津と足利とは両親の会話にしょっちゅう出て来たのだが、それが彼らにとってどういう土地なのかは聞かずじまいだった。
 足利の書類が今回初めて出て来た。京都高等工芸の教授が足利工業の校長あてに送った推薦状である。その宛先の校長の名前が、なんと、ぼくの母の父親だ。父が母の父親の教え子だというような話は聞いていたが、教え子ではなく、校長と教諭の関係だったのだ。
 母の父親が足利の校長だったというのも初めて知った。
 同年、陸軍第一補充兵役編入。これはまだ予備役で、実際に軍隊に入ったわけではない。
 2年後、校長の一人娘と結婚。父もひとりっ子で、石崎には江戸時代までさかのぼらねば石崎を名乗る人間はいないから、旧民法のもとでは、戸主である。校長のほうも一人娘だから、本来婿養子を取らねば、その家は断絶してしまう。にもかかわらず、その結婚が成立したのは、その校長が分家せずに、その兄の戸籍にぶら下がっていたからである。
 その事情は母を語るときに語る。
 結婚の翌年退職。ついに兵隊にとられたが、運良く、習志野の高射砲部隊で済んだ。
 だがこの戦争では、両親とも父親を失っている。
 母の父親は奉天の満鉄毛織の顧問として赴任していて、ソ連軍に銃殺された。
 父のほうは、沼津で育ったときの実質的な父親というべき伯父(母親の兄)が、フィリピンに向かう産業団の責任者として乗船していた船を、米軍に撃沈されて亡くなった。開戦直後だった。
 敗戦。
 父は京都に帰って、織物関係でしばらく働いたが、労働運動盛んな時代に労組の書記長に祭り上げられてストを打ち、責任をとって退職。十日町のたしか工業講習所と呼んでいた所へ転職した。そのあと、福山の県立工業試験場へ。備後絣のデザインが仕事だったようだ。
 学歴、職歴、兵役歴などはもちろん戸籍謄本には書いてない。なぜわかったかというと、父の履歴書が出て来たのだ。几帳面でなんでもとっておく父だから分かったのだが、この家に来て10年、さまざまな書類を相当ゴミに出した。奇跡的に残っていたのだ。
 福山に住み始めてから何年も経って、1962年に本籍を富山から京都へ移している。福山ではずっと借家住まいだったので、京都の母の実家を本籍にしたのだろう。この当時はいまのように気軽に本籍を移したりしない習慣だった。そこにも日本近代史上の問題があった。
 父が、ぼくらのいま住んでいる家に、本籍を移したのは、1994年である。
 したがって三通りの戸籍謄本が必要なのだが、それがつながっていないので、土地家屋の相続手続きができずに、司法書士がいまだに苦労している。
 ぼくら夫婦の戸籍も京都の結婚したアパートに置いたままで、いまの手続きが済み次第、これも移すつもりだ。放置したまま死んでしまうと、子供たちが苦労する。

 母の本籍は、長野県松本市大字北深志土井尻町、戸籍の筆頭人は、母の父親の兄である。母には、小学生くらいで亡くなった兄がいたので、分家したら将来困るとまでは考えていなかっただろうが、母の父親が若くして故郷を出て各地に転居したようなので、戸籍を兄の下に置いたままにしていたのだろう。
 母が生まれたのは、東京府北豊島郡日暮里町である。母の母親は京都人であるから、おそらくそれまでに母の父親は一度京都で暮らしている。たぶん京都の学校を卒業したのだろう。その地で結婚し、東京に転居していたものと思われる。
 戸籍でわかるのは、そのあと父と結婚したことと、死亡年だけだ。
 ところが学歴のわかる書類があった。むかし一度その書類を見た覚えがある。今回も少し前に見た。ところが手続き上必要な書類を探し始めてみると、その書類が出てこない。
 ぼくの部屋にはさまざまな原稿や手紙の類が散乱しているうえに、町内会の書類、老人会の書類、郷土史研究会の書類などが積み重なり、未整理状態で混在しており、そこに両親の遺した書類が混ざりこんでいる状態で、必要な書類がなかなか見つからない。それで今回戸籍や土地家屋の登記簿を探し始めてから、不要と思われる書類をかなり処分した。そのときに誤って捨てた可能性がある。
 何のための書類だったのか、不明だ。戸籍に学歴、職歴は記載されない。母は勤めたことはないので、履歴書も書かなかったはずである。にもかかわらず、その書類には学歴が記載されていた。
 それによると、金沢で小学校に入学している。金沢には石崎の墓地があり、学生時代に両親と行ったことがある。そのとき母が城下町の入り組んだ道路を迷わず先導したことがあった。そのころにはまだ母の少女時代などに興味がなかったので、詳しく聞くことはなかった。母は金沢に地理勘があるのだなと思っただけだ。
 高等女学校入学は京都だ。ところがこれは何年もせずに中退している。そのあと、たぶんドレスメーカーと読んだと思うが、そこの学校へ行き、そこは卒業している。
 この書類によって、母の育った一家の模様がおぼろげに浮かんできた。それまで母は京都だと思っていたが、そうでもない。思い出してみると、母は関西弁を使わなかった。むしろ標準語に近い言葉だった。母の母親が完全な京都弁だったのとはまったく違っていた。
 言葉。言葉について。それはまた別のテーマだ。

MATTHEW CHAPTER 5

NOW when he saw the crowds, he went up on a mountainside and sat down. His disciples came to him,
2 and he began to teach them, saying:
3 "Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.
4 Blessed are those who mourn, for they will be comforted.
5 Blessed are the meek, for they will inherit the earth.
6 Blessed are those who hunger and thirst for righteousness, for they will be filled.
7 Blessed are the merciful, for they will be shown mercy.
8 Blessed are the pure in heart, for they will see God.
9 Blessed are the peacemakers, for they will be called sons of God.
10 Blessed are those who are persecuted because of righteousness, for theirs is the kingdom of heaven.

 発端は「失われた夜のために」だった。あの下手な小説の次の箇所から始まった。

「経済的な豊かさばかりを求めた結果です。お金がたくさんあればよいのですか。物がたくさんあればよいのですか。そうやってずっとやってきた結果がこれです。お金や物や豊かさが、人々を害し、人々を苦しめています。心の貧しさがこういう結果を生みだしました。物が豊かになるほど、心は貧しくなっていく一方ではありませんか」
「でも」と僕はさえぎった。「たしかどこかに書いてなかったですか……心の貧しきものは幸いなり、天国は汝らのものなればなり……心が豊かになってはまずいのじゃないですか」
 女は声を高めた。
「マタイです。マタイの第五章です。でも、あなたはまったく間違って読んでいます」
「そうかな。心の貧しき者こそ神を求めるのだ、僕はそう読みましたがね」
「それでよいのです。でもそれは自分の心の貧しさを知っている者という意味です。心が貧しければよいのではありません。心の貧しさを知り、自分が神の愛に価しない人間であることを知り、悔い改めようとしている人のことです。何よりも大切なのは謙虚さなのです。そして人々はいまそれを見失っているのです」
 女はそう言って僕を見つめた。まるで、おまえもその一人だぞと言っているように聞こえた。

 この箇所に対して、次のような指摘が寄せられた。
「心の貧しき者」というのは誤訳である、「心底、貧しい者」というのが正しい、これは経済的な貧しさを言っているのであって、精神的な貧しさではない――と主張している牧師がいる、貧しい人たちの地区で活動している牧師である、と。
 納得しがたい説であったが、日本語になる前の聖句を知らないので、誤訳かどうか判断できない。そこで身近なキリスト教徒の何人かに問い合わせてみた。誰からも納得できる回答は得られなかった。

 この聖句は同志社大学の烏丸今出川に、ぼくの入学後に建った学生会館の一階大食堂の壁の高いところに英語で書かれていて、当時から、「どうして心が貧しいほうがいいんだろう」と学生たちの疑問を呼び起こしていた。ぼくはあまり疑問を持たずに、小説に書いたような解釈をしていた。
 今回、清水比庵が高梁教会にこの聖句を詩画として残したというところから、また、比庵の晩年のエッセーに、この聖句こそ自分が歌人として求めるものだ、という記述があるということで、この聖句の意味をめぐって疑問が蒸し返された。

 聖書のもともとの言語がヘブライ語なのか、ギリシャ語なのか、ぼくはそれも知らないわけだが、せめて英語でどう表現するのか知れば、多少はニュアンスを知る助けになるかもしれないと思った。もっとも、ぼくは英語の勉強も放棄したので、あまり助けにはならないだろうという予感もあったのだが。
 あとから考えると、ネットで検索すればすぐに英語訳くらい出て来ただろうが、ぼくはそういう世代ではないので、いきなりネットを思いついたりしない。どこかにギデオン協会の英和対訳の聖書があったはずだ、とはうすうす思っていたが、なにしろぼくの本棚ときたら、何がどこにあるのかさっぱりわからない。いつでも探すのに苦労する。そこでものぐさで、そのままになっていた。
 ところが、ふと、いつも座っているところの背中にある辞書類の並んだ本棚を見ると、ちゃんとそこにギデオン協会があった。

 心は、heartなのかmindなのかsoulなのかspiritなのか、と頭では考えていた。もっとも、そのニュアンスの違いが理解できるわけではないので、正解はspiritだったと知って何かが分かったわけではない。
 けれども、この英文を何回か読んでいるうちに、なんとなく答えを見つけたような気がした。

「経済的な貧しさ」はたぶん間違っている。そういう訳を許す根拠は見当たらない。
 だが、ぼくの小説中の対話の両名のどちらとも、やはり間違っている。

「心の貧しさ」と日本語で表現すると、エゴイストで、自分のことしか考えない、人への思いやりのない、心に美点のない人というネガティヴなニュアンスにとらえてしまう。
 そこがそもそも間違っている。
 poor in spirit とは、精神的な欠乏感を意味するのではないか。充ち足りない思いを抱いている人、何かが足りないと感じている人、心がからっぽだと思っている人、それゆえになにか、充たしてくれるものを求めている人、そういう人のために天の王国はあるのだと。

京都旅行記を終えて

 15回までで京都旅行記が終わったので、1から順番に並べ替えた。読んでもらえるようには整理できていない。自分のための心覚えという感じ。行った先のことはほとんど書かずに、そこまでの道順ばかりを一生懸命書いている。結局、ぼくは名所旧跡にあまり興味がない。街並みや、道や、交通機関が好きなのだ。名所はそのための動機づくりだ。それにいちおう行きました、ということにしておかねばならないし。
 歩く道々に思い出が詰まっているので、旅ももちろん思い出を探す旅になったし、ここに書いたのも半分は過去のことである。自分なりに、自分たちの京都というものを整理できたかなという感じはしている。
 もちろん書いてないことのほうが圧倒的に多い。あの時代については書きたいことはいくらでもある。ぼくの人生にとっての大切なものとなった人々はほとんどその時代の人々だ。いまは失われた人々。だが、彼らと以上の関係は結局その後の人生では得ることができなかった。誰にとっても青春というものは特別のものだろう。しかし、また一方、その後のぼくの人生がちょっといいかげんすぎたということでもある。真摯に生きていなかったので、真摯な人間関係を築けなかった。京都時代は、波乱万丈だったが、それなりに必死で生きていたのだと思う。

京都旅行(1)

 あっという間に10月も終わりに近付き、土、日が中国地区集会。その前に明日は町内会の残仕事。なので、中国地区の準備もあまりできなかった。顔を合わせるだけでも楽しみなので、それでよしとしよう。
 京都の記憶がどんどん遠のいていきそうなので、少しずつ書く。

 初日のことはエッセイに書いた。そもそも、ぼくらの旅行の計画はすべて妻が立てて、ぼくはそれに乗るだけ、いつもそうなので、妻は最初から怒っている。
 京都10日間、というのも妻が立てた。最初は11月に計画していた。それで、中国地区を10月にしてもらった。ところが消費税が10月から上がるというので、急遽、9月に前倒しした。
 旅館はすべて妻が手配した。妻が大津の出身で、大津にいまも親友がいるので、その情報から、草津の宿が安い、ということで、草津に5日、予約のとれなかった日を、堀川下長者町に3日、あと2日は大原の民宿をとった。
 草津と言うから、草津よいとこで温泉に連れて行ってくれるのかと思ったら、それは関東の草津で、滋賀県の草津には温泉はない。国鉄片道410円で、往復でも820円、それを計算に入れてもなお安い宿があるということだった。
 京都から新快速で20分、昔は田舎だったらしいが、南草津に立命館が移ってきたということもあって、学生街+ベッドタウン化で、駅前は高層マンションだらけ、大型商店も多い。若い夫婦が多いようで、行き交う自転車はみな前と後ろに子供を載せる設備がついていて、若いお母さん、お父さんがしょっちゅう子供を積んで走りまくっている。
 しかし、その話は4日目から。とりあえず初日に戻ろう。
 そもそもどこへ行くか決めていない。宿を決めただけである。ただ、なんとなく話し合っていたのは、子供たちも孫たちもみんな京都の観光地に出かけているのに、われわれは7、8年間京都に住んでいたのに、名所旧跡と言われるところにどこも行ってない、なんだか情けないので、遅ればせながら名所をまわろう、ということだった。
 京都駅でバス1日乗車券を買った。600円で乗り放題である。乗り切り1回が230円なので、3回乗れば元を取れる。地下鉄もあるが、南北線と東西線の2路線しかない。とうていうろうろする役には立たない。昔は地下鉄はなくて市電だったのだ。これが縦横無尽に走っていて、たしか乗り切り15円だった。乗り換えればそのつど取られるが、いろんな路線があって乗り換えなくてもたいがいのところには行けた。市電には番号があって、どの番号がどこをどう走るかということはすべて頭に入っていた。その上線路のないところは走らないので、安心だ。バスには乗ったことがなかった。バスはどこに連れていかれるかさっぱりわからないから。
 まず宿に向かう。堀川下長者町。堀川通というのは馴染みのない通りである。京都の広い通りで堀川と五条だけは市電が走っていなかった。だから馴染みがない。そのうえ、下長者町というのがよくわからない。丸太町だ、と妻が言う。うん、それならわかる。府庁と市役所があるのだ、とさらに言う。それはちょっと納得いかない。府庁と市役所とは場所が違うはずだ。それにどちらがどちらか忘れたが、どちらかはデモの終着点である。八坂神社の円山公園で集会をやって、祇園から四条河原町に出、河原町を御池まで上がって、その府庁だか市役所だとかで解散する。これがデモのコースだ。府庁と市役所と両方が堀川丸太町のはずがない。移転したのだろうか。
 そのときは確認のすべもなかったが、後に河原町通りを何度もバスで通るようになって、市役所が河原町御池にあるのは確認できた。府庁はなるほど堀川丸太町にあった。
 下長者町は、丸太町というよりも、丸太町と今出川の中間くらいにあった。下立売と中立売の間だった。

京都旅行(2)

 京都の街は碁盤目状である。X軸とY軸との交点を求めれば位置が分かる仕組みだ。すべての通りに名前がある。通りに名前を付けるという点では、ヨーロッパの都市とよく似ている。異なるのはヨーロッパの都市が放射状であるのに対して、京都は碁盤目でいっそうわかりやすいというところだ。
 京都駅からまっすぐ北に向かうのは烏丸通である。大きな通りだけを言うと、烏丸の西が堀川、大宮、千本、西大路となっている。烏丸に東本願寺、堀川に西本願寺と二条城がある。烏丸通をずっと上がってぶつかったところが北大路で、むかし市電の烏丸車庫があった。ここにいま地下鉄南北線が通り、現在では、南は伏見の竹田、北は岩倉の国際会館まで延びている。
 東西線は、以前行ったときは国鉄二条駅から蹴上までしかなかったが、いま西は太秦まで、東は山科まで行って、なんとそのさき伏見の六地蔵まで南下している。これは路線図を見てびっくりした。だが地下鉄に乗ったのは岩倉に行った一度だけだった。岩倉を語るときが来たら述べる。
 堀川には市電はなかった。大宮と千本とは、四条大宮までは市電が大宮通を走り、そこから北へ行くと大宮通は狭い道になって、市電は千本通のほうへ斜めにずれるのだ。この千本通は娯楽街で、千本中立売には千中ミュージックがあった。なにかというとストリップ劇場である。
 その西は西大路、ここがいちおう京都市街の西の果てということになる。ここから先は嵯峨野になり、嵐電で行くことになる。西京極球場は西大路より西にある。
 烏丸通の東は河原町通。京都商業の中心だ。商店はこの通りに集中しており、烏丸通のほうは銀行や証券会社が多かったような記憶がある。
 東西の通りは京都駅のところが八条。京都駅の南側に九条がある。河原町通りを上がっていくと、五条から四条、三条。この四条から三条が一番の繁華街で、四条通から東へ木屋町を抜けて鴨川を渡れば祇園、八坂神社となる。八坂神社の前が東山通だ。
 河原町の一本西、四条三条間に新京極がある。昔はここが修学旅行のメッカだった。車両の侵入できないアーケード街だ。そのさらに西が寺町通で、昔ここは静かな通りだったが、いまではここのほうが賑やかなようだ。
 と書いてきたのは、西京極と新京極の位置に注目して欲しかったのだ。新京極は京都市街の中心、西京極は市街を外れたところにある。ところが新京極とはもとは東京極なのだ。ここが京都の東の果て、西京極が西の果てである。その中央はどこかというと、千本通なのだ。千本通はいまでは京都の中心からずっと西にずれた場所だが、ここが平安京の中心、朱雀大路だったのである。その朱雀大路の九条に平安京の入口である羅生門があった。
 五条通は先に書いたように市電が走っていなかった。この通りは国道1号線、2号線、9号線の分岐点にあたる。当時から市電がないので車の通りやすい通りだった。ここと堀川通がそうである。
 四条通は祇園八坂神社に通じる最も繁華な通りで市電も走っていた。三条は新京極から繋がるアーケード街である。その北は御池通で、二条に近い。さらに北へ行くと丸太町通になる。これはつまり一条である。一条というのは平安京の御所の南側を通る最初の街路である。一条朱雀大路、すなわち、いまの千本丸太町に、御所の表門があった。千本中立売はそこから少し上がったところで、かつての平安京の御所のど真ん中である。そこに千中ミュージックがあった時期があるのだ、というのはちょっとユーモラスな話だ。
 御所の北側、すなわち裏手に当たるのが、今出川通。いまでも御所は今出川と丸太町の間にある。ただし、千本から大きく東にずれて烏丸と河原町の間にある。千本今出川にあるのが北野神社、昔の御所の裏門のところというべきだろう。朝廷を脅かす菅原道真の霊をここに鎮めたのだ。
 今出川からさらに北へ行くと北大路にぶつかる。北大路大宮には大徳寺。北大路烏丸のかつての市電車庫はいまでは様変わりしていた。これはまた今度。これをずっと東に行って、賀茂川を渡れば下鴨の街があり、洛北高校がある。この通りから東真正面には比叡山がそびえている。
 ちなみに、鴨川は出町から北は賀茂川である。賀茂川と高野川が出町でぶつかって鴨川になる。
 北大路からさらに北には北山通がある。そこはもうすでに京都市街とは言い難い。
 堀川下長者町の話はこのあと。

京都旅行(3)

 きょうの朝日新聞で、西寺跡の発掘が報じられている。もともと羅生門の東にあったのが東寺、西にあったのが西寺だが、西寺は早くに焼失してそのままになった。東寺は弘法大師の寺として残った。それはいいのだが、朱雀大路の地図が掲載されている。見ると山陰本線と重なっている。千本通が朱雀大路と思っていたが違ったかな、と一瞬思った。だがたいして違わなかった。山陰本線と千本通は近接して走っている。二条駅があるのも千本だ。
 この二条駅は以前に来たとき駅まで入った。京都、福山間の乗車券で乗れるならここから乗ろうとしたら、そうは問屋が卸さなかった。二条、京都間の切符が別にいると言われた。
 ここへはたぶん地下鉄で来た。帰りの汽車にまだ少し時間があったのでここからもう一ヶ所、どこか行きのバスに乗ろうとしたのだ。どこだったか、思い出せない。そのバスの時刻まで間がありすぎたのであきらめて帰ることにした。ここが地下鉄東西線の西の終点で(当時)、東の終点(これも当時)蹴上まで一度乗った。蹴上はもう東山の山中なので、地下鉄はべらぼうに深いところに停まる。エレベーターでえんえんと昇って地上に出る。そこからたしか南禅寺に行ったのだ。
 それがいつのことだったのかはっきりしない。10数年前だと思う。母のお骨を納めに金沢へ行った帰りだったかもしれない。
 話を、今回の旅行の初日に戻す。
 観光客だらけの京都駅を出て、観光客だらけのバスに乗って、観光客だらけの二条城を横目に見て、堀川通をまっすぐ上がり、丸太町、下立売から、下長者町に着いた。宿は停留所のすぐそばだった。チェックインは3時からなので、とりあえず荷物を預けて、ついでにそこのレストランで昼食を食べる。さてそれからいよいよ旅の予定を立てる。まずきょう半日をどうするか。
 場所的に言って出町はそんなに遠くない。出町枡形商店街に行きたいのだとぼくから提案した。つい最近「ブラタモリ」で見たのだ。出町はしょっちゅう行き来していたのに、そんな商店街があるなんて知らなかった。そのうえ、そこは京都アニメーションのアニメの舞台になったところだと知った。話はまとまった。しかし経路がすぐには決まらなかった。「どこかそのへんの道を東に歩けば烏丸に出る。道の向こうは御所だ。そのへんに門のひとつがある筈だから、そこから入って御所をぶらぶら歩けば河原町の手前に出る」
 だが、この提案は一蹴された。そんな長い距離を歩くことはできない、バスに乗ろうということになった。とりあえず宿を出て堀川を上がる。堀川は、道路の東半分が広くて深い堀になっている。ずっと深い地下二階くらいのところを、けれども、流れはちょろちょろとしか流れていない。そこに遊歩道がある。天井はないが地下道のようなところだ。地元の人が犬を散歩させている。
 今出川まですぐだと思ったら、なかなか行き着かない。かなり歩いた。「ほらごらん」と妻に言われた。「ここまでだってこんなに歩くのに、御所の向こうまでなんて歩けるわけがない」
 堀川今出川でバスに乗る。二停留所で烏丸今出川。その東北角が同志社、東南角が御所だ。同志社と御所の間を走る。御所は、建物は春と秋の二回の公開のときしか入れないが、門が方々にあり、敷地に入るには自由だ。同志社の表庭のような位置なので、なにかというと入って芝で寝転んだり、座って話し合ったりした。一方の門から入って別の門から出ることもできる。広大な敷地である。
 烏丸今出川の次が同志社前、しかしこれは同志社女子大前なのだ。その次がいよいよ、河原町今出川、別名出町である。エッセイに書いたとおり、枡形商店街はすぐ見つかった。アニメファンが押し寄せているかと思ったが、あまり目立たず、地元の買い物客のほうが多かった。観光向きの店ではない。素朴な台所だ。ずっと西に進むと四つ角があり、そこに古びた小さな映画館があった。出町館である。若い女性がしきりにポスターを張り替えている。メジャーでない映画を上映する自主上映館のようだ。翌日宇治に行って人力車に乗ったとき、車引きのあんちゃんが、あそこで「この世界の片隅に」を観ましたと言った。この映画館のことは妻もガイドブックで調べていて、雨が降ったらそこで映画を観ようと思っていたそうだ。別の方角からだが、偶然同じ場所を思い浮かべていたわけで、まずは妻をがっかりさせずに済んだ。
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