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クリスマスローズの価値説

「エストリルのクリスマスローズ 02/14 美しき希少性」をご覧ください。「価値説」について平松氏の提言をも視野に入れる形で示唆に富んだ内容を書いておられます。平松氏が取り上げていた「エントロピー低減」問題にも相応の理解を示されています。
 平松・石崎論争をかなり読み込んで書いてくださったように思えます。ありがとうございました。
 こうしてまた違った角度から提示いただくことで、平松氏の追及されていることにもかなり接近できた気がします。

拍手ありがとう

 たいへん古い記事3つにひとつずつ拍手が付いた。どうもありがとう。

コンピューターは脳ではない

 きょうの朝日で、池澤夏樹が「コンピューターは計算機であって、脳ではない。脳にはなれない」と言っている。遠い未来のことは別にして、見通せる未来の範囲でこれは正しい。
 半世紀前の「鉄腕アトム」のころから、ぼくの頭にあったテーマだ。手塚治虫はアトムにことよせて人種差別問題も訴えた。比喩的なお話として、そういう扱い方ももちろんありえただろうが、ぼくの強い関心は一貫してロボットは人間になり得るのかというところにあった。
 ロボットと人間との違いというテーマは、ぼくにとってはむしろ、機械と生き物との違いというところに帰結させられた。
 ロボットが人間になるためにはその前提として生き物にならねばならない。生き物にならない限り人間とはなりえない。
 生き物とは何か。
 個別的な差異は措くとして、類としての生き物とは、生存と生殖の本能を持った存在である。それを持つから類として生き残ってきたのであって、持たなければ消滅していた。
 この本能はいかにして類に与えられたか。その解答は生物の全史のなかにある。
 新陳代謝し続けることによってしか存在しえないこと。新陳代謝というコピー作用が存在の条件であること。しかもコピーは無限に間違い続けるということ。この間違いが多様性を生み、そのなかで環境に適応したものが生き残り、そうでないものが消滅を繰り返していったこと。それはいまも繰り返し続けていること。それゆえに、変化し続ける環境に対応し得ているということ。
 これが生き物だ。こういう機械を作るということは簡単なことではない。ロボットには、一匹のアリが持っている程度の自由さえ存在しない。すべては与えられたプログラムだ。学習というが、それも自主的なものではない。与えられた学習機能なのだ。学習したくてしているわけではない。なんのために学習するのかを機械は知らない。機械は自分の意思を持たない。
 そしてもし、はるかな未来にあって、ロボットが生き物になったとすれば、その指向性は人間とは異ならざるを得ず、人間と利害の衝突する存在となる可能性を排除できない。
 生き物とはそういうものだ。人間の思い通りになるとしたら、それは生き物ではない。
 生きるということは、そういうことだろう。

平松論文について

 平松氏の書かれた論考への疑問を指摘したところ、反論を寄せて下さったので、公開する。なお、元になった平松論文を掲載していないので、分かりにくいだろうと思う。
 論文の掲載誌は以下である。
「マルクスと21世紀社会」 社会主義理論学会編 本の泉社 2017年発行 2000円 〒113-0033 東京都文京区本郷2-25-6
(ご所望の方はメールください)
 各界の11名の方が執筆されている。90年代に共産党の参議院議員をつとめた聴涛弘氏もその一人である。
 それぞれ、多彩なテーマで展開されていて、興味深い本。一部は当ブログですでに紹介した。(はるかぜちゃんで当ブログを検索すると、関連記事がふたつ出てきます)。
 

 平松論文が論じたのは情報産業である。
 拙文への反論を読ませてもらって、氏の追及されていることの中身が、前よりも理解できた。一方拙文を読み直してみると、価値論へのこだわりが顕著で、それが平松氏のテーマとかなりずれていたようだ。
 ただ、まだ氏のテーマの全体像が把握しきれない。そもそも情報産業に疎いせいかもしれないが、もう少し現実面での展開が欲しい気がする。(理論面ではなく)。

平松氏の論考への石崎の指摘と、平松氏の反論 Ⅰ

 先日公開した以下の文章に、平松氏が反論を寄せられたので、拙文に付け加えて再掲する。
 拙文の各部分に対応するかたちで書いておられるので、そのまま発表する。
 赤字部分が平松氏による文章である。
 なお、全体が長くなるので、章ごとに区切って掲載する。

平松 民平 「非物質的代謝による生産=情報財の生産について」
     ――マルクスを現代に、現代を社会主義につなぐ一助に――
    (「マルクスと21世紀社会」社会主義理論学会編 本の泉社 2017年)
                                     
   上記論考について若干の疑問を記す
                                石崎  徹
           目次
 I. はじめに                    
 II. 本論                      
 III. 情報産業                   
 IV. 情報の質の違い               
 V. 製造業産業と情報産業の違い       
 VI. 労働価値説は覆されたか          
 VII. 資本主義的所有は無効化するのか。   
 VIII. 産業分布を何によって計るか   
 IX. まとめ   

I.  本論に入る前に、主筋ではないだろうが、主筋に微妙に関連し、また相互に関連しているところの二つの箇所について述べる。

① サービス労働について 38ページ
② エントロピー増減について 56ページ

① <「モノに結実しない労働は価値を形成しない」派と「モノに結実しない労働も価値を形成する」派との間で「サービス労働論争」があったが、その議論が情報の生産の分析にまでは至らなかった。それは「生産=物質的代謝」規定の影響によると思われる>

② <上記①~③(掃除、床屋、服の仕立ての三つ――引用者注)はマル経では何を生成していたか疑問視されサービス労働とされていたが、「エントロピーの減少=エントロピー財」を産出する労働と捉えられる>

 これに対する石崎の意見。
 エントロピーの増減という概念を使って、サービス労働問題をうまく労働一般の中に取り込んだな、とは思うし、エントロピーという方向からものを考えれば、たしかにうまく当てはまっているようにも見える。しかし、こじつけのような感じもある。そもそも何かを生産しなければ労働ではないのか?
⇒何かを生産しなければ労働ではない、これを前提して労働を「生産」に当てはめるために生産概念の拡張のためにエントロピー概念を使っていると思われるので、こじつけと感じるのですね。マルクスは物質的な何かを生産しなければ生産的労働とはみなさない。マルクスは生産を歴史的/超歴史的の両面で捉えていた。現代(マルクス時代)の生産は悉く資本主義的生産である、と語っています。あえて生産を狭く限定的に捉えていた。価値法則はこの資本主義的生産の分析に適合していた。マルクスの生産概念の拡張か、生産そのものを労働の前提から外すのか、での分け方もあるけれど、問題は生産とは何か、どのような活動が生産でどのような活動が非生産なのかをマルクスを離れて(超歴史的に)考えるのも意味ある事ですよね。これを明確にしないと「何かを生産しなければ労働ではないのか」の問いにかみ合った議論は出来ない。繰り返しになりますが、マルクスの生産概念は物質的代謝の過程での労働活動に限られている。マルクスが生産活動と明確に捉えなかった労働にサービスとエントロピーがあると思う。マルクスのこの生産概念のリニューアルが現代から未来社会への生産の変革の分析に必要。

 労働がまず食のために始まり、余裕が出来た時代に到ってサービスや科学や芸術が生まれた(一方での剰余価値の生成、他方でのその消費)という問題と、近代社会における雇用労働の局面で生じる、商品やサービスの価格と労賃との差額という問題は別の問題だ。
⇒「サービスや科学芸術が生まれたことと近代社会での商品やサービスの価格と労賃の差とは別の問題」
評者は著作がこの両者を混同している、と受け取られたようですが、そのつもりはないのです。
前者は、「余裕ができた」=生産力が発展=科学や芸術を低価格で扱えるようになったことを意味し、
後者は、発展した生産力が資本主義に都合に合わせて、資本が利潤を生むために、マルクス的に言えば資本主義的に充用された結果でしょう。


マルクスはあちらではああ言い、こちらではこう言っている、という矛盾があるのだろうが、単語もセンテンスも、いつでも同じことを意味するわけではない。それらを文脈の中で読みとらねば、なにも意味しない。

 価値とは商品価値である。商品価値は使用価値を必要とするが、使用価値はそれぞれ異なっているので、比較できない、衡量できない、価値の高い、低いを言うことはできない。それをできるのはただ単にそれを作るのに(あるいは与えるのに)要した労働時間だけである。 ということが価値の全てであり、要するに売れるものが価値なのだ。サービスも売れれば価値である。別に何も生産する必要は最初からない。少なくとも価値に関する限り、エントロピー概念は必要ない。
⇒価値は市場により売買の結果として与えられる、「要するに売れるものが価値」、「別に何も生産する必要はない」、確かにそうです。私は何が売れて何が売れないかを考えたい。この分析を通して、売れるものには使用価値があるから、となるのですが、では使用価値の中味はどうなのか、マルクスは使用価値の中味の分析はしていない、ここは捨象して、議論はすぐに価値(交換価値)に飛んでしまう。私は逆に価値(交換価値)の議論には踏み込んでいない。価値は石崎さんが言う補助線でしょう。私は価値を飛ばして超歴史的な使用価値の分析に踏み込んでいてここがマルクスとの違いです。価値は資本主義において初めて意味をなす概念でマルクスが極めた中心概念で、資本主義終焉の鐘が鳴るまでは使える。
⇒「少なくとも価値に関する限り、エントロピー概念は必要ない」これは価値に関する議論であり、使用価値を分析するに当たって、使用価値の有無/量的程度を吟味/議論するにはエントロピー概念は有用である。さらには物質的/非物質的財の生産範疇のなかでは分析しにくい使用価値がエントロピー概念によって明確に整理され、どのような使用価値をどのような労働が生むかの分析もうまくできる。
分析は不要とするなら話は別ですが、、、。
欲望を満足させる何かを提供する労働、この何かとは何なのか?これへの答えとして物質的財、非物質的財、エントロピーが考えられ、それはマルクスにはなかった分析によって得られるものである。


「資本論」から極端な例をひとつ。
 教育労働に関して、「教師は子供の脳細胞という物質に変化を与えるので、これは生産的労働だ」というバカなことを言った人がマルクスの時代にいたらしく、マルクスが彼らしい皮肉を込めて揶揄していた。 エントロピーを引っ張り出してサービス労働に価値を与えようとする試みは、この「子供脳細胞改造論」と似たところがあるような気がする。
⇒エントロピ概念を適用すれば、もしかしたらこれは「バカなこと」ではなく、マルクスが誤りかもしれない。今までマルクス主義理論では捉えられていなかった事象の位置づけが可能になるかもしれない。そうすれば、教育労働がもっと確かな根拠をもって有用労働と位置づけられるであろう。

 そんなことをしなくても、サービス労働は最初から商品価値なのである。 教育労働者はサービス労働者であり、官庁勤務者もそうだ。そのサービスの買い手は税金の形で対価を支払っている。直接買わないのでわかりにくい。でも、そうなのだ。
⇒どのような労働がサービス労働として役立つのか、そこを分析したい。買い手がつくから商品価値がある。マルクスにとってはそれで十分かもしれないが、そこを調べて見たら、エントロピー低下させる労働が使用価値を形成していたことが分かった、ということです。これはこじつけかもしれない。でもそうするとエントロピ低下させる活動は他にも見つかるかもしれない。物質財生産でもなく、知的財の生産でもない、けれどエントロピー低下させる活動に従来の生産活動と同列の席を与えられるかもしれない。
⇒エントロピ概念は観測から得られた物理的客観的な概念で補助線ではないと思う。価値ではなく使用価値と労働の関係の理解にはニュートン力学と同じようにこじつけでなく適用できるのではないか。


 さて、テキストの主筋に進む。それはこれらの問題と直接関係ないのだが、微妙に関係してくる。

石崎文と平松氏の反論 Ⅱ

II.  主筋として述べられているのは、現代社会が、製造業産業から情報産業の時代に移行しようとしていること、この情報産業がマルクス主義経済学ではとらえきれていないということの認識と、それをとらえるための試み、そして情報産業化のなかに、社会主義的展望を見出しうるのではないかという提言である。 その過程に、サービス労働問題や、エントロピー問題が微妙に関係してくる。

著者の主張の要点。
① 製造業産業に対する情報産業の比重がすでに大きくなり、ますます大きくなっていこうとしている。
② 製造業が人間の手足を用いて物を加工するのに対して、情報産業は、人間の頭脳活動が主体である。
③ 情報産業に必要なコストは初めだけであり、あとはコストがかからない。
④ 低価格で大量に提供できる。
⑤ その価値は労働時間では計測できないので新たな概念が必要だ。
⑥ 情報財は公共財となりつつあり、資本主義的所有の観念が崩れてきている。
⑦ 汗と規律の労働から解放されて、個と異質性と多様性の尊重される創造的労働へ。

 そして残された課題として三点あげている。
① 生産活動において非物質的代謝なる概念が妥当か。
② 分けても減らない情報財は交換の対象にはなりえず、したがって商品たりえるのか。
③ 情報の実体化の過程の一つとしてのパフォーマンス労働について分析ができていない。

 少し説明すると、①は価値(あるいは労働)をどうしても生産と結びつけて考えたいという著者の思い込みが影響している。価値を生み出すものは代謝だとするところから、物質的代謝に代わる非物質的代謝なる概念を切望している。 そしてそれをマルクス主義の発展として統一的にとらえたいという願望である。 その試みは成功しているようにも見え、こじつけのようにも見える。石崎の眼から見ると、それはマルクスにとって必要な操作ではない。何故ならマルクスにとって、価値は市場で決まるものであり、市場以前には存在しないものだからである。つまり代謝であろうがなかろうがどうでもいいのだ。
⇒やはり「価値(あるいは労働)をどうしても生産と結びつけて考えたいという著者の思い込み」があるのでしょうか。そもそも価値(交換)概念からは離れて、労働を使用価値との関係において議論しているのです。マルクスが捨象した部分についての議論です。マルクスにとって必要な操作ではない、その通りです。マルクスは使用価値そのものには目を閉じて、価値(交換)そのものにだけ着目してその運動を分析していたのです。マルクスにとっては必要ないけれど、現代の社会を読み解こうとする我々には必要な操作と思うのです。マルクスから見れば不要なこじつけでしょう。代謝とは使用価値関連マターでマルクスが追及しなかったところです。マルクスにとっては代謝はどうでもいいことだけれど現代社会の分析には必要ということです。価値は市場で決まる、は資本主義の運動原理に過ぎない。ポスト資本主義を探るにはこの価値より使用価値、代謝のほうが意味がある。次の社会を構想するに当たっては重要なことと思うのです。

 まず欲望がある。ここが出発点だ。この欲望は胃袋からのものだろうと精神からのものだろうと同じことだ、と「資本論」の最初のほうに書いてあった。この欲望を満たすものが使用価値である。そしてそれが市場で取引されれば、それは商品価値となる。この商品価値をマルクスは価値と呼んでいる。取引されなければまだ価値ではない。この局面での価値という単語にはほかの意味はない。マルクスがほかの場所でほかの使い方をしていたとしても、それはこの局面には影響しない。
⇒「この欲望は胃袋からのものだろうと精神からのものだろうと同じことだ、と「資本論」の最初のほうに書いてあった。この欲望を満たすものが使用価値である」同じなのは価値に関してである。同じなのは資本主義社会においてである。使用価値に関するこれ以上の分析はマルクスにとっては不要で石崎さんにとっては「こじつけ」になる。石崎さんは現代社会をマルクスの目線で見ていると思う。
⇒マルクスは商品としての使用価値を物質的モノに限定することによって資本主義の分析解明を行った。資本主義は正に物質的モノの生産に適合的なメカニズムであり、マルクスの理論は資本主義においてその所を得た、交換価値に焦点を当てることによって。


 ②についてはあとで論じる。それはこの小文の最も主要な部分となる。

 ③の意味はよくわからない。情報を実体化する過程での実働的労働という意味なのだろうが、その分析が出来ていないということなので、ここでは取り上げない。ただ論考のなかで、情報産業における諸労働を分類し、それぞれを特徴づけることは確かに出来ていない。

石崎文と平松氏の反論 Ⅲ

III.  情報産業

「例えば30年前で世界の企業の株価時価総額を比べると、トップ10入りした米国企業はエクソン・モービルなど2社ほど。NTTや大手銀行など日本企業が8割方を占めていた。中国は改革開放が始まったばかりで影も形もありませんでした」
「これが今では、グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンという『GAFA』と、アリババ、テンセントなど米中のネット系が上位を占め、モノづくりの企業はほとんどない。日本はトヨタ自動車が40数位で、そこまで差がついた」
(経済同友会代表幹事 小林喜光 朝日新聞1月30日)

 このインタビュー記事にも示されているとおり、情報産業はいまや製造業産業をはるかに凌駕した。
 著者の論の前提となる第一の指摘はまさにそのとおりである。
 そこから著者は生産される情報財の性質を述べていく。
① 生産者の頭の中で生産される。
② モノに転化しない。⇒モノの構成要素として、モノの効用の一端を担う。
③ 消費しても減らない。
④ 無限に消費できる。
⑤ 結果として低コストである。

 そこから著者が導き出す想定。
① 労働の性質が変化する。
② 商品価値を労働時間では計測できない。新しい方法が必要。
③ 資本主義的所有の概念が崩壊する。
⇒上記は情報財の超歴史的性質で資本主義の中ではこれがそのままは実現しない
機械は労働を軽減することが出来るが、資本主義の中では労働強化をもたらす、と同じ
むしろ情報生産は下部構造として上部構造たる資本主義を変容させる力として作動する。
情報生産は資本主義の中では資本の利潤追求の手段として徹底的に利用される。
このことはサンデルの「それをお金で買いますか」で語られている。


 さてそこで、われわれは、いったん紙の世界から目を離して、現実世界を先入観なしに眺めてみよう。
 さっき引用した、経済同友会代表幹事のインタビューがその現実を如実に語っている。
 情報は独占され、独占したものに巨万の富を与えている。これが現実である。
⇒先入観をもって眺めた方がいい場合もある。
例えば階級認識をもって現実を眺めると見えてくるものがある、しかし階級意識で覆われて見えてなくなるものもあるけれど、、。


 資本主義的所有の概念は崩壊したか。それがどのような所有を意味するかは措くとして、資産の所有については、格差は人類史上かつてないほどに拡大した。
⇒本来は所有に物理的基盤を持たない情報財に対してこれを資本主義的所有の枠内に留めようとする様々な工夫が様々な制度/政策として施されている。

 なぜ現実と著者の想定とが食い違うのか、この解答を求めて、われわれは著者の叙述を少し詳しく追っていくとしよう。
⇒この食い違いはマルクスの前史/本史の歴史認識と同じ。現実は前史にあって、つまり資本主義の枠内で、資本主義の枠を打ち破る本史に向かう原動力として①~③は働いている。
つまり情報を生産する生産力と資本主義的生産関係の矛盾、現実資本主義を変革する力である。

石崎文と平松氏の反論 Ⅳ

IV.  情報の質の違い

(50ページ)
 【5 非物質的材の商品化】
 【5-1 情報をモノに埋め込んだ商品】
① 本【言語情報】+
 【紙+活字+インク+(以下略)】
② 電子ブック【言語情報】+
     【(略)表示装置】
③ アンテナ【電磁気学で計算された形状情報】+
    【形状加工された金属棒】
④ メガネ 【光学で計算されたレンズ形状情報】+
    【研磨されたガラスやプラスチック】
⑤ 手作り箪笥や家具【図面や記憶による形状情報】+
        【カンナやノミで加工した木材】
⑥ ~⑨(以下略)
 ここでは情報+モノという形でさまざまなものが例証されている。上段に書かれた情報が下段に書かれたモノの中に埋め込まれるという構図である。
 本と電子ブックをもう一度見て、アンテナ、メガネ、箪笥や家具をよく見てほしい。異なるものが比較の対象となっていないか。
 アンテナ、メガネ、箪笥や家具の上段に置かれた情報はすべて形状情報である。
 本と電子ブックの上段の情報はそうではない。
 アンテナやメガネにとっての情報がその形状情報(作り方)であるなら、本や電子ブックにとっての情報も、その形状情報、作り方の情報でなければならない。
⇒情報はモノの作り方、確かにそうですね。
⇒40pの「情報に固定される労働」の中で本は②に、アンテナは③に相当する。
⇒そしてここでは情報が商品化される形態を【モノへの埋め込み/非物質のまま/エントロピ】に分け、効用(用途)については措いて、モノへの情報のモノへの埋め込み方の類型を①~⑨で示している。
埋め込み方は形状である場合やマイコンのプログラムとしての場合もある。
例えば知的情報を効用とする場合は紙の本や値札は前者、電子ブックや駅の電子掲示板は後者である。
どの視点で見るかによって相違点と共通点がある。
モノへの情報の埋め込み⇒共通点=モノ形状への埋め込み=本の上段も分解すればモノ形状に帰着する。【言語情報】→文字化→文字形状→印刷【活字+インク+紙】で紙面に実体化(形状情報の実体化)
これは石崎さんの指摘通り、本の作り方でもありますね。
効用の相違点⇒言語情報からの効用or情報を埋め込まれたモノそれ自体による効用、両者は異なる。
本書ではそこは無関心、「モノへの情報の埋め込み」でのまとめである。違いがあるものを並べたので「比較が違うよ」と感じたのでしょう。分類を再考する必要があるかも。


 本や電子ブックという道具を使って伝達する中身としての情報とは、つまりそれの用途である。アンテナにとってはそれで受けとる電波であり、メガネにとってはそれで見る対象であり、箪笥にとってはその中に収納する衣類である。

 情報とは何か。情報にもいろんな種類があり、それは単に並列的にあるだけではなく、段階的にもある。道具の作り方としての情報と、道具が運ぶ中身としての情報とは厳然と区別される必要がある。

 情報自体が消費される場合と、情報によって作られたものが消費される場合の違い。

 ハンマーを買う人はハンマーの作り方を知りたいのではなく、ハンマーで物を叩きたいのである。ハンマーに転化された情報とは、いかに作れば物を叩ける道具が作れるかという情報であろうが、ハンマーを買う人にとってはそれは不要な情報である。ハンマーを買う人はその情報を消費するわけではない。
⇒ハンマーそのものがすでに【情報と物質】で構成されていて、それを買うひとはそんなハンマーの有機的構成など無頓着にハンマーを買うのであり、石崎さんの指摘どおり。ただしその先が少し違う。情報とはハンマーの形状である。だから情報の消費とはハンマーの形状が崩れることである。ハンマーの情報を使うわけではない。それはハンマーなるモノの損耗、劣化である。モノの損耗、劣化とは形状情報が失われることである。ここはP44のガラスのコップ参照。
従来のモノの消費とは実はモノの情報要素が失われること。だって物質エネルギー不滅法則があるから物質は滅却しない、これは誰でも知っていること。失われるのはモノをそのモノたらしめていた情報のみで、それはエントロピー増大と等価、同じことになる。


 汽車に乗る人は汽車の作り方という情報や、汽車がどうやって動くかという情報を知りたいわけではなく、ただ汽車に乗ってどこかに行きたいだけだ。

 ひるがえって、本の場合を考えてみよう。
 本に転化された情報には二種類がある。
 一方では物としての情報、本という物質はこのようにして作るという情報、他方ではその本に書かれていることという情報である。買い手は書かれている内容であるところの情報を消費するのであって、本の作り方に関する情報を消費するのではない。もちろん物としての本も(それがいつかは消滅するという意味で)消費するのだが、その製造方法に関する情報を消費するわけではない。ただ単に物を消費するのである。

 電子ブックの次にアンテナを並べられると、「これ、並べ方が違うでしょ」という感じになる。
 電子ブックというものがどういうものか知らないが、それがもしパソコンであるなら、ここではパソコンの作り方が、アンテナの作り方と対応する。アンテナにおける情報が、その形状情報だとすれば、電子ブックにおける情報もその形状情報でなければならない。電子ブックがキャッチする(あるいは発信する?)情報について語るなら、アンテナがキャッチする情報について語らねばおかしい。メガネもそうだ。メガネで見る対象が、電子ブックから得る情報に対応する。箪笥ならその中に入っている衣類であり、コップならそれで飲む飲み物だ。
 アンテナも眼鏡もタンスもコップも、それ自体を消費する(何年か後には使えなくなるという意味で)という水準で物を考えるなら、電子ブック(パソコン?)も、物としてのそれが何年かの後には消費され尽して消滅するという水準で考えねばならない。

 物という器と、その用途とは別のものだ。
 ただ単に物として消費される場合、その物に転化されている情報とはその製造方法である。製造方法は使用方法を内蔵しているだろうが、それは隠された情報であり、人は自分の知識からそれを理解したり、使い方を誰かもしくは何かから習うことで知る。
 それに反して、物から得ようとするものが、その物に関する情報ではなく、物が与えてくれるところの、まったく物自体とは関係ない情報である場合、容器に付着したあれこれの情報と、器が運ぶ内容としての情報とを区別せねばならない。
⇒容器に付着した情報、のイメージではなく容器を容器たらしめているものが容器の形状情報である。
容器そのものが【形状情報+物質】で構成されている。
そして容器の効用は容器の形状(情報)と容器の物質的特性の両面で形成されている。
⇒値札の場合:文字情報が札に印字されているのが値札としてのモノである。モノは情報のキャリヤとしての物質。この場合はたしかに情報は札に付着しているイメージである。


 物に関する情報と、物が与えてくれる情報とは別のものだ。
 著者の論ではこの二つの情報を区別できていない。
⇒ここではこの区別を無視して、情報が物質に埋め込まれる様々な形態を類型化して示している。
この区別に関してどこかで議論すべきかもしれない。


 ここが出発点である。ここから情報のさまざまな違いについて見ていかねばならない。
 情報産業と言った場合、その情報のさまざまな(並列的違いではなく)段階的違い、性質的違いについて見なければならない。情報労働という場合に、どういう種類の情報労働かが必要となる。
「情報を実在化する過程でのパフォーマンス労働」という問題については語らないと最初に書いたが、結局そうはいかないようだ。著者が省略してしまったその部分こそが、じつは問題のポイントだったのだ。

(52ページ)
 【5-2 純粋な情報、いわゆるソフト】
 質料を持たない非物資的材として、著者は言語(自然言語以外に、コンピュータ言語、数式、楽譜、図面などを含む)、アルゴリズム、知識、理論などをあげる。
 ここは純粋な情報というよりも、ソフトやシステムとして理解するのがわかりやすいかもしれない。つまり先に上げた、内容としての情報(これが純粋な情報)ではなく、その内容を運ぶための道具としての情報財だ。つまり本にしろ電子ブックにしろ、その内容をそれらのものの上に表現するためには、ソフトやシステムを必要とする。それが自然言語としての文字であったり、コンピュータ言語であったりする。これも情報財だ。

(53ページ)
 【5-3 エントロピー財】
 ここで著者はサービス労働もエントロピーの減少に寄与するので、それはエントロピー財の生産であるとしてマルクス価値説を補い統一する。先に述べたようにこれはマルクスにとって不必要な仕事である。
 だが、著者にとっては、情報財生産労働を(著者の考える)マルクス的労働のうちに抱え込むための必要な手続きであるようだ。

石崎文と平松氏の反論 Ⅴ Ⅵ

V.  製造業産業と情報産業の違い

①  製造業では、工場、機械、原材料、労働者などのために最初に大きな資本がいる。
 情報産業に必要なのは頭脳だけである。ただし、その頭脳にはコストがかかっている。
②  製造業では、作るたびに原材料その他を必要とする。
 情報財は、一度作れば、あとはコストなしで無限にコピーできる。

VI.  労働価値説は覆されたか

 その前に一言。
 労働価値説とは、労働時間以外に商品価値を計量できるものはないという説であって、労働は貴いという説ではない。「資本論」は道徳の本ではなく、経済学の本であることを忘れないように。
⇒本書では「労働は貴い」と説いていませんが、そう感じさせる叙述があったのでしょうか?
⇒労働価値説の基本は、生産>消費という日常的な人の営みの資本主義における定式化に過ぎない。
1日で生産する財は1日以下の労働で生産されねばならない。ごくごく当然の超歴史的な真実でしょう、ただし現代では地球容量からの絶対的制約も追加されてきたけれど。


① 特許権、著作権
 価値を決定するのは市場である、という原則に立ち返ろう。売り手と買い手があり、両者が合意すれば取引は成立する。そこに働くのは社会的平均労働時間である。ところが、頭脳労働は個別的なので平均はない、と著者は言う。つまりこれは著者自身が触れている著作権や特許権の問題なのだ。著者はそのことに軽く触れながら(59ページ)、問題をそこから深めようとはしなかった。
⇒著作権は物理的基礎を持たない生産物(知的)に擬制的所有権を与えるもの。これが資本主義の天才的機能である。著作権は知的生産物だが、それ以外にも投票、順番並び、などを権利化して売買することも実現している。本来所有になじまないコト、モノを埋め込む擬制的所有権こそが資本主義、これで十分でこれ以上の説明はいらないんじゃないと思いました。

 著作権や特許権がなぜ必要か。それが情報財であり、すなわち誰にでもコストなしにコピーできるものだからであり、それをやられると著者、発明者のそこに到ったコストがまったく報われないからだ。
 情報財は、作るにはコストがかかるが、コピーするにはコストがかからない。だからこれは市場原理によらずに保護されなければ、いっさいの著作も発明も生まれてこない。コストが報われないとしたら、そんな労働はありえない。
 だが、それが永久に保護されてしまえば、それも人類の進歩を阻害する。だからここにいつまで保護するかという妥当な線が、法律によって引かれることになる。
 それが、ある場合には発明者の発明コストを反映するよりも何倍もの巨大な額になるとしても、ある意味ではそれも市場原理を反映しているとも言える。即ち発明は賭けであり、一人の成功者の陰では無数の失敗者が泣いているのであって、それら大勢のコストをすべて反映しているのだとも言えるだろう。
 それは法律によって決定されるので市場を反映していないように見え、事実必ずしも反映していない。だが、市場原理から遠すぎる法律は結局妥当性を欠き、いずれは、うまく機能しなくなるだろう。すでにそうなりつつあるのかもしれない。
 これは情報財に共通する問題であり、形としては、いま急に出てきた問題ではない。昔からある問題なのだ。ただ、その問題が大きくなりすぎた。

② 無料配布(オープンソース 59ページ)
(2月3日付朝日)
【情報通信研究機構(NICT)は自動翻訳アプリ「ボイストラ」をスマホなどで無料でダウンロードできるようにした。普通の会話なら31種類の言語を文字でも、音声でも、即時に翻訳できる。さまざまなソフトに利用されている】
 ネット世界には、無料のものも有料のものもあるのだが、それぞれについてその仕組みを丁寧に見ていく必要がある。無料で提供する主体はどこから収入を得ており、無料で公開することの意図はなにか、どういうメリットがあるのか、まったくのボランティアなのか。半ば公的な仕事なのか。まわりまわって利益が期待できるからなのか。
⇒紙面の制約から中途半端な説明で問題点を指摘するのみ。次回作で詳しく考えたい。
オープンソースにも分類すれば様々なやり方があるけれど、共通するのはネット世界が量的にほぼ無限大であること、この量的な特異性が質的変化をもたらしている、広告もオープンソースもこの前提が昔と根本的に違うことを十分考慮すべき。


③ 広告収入
 無料のものには広告が大量に付いている。これは人類がとっくの昔から経験済みだ。民放テレビは視聴者から金をとらない。視聴者に対しては無料で提供する。しかしボランティアなのではない。スポンサーから金をとっている。テレビ局はスポンサーに対して番組を売っている。ちゃんと商取引が成立している。スポンサーが番組を買うのは、看板屋に看板を作らせて金を払うことと一緒である。看板にはその効用が期待できるので、その労力に対して金を払う。
⇒昔と現代で不変な部分と大きな落差がある部分の両面から考えたい。

④ 情報産業内部の労働の種類
 実際には情報産業にも大勢の労働者が働いている。技術労働者でも、大部分は時間で働いているだろう。アマゾンなどには、小さい荷をたくさんの家庭に届けるために長時間低賃金で働いている大勢の下請運転手たちがいる。アマゾンの儲けの何割がピンハネによるものか、何割が正当なシステム構築料なのか、
⇒現代社会の病巣の分析は必要で、改善に効果がある。それはマルクス的視野で言えば「科学技術の資本主義的充用からきている」とくくることができるけれど、著作はここに関心を向けていない。著作はそこには言及していないのです。例えばサヨク世界では問題になる「変革の主体は誰か」で言えば、資本主義が生き残るために犠牲になっている人がそれであることは当然視されているけれど、その対極にある先端産業で働く労働者、正規でないけれど貧困でない、雇用されていない労働者、彼らも変革の主体であろうと考えている。両極の労働者が変革の主体、これを統一するアイディアは今後の課題。

石崎文と平松氏の反論 Ⅶ Ⅷ Ⅸ

VII. 資本主義的所有は無効化するのか。

 生産手段の私有が資本主義的生産方法の特性だとすれば、生産手段がいま現在どうなっているのか、検討する必要はあるだろう。
 だが現実には格差は(資産格差も所得格差も)人類が経験したこともないほどに広がり、ほとんど絶望的な状態である。著者が書いているのとは逆の意味で資本主義の断末魔が来ているような様相だ。
 これはどこから来ているのか。
 著者は情報は大衆に無償で譲与されるというが、現実には情報産業が儲かるシステムを独占的に所有している。それが生産手段と呼べるのかどうかは不明だが、少なくとも市場を支配している。この支配によって莫大な利益を得て、それを占有している。
⇒例えばインターネットは非物質財、知的財の生産にとっては昔の機械と工場に代わる生産手段そのものであるが、これは実質的に社会的に共有されている。インターネットは高速度で時間的に分割利用しているから全人類で共有できている、100億倍で動作する電卓は世界に1台で済む。本来的に、物理的には個別的所有を不要にする技術の発達(生産力)がある、これは初めて資本家が不要なった社会が現実化しているということ。政治的変革抜きに社会の変革が可能な時代になっている。資本主義が抵抗している、しかし、その土台は崩れつつある、答えになっていないかもしれないけれど、、。

VIII. 産業分布を何によって計るか

 経済同友会代表幹事の言葉に戻ろう。
 情報産業がトップを独占し、モノづくり産業は見る影もないという。だが、それは企業単位での統計である。情報産業を少ない企業が独占し、モノづくり産業は多くの企業に分散されてまかなわれているとすれば、総量比較では別の結果が出る。
 一般家庭の支出に占めるモノと情報との割合はどうなのか。もちろんモノのなかにいまでは情報が、大量に仕込まれている(農産物でさえ)としても、その情報コストのなかにも、情報労働者の生活にかかわるモノ(衣食住から移動の費用その他)が入り込んでいるはずだ。
 アマゾンが儲けているのはモノの移動を機能的にしたからである。彼らの儲けの基本はモノである。そのモノを作る人々、運ぶ人々、運ぶ道具(航空機、貨車、トラック)を作る人々、その人々の食料を作る人々、そういう循環のなかで、システムの構築者に分け前が偏るとしたら、これはどういう仕組みなのか。

IX. まとめ

 情報産業の肥大化という現実と、その実態の見えにくさ。
 製造業産業と情報産業との違いとはなになのか。
⇒脱工業や脱製造業と言われるけれど、何も脱ではなく今まで(生産効率向上のツールなどと)隠れていた情報要素が公然と明示的に加えられ始めた、工業や製造業の情報化です。ゼンマイを使わない時計やばねを使わない秤やアルコールを使わない温度計へのモノづくりのシフトです。
 マルクス経済学は現代経済にはたして対応できるのか。
⇒マルクスが語っていないことの中に次の社会をつくるときの材料がある、著作はここを探した。
まだまだポートフォリオ(まだ目的を絞らず材料を集積する)段階、本著作はその材料の一つのつもり
現代社会の害悪の源泉はマルクスが行った分析の延長上で説明できるので省略した。

 今後世界はどうなっていくのか。

 著者は、自ら情報産業のなかで生きてきた経験から、マルクス理論を援用しつつ、情報産業を分析し、マルクス理論のなかのすでに無効となっている部分を明らかにし、新たに統一的理論を模索していこうとしている。 その仕事は高く評価されるべきである。

 とともに、情報産業をさらに深く分析していくなかで、理論的可能性と現実との間に生まれているかもしれないギャップについても、検証作業が必要であろう。
 マルクスがイギリス、マンチェスターの工場地帯の、現場からの情報と具体的な統計数字を細かく検討し、さらに500年もさかのぼって労働時間と賃金との関連を探っていったように、まず現場を知るという困難な作業が要求されるかもしれない。
 その意味では著者は有利な経歴を持っている。それを生かして、このうえさらに豊かな研究成果が生まれてくることを、期待して止まない。
⇒石崎さんからは、本書では不要の議論をしていると見えるかもしれない。でもこれは趣味半分だが実利もある、現代社会の事象の中で推進すべきことと抑圧すべきことの区分け、より具体的に言えば、次の社会での経済政策として採用すべきものと縮小すべきことの区分けなどに使えるのではないか。サヨクの経済政策として、反XXの否定形でのものから○○推進へ、肯定形での経済政策を道徳的な面とは別に語るために、、。
何回も同じ内容のコメントを書いてしまいました。

以上

一田和樹「檻の中の少女」について

 この本について3年前に書いた感想に拍手が付いた。そんな古い記事をどういう方が拾ってくださるのだろうといつも不思議だ。
 感想の内容も忘れていたし、本の内容はまるっきり思い出せない。これが70歳の記憶力だ。若い頃のことは覚えているのに、最近のことは思い出せない。
 ネットを探すと、この作家は福ミスでデビューしたが、いまや何冊も本を出している。かなり売れっ子のようだ。当作品への感想もいっぱい出てきた。
 ぼくが書いた感想は、前半はハードボイルドで素晴らしいのに、めちゃくちゃに長いエピローグがついていて、これがハードボイルドを投げ捨てた平凡で古臭くて退屈な自然主義文体で、作品全体を台なしにしたというものだった。
 人々の感想を読むと、ぼくと同じ感想もあるし、逆に後半の自然主義が素晴らしかったという感想もある。そういうものなんだね。
 後半を誉めている人たちは、そこに犯人の動機が書いてあることを評価している。やはり動機を好きな読者って多いんだな。
 不思議なんだが、つくりごとの動機を読んで何が面白いのだろう。人を殺したくなるような動機なんて誰にだってあるだろう。でもほとんどの人は殺さない。人を殺すのは動機のせいじゃないだろう。と、ぼくは思う。
 推理小説を動機で読ませるのは邪道だ。推理で読ませるべきだ。とぼくは思うのだが、どうもこれは少数意見らしい。

仙洞田一彦「オスプレイ」(「民主文学」19年1月号)

 いま流行りのお仕事小説(現代的プロレタリア文学)かなと期待して読んでいったら、お仕事小説は午前中だけで、あとは昼休みのおやじギャグ小説になった。
 少しがっかりしたが、それでも読ませるのは、うまいからだ。
 小型トラックが荷を積んだまま乗り込んで昇降できるような巨大なエレベーターのある立体型の複合倉庫だ。複数の会社が倉庫として使っている。出だしからその倉庫の描写なのだが、しつこくなくわかりやすく書いている。
 <物が保管されているといった感じ。(中略)そしてその物の保管、入出庫をする人たちが、物について来て働いている
 太字部分、決してオリジナルな表現ではないが、わざとらしくもなく、ぴったりとはまっている。説明の言葉ではなく、印象を言葉にしている。こういう表現のあるなしが、作文と小説を分ける。次もうまい。
 <針が十二時の手前で止まってしまったかのようだった
 午前の仕事にくたびれて昼休みを待ち望んでいる様子。
 その先で休憩時のテーブルの様子を書き込む。ストーリーと関係ないじゃないかと思うかもしれないが、この描写のおかげで読者の目に場面が見えるのだ。映画だったら、監督の指示で小道具係が用意する。小説には絵がないのだから、それを文章で書かねばならない。初心者はそれを書かない。
 そのあと、登場人物たちをその最初の発声の機会に一人ずつ描写していく。短い小説だから、しつこくなってはいけないが、軽くでもやはり書いてほしい。書いてないとイメージが浮かばない。ネット小説の作家たちはこれを絶対に書かない。現代の読者にはそのほうが読みやすいのかもしれない。でもぼくらはそれがないと読む気がしない。
 <僕は挽回すべく、思い付く言葉を一気に並べた。(中略)新しいことを言っていない気がして、やはり言わない方が良かったかなと思った
 主人公に型通りのセリフをしゃべらせた後で、述懐させている。こういうところもいい。平凡なことをしゃべらせて気にもしない作家が多すぎる。ここでは主人公自身が気にしている。
 たいしたことは書いてないのだが、うまさで読ませる。オスプレイもあまり内容と関係ないが、まあ、短編のタイトルとしてはこれもありじゃないかな。

能島龍三「この街に生きる」(「民主文学」19年1月号)

「民主文学」の常連の書き手で、いくつも読んできたはずだが内容を思い出せない。自ブログを検索して3つ見つけた。
 13年「生きる」 14年「青の断章」 15年「北からの風に」
 その後も発表しているはずだが、ぼくのブログにはない。「民主文学」も読めたり読めなかったりしているし、読んでも書けなかったときもあるので、たまたま飛んだのだろう。
「生きる」には多少注文を付けているが、あとの2作はほぼベタ褒めしている。しかし、印象に残っているのはむしろ「生きる」だ。タイトルでは思い出せなかったが、自評を読んでかなり鮮明に思い出した。
 今回作は、それらの作品とはちょっと趣きが違って、老人文学という感じだが、少しひねりがあって、決してありきたりではない。
 主人公は、いまは年金生活だが、元教職で、共産党員である。その教職も主に福祉関係を転々として来て、年金は多くない。教師というのは喋るのが職業で、共産党員もそうだろうが、この人は口下手で無口で人付き合いが苦手で電話は大嫌いである。
 じつはこれはあり得ることだと思う。教師はしゃべることが決まっている。共産党員もそうだ。ところがそういう枠を取っ払った場で自由にしゃべるということはこれはまったく別のことなのだ。
 舞台の上では雄弁な人が舞台を降りると無口であるというのは珍しくない。
 保守的な町に家を建てて暮らしている。妻は夫とは正反対で、誰とでも気楽にしゃべる。「女はコミュ力が高い」などと言うと最近は猛反撃される。雄弁な男もいれば、無口な女だっている。でも、一般的な傾向としては否定しきれないところもあるだろう。
 夫は普段は威張っているのかもしれないが、そういう点では全くだらしがなくて、妻に叱られながらよちよちと努力し、少し上手にやれると妻が誉めてくれる。
 そうやって「この街で生きる」ことを手さぐりしている。小説だから、かなり誇張しているのだが、それがユーモラスでほほえましい。正直言うと、身につまされる。
 話はそれだけではなくて、地下40メートルを環状道路が通るという問題なのだが、地下だから問題なかろうと思ったら、大間違いで、さまざまな弊害が懸念される。
 都市はどうあるべきか、道路はどこまで必要なのか、ということを考えさせる。

田本真啓論

「民主文学」1月号の読者の声に、<田本真啓の「バードウォッチング」は年寄りにはついていけないところがあった、「さくらが鳴いた」はそうではなかった>というのがあって、ふーんと思った。ふーんというのは、読者はさまざまなんだなと、いまさらでもないが再認識したからだ。
 ここでも書いたが、「バードウォッチング」はなかなか読みがいのあるおもしろい作品だった。ところが「さくらが鳴いた」のほうは小学生の作文を読まされるようで、同じ作者とはとうてい思えなかった。それがまあ、ぼくの感想である。まったく逆の感想が載ったので、やはり「ふーん」だった。ま、そういうものなのだろう。いろいろ書けばいろいろな傾向の読者に受け入れられて、それもよいかもしれない。作者だっていろんな傾向を内包しているわけだし。

河瀨直美と「まなざし」

 きょうの朝日で、河瀨直美が「まなざしを持たなければ物語にはならない」と言っている。ぼくは日本映画をほとんど観ないので、この人の映画のよしあしはわからないが、この言葉は腑に落ちた。
「まなざし」つまりそれが文体だ。大衆的なまなざしで書けば大衆の支持を得る物語は成立する。成立するが、その芸術性はあまり感じられないだろう。一方、独自のまなざしがほんとうに独自であるかどうかは、作品ごとに異論のあるところだろうが、それがいままでになかった何かを我々に与えてくれるものであれば、そこには豊かな芸術性が宿る。そのうえ、それが時代を強く反映していたなら、芸術性を保ったまま大衆的にも受け入れられよう。でも、一見独自と見えてもじつは陳腐であったり、あるいは逆に独自すぎて独りよがりになり、誰の共感も呼ばないかもしれない。
 いずれにせよ、物語には「まなざし」が必要だ。「まなざし」つまり文体だ。作者がどこに立って書いているのか、だ。その立ち位置の有効性が問われる。

広津柳浪 木下尚江 田山花袋 徳富蘆花 夏目漱石

「民主文学」11月号は、明治150年ということで、明治の作家たちを特集している。これはいずれも短い評論だが、読みごたえがあった。
 論者は順に、田中夏美、久野通広、尾形明子、下田城玄、和田逸夫である。論者も聞いたことのない人が多いが、作家の方も、たとえば広津柳浪などという名前は初めて目にした。あとの作家は一応名前は知っているが、木下尚江は読んだことがないし、徳富蘇峰、蘆花兄弟は同志社の新島襄との関係で少し聞きかじった程度。田山花袋は「布団」しか読んでいない。漱石は何度も読んだつもりでも代表作だけで、50年前に一度読んでそれきりというのも多いし、読んでないかもしれないと思うものもいくつかある。
 いずれも紹介を交えた分かりやすい書きかたで、しかもそれだけに終わらず最新の研究成果に触れながら、なお論者の独自の観点を出している。
 文学研究、作家研究というものも案外興味深いものだなとこの齢になってやっとわかりかけてきた。(こういうことを10代で知っていれば道を過たなかっただろうが)。
 ぼくらは研究者とか学者とかいうものをもっと尊敬する必要があるのじゃないか。
 作家が多岐にわたっているので、内容も多岐にわたって要約できないが、全体の調子としては、庶民を描いた作家にかなり焦点を当てている。その描き方の文学的な欠点(類型化、通俗化)を認めながらも、なおそこに描き出された庶民の像には現代省みるべきものがあるという主張である。
 いまひとつは権力に対する姿勢、初めて知って驚くようなことを何人かについて書いている。収穫が多かった。

風見梢太郎「伝言」(「民主文学」18年11月号)

 この人もぼくとあまり変わらない世代で、共感を持って読んだ。とは言え生き方は180度違う。ぼくの人生はめちゃくちゃだったが、この作品の主人公は(そしてたぶん作者自身も)すべてにおいて至極まっとうである。
 71年ころ、大学を出ておそらく電電公社関係と思われる研究所に入る。というのが主人公なのだが、たぶん作者の経歴も似ているだろう。主人公自身の具体的な研究分野は書いてない。研究者だが、共産党員でもある。だが、おおっぴらな活動は控えて、じゅうぶん信頼する人だけをオルグの対象にしていた。もともと好きだった合唱の研究所内グループに入る。ところがある日、グループは解散する。どうやら主人公が党員であることがばれて、攻撃が主人公に来ずにグループに来たらしい。そのグループを拠点に党の影響力が広がるのを恐れたのだ。グループの指揮者でもあり指導者でもあった人は何も語らずにやがて退社し、大学に籍を移す。
 64年の4・17ストの問題。それを契機に電電関係の労組から共産党員が排除されていった歴史に少しだけ触れる。組合がどんどん組合らしさを失っていった時代だ。
 40年経って、現代である。主人公は定年したが、OB登録をしているので、研究所の一部部署に立ち入ることができる。かつて合唱団が練習していた講堂から歌声が聞こえる。若い人々が再び合唱団を始めたのだ。ひょんなことから、いまの若い指揮者が、かつての指揮者から大学で教わった人間であることがわかる。(このへんは小説として読むと少し偶然が過ぎるような気もするが、同じ電信分野の共通する研究分野だろうからあり得ることかもしれない)。そういうつながりから、かつての合唱団指揮者が、どんなつらい気持ちでグループを解散し、研究所を去っていったかということを主人公は知ることになる。タイトルの「伝言」はその若い指揮者から昔の指揮者に、「もう一度あなたの指揮で唄いたい」と伝えてほしいと頼むところから採っている。だが、同時に、若い人々に自分たちのやってきたことを伝えるということも含意しているのだろう。
 文章も構成もいつものこの人の作品らしくしっかりしていて、何よりもやはり71年ということが同世代の共感を呼ぶ。生き方がまるで違っても、時代の空気は一緒である。
 そういう時代だったのだ。学校にも職場にも党員や民青が大勢いて、「民青恐るべし」という本がベストセラーになり、いろんな形で弾圧された時代である。
 いま、そういうあからさまな思想弾圧のようなものを目にしなくなった。しかし、それはどこにも党員や民青がいなくなったからなのだ。弾圧したくてもする相手がいない。
 これは単に共産党の退潮というローカルな問題ではない。社会そのものが大きく変化している。たとえば朝日新聞が左翼であるとして攻撃されるような、そんなこともひとつのシンボルである。
 むかしの尺度ではとらえきれないようなことが起こってきている。
 そういうことにまで目をやろうとすると、これは短編小説では書ききれないテーマである。
 いまの若い読者にどう読まれるかということはひとつの課題ではあるが、ぼくとしては感じることが多かった。
 ひとつだけ気になったのは、主語の問題。主語が几帳面に書かれている。欧文脈に慣れている人の文章だ。ぼくもどちらかというと翻訳小説ばかり読んできたので、主語を省かない傾向がある。しかし日本語は主語がなくても成立する言葉である。日本文学の文章としては、出来るだけ主語を省くほうが聞きよいような気がする。

18年最終メッセージ

 町内に厄介な問題が起こって、ずっとそれで走りまわっている。来年もしばらくそれでかかりきりになりそうだ。でも、ともかくお役所も休みに入ったし、一時休戦。今日は少し読んだ。「民主文学」12月号は早くに読んでいたが、後回しになっていた11月号をやっと読み終わったので、いまから少し感想を書く。書き終わったらアップする。

竹之内宏悠「私、行きます」(「民主文学」18年11月号)

 あまり上手とは言えない文章で読みにくかったが、最後まで読むと切実な話ではある。
 どこがまずいのか。最初の5行である。読者を引き込まねばならないいちばん大切な部分である。
 ちょうど同じ号で、仙洞田一彦が的確なことを言っている。
 <書く者が第一に意識しなければならないのは「場面」なのだ>
 その上の段で、「場面(シーン)」と書いている。仙洞田氏はこれを、レオン・サーメリアンという人の本から学んだそうだ。聞いたことのない人だ。宮本百合子の作品を二つあげて(ぼくはそれを読んでいないが)そこには場面がある、初心者の書くものには場面がないと言っている。
 ぼくは同じことをチャンドラーから学んだ。チャンドラーは、「最後がちぎれていても読みたいと思わせるような場面(シーン)」こそがストーリーよりも大切だと言っている。
 そういう問題なのである。

 事務所の電話がけたたましく鳴った。
「はい、川崎合同労組ですが」
 いつもの癖で、川崎地域合同労組の書記長古田孝広は、受話器を取ると白くなった髪の毛に手をやりながら応えた。
 電話の内容は、孝広が思った通り労働相談だった。

 一見、場面が書かれているように見える。合同労組の事務所で、そこには髪の白い書記長の古田がおり、電話がかかってきてとった。古田には髪に手をやる癖がある。
 なるほど、わかる。しかしこれは説明であって、シーンではない。
 なぜ「事務所の電話」なのか? そこが事務所であることを説明するためであって、事務所のシーンには事務所の電話しかないのだから、この「事務所の」はよけいな単語である。
 なぜ「けたたましく鳴った」のか? けたたましくなく、鳴るときはどういうふうに鳴るのか? 電話はけたたましく鳴ったり、違う鳴り方をしたりするのか? 
 電話がけたたましかったり、そうでなかったりするのは、居合わせた人たちのそのときの精神状態のせいだろう。そこになにか異常なものがあるのでなければこの単語もよけいな単語である。よけいなというのは、単に不要であるというだけではなく、あってはならないということだ。
「いつもの癖で」
 癖というものは無意識なものだから、「いつもの癖で」と書かれれば、そこに第三者の視線がなければならない。しかし誰の視線とも書かれていない。読者の視線だろうか。けれども読者は古田と初対面なのだから、それが「いつもの癖」であるかどうかは知らない。
「思った通り労働相談だった」
 何故そう思ったのか? その理由が書かれていない。理由などないのだ。これもよけいな単語である。

 電話が鳴った。それをとったという日常的なことを書くのに、よけいな形容詞がたくさんくっついている。これがなにか異常なことの始まりで、それを予感させるものがあって、そこに居合わせた人々が身構えていたというのならこの書き出しでよい。これはそういうシーンなのだ。そういう間違ったシーンを作者は作ってしまったのだ。
 読者に期待させる書きかたではある。ところが期待させるようなことは起こらない。起こりそうな雰囲気ではないし、実際起こらない。そこで読者はその大げさな形容詞を場違いに感じる。結局、正当なシーンは書けていない。

 合同労組の事務所に日ごろ交流のある活動家の高山が電話をかけてきて、応対した書記長の古田に、パワハラ被害者への救援を依頼した。事務所にやって来た被害者から話を聞いたら深刻な内容だった。
 被害者から話を聞く場面は、一応シーンになっている。そこは読ませる。被害者の生活の実態が描出されるわけではなく、被害者の語る言葉と、応対した者に与えた印象だけなのが物足りないが、切実感は伝わる。ただ、要するにそういう紹介記事なのだから、それにふさわしい、さりげない書き出しがあっただろう。弁当を買う場面だけはちゃんと物語になっていた。最後がよいので、書き出しのそぐわないのがもったいない。

増田 勝「Eノート」(「民主文学」18年11月号)

 作者80歳。また老人文学かと敬遠しそうだが、読み始めると、読まされた。民主文学の男の作家には文章の上手でない人が目立つが、この人は書きなれた文章だ。文章が良いとやはり読ませる。深刻ぶらないのがいい。軽快である。
 自分の葬式を棺桶のふたを持ち上げて覗いている。ところが、自分の遺影がしゃしゃり出てしゃべり出したので、棺桶のなかから「おまえは死んだのだから、引っ込め」と怒鳴る。
 この部分がたいへん面白かった。ところがこれが夢の話である。それが残念だ。小説はもともと作りごとなのだから、そのなかに夢が出てくると、作りごとが二重になってしまう。夢の枠を取っ払って書けばもっと良かった。
 しかし、夢以外のところもよかった。たぶん作者の現実だ。旋盤をまわしながら夫婦で小説を書いてきたのだという。その最愛の奥さんを若くして失っている。

斎藤克己「きみの瞳のなかのぼく」追論

 読み直したが、今回作には前回作のような仕掛けは読みとれず、素直に読んでかまわない小説のようだ。
 素直に読めば、佳い作品なのだ。生きることの愛おしさ、過去から未来へと繋がっていく命、といったものを感じさせてくれる。
 文章がいい。大げさな表現がない。淡々と書いているのに、しかも実感がこもっている。
 強調すべき場所でも、やはり形容詞を使わない平易な文章を、ただ、くりかえすことによって効果を上げる。
 32ページ下段
 <他には何もない。何も起こらない。>
 <すごいよ。すごかったよ。とんでもなかったよ>
 こういうふうに畳みかけていく表現法だ。
 高村薫が「文体のあるのが純文学。ないのが大衆文学」と言ったが、この作者の作品にはまさしく文体がある。文体――つまり文章の個性である。小説は所詮作り事だ。だが、作品が文体を持っていると、厚みが出る。存在感が立ち上がる。実体感が出てくるのだ。
 しかし、不満もある。特に仕掛けのない小説だとしたら、不必要にリアリティに背く箇所を作るべきではなかった。
1. 月満たずの帝王切開による出産である。特別な部屋で管理されるはずで、安易に看護婦が抱いて出ることは出来まい。
2. 生れた子の目はすぐには開かない。何日かかかる。開いてからもすぐには焦点が合わない。
 この二点が不自然なので、そこに何か特別な意味があるのかと疑ったのである。前回作には最後にどんでん返しともいうべき仕掛けがあったので、今回もそれを期待してしまったのだ。
 それがないとなると、この二箇所は作者の単なるミスということになる。
 あと、もう一点。作者は前回も今回も、「長男」で通している。ところが兄弟がいるようには見えない。一人息子である。一人息子で「長男」という言い方には違和感がある。なぜ「息子」では駄目なのか。「長男」という表現には、すでに次男三男がいる現在の地点に立って長男の幼かったころを書いているというイメージがかぶる。それならそれでそういう設定を示す必要がある。前作も今作もそういう設定にはなっていない。

鷲田清一「人は普通が普通である理由は知らないのに、それに従わぬ人は削除する」

 少し前の朝日「折々のことば」で村田沙耶香「コンビニ人間」にふれて鷲田清一が書いた文章である。
 なるほど、こう言えばよかったのだ、と腑に落ちた。この小説は「まがね」の例会で合評したが、ぼくが変に哲学を引っ張り出して論じたりしたので、あまり伝わらなかった。鷲田氏はそれをきわめて平易な言葉で表現した。ぼくの言いたかったことも結局そういうことだったのだ。
 発達障害の話だとか、もちろんそういう読み方もできるし、そういう書きかたをわざとしているのだが、それだけの読み方に終わったら、作者としては不満だっただろうと思うのだ。
 むしろ主人公の正当性こそが読みとられねばならない。ここには「異物」であることの正当性の主張があり、それを排除するものへの抗議がある。
 小説だから当然誇張する。誇張されたもののなかから何を読みとるか、読者も試されている。

「折々のことば」はいままで年上の人が書いていたが、ついに年下の人になった。この人の専門も聞いてもよくわからない。「身体」がどうだとか、たぶんそこから繋がるのだろうが、ファッションを扱ったりしている。いろんな研究分野があるものだ。

斎藤克己「きみの瞳のなかのぼく」(「民主文学」18年11月号)

 この作品を述べる前に、同じ作者の「銃を持つ思想」(17年3月号)に触れておきたい。
 作者名でこのブログを検索すれば、過去に書いた評が出てくるが、そのときには何点か欠点を指摘していた。今回読み直してみて、その指摘は全部取り消す。非の打ちどころがないように思える。少年時代の思い出も書きすぎているとは思わなかったし、タイトルもむしろぴったりしている。カラスの扱いもあれでよい(過去にその3点を難じていた)。
 なんと言っても文章がいい。清澄なと言おうか、静かに、静かに、澄みわたった文章である。澄み渡った文章で淡々と書いていって、最後に破たんがあるのだが、それは全否定と言ってもよいほどの破たんなのだが、しかも破調ではない。全体の調子を保ったままで内容的に破たんさせる。そういう作品である。
 そのへんが、芥川賞の「送り火」と違う。「送り火」のようにわざとらしくない。より心に響く。

 と、ここまでずいぶん前に書いて、忙しさで続きを書けなくなった。今回作について書くつもりだったのだが、日を経て、記憶があいまいになって、読み直す時間も今とれないので、一言だけ。
 前回作同様、澄んだ平静な文章である。最後にやはり何かそこまでと違うことが書かれるのだが、それが何を意味しているのか読みとれなかった。で、作品全体で何が描かれたのか、今回はまだ受け取れていない。
 半端な感想で申し訳ない。時間がとれればもう一度読む。

田本真啓「さくらが鳴いた」(「民主文学」18年11月号)

 どういうことだろう。
 18年度新人賞受賞「バードウォッチング」の田本真啓である。受賞作がたいへん面白かったので、期待して読んだ。
 ところが文章がいかにもぎこちない、とても同じ作者とは思えない。小学生の作文を読むようだ。
 主人公は、大工の父親に殴られて育ったせいで、すでに精神的欠陥を抱えており、高卒後建設会社に就職するが、22歳で辞めた。6年間無職で過して28歳で自殺する。
 視点を定めずに書いている。主人公の視点でもなく、父親の視点でもない。作者による客観描写かというと、またそれらしくもない。「さくら」と名付けた猫がときおり出てくるが、タイトルに使うほどは登場していない。いっそ、猫の視点で書けばよかったのにと思う。
 どこにも視点を置かずに書いた結果、描写らしい描写がどこにもなくなった。すべてが説明である。しかもその説明の主体さえ定まらない。作者が作者の立場から説明するのなら、作者という主体がそこに存在してなければならない。それも感じさせない。
 投げ出したい衝動を我慢して我慢して読んだ。最後まで来て、主人公が自殺したあとになって、やっと、小説らしい文体が現れた。父親が主人公になってからの3ページほどは読ませる文体になっている。

 どういうことなのだろう、と考えている。
 書けない作家ではないのだ。慣れた書きかたをやめて、違う書きかたに挑戦してみたのだろう。視点のない小説というものに。
 試みて失敗したのである。若い作家だから、そういう意欲的な実験は必要かもしれない。

「民主文学」18年12月号 その2

  山地八重子「藁葺屋根の保育園」
 この人もほとんど同じ年。堺に保育園を作る話だ。保育園がまともにない時代だった。保母と、子どもたちの父母とが協力して運動し、資金も集め、市当局と掛けあい、その協力も得、物件も探し出し、大学の教授を理事長に迎えて設立する。
 ぼくの子供たちも保育園で育ったが、どんな苦労があったのかぼくは全然知らない。まったく同じ時代だから、苦労はあったのだろうが、地域によって事情も違っただろう。
 団塊二世が一斉に生れた時であり、共働きの始まりであり、核家族の一般化したときでもあったから、保育園はやっと始まったばかりとも言えたのだろう。
 ぼくらは知らず知らず時代の変わり目を生きてきたようだ。この作品にも感慨深いものがあった。
 それにしてもあの時代の人は困難があればすぐに団結して解決に乗り出したようで、いまの人たちよりも積極的だったように思える。

  本村映一「娘はセッター」
 この作品には一言だけ。タイトルがふさわしくないという選評を読んだ。けれどもぼくはそうとも言えないと思う。最初のうち娘はただバレーボールでセッターをやっているというだけで、娘の話ではないし、まったく関係ないじゃないかという感じだが、ラストに来て、このタイトルが微妙に効いてくる。母親が離婚を決断するその決断をセットしたのがまさしく娘だからで、かなりはまっているように思える。
 弁護士に相談しても、「結局、あなたの決断次第です」という展開はそれが現実なのだろう。選ぶのは本人だ、本人が選ばねば弁護士には何もできない。ただ、そういう相談をできるというだけで物事は前に進んでいく。
 夫が相談に乗る相手が美人なのを見て妻が夫をからかう場面が面白かった。けっこうエンタメになっていた。
 タイトルも読者をひきつけた。

 あとの二作もそれぞれに面白かったのだが、とりあえずはここまで。

「民主文学」18年12月号

  南城八郎「いっぽ」
 12月号は、ぼくと同世代の5名の作品で、いずれも共感した。とりわけ、南城八郎氏は同い年だ。「まがね」の例会で、その作品「いっぽ」と、ぼくの「夜」とをならべて取り上げてくれたが、「いっぽ」の迫力に圧倒されて、ぼくの青春記のほうはずいぶんとのんきだな、と我ながら感じてしまった。
 南城作品の職場は66年のことで、ぼくが、自作中で二年以上前のこととして設定したその年代とあまり変わらない。だがその職場環境はすさまじく異なる。南城作品では寮が川崎、工場が東京で、送迎バスで30分、公共交通機関を利用すると乗り換えなどで一時間半かかる、寮が少し不便な場所にあるのだろうか。
 ぼくが書いたのはどことも地名を書いていないが、モデルとしたのは京都の工場である。
 だが、たぶん地域事情というよりも、組合のあるなしの違いだろうか。ぼくの書いた工場の組合はれっきとした御用組合だったが、当時の御用組合は、いまほど名実ともに御用なのではなかった。一応組合民主主義の建前は残していた。ちゃんと代議員選挙をやり、職場代表を選び、分会長を選んで、職場討議もやれば、組合大会もやる。公然たる共産党員も選ばれた。反対意見もしゃべらせてくれるし、執行部案を否決することもできる(じじつ、組合大会でぼく自身が引っ繰り返した)。活動しにくいポジションへの配転や、それとなしの説得はあったが、それ以上ではない。
 ところが南城氏の「いっぽ」では公然と暴力をふるわれる。そういうなかで、中卒の19歳の旋盤工がひとりたたかう。それも決して強い人間ではない。体格も劣り、性格も弱い人間である。その少年ともいうべき若者がすさまじい暴力のなかをたたかいぬく。
 なぜたたかえたのか、は必ずしも読み取れない。それがたしかに欠点なのだが、おそらく作者の体験をそのまま書いたと思われるので、そのことに強い印象を受ける。
 選評にもあったが、ともにたたかった4人の女性たちを描けなかったのは残念だった。人のことを振り返る余裕はなかったのだろう。

「社会主義リアリズム」再掲

「たんめん老人のたんたん日記」という、すごい読書量の方が書いているブログがある。その方が、本日のブログで「社会主義リアリズム」について書かれるなかで、ぼくのブログ記事「民主文学会」に触れられている。ミシェル・オクチュリエという人の「社会主義リアリズム」という本が、文庫クセジュで出たそうで、それを読まれた感想であって、ぼくの記事に直接言及されているわけではない。ただ、ぼくの「民主文学会」には「社会主義リアリズム」について述べた部分がなかったという指摘なので、過去に谷本論文に関して書いた記事を再掲する。いちばん上が一番古い記事なので、上から順番にお読みください。

谷本 論「『社会主義リアリズム』とは何だったのか」(「民主文学」16年5月号)16/04/19

 二点異論がある(あとで述べる)が、全体として、丹念に資料をたどった良心的な論述だと思う。知らないことばかりで教えられることが多かった。
 ぼくが共産党とその文学理論に接触したのは1965年だから、もちろん当のソ連はすでにフルシチョフによるスターリン批判が終わっていたが、日本の共産党はフルシチョフを裏切り者と見なして、まだスターリンを擁護していた。
 したがって聴こえてくる文学理論は「社会主義リアリズム」であった。それは即ちバルザックの「批判的リアリズム」を発展させたものであると解説されていた。そのなかでモーパッサンから日本の自然主義私小説へとつながるナチュラリズムはどう位置づけられるのかがよく分からなかった。
 わからないなりにほとんど関心を失って、50年が過ぎた。ただ、リアリズムとロマンチシズムについては常に考えてはいた。文学史用語としての「社会主義リアリズム」への関心を失っていたのだ。
 今回たいへん腑に落ちた。谷本氏は次のように述べている。
 <ソ連の作家・芸術家を、専制体制の奉仕者とするために考案された似非リアリズム――これが社会主義リアリズムの正体だというのが、私が得た結論である>
 さらに、望月哲男氏の2003年の論文から引いて次のように記す。
 <社会主義リアリズムには、当初から、“目的に合致すれば、形式、様式、ジャンルは問わない”という「融通性」「無節操」が内包されていた>
 いずれも思い当るところが多く、的を射た結論だと思う。

 そのあと谷本氏は、では日本における社会主義リアリズムは、それと同じものなのか、そうではないのかと問いかける。結論としては以下のように違ってくる。
 <ここで二人(宮本夫妻)が語っているのは、科学的な未来展望を土台とした文学の創造であり、文芸弾圧を狙ったソ連の理論とは動機も内容もまったく違うものである>
 これも一応はうなずける指摘である。権力の側が、弾圧のために作り出した理論を、当時の日本左翼の貧弱な情報のために、そうとは知らずに輸入したのは迂闊ではあったが、それは無条件でソ連から日本へ移されたわけではなく、日本の側では日本の側での文学理論の模索の一過程としてあった。
 谷本氏は宮本百合子の言葉を引用する。
<わたしにおいて社会主義リアリズムは、作品を作る方法として、作品のそとに存在するものではなかった>
 <わたしにとって、「それによって創作する」という方法(では)なかった>
 つまり百合子は自作の制作に当たっていかなる外なる規範を頭に置いたわけではない。ただ自分の書きたいように書いただけである。だが結果として、社会主義リアリズムというものに少し近づいたかなと感じているということなのだ。
 その上に日本で社会主義リアリズムを提唱する人たちが権力を持っていたわけではなく、権力に抵抗する側だったわけだから、ソ連のそれとは本質的に違うものだとも言えただろう。

 そこまではぼくも理解し、谷本氏に同意する。しかしそこに微妙な異議がある。これが二点の異論のうちのひとつである。
 どのような形でにせよ、文学にひとつの評価基準のようなものを求めようとする行為は、文学をせまくする恐れが常にある。文学が評論家の想定内に収まるとしたらそれは文学ではない。文学とは常に評論家の想定を打ち破るものでなければならないはずだ。評論家の作る基準に収まるような文学は文学ではないのだ。
 作家たちをさまざまな流派に分類することはできるだろう。またひとつの方向を目指した運動なり、団体なりを作ることもできるだろう。しかし、それは要するにただそれだけのことであって、文学に何か客観的な基準を求めようとすれば失敗を運命づけられるだろう。
 それはまた、仮にそのような文学イデオロギーが政治権力と結びついたとしたら、ソ連と同じ失敗を繰り返すことになる。そういうことも充分に意識されておかねばならない。

 二点目の異論のためには、ページを少しさかのぼる。これは文学とはまったく関係のないことでの異論である。
 119ページ上段の最後の段落。
 <狂気のテロルが吹き荒れるなか、ソ連社会はスターリン一人を絶対者とする専制体制に改造されていく。これは、共産主義運動のなかで起こった理論上の誤りなどではない。謀略と大量殺人による、国家と社会の乗っ取りである>
 ぼくが50年間問い続けてきた問題である。このブログ上で何度も書いてきたテーマだ。
 なぜ共産党の組織はスターリン一人で引っ繰り返されてしまうほど虚弱なのか。
 この虚弱さを生む共産党の組織の欠陥とは何なのか。それは現在の日本共産党ではすでに克服されたとはたして断言できるのか。
 何度も詳述してきたから繰返さない。関心のある人は「政治」のカテゴリーを引いてくだされば、ぼくの考えが詳しく出てきます。

 以上、谷本氏の論述に敬意を表しつつ、若干感じた疑問を記した。

ふたたび「社会主義リアリズム」について16/05/04

「民主文学」5月号に載った谷本論氏の「『社会主義リアリズム』とは何だったのか」の結論部分だけを記して賛意を表明したぼくのブログ記事に、Aさんがコメントで異論を述べられた。
 ぼくが結論しか書かなかったのが間違いだったのだろう。どんな論考にせよ、意味のあるのは論の筋道であって結論ではない。「民主文学」は誰の眼にもふれる雑誌ではないから、よけいに結論だけでは何もわからない。
 釈明文を書こうとしてなかなか書けないでいる。「民主文学」5月号を読んでもらいさえすればすぐ解決することなのだが、それを要約しようとすると、書かれていることがあまりぼくの知識のないことなので、簡単ではない。その上、いろいろとほかの用事があって、まとまった時間をとれなかった。
 谷本論考からぼくが引用した結論というのは次の二つである。
 Ⅰ<ソ連の作家・芸術家を、専制体制の奉仕者とするために考案された似非リアリズムーーこれが社会主義リアリズムの正体だというのが、私が得た結論である>
 Ⅱ<社会主義リアリズムには、当初から、“目的に合致すれば、形式、様式、ジャンルは問わない”という「融通性」「無節操」が内包されていた>
 Ⅱのほうは、谷本氏自身の言葉ではなく、望月哲男氏からの引用である。あとで述べるが、これは非常に皮肉っぽい逆説的な言い方をしているので、Ⅰと切り離して結論だけ聞かされれば確かに誤解を生じるだろう。
 谷本氏は論を進めるにあたって、ソ連における文芸理論の歴史を概述し、「唯物弁証法的創作方法」から「社会主義リアリズム」への転換の経過、作家同盟の解散から翼賛体制の確立、ゴーリキー、ショーロホフをスターリンがどう扱い、それに両者がどう応じたか、等々という歴史的経過を、さまざまな資料に基づいて検討を加えている。その結果谷本氏が到達した結論が、Ⅰの結論なのだ。
 これは論自体がすでに要約なので、これ以上要約しようがなく、ここに書くとしたら谷本文をそのままコピーすることになるので、やはり「民主文学」5月号を読んでいただくしかなさそうである。

 Ⅱについて、ぼく自身の考えとして述べさせてもらう。
 <社会主義リアリズムには、当初から、“目的に合致すれば、形式、様式、ジャンルは問わない”という「融通性」「無節操」が内包されていた>
 望月氏の文章を直接読んだわけではないが、この文章からだけでも実に皮肉っぽい逆説的な表現であることが読みとれる。望月氏が言っているのは、文学方法上の融通性、無節操が悪いということではないのである。むしろ融通性、無節操はかまわないのだが、そのようなものに社会主義リアリズムという名前が与えられていることを皮肉っているのだ。何故ならリアリズムとは文学方法であるのに社会主義リアリズムなるものが方法とは無関係に名付けられ、方法がリアリズムであろうがなかろうが許され、しかも方法とはまったく無縁の場所で融通性、無節操を批判され、なおかつそれが方法上の問題であるとして語られるからである。
 A氏が疑問を呈されているのは、「別にそれでかまわないではないか。目的に合致すれば方法はどうでもよいだろう。いったいこれのどこがまずいのか」ということなのだろう。
 そのとおりなのである。A氏は少しもおかしくない。だが、ここで望月氏が述べ、谷本氏が引用しているのは、それとは全然別のことなのである。
(繰り返すが)文学の方法なんてどうでもよい、当たり前のことである。だが、スターリンは「社会主義リアリズム」を文学の方法として主張したのであって、目的として主張したのではない。ここにはスターリン独特の、というか「マルクス主義者」にかなり共通の、言葉のマジックがある。
 リアリズムはそもそも方法論である。古典文学、あるいはロマン文学に対して、夢物語もいいが、そろそろ人間や社会の現実を書かねばならないじゃないか、として起こってきたのがリアリズム(写実)文学だろう。だが単に現実を書くだけではだめだ、展望が要る、というところまでは、まだ方法論として容認できる。ところがその展望とは社会主義への展望だ、というあたりからそろそろおかしくなってくる。方法の衣のなかに巧妙に目的が紛れ込みはじめる。その行き着く果ては、ソビエトを賛美するのがリアリズムであり、これを批判すればリアリズムではないという翼賛文学論になってしまう。ここまで来るとそれはリアリズムとは正反対のものになる。
 そのことをして望月氏が「融通性」「無節操」が内包されていた、と皮肉をこめて言ったのは次の事情によるのだ。
 たとえば最もわかりやすい極端な例を挙げるならば、「革命的ロマンチシズム」などという言葉が生まれてくる。そもそもロマン主義は写実主義とは反対のものである。だからロマン主義が必要なのだったら、そう言えばよいのだ。リアリズムだけではだめだと言えばよいのだ。だが、そうは言わない。革命的ロマンチシズムは社会主義リアリズムだというのである。本来方法を意味し、しかもあくまでも方法の問題なのだと主張するもののなかに、方法ではないものを紛れ込ませる。
 文学がさまざまな方法をとるのはあたりまえのことである。望月氏も谷本氏もそれを否定しているのではない。むしろ否定しているのはスターリンなのだ。彼は社会主義リアリズムという方法しかありえないと言っているのである。しかもその社会主義リアリズムの内実は方法ではなく、スターリンへの賛否なのである。でありながら、それをあたかも文学方法の問題であるかのごとく偽装している。
「目的のために方法を問う必要はないだろう? スターリンが間違った目的を掲げたという方が問題だったのだろう?」と疑問を呈するA氏の気持ちはわかる。
 しかし(何度も繰り返すが)、ここで望月、谷本両氏が問題にしているのはそのことではないのである。文学方法をどうするかという問題ではなく、スターリンが方法ではないものに方法の名前を与え、それが方法の問題であるかのように思わせようとしたということについての問題なのだ。
 ややこしいことを言っているようだが、ぼくのとらえ方は望月、谷本両氏からそう隔たってはいないだろうと思う。もっとも谷本氏本人はリアリズムの擁護者として発言している。リアリズムの擁護者として、社会主義リアリズムはリアリズムではなかったと言っている。
 社会主義リアリズムとまったく無縁だった人には、さっぱり分からない議論でもあれば、またいっそ、どうでもよい議論でさえあるだろう。ぼくも民主主義文学にはずっとつかず離れずという関係だったし、特にその文学理論とはかなり距離を置いてきたので、すっかりわかるわけではないが、「批評の基準」論争などの中で耳にしてきたことから、民主主義文学運動というものが文学団体でありながらかなり言葉の使い方が雑で曖昧であること、リアリズムという言葉をずいぶん得手勝手に使いがちであるという感じは受けてきた。そういう流れの中では非常に腑に落ちる論考だったのである。

 ここでリアリズムについてのぼくの考えを述べる。ぼくはこの問題ではチエホフの「かもめ」の中での、あのキザな中年作家のセリフ「芝居は現実ではない、だが夢でもない、夢と現実の境目にあるのが芝居だ」という、あの立場に立っている。
 ぼくの書く社会状況はできるだけ現実を写そうとしている。だが人物は現実ではない。もちろん現実から離れすぎないようにはする。だがここという場所で人物は現実を飛び越える。その行為は現実ではないが、その精神は現実なのだ。ぼくの作中人物がとる行為は、人々が(とりわけぼく自身が)こうしたいのにできないという行為なのだ。ぼくは自分にできないことを作中人物にやらせるのである。
 これはもちろんぼくにとっての小説がそういうものだというだけのことで、ほかの人にはほかの方法がある。それぞれ表現したいものは違うのだから。
 ロマン主義とリアリズムとは対立しつつも車の両輪である。小説にはどちらも必要だ。問題は相対的なのだ。ロマン主義に社会がおぼれてしまえばリアリズムを主張する必要がある。リアリズムの世界で低迷してしまえばロマンを描いて見せねばならない。そういう波を描いていくのが文学史の現実だろう。いつでも正しい文学理論などというものはない。

 A氏の指摘に戻ると、氏とぼくとは概ね近い位置に立っているとぼくは感じる。ただその位置へと入ってきた角度が違っているので、見る景色に違いがあり、語る言葉の意味が違ってくる。おそらくそういうことなのだろうと思う。

みたび「社会主義リアリズム」16/05/09

「社会主義リアリズム」に興味を持つ人などもういないだろうし、そんな言葉を聞いたことのある人すら、すでにほとんどいないだろう。もはや死語なのだ。ぼくにしてもたいして関心を持ったわけではなかった。
 ただ民主文学という団体の近くで読み書きしていれば、若いころ具体的な歴史的経過も知らずに耳にした「批判的リアリズムから社会主義リアリズムへ」という言葉がたまに頭をよぎったりした。民主文学にときおり現れる批評の基準などというものとの関連においてだ。
 今回5月号の谷本論考が民主文学を代表する見解というわけではなかろうが、ともかくそれが民主文学誌に載ったという事実はぼくの気持ちをすっきりさせるものだった。それはある意味「社会主義リアリズム」に引導を渡すものと思えた。
 もっとも谷本氏は自分が批判したのはソビエトにおけるそれであって、かつての日本で唱道された「社会主義リアリズム」はそれとは別のものであったと言っている。その論旨は半分は納得する。だが疑問も残る。
 ぼくは共産主義者として小説にかかわりながらプロレタリア文学にまったく関心を持たずにきたので、それに関する文学理論の歴史にも全然知識がない。そこで今回この機会に少し資料を当たっていて次のものにぶつかった。
 桑尾光太郎「森山啓の社会主義リアリズム論――プロレタリア文学運動と人民戦線に関する一考察――」
 桑尾氏は学習院の若い教師である。どういう人かはまったく知らない。森山啓という名前も初めて目にした。桑尾氏によると、蔵原惟人らが逮捕された後のプロレタリア文学評論の中心人物だったそうだ。蔵原惟人もぼくにとってはその戦後の文章を昔少し読んで、くだらないことを言う人物だなと思った以外にまったく知識がない。
 だが、いま年表を繰ると蔵原はじめ1930年ころに活躍した共産主義、プロレタリア文学関係の人物たちはみな20代からやっと30になったかならないかという年齢である。そう思うとやはりそれなりの敬意を払うべきだとも思えてくる。
 それはそれとして、桑尾氏がここで試みようとしたのは、30年代のヨーロッパにおいて、人民戦線が具体的な大きな社会現象となったのに、日本ではそうならないまま天皇制ファシズムに簡単に呑みこまれてしまった、その原因を探る一環として森山啓の社会主義リアリズム論について検討を加えたということらしい。桑尾氏自身が最後に述べているように、論はまだそこまで行っていない。森山啓の位置づけというあたりで終わっている。だが、参考になるところがある。
 若い論者なのでジャストタイムで30年代を経験しているわけではない。そこで学者らしい仕事ぶりで様々な資料を引張り出してくる。そのなかに参照に価するものがある。
 短い論考に註が64件、本文が12ページのところに註が4ページも付いている。引用した書名とそのページ№のほかにその文章の初出(すべて33,4,5年ころ)を記している。資料としての信用度は高いと思われる。以下の三つを読み比べてみていただきたい。なお〔 〕は伏字を起こした部分である。

 Ⅰ
 プロレタリア〔独裁〕の数年間、ソヴエト芸術文学およびソヴエト文学批評は労働者階級と共に歩みつゝその新らしい創造的原則を創り上げた。結果の中に含まれたるこれらの創造的原則は、――一方では過去の文学遺産の批判的摂取、他方では社会主義的リアリズムの原則の中にその主要なる表現を見出したのである。
 ソヴエト芸術文学批評の基本的方法たる社会主義的リアリズムは、現実をその〔革命的〕発展のうちに、正確に歴史的・具体的に形象化することを芸術家に要求してゐる。この際、芸術的形象化の正確性並びに歴史的具体性は、勤労大衆を社会主義の精神において思想的に改造し、教育するといふ任務と結合しなければならぬ。 
 社会主義的リアリズムは、芸術創造に対して、創造的イニシアチーブの顕現、並びに多様なる形式、スタイルおよびジャンルの選択の特殊な可能性を保証してゐる。

 Ⅱ
「社会主義リアリズム」は日本の作家の間に漫然と使用されてゐるやうな、超段階的なスローガンではないらしい。(中略)日本のプロレタリヤ作家がこの「社会主義」の意味を、理想としての社会主義の如くに解して漫然とこのスローガンを自己のスローガンとなし得るかのやうに考へてゐた誤謬は、直ちに訂正されなばなるまい。と同時に、我々の現実の再検討によって、我々は、究極に……リアリズムを望見し得る、一つのスローガンをかゝげなければならない急務にさらされたわけだ。

 Ⅲ
 意味ふかい社会主義的リアリズムの提議が漫然と超段階的なスローガンであるかのやうに作家の間に使用されるやうな影響の仕方で、日本に紹介されたのであったらうか。

 Ⅰは1934年の第一回ソビエト作家同盟大会で発表された文書、Ⅱはそれを読んだ平林たい子が35年に「文学評論」一月号に書いた感想、Ⅲはさらに平林を読んだ中条百合子が同誌二月号に書いた感想である。
「超段階的」という言葉の意味を桑尾氏は解説していないが、当然これは「超階級的」を検閲を逃れるために言い換えたものだろう。
 もちろん当時の社会状況の下では、すべてに違う解釈を与えることもできよう。だが、仮に、いまの我々の眼から見るとするならば、Ⅰは、ソビエトにおける「社会主義リアリズム」というものが翼賛イデオロギー以外の何ものでもないことを実に正直に白状した文書であり、平林たい子がそれを鋭く批判したのに対して、宮本百合子にはそれが理解できていないことが明白であろう。
 ぼくが気になるのはそういうところなのだ。すべて悪いのはソビエトであって、日本にはそれと類似のものは存在しないと胸を張って言えるだろうか。
 かつて四月号問題とペアになる形で展開された批評の基準論争という実に程度の低い論争には、はたしてどう決着がつけられたのだろうか。
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