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「民主文学読者」さんへ

 コメントをたくさんありがとう。賛否を問わず、反響があると、書いた甲斐があります。「民主文学」が、一部の評者からだけでなく、より広範な読者によって、活発に論じられる雑誌であってほしい。そういう場があまりないように思います。

「民主文学」20年8月号

 田島 一「閉ざされた日から」についてはすでに書いた。あとの3作について書く。どれもそれぞれに印象的な3作だったのだが、少しくたびれているので、なるべく簡単に済ませたい。

高橋英男「もう一つの顔」
 小さな診療所の65歳の女医の話。すぐれた医者で、地域に密着した親切な医療を心がけ、患者たちの信頼を勝ち得、とりわけ若いお母さんたちが子供を連れてくる。小児科的な存在となっている。
 小児科というのは一番たいへんな科で、医者たちが受け持ちたがらない科である。子どもの病態というのはわからないことが多く、油断できない。神経を使う。
 で、そのストレスで、医者はすでに自らの精神を病み始めている。そのしわ寄せが看護婦たちに行く。看護婦たちにやたら当たり散らす。事務局長は35歳だが、何とかまるく収めようとこれも神経をすり減らし、たちまち若白髪の若はげになってしまった。最後に、そもそも、まるく収めようとしたことが間違っていた、覚悟を決めて自分の母親のような年齢の医者と正面からぶつかろうと、開き直るところで終わる。
 現実というものの複雑さ、正解のない人生、そのなかでの決断、といった人生の実相を描き出している。
 携帯電話はあるが、スマホはないことで、ほぼ年代を推定できるが、診療所のなかだけに終わらずに、それを取り巻く時代のにおいが少し感じとれればもっとよかった。

岩崎明日香「プリザーブドフラワー」
 自伝的作品だが、感動させる。長崎の貧しい6人兄弟の家庭から、塾の類とはいっさい無縁で東大入学を果たした作家本人の涙ぐましい貧乏物語。
 10歳で源氏物語をこよなく愛し、ただ学びたいという情熱だけで、私立に行く金がないから一生懸命勉強して国立を目指した。姉はその犠牲になって中卒で働いている。だからだけではないが、そういう境遇ゆえに、ただ学びたいだけということでは自分を納得させられない。それで、学歴を付けて文部官僚になって末は文部大臣となって日本の学校制度を作り直すのだ、と自分自身に言い聞かせている。ところがアルバイトの面接に失敗し、自分は要領よく世の中を渡っていくなんか到底できる人間じゃないと悟る。
 学びたいという本来の気持ちに立ち返り、官僚への道のために意図して遠ざけていた民青に対して心を開いていく。
 素朴な小説だが、ぼくも涙もろいたちなので、こういう話は泣かせる。源氏物語ファンであるところが気に入った。

杉尾周美「鉄線橋」
 驚くべき作品。作者はどういう方なのだろうか。宮崎県の人とだけしかわからない。
 日本統治時代の台湾で起こった現地人の反乱事件。1930年である。主人公はそのとき犠牲になる日本人警部の妻で、現地人の、一集団の族長的な立場にある人物の娘である。日本人と現地人との融和策という名目で、じつは現地人が反乱できなくするための人質作戦でもあれば、単身赴任の警察官に用意された現地妻でもあるという。
 そこには三種類の人々が住んでいる。いずれも日本の側から付けた勝手な呼び名だ。内地人、これは日本人を指す。本島人、これは大陸からの移住者。蕃人、これが現地人に与えられた名である。蕃人もその内情はさまざまで、やむなく日本人と妥協の道を探る者、あくまで反発する者とあり、本島人は蕃人よりは好待遇にあるが、基本的には支配される存在である。
 参考資料が二つ置かれてあり、どこまでが資料によるのか、どこからが創作なのか、はっきりしないのだが、出来上がったものは小説としてのしっかりした世界を描き出している。人々の心理の機微にまで踏み込んできめ細かい作品になっている。
 作品の出来栄えにも感心するが、意外だったのは、台湾の実情を初めて目にしたからだ。
 朝鮮と比べて、日本の台湾統治は比較的うまくいったと聞かされてきた。日本の敗北後、蒋介石と国民党が移ってきて弾圧したこともあって、日本に対する反感はさほどではないのだと。
 しかし、敗北後は置くとしても、統治時代はやはり歓迎されていたわけではなかった。そこでもやはり血は流された。われわれはそんなことを何も知らなかった。

中村文則

「カード師」にペストが現れたのがいつ頃だったかと思って自ブログを検索したら、3月だったから、コロナを頭に置きつつ書いたのだろう。それをいつ発想したのかはわからないが。
 中村文則名の検索には、4年前の朝日オピニオン欄での中村の文章への共感が出てきた。そのとき中村が何を書いていたのか、もはやまったく思い出せないが、1990年代後半以後の日本人の変質についてと書いている。中村はまだ40そこそこだから、10代からの日本を語っていたわけだ。ユリゲラーとスプーン曲げは彼の少年時代にとっての現在、神戸とオウムは高校に入ったころだろうか。多感な年ごろにそういうものを経験したということは、それらへのぼくらの経験の仕方とは随分違ってくるだろう。

中村文則「カード師」

 朝日新聞は日刊で中村文則「カード師」、土曜版で桜庭一樹「火の鳥」をすでに1年近く連載している。「火の鳥」は辛抱強く読んでいたが、かなり前にとうとう投げ出した。絵のない漫画はやはり読めない。漫画には絵が必要だ。漫画は文章で読ませるものではない。
「カード師」は欠かさず読んできた。欠かさず読んでも、記憶力が相当減退しているので、全体像は頭に残らない。もともとあまり脈絡のない小説だ。トランプ賭博や、タロット占い、主人公の児童院育ち、秘密組織と、何やら犯罪めいた動きが点々と描かれた後、中世ヨーロッパの魔女狩りとペストがしばらく続き、そのあとまた賭博場に戻り、破産かどうかの緊迫した場面で、日々、読者を引っ張り、佐藤とか山本とかのいかにもありふれた名前の人物たち(誰が誰かもう区別できない)の遺書とかで、ユリゲラーとスプーン曲げ、神戸の震災、オウム事件、UFOと来て、ついに昨日、コロナで佐藤が死んだ。書き始めたのが一年近く前で、ペストを書いていたころが、コロナの初めの頃だっただろうか。こうなるとコロナまで来るのが必然と思っていたら、とうとう来た。
 どこへ転がっていくのかまったく分からない小説、でも、読者をひきつける。一日の文章量は、原稿用紙2枚と少ししかない。それで読者を退屈させないというのは驚きだ。

田島 一「閉ざされた日から」(「民主文学」20年8月号)

 本とパソコンを前にして、うなっている。どこから書き始めるべきか。
 ともかくぼくは日本文学をほとんど読んでいない。だから、(この小説とは関係ないが)「日本文学の伝統がどうこう」などと言われると困ってしまう。そんなもの、ぼくにはないのだ。
 ぼくは古典もまったく読めていないが、源氏物語のあらすじくらいは知っているし、それが世界最初の小説と言ってもよいほどのものだということもわかる。しかし、それは結局その一冊だけで終わった。伝統にはならなかった。物語はその後も書かれたが、小説ではなかった。近松門左衛門はいくらか原文で読んだが、シェークスピアと同じ時代でありながら、(個人的見解だが)シェークスピアではあり得なかった。
 何を言いたいかというと、そんなに誇るべき「日本文学の伝統」があったとも思えない、ということ。
 近代小説は、ヨーロッパから始まった。日本では、日本の風土のなかで、ヨーロッパの小説に匹敵するものをいかにして作り出すかという悪戦苦闘から「日本文学の伝統」は始まった。ぼくはそれが夏目漱石だと思っている。漱石の小説はほとんどが失敗作だが、日本と西洋というしがらみのなかで苦しみぬいたあしあとが、ぼくに尊敬の気持ちを起こさせる。
 で、何が言いたいか、いよいよ意味不明になってきたが、つまるところ、「日本文学の伝統」の典型と言うしかないこの小説について何を語るべきかという問題なのだ。
 なぜ、すべてをわざわざ仮名にして、よそごとのように装って語らねばならないのか。しかもそれが現実のあれこれであることを読者がわかって読んでくれることを前提として書いている。なぜ、そういう書き方をせねばならないのか、それがぼくにはさっぱり理解できないのだ。
 まったくのフィクションとして読んでほしいとは絶対に思っていない。現実として読んでほしいと思っている。それなのに、現実ではないかのように装っている。なぜ装わねばならないのか。その理由がぼくにはわからない。
 で、結局、それはぼくが日本文学を読めていないから、「日本文学の伝統」を知らないから、だから、日本文学を理解できないのだ、ぼくの勉強不足のせいなのだ、と思うしかないことになる。
 ぼくの見解では、これは、どこからどこまでもエッセーである。もちろんぼくはエッセーが小説より下だとは思っていない。エッセーはれっきとした文学ジャンルのひとつであり、小説と同格である。しかも、「日本文学の伝統」と呼ばれるものがエッセーの伝統なのだとしたら、それは評価してよい。たしかに日本文学の古典にはすぐれたエッセーの伝統があった。けれども、エッセーにはエッセーとしての評価の仕方がある。すぐれたエッセーであるためには、この作品はいささか雑駁な形式となっていないか。
 もちろん、これは個人的疑問だ。いずれは日本文学を読まねばならないという気持ちだけは、ぼくにもある。日本文学というものを知らなければ、批判もできないだろう。でも、残念ながら、もうその時間は許されていない気がするけれど。

中村泰行「ル・クレジオ」 渥美二郎「ジョゼ・サラマーゴ」          (「民主文学」20年8月号)

 昨日の乙部宗徳の「ペスト」と3つ並べて「パンデミック小説特集」である。
 ル・クレジオの名前を久しぶりに目にした。乙部氏が高校時代に読んだというヌーボーロマンの代表的な作家、ぼくも2冊買ったと思うのだが、結局1冊目の途中で挫折した。挫折なのかな、面白いと思って読んでいたのだが、忙しくなって中断したきり、そのままになって50年経った。本棚に残っているかどうか探してみなければわからない。
 今回中村氏が取り上げた「隔離の島」はぜんぜん知らない小説だ。先日から問題になっているマダガスカルの隣り、モーリシャスとその近辺の小島プラトが舞台である。マダガスカルはフランス領だが、モーリシャスはイギリス領で、ここにインド人を連れてきて、奴隷的労働に従事させ、サトウキビプランテーションを経営していた。ところが、あるときのインド人輸送途上に船内でコレラが発生し、全員をプラト島に隔離する。事実上放棄である。800人が5ヶ月間放置され、生き残ったのは数十人であった。
 という歴史的事実を下敷きにしたフィクションで、かなり入り組んだストーリーのようだ。ヌーボーロマンの旗手がその後どういう描き方をするようになったのかという興味がわくが、評者はもっぱらその複雑なストーリーを紹介していく。
 どうなのかな、ぼくも長たらしい「異邦人論」を書いたが、未読の読者に紹介するには、むしろ乙部氏のように、短く要点だけ書いたほうがいいのかもしれない。長く書くのは紹介というよりも研究という感じになる。それは読者対象を絞ることになるかもしれない。

 渥美二郎のジョゼ・サラマーゴ「白の闇」。はじめて聞く作家だ。ポルトガルの共産党員で、1995年にポルトガル最初のノーベル文学賞受賞者になったそうだ。
 真っ白い世界しか目に入らない、それ以外何も見えないという伝染病に侵されて隔離された人々の物語。まったくの空想小説らしい。つらい内容で、読みにくい小説で、1ヶ月かかって読んだということで、評者はむしろ、いつものジローワールドを展開しながら、並行して作品紹介をするという感じで、面白く読ませる。
 最後にカミュの「ペスト」から引用する。「絶望より怖いことは、絶望に慣れてしまうこと」 新潮文庫「ペスト」2020年版268ページ「絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪いのである」(宮崎嶺雄訳)
 ところが、その少し前にミスが出た。「ダーウィンは、生き残る種は、変化する種だと言う」と書いている。時間差で、原稿を修正できなかったのだろう。自民党が憲法改正の根拠として挙げたばかりのフレーズで、ダーウィンの間違った引用として有名なのに、こんなことも知らない無学な自民党という批判を浴びせられた。しかし、一歩引いて自らを省みれば、間違いとわかっていても、うっかり口にしてしまいそうなフレーズではある。わかりやすいからだ。
 じっさいには、遺伝子が変化するのは、コピーミスで、ありふれたことである。ほとんどのミスが、環境に適応できずに消滅する。たまたま適応できたものが、新種として生き残る。適応の仕方はさまざまで、環境もさまざまだから、そこでさまざまな種が誕生した、というのが「種の起源」なのである。変化すればいいわけじゃない。変化したものの大部分は消えてしまう。これはつまり、生物が持っている保守と革新の微妙なバランスなのだ。遺伝子は正しくコピーされる必要がある。いままで生き残ってきた遺伝情報が詰まっているわけだから。でも、どうしてもコピー間違いは生じる。コピー間違いは多数生じるが、そのなかのごくわずかが、たまたま傷の功名で、新種を生むということなのだ。意図して間違うわけじゃない。たくさんのミスのなかのたまたまひとつなのだ。
 それにその結果は多様性なのであって、どれかひとつの優れたものが生き残るということではないのである。ダーウィンが明らかにしたのは、生物がたったひとつの種から生まれながら、こんなにもたくさんの種に分かれた理由なのであり、それは神が意図して作ったのではないということの科学的証明なのだ。
 自然界の原理を社会に適用することには危なさがある、ということは記憶しておく必要があろう。

 今月号で、もうひとつ、ついでにここに書いておく。
 宮本阿伎が、池戸豊次の「水のまち」を紹介している。これも短く要領のよい紹介で、読んでみたいという気を起させる上手な紹介だ。翻って、じつはもうすぐできあがる「まがね」62号に、ぼくもこの本の書評を書いた。ところがそれは延々5ページにもわたる長いもので、考えてみれば、紹介としては長すぎるのだ。ぼくの書く書評はいつもそんな感じで、紹介記事になっていない。宮本さんの書評を読んでつくづくそう思った。
 しかし、これがぼくのスタイルである。紹介なのか、研究なのか、その境目で書いているという感じ。やむをえない。

乙部宗徳「カミュ『ペスト』再読」(「民主文学」20年8月号)

 きょう届いた「民主文学」8月号で、乙部宗徳が「ペスト」を中心に、カミュと「ペスト」の全体像を、見事に要約している。ごく短い文章だが、的確である。
 著者は高校時代にサルトル、カミュ、ヌーボーロマンを読み、サルトル―カミュ論争も把握、カミュの私生活と、フランスのレジスタンスについても押さえたうえで論じており、短くても目配りが利き、要所をとらえている。一読を薦める。
 ぼくのほうはと言えば、いまやっと「サルトル―カミュ論争」を読んでいるところである。しかも、「反抗的人間」が手元にないので、フランシス・ジャンソンから読み始め、いまカミュによる反撃に入ったところだ。かなり面白い。カミュが自分の作品をどう考えていたかというところまで率直に出てくるので、興味深い。
 ぼく自身の「異邦人」論の続編については、ある程度書いたところで、最後の章を預かりにしている。8月末が締め切りだから、少しカミュ論を読んでみるつもりだ。

たなかもとじ「乳房」(「民主文学」20年7月号)

 いい話なのだが、少し詰め込みすぎていないか。つぎつぎと話が動いていくので、読者は駆け足でついていくような感じにさせられる。もう少し余裕を持たせて、ひとつひとつのシーンをじっくりと味わわせてもらうわけにいかないか。
 小説は文学であり、文学は芸術であるとするなら、絵画や音楽と同じように、味わわせるべきものだろう。急ぎ足では味わえない。たくさんのことを書きすぎた。
 なぜそうなったかと言うと、ほんとうのことを書いたからだ。フィクションをつくるとき失敗するのは書き足りていないことによってだが、ほんとうのことを書くとき失敗するのは、書きすぎることによってだ。たくさんの記憶があるので、つまり材料を豊富に持っているので、あれも書きたい、これも書きたいとなって抑制が効かなくなる。逆にフィクションを零から作り上げるときには、手持ちの材料がないわけだから、読者を十分満足させるだけ書きこむことができなくて失敗する。
 ほんとうは手持ちの材料で書くほうが、実感のある優れた作品が書けるはずだ。欲張りすぎなければである。この枚数で書けるのはどのくらいの範囲であろうかという計算をあらかじめするべきだろう。
 内容的には面白いのだ。裕福な家の長男坊が失敗する話、おかげでその家の三世代目は苦労することになる。誰に焦点をあてて書くか、まずその選択から始まる。この場合、主人公はその三世代目の、苦労させられている小学生だから、多少メルヘンチックに、児童文学ふうになる。そこで話は入り組んでしまった。たしかにどれも関連しているので、どれを消すかと言っても難しい。難しいが、やはり選ばねばならない。焦点を定めねばならない。テーマを絞る必要がある。絞ったその焦点へと無理なくなだれ込んでいけるような構成が必要になる。構成上の工夫がない。ただ書き並べてあるだけだ。強弱のリズムがない。つまりは焦点が定まっていないのだ。
 短編小説は長編小説とは基本的に異なるものである。別種のジャンルだと考えたほうがよい。

井辺一平「闇の刻」(「民主文学」20年7月号)

 驚いた。「民主文学」侮るべからず。
 多少、おかしな言葉遣いもあるが、全体(かなり長い)が、そのまま一編の詩である。詩情が漂っている。読み始めたらやめられない。心に沁みこんでくるものがある。
 描かれたものは老夫婦の悲惨ともいうべき現実なのだが、そこに豊かな抒情が流れていて、驚かされる。
 深夜2時、認知症の上に足を骨折した妻は、ベッドに横たわっている。同じ80代の夫は、その横に布団を敷いて付き添っている。眠られぬままに枕もとのスタンドを灯し、ラジオをつける。ラジオは古い音楽を流している。そこからやがて、犬が吠え、牛乳屋の自転車の音が聞こえ、郵便受けに新聞が落ちる音がするまでの数時間が、小説上の時間である。その間に妻の小用の世話をし、妻も「いい……曲ね」と反応し、のどが渇いたという妻に水を飲ませ、ふと自分を凝視する妻に、妻は誰を見つめているのだろうと疑念を生じさせたりして、ラジオの曲はつぎつぎと変わっていき、妻は寝息を立てる。
 その数時間の寝室での様子は、じつはほんのわずかしか書いていないのだが、しかしさほど長いわけではない作品を24の節に区切ったその節ごとに寝室での描写に戻って来るので、読者もまたずっと寝室にとどまることになる。そしてその寝室で繰り広げられるのは、老夫婦の長い過去の話である。
 それは決して一本調子では語られない。寝室の雰囲気に溶け込むようにして、とぎれとぎれに、行きつ戻りつして、不明の部分を多く残しながら、そのあいまいな輪郭だけが、夫の心に映じた影のようにして、夫の心に残ったものだけが語られていく。それは主観を通した物語なのだ。
 直人(夫)は、高卒で就職したが、絵描きになりたいという夢を抱き続けていた。絵の会に通うなかで、妻と巡り合った。妻となる女は家具商社に勤めていた。直人は、やがて店舗のデザイン業者として独立、女の勤める会社の店の改装を皮切りに軌道にのせ、二人は結婚した。仕事は大成功し、住まいも下町から中心街に移し、娘も独立した。ところがそこから運命は逆転していく。バブルの崩壊とともに還暦を迎えた直人の仕事量は減り、娘は失業してうつ病となり、妻は家を出て、娘と同居を始めた。立ち直った娘はむかし妻が働いていた会社に就職する。そのむかし妻と噂のあった直人と同年配の専務は、いまは会長だ。会長と娘が楽しげに語らいながら歩く姿を目撃した直人は、二人が似ていることに気付き、疑念を膨らませていく。やがて娘はアメリカへ赴任し、妻はそれについていく。二人の音信は途絶えた。
 直人は胃がんの摘出手術をし、予後は順調で、絵に対する情熱を取り戻す。妻と娘のいる家庭の幸せのために犠牲にしてきた絵に対する情熱だったが、もはやすべてを失った。独りの気楽さも板につき、絵筆を友として充実した人生を生き始めたそのとき、役所が、妻を引き取ってくれと言ってきた。妻は一人日本に帰っており、かつて娘と暮らしていた都心にいた。娘とは連絡が取れない。
 直人は受け入れることができずに放置した。曲折の末に到達した、いまの生活を壊したくない。自ら去っていったものを、いまさら、受け入れることはできない。だが、娘にも会長にも見放されのか、それは定かではなく、直人の疑念なのだが、現実に、一人きりでいる妻を結局見捨てられない。かつての都下の店舗付き戸建ての住まいを売り払い、いまは、隣県で細々と暮らすマンションに妻を引き取った。だが、やがて妻は認知症が進み、徘徊し、そして骨折した。
 直人はもはや絵筆をとる余裕もなく、妻の世話で過ごす日々、その妻の心にいるのが誰なのかさえわからない。それでも、妻と過ごした日々の甘い記憶は直人の心に帰って来る。しかし、直人の心身の疲労も限界を迎えている。共倒れの日が近づいている。

 中心的主題は、老人の苦境なのだが、それを一般論としていない。固有の物語がここにはある。どんなテーマでも、一般論では人の心に響かない。小説は具体的なものを作り上げねばならない。けれどもその物語に引きずられ過ぎると現在が重要性を失ってしまう。この小説は、その微妙なバランスを保つことで独特の世界を築き上げている。
 それに何よりも全編に漂う詩情だ。詩的な雰囲気。それが読者の心にしみわたってくるのである。
 人生遍歴があいまいだという批判は当たらない。それを書くのが目的ではないのだから。それは老人の心のなかの世界なのだ。心の中に映じている限りでの記憶なのだ。それによって照らし返されてくる現在の老人の心性が読者に与える共感こそが大切なのだ。

 ただし、最後に付け足した(注)の5行は余分だった。あれで、この作品の価値は5割がた台無しになった。非常に残念だ。


朝鮮人

「朝鮮人」という言葉を避けて、「朝鮮の人」と呼んでいたというコメントをもらった。たしかに、覚えがある。れっきとした国名や民族名が、一時的な歴史の経過によって、差別語とされてしまう。「言葉」というのは怖いものだ。もともとは単なる空気の振動に過ぎないものが、人々の間で交わされる間に意味を持ち始める。その意味がゆがまされていく。
 草薙氏、新船氏、それぞれにそう扱わざるを得ない必然があるのだろう。結論の出しにくい問題であるように思う。

拍手ありがとう

 ここのところ、ぼくのむかしの短編や掌編を読んで、長年ほとんど拍手のなかったそれらに拍手してくださる方、どうもありがとう。いずれもいま読むと気恥ずかしくなるような作品だけど、愛着のある作品でもある。いまでは絶対書けない作品だ。これから何を書けばいいのか。戸惑っているところへ、励ましをいただいた気分である。いましばし、生きているあいだは、何かしていこう。
 きょうは風が強い。

井上通泰「晩秋」(「民主文学」20年7月号)

 これはよかった。満足した。でも途中では何度か引っかかったのだ。
 筑波山ろくの風景とそこでの主人公の生い立ちから書きはじめながら、主人公の継母の介護の話になだれ込んでいくので、あの書き出しは何だったのか、と最初のひっかかり。
 ところがそこから、今度は主人公本人の血圧の話になっていく。自覚症状はないのに、血圧が上がっていく。それで血圧上昇の原因を求めて一か月遡る。医者との対立があった。継母の大腸検査を要請しているのに、医者が、「大腸検査は身体的負担が大きい。それで結果が出ても、年齢的に手術は無理なので、検査をする意味がない」と言う。正しい答えだ。だが、その言い方に思いやりがないと言って、主人公は腹を立てる。このとき、腹を立てすぎて、心身に異常を感じた。血圧が上がるのはそれが原因だろうか。
 ここで二度目に引っかかった。医者が正しくて、主人公のほうが理不尽だとしか思えないのに、あくまで主人公の立場に立って綴られていくからだ。
 そのあと義弟の妻が登場して、その能天気なキャラクターで読者をなごませ、次は実妹との電話のやりとり。この電話でのやりとりで、昔は泣き虫だったというがいまはしっかり者の妹が、主人公を遠慮なくやっつけ、ぎゃふんと言わせる。
 ここまで読んで、そうだったのか、と読者は目を開く。「いつもの民主文学だ」と思って読んでいるので、作家と主人公とを混同していた。そうではないのだ。作家はすべてわかっていて、意図的に主人公をこういうふうに書いている。
 ラストに向かって、主人公の血圧はどんどんうなぎ上りに登っていく。でも別に体調に変化はない。朝早く起きて、いまから義妹のために運転手を務めねばならないのに、血圧はまだ上がり続けている。ついに、218-105だ。ここまで来ると、まるでカフカの小説である。
 定年退職後、一時血圧が上がり、異常の可能性を指摘され、詳しい検査を勧められたが、「死ぬときは死ぬときだ」と割り切って、好きな旅行と登山で過ごしてきた。ところがいまになって、異常な血圧におたおたしている。割り切っていたはずの死に直面して結局生への執着に平穏ではいられない人間のそういう姿を書いたのだ。
 だから、冒頭もあれでよかったのである。継母を書いたのではなく、主人公を書いたのだから。だから主人公の生い立ちとその原風景も必要だったのだ。
 義妹と実妹のキャラクターが物語を面白くしている。その代わり、妻の姿がまるで見えない。継母もはっきり浮かんでこない。この二人をちゃんと書いていたら、もっとよかった。

中村恵美「光のきざはし」(「民主文学」20年7月号)

 漆に関するうんちく部分は興味深かった。この作品でどうにか書けているのはそこだけなのだから、それをもっと本格的に書いてほしかった。主人公の女子高校生は何に悩んでいるのかさっぱりわからない。その少女の一人称なのだが、文章にそういう感じがしない。せっかくライトノベルの研究をした人なのだから、ライトノベルふうに書けとは言わないけれど、それなりのムードは作ってほしかった。霜月が近づいたかと思うと、春休みが近づき、そろそろ衣替えで、稲刈りが終わり、それから何日か経って……季節は移っていくのだが、その移っていく季節を、主人公が生きているという感じがしない。言葉だけなのだ。「私」の立っている場がなくて、言葉だけが進んでいく。これもある意味、ライトノベルかもしれない。

新船海三郎による、草薙秀一「大阪環状線」批判(「民主文学」20年7月号)

「民主文学」7月号は、表紙に評論を二つ並べている。ひとつは先日ふれた瀬戸井誠の品田悦一「大伴旅人のメッセージ」批判、そしてもうひとつを昨日読むと、新船海三郎による、草薙秀一「大阪環状線」批判であった。
 てっきり誉めているのだと思っていたら、ふたつとも批判なので驚いた。新船海三郎は久しぶりの登場ではないか。
 内容は在日朝鮮人問題である。その呼称に関し、設定されている時代と合わない、という指摘だ。
 草薙と新船は同世代で、どちらも大阪下町の出身、朝鮮人と触れ合う環境で育った。たぶん、ぼくとも同世代、70歳過ぎだと思う。
 ぼくは読めてないのだが、草薙が書いたのは、少年時代の回想に近い内容なのらしい。そのなかに、身のまわりの朝鮮人たちが登場する。それを「在日韓国・朝鮮人」もしくは「在日」と表記している。
 新船によると、草薙が書いているその時代に、そういう言葉はなかった。そういう言葉が出てきたのは、日韓条約以後なのだそうだ。日韓条約は1965年だ。その頃、草薙はすでに立命館にいたはずで、もはや少年時代ではない。
 ぼくは田舎育ちだから、朝鮮人と触れ合ったことはないのだが、記憶をたどる限り、たしかに、そういう呼び方を耳にするようになったのは、かなり後年のことだと思える。事実関係に限れば新船が正しいのだろう。
 新船の主張は、これを単なる呼称問題として済ますことはできない、ということなのだ。呼称問題には、歴史認識をゆがめる恐れがある、ということらしい。
「朝鮮」という言葉を日本人が侮蔑的に使っていた時代(いまもあるのだが)、その侮蔑的表現としての「朝鮮」は漢字の「朝鮮」ではあり得ない、それはカタカナの「チョウセン」なのであり、それを漢字で表現することは誤りであるという。ここまで言われると、「うーん」とうなってしまう。かなり新船の個人的な思いが入ってはいないか。
 いずれにせよ、作品を読んでいないので、これ以上は何も言えない。ただ作品を離れた一般論として言うと、これはかなり難しい問題だ。
 歴史的に教えを請うてきた相手でありながら、植民地支配のために見下すことを教え込まれてきたほんの一時期の「朝鮮」という言葉のイメージを、いまだに引きずっている日本人の意識の問題。
 朝鮮が南北に別の国家を作ったこと。その国名が、北は朝鮮で、南は韓国であること。たまたま、朝鮮も日本も漢字を使うこと。この最後のひとつがじつは意外に決定的なのだ。英語圏ならば、北も南もコリアであり、ノースコリアとサウスコリアがあるだけの話だ。ところが漢字を使うという共通性のために、話がややこしくなる。
 もちろん根源的には植民地支配の問題なのだが、表現の問題としてとらえた場合には、共通の文字が邪魔をするという別種の問題が必要以上に話をややこしくさせている。
 この問題は、在日朝鮮人自身の意見を聞くべきかもしれない。

平井真

 先日から、「平井真」に拍手が付く。6年前にアップした短編だ。「まがね」にも載せた。新作が書けなかったので、間に合わせで出した。実際に書いたのがいつなのか、いまとなってはまったくわからない。20年前か、30年前か、40年前かもわからない。
 しかも中断したものである。退職してから、古い原稿をかきまわしていて見つけた。
 拍手が付くので、読み返してみた。いまとなっては、赤面するような幼稚な表現が多い。けれども、いまでは絶対に書けない表現だ。若さのでたらめぶりというか、それなりに勢いを感じる文章である。とりわけ、過去と現在とを微妙にミックスしようと心がけているあたり、文学的な冒険が感じられ、ややもすれば平板で、挑戦の感じられない「民主文学」作品に対しての新鮮さを自負しないでもない。
 もっとも、ぼくも老いた。もう、こういうものは書けない。

「『異邦人』の読み方(補遺)」

「まがね」62号の編集作業がほぼ終わったので、「『異邦人』の読み方(補遺)」にかかっている。のだが、難航している。前書への読者の不満に応えようと意図したが、難しい。この本は嫌いだという人をどうやって好きにならせるかというのは無理な注文なのだ。で、結局、前書で書き足らなかったとぼくが思うところを書いてみる、というだけ。自分自身を納得させるだけのものとなるかもしれない。ともかく今書いておかねば永久に書けないだろうから。
 あいかわらず、書いたり消したりして、少しずつ前進している。ほんとうに少しずつだ。
「読み方」というタイトルにも問題がありそうだが、いまさら変更できない。「地球の歩き方」というような軽いタイトルのつもりだったが(「論」としゃちこばるのではなくて)、かえって上から目線的なイメージがあるようだ。ま、いろいろです。

太宰治

 このブログの訪問者はいつも10人前後で、訪問履歴も残さず、拍手もコメントもしないのが通例なのだが、この数日どういうわけか、拍手が続いている。拍手というのはいい加減な機能で、本人がいくらでもサクラ拍手をできるようになっているのだが、もちろんぼくはしていない。拍手は嬉しいから結構なのだが、どういう方がどういう理由で拍手するのか気になる。
 何年も前の記事に拍手が付いたりしたときは、たぶんそこで扱った対象を検索した人にぼくのブログがヒットしたのだろうと推測する。
 今回はそうではない。あまり来ない人(過去に名前を見たような気もする)の何人かが連続して訪問履歴を残している。そのなかの誰かが拍手してくれたのだろうかと思い、逆訪問してみる。
 そのうちの一人が、ごく最近の記事で、太宰治を扱っている。桜桃忌なので、そういう関係だろうが、ファンのようで、いまの若い人にもけっこう人気があるのだと書いている。少し意外だったが、そういえば、文庫本コーナーに「人間失格」が今ふうのカバーを付けられて並んでいる。「異邦人論」に必要だったので、ぼくも買ったのだ。
 太宰文学はヘルマン・ヘッセと共通性がある。傷つきやすく、痛ましく、生きづらい青春の文学なのだ。その生きづらさを、ヘッセはロマンに昇華させた。太宰にはそれができなかった。それは当時の日本社会の貧しさだろうかと、40年前の太宰論でぼくは書いた。負の青春文学であると書いた。そのとき三島由紀夫の太宰批判にも触れて、その批判にはどこか自己否定のような匂いがある、とも示唆した。三島には自己の弱さに反抗する強がりのようなものが見え隠れするのだ。
 今回訪れたブログの筆者は、1950年代の、伊藤整による太宰批判を取り上げていた。それを大人の論理である、と一部肯定したうえで、最後にはかなり口汚く伊藤整を罵倒している。どうもブログというやつは、書いているとだんだん興奮してくる傾向が誰にもあるようで、いままでずいぶんそういうものを見て来た。自分でもそういうものを書いているかもしれない。もって自戒とすべし。
 伊藤整を読んでいないので、何とも言えないのだが、太宰が若い読者に圧倒的に支持されていた当時、後追い自殺まで出るような状況のなかでは、しかるべき批判が必要だったのではないか。時代のなかに置いて読む必要があるだろう。つまりそれと、現代における太宰再評価とは区別して考えるべきだろう。いずれにせよ、太宰はウイとノンの間にある。

エッセーと小説

 ふと思ったが、「播州平野」がエッセーとして書かれていたら、ぼくは不満を述べなかっただろう。もちろん、何度も言うように50年前の記憶で言っているので、違うかもしれないのだが、エッセーとしてなら素直に受け入れただろうと思うのだ。それを小説だと主張されるので、違和感が生じる。
 ある人が、「あそこにはフィクションも書かれている。だからエッセーではない、小説だ」と言った。嘘を書きさえしたら小説なのだとしたら、小説も随分なめられたものだ。それでは何でもかんでも小説になってしまうではないか。エッセーと小説との違いはそんなところにはない。もちろん、エッセーと小説との区別はあいまいだが、嘘を書くか書かないかで区別する、などということでは絶対にない。不正確な言い方になるかもしれないが、嘘のあるなしなどという区分よりも、多少近い区分にならないかと思うのは次のようなことだ。エッセーは作者の声であり、作者を通して現実と直接つながっている。小説はそうではない。小説は独立した世界だ。それはどことも直接にはつながらない。小説のなかには作者はいない。作者は小説の外にいる。小説は作者から放り出されている。
 小林多喜二の書いたものは、それが嘘かほんとうかにかかわりなく小説だ。嘘かほんとうかということは判断材料にならない。どこで判断するのか。正直に言えば感覚だ。その感覚の根拠を説明することは難しいのだ。
「伸子」は前半は小説だ。後半はエッセーだ。「貧しき人々の群れ」は小説だ。

木村陽治「堀田善衛のまなざし」(2)(「零地帯」3号)から思ったこと

 (1)で「広場の孤独」を紹介した木村陽治は、(2)ではその後の小説を取り上げる。「歴史」「時間」の2作をざっと紹介した後、「記念碑」「奇妙な青春」という連作を取り上げて詳しく説明している。ちなみに「歴史」は中国の戦後の動乱を書き(堀田善衛は敗戦間近に日本に絶望して中国にわたり、戦後もしばらく中国にいた)、「時間」は南京虐殺を書いている。
 そして「記念碑」「奇妙な青春」は、1944年から47年に至る、つまり敗戦前後の、比較的上流の階級に属する中年女性を主人公にした大河小説である。そこにはまた天皇制に対する痛烈な批判も出てくるのだが、それはぜひ、堀田善衛でも、「零地帯」でも手にとって読んでもらうとして、きょうは全然別のことを書きたい。
 木村氏がこの著述の最後に書いたことが目を引いた。
 8月15日を書いた作品として、宮本百合子の「播州平野」にふれ、その描写の鮮やかさを、これは名作である、としたあとで、次のように付け加える。
 <しかし、問題は主人公のひろ子が宮本百合子であり、石田重吉は宮本顕治であり、宮本百合子と宮本顕治が何者であるかをよく識っている人だけが、この小説を深く味わえる。宮本顕治という存在がどのように大きいものであるかは「播州平野」という小説を読んだだけではわからず、もっと幅広く学習してよく識らなければならない、という小説になっているのである。これは残念なことである。(中略)結論をいおう。出でよ民主的大河小説である>
 日本の自然主義小説の欠陥を見事に言い表しているものとして、ぼくは受け取った。堀田善衛と読み比べたうえで言っているのだ。もっとも、ぼく自身は何回も書くように堀田善衛は「広場の孤独」しか読んでいないし、「播州平野」を読んだのも50年前だ。だから、テキストに即したことは言えない。ただ、木村氏の文章を読んで、ぼく自身が、日本の自然主義小説に対して永年持っている疑問と似通ったものを見出したということだけである。
 日本の自然主義小説は、小説だけで完結しない。小説の外に作者とその身辺人物の、小説には書かれていないが、読者が知っていることが前提されているところの、現実の人間関係が存在して、はじめて成り立つ小説であるということなのだ。いわばゴシップ小説である。現実にもたれかかった小説である。短歌に詞書というものがある。短歌だけで独立して味わうことはできない。詞書によって補われることで、やっと作品となっている。日本の短詩(短歌、俳句)にはそういう傾向がある。それが詠まれた状況を知ることで、やっと味わいが完結する。日本の自然主義小説というものも、それと同じ範疇にあるように見える。
 欧米文学にしても、その背景を知ることは必要だが、しかし、登場人物は小説のなかだけで完結している。モーパッサンだろうと、トルストイだろうとそうだ。「戦争と平和」にはナポレオンも、ロシア皇帝も、クトゥーゾフ将軍も登場するが、彼らは主要人物ではない。端役である。主人公たちは小説のなかだけで完結しており、ニコライ・ロストフがトルストイの父親だとか、マリヤ・ボルコンスカヤが、母親だとかということは、この小説を読むにさいしてまったく必要のないことだ。
 ヘミングウェイも自分の少年時代を書いている(「われらの時代に」)が、その少年が将来小説家になったかならなかったかなどということを考えなくても、その小説を味わうのに何の不足もない。
 この作家たちは、たとえ現実に取材し、現実の人物をモデルに書いても、決して現実にもたれかからない。
 小説が小説だけで完結している。
 こういう小説を読みなれてくると、日本の自然主義的小説に対しては、どうしても違和感がある。まだ小説になりきれていない。前近代小説である。中村光男が日本の小説は百年遅れていると言ったが、そういう感じをぼくも持つのだ。
 ただ、木村氏は民主的大河小説をと言ったが、そこはぼくとは違う。大河小説は必要ない。民主的も必要ない。小説らしい小説が読みたい。


木村陽治「堀田善衛のまなざし(3)」(「零地帯」4号)

 かなり前に読んだのだが、ここで取り上げるのは、このなかのマダガスカルに関する記述が、サルトルの「アルベール・カミュに答える」で触れられた部分と照応しているからだ。木村陽治氏によると、
 1959年に出た堀田善衛の「河」という作品のなかに、次のような部分がある。
 1958年の夏、堀田善衛はエジプトにいた。そのときカメルーン人のエコロが、こういう話を持ち出す。
「1947年、マダガスカル島で8万人の人間が、フランスに殺された。暴動で」
「8万人?」
「知らなかったのか、フランスが報道を禁止すると、世界は、アジアの友人たちでさえたとえ10万人、100万人が虐殺されても知ることができない。人間なんだよ彼らも。世界は、そして友人であるアジアもハンガリーを問題にする。それはいい。しかし誰がマダガスカルを問題にしてくれたか」
 58年であるから、56年におこったハンガリー動乱をみんな問題にしている。しかし47年にフランスがマダガスカルで殺した人間のことは誰も知ってさえいない。
 サルトルは次のように書く。
 <そうだ、カミュよ、僕も君のように、あの収容所(ソ連の収容所)を、許しがたいと思っている。だが《いわゆるブルジョワ新聞》が、これを毎日利用しているやり方も、同じように許しがたい。僕はトゥルクメニスタン人よりマダガスカル人を先に、とはいわない。われわれがマダガスカル人にこうむらせている苦痛を正当化するために、トゥルクメニスタン人に課している苦痛を利用してはならない、というのだ。僕は反共主義者たちが、あの刑務所の存在を喝采するのを見たことがあるし……かれらはトゥルクメニスタン人に援助を送るどころか……その不幸を利用しているような感じがする>(「アルベール・カミュに答える」シチュアシオンⅣ87ページ)
 これは52年に書かれた。
 この事件のことは堀田善衛もこの58年が初耳であったようで、いま資料を探してもほとんど見当たらない。わずかにWikipediaに次のような記述がある。
 <戦後(第2次大戦)、マダガスカル革新運動党(MDRM)支持者とマダガスカル非継承者党(PADESM)支持者との間で、政情不安が高まる。1947年3月にマダガスカル東部で大規模な暴動が発生する。犠牲者数は数千~9万人ともされる>
 フランスが殺したとは一言も書いてない。
 そしてこの件の出所は、マルチニークの作家、政治家であるエメ・セゼールの「帰郷ノート・植民地主義論」の翻訳者による解説からだとしている。この本は平凡社から出ている。
 それはともかく、偶然木村陽治氏の「堀田善衛のまなざし」を読んでいたので、サルトルの文章を見たときに、何のことを言っているのかピンときた。そうでなければわからなかった。
 フランスはドイツに占領されたヴィシー政権下で、その植民地をイギリスに奪われたり、アジアでは日本に奪われたりしていたが、戦後は旧に復する。
 ディエンビエンフーで壊滅的敗北を喫してジュネーブ条約でベトナムから追い出されたのが54年、アルジェリアの独立はカミュ死後の62年だ。北アフリカ一帯、コンゴ、マダガスカル、インドシナ、そしてカリブと、一部太平洋の島にも帝国の版図を持っていた。マダガスカルの独立は60年である。
 もちろんソ連も悪い。しかし自分の国のことを棚に上げていいのか、というのがサルトルのカミュ批判であった。

 それはそれとして、「零地帯」に戻ろう。この雑誌はつい最近創刊されて、まだ4号にしかならないが、ずいぶん充実した内容を誇っている。そのなかでも、2号から始まった、木村陽治氏の「堀田善衛のまなざし」は特に読みごたえがあり、強い感興を呼び起こす。
 第1回は、「広場の孤独」から始まった。ぼくが読んだ堀田作品はじつはその1作だけで、それも50年前に読んだきりであったが、今回読み直すきっかけを与えられ、感じるところ大きかった。第2回では堀田善衛のその後の作品をずっと取り上げていく。南京虐殺問題や、天皇問題など、そして第3回は、AA作家会議での堀田の活躍、ソ連問題、中国問題へと展開する。
 堀田善衛を読みたいという気にさせる評論だ。させられながら、いまだ「広場の孤独」以外読めずにいるのだが。

サルトル「アルベール・カミュに答える」

 サルトルの「アルベール・カミュに答える」は1952年に書かれ、以後二人は絶交状態のまま、1960年、カミュは交通事故死してしまう。47歳。KGBによる暗殺説もあったようだ。
 カミュの死後サルトルは愛情あふれる追悼文を書いている。だが、52年に書いた文章は、ずいぶん容赦ないものだ。
 もっとも冒頭とラストでは、やはりとどめようもないカミュへの賛美と愛情を表現しているのだが、その二つに挟まれた中身は皮肉に満ちている。
 ことの経過は、カミュの「反抗的人間」がきっかけで、フランシス・ジャンソンが、これへの批判を書いた。それをサルトルが主催する「現代」誌が載せた。そこで、カミュが反論を書いたが、それが、サルトル宛ての反論となっていて、中身はジャンソンとサルトルを意図的に混同している。
 そこでサルトルとジャンソンがそれぞれ再反論した。
 いま手元にある文庫本、新潮社の「革命か反抗か」には、ジャンソンのカミュ批判、カミュの反論、サルトルとジャンソンの再反論の4篇が収録されている。ところが、肝心の「反抗的人間」がない。文庫の巻末の目録を見ても、どうも文庫化されてはいないようだ。全集の第4巻に収録されたらしい。手元の全集は三冊だが、1、5、10巻で、4巻はない。
「反抗的人間」を読んでみないと確実なことは言えないが、いまサルトルの「アルベール・カミュに答える」を読んだだけの知識から言うと、以下のような顛末と考えられる。
 ソ連の強制収容所が暴露され始めた時期で、特にトルクメニスタン人のシベリアへの強制移住を問題にしているようだ。その主張が、サルトルの目には、反共的で、西側の帝国主義を覆い隠すもののように映ったらしい。
「トルクメニスタンを問題にするなとは言わない。だが、同時にマダガスカルを問題にすべきだ。いま反共的勢力は、トルクメニスタンを悲しむのではなくて、これを見つけて喜んでいるように見える」とサルトルは書いている。この時期フランスはマダガスカルで大虐殺をやっていた。権力の問題は双方にあるのに、あえて片側だけを取り上げることで、反共に利用されている、と言いたかったようだ。
 ぼくの記憶にあるのは、もっとのちの時代、カミュがとっくに死んでしまった、ぼくらの時代、ベトナム戦争のさなかだ。反戦平和のために行動する知識人として、ラッセルとならんでサルトルが注目されていた。そのときのサルトルの言葉。「ソ連にいっぱい問題があるのは知っている。だが、いまは帝国主義に対してたたかわねばならないときだ」サルトルは訪米も拒否し、ノーベル賞の受賞も拒否した。共産主義者であると見られていた。実際は違ったが、この言葉に象徴されるのが彼の立場だったのだろう。
 ソ連の体制がすっかり暴露された現代の位置から見ると、我々はカミュの言葉にもっと耳を傾けてもいいように思える。サルトルが必ずしも正当とは言えなかったのではないか。もちろん「反抗的人間」を読んでいないので、これ以上は言えないのだが。
 そういう政治的問題はちょっとわきに置くとして、「アルベール・カミュに答える」には、サルトルがカミュをどう考えていたかということが、率直に書かれていて興味深い。
 すでに「異邦人」出版の翌年、サルトルは「異邦人解説」を書いている。このなかでサルトルは「異邦人」と「シジフォスの神話」を、その細部に至るまで照らし合わせて、「異邦人」の文学的構造を明らかにし、惜しみない称賛を与えている。のだが、その冒頭で、「哲学者からの引用にはかなり間違いがあるが」としつつも、それを問題にしない立場をとっている。
「アルベール・カミュに答える」で、その問題が噴き出す。「こうなったら、いままで我慢していたことを遠慮なく言わせてもらう」と断って、「原典に当たらないのが君の悪い癖だ」と言い、そのとき問題にしているテーマについて、「これについては『存在と無』を読んでくれとは言わない。読んでも君には理解できないだろうから」とまで言っている。
「シジフォスの神話」は、哲学的エッセーだが、厳密な意味での哲学書ではない。カミュはそのなかで、パスカルに始まって、ヤスパース、ハイデッカー、シェストフ、キルケゴール、フッサールを論じるが、「これらの哲学者について論じようというのではない。それは自分の手に余る。ただここに取り上げようとするテーマについて、これらの哲学者がどういう立場をとったかを明らかにするのだ」と断っている。
 少し内容に触れると、カミュの出発点は合理主義批判である。世界は決して合理的な秩序を持ってはいない。不条理である。だが、人間にはこの不条理をなんとかしたいとする願望がある。この不条理の世界と人間理性の統一への要求とのせめぎあいこそが生きるということだ。それが不条理の人生を生きるということである。過去の実存主義者たちは、不条理に対して降伏し、不条理を神にしてしまっている。それではだめだ、というのがカミュの主張だ。
 サルトルは「アルベール・カミュに答える」の冒頭をこう書きだす。「カミュよ、君のムルソーはどこに行った、君のシジフォスはどこに行った?」
 サルトルにとって依然として「異邦人」は比肩し得るものもない名作なのだ。いまのカミュはムルソ-を忘れて世間と妥協し始めたように見える。
 さまざまなことを書いたのち、サルトルはふたたびカミュ自身に戻ってくる。カミュの業績を称賛した後、カミュの「ドイツ人への手紙」を読んで、サルトルはカミュがわかったという。【僕は『ドイツ人への手紙』を読みなおすまでは、「<歴史>に意味があるかないかだ……」という君のディレンマがわからなかった。だが同書で、君がナチス兵士に向かっていっている。「何年も前から君たちは僕を<歴史>のなかにはいらせようとしている」という文章を発見して、すっかり明瞭になった。「とんでもない」と僕は思った。「この男は外にいると思っているものだから、中にはいる前に条件をいろいろ出すのも当然だ」。足の指で湯にさわりながら、「熱いかしらん?」といっている小娘そっくりで、君はびくびくしながら<歴史>を見て、指を突っ込んでから、大急ぎでまただして、「意味があるかな?」と考えている。】(「アルベール・カミュに答える」シチュアシオンⅣ99ページ)
 ヒットラーがペスト菌のようにヨーロッパを覆いつくした。だからカミュはたたかった。でもほんとうは政治になんか関与したくなかったのだ。
【自分たちにとって、すべてはまだ可能であると考えていたわけであるが……天災というものがある限り、何びとも決して自由ではありえないのである】(「ペスト」新潮文庫2019年版56ページ)
【君は死に反抗していたが、街々をかこむ鉄の壁のなかでは、他の人々が死亡率を増加させる社会的条件と抗争していた。ひとりの子供が死ぬと、君はこの世の不条理を責め、また神の顔に唾を吐きかけるために、君がつくった目も耳もない神を責める。ところがその子の父は、たとえ失業者でも人夫でも、人間たちを責めた】(「アルベール・カミュに答える」シチュアシオンⅣ96ページ)
「貧困を知っていると君は言う」とサルトルは説く。「たしかにかつて君は貧困を知っていただろう。だが、いま、君は僕同様ブルジョアなのだ」(要約引用)

 と、ついつい書いてしまったが、カミュの「反抗的人間」を手に入れない限り、この問題で確かなことは言えない。
 つくづく情けない思いがするのだが、ぼくはなぜ、カミュ全集を揃えようとしなかったのだろう。ぼくは本来本に対してはあまり愛情を持っていないようだ。読めればいいので、文庫本で上等だというのがぼくの姿勢だ。ずっと貧乏だった(いまも貧乏だ)というせいもある。それにしてもムルソー論を書こうとして、本を買い集めたときに、全集を揃える必要をなぜ思わなかったのだろう。結局、ムルソーだけが関心の的だったから、カミュの若いときのものばかりを集めた。ムルソー誕生の経過を知りたかったのだ。その後はどうでもよかった。ぼくもまだ若かったし、中年以後のカミュには関心がなかったのだろう。
 いま、「樹宴」19号に向けて、「『異邦人』の読み方(補遺)」を書こうとしているが、短期間にカミュの全体像を知ろうとしても無理だ。やはり「異邦人」にしぼって、その限りで書いていくしかない。
 という結論です。

瀬戸井 誠「『大伴旅人のメッセージ』(品田悦一論文)を考える」       (「民主文学」20年7月号)

 古代史が好きなので、ふと目についた。はじめ拾い読みしていたが、これは読み捨てならんぞと思って最初から読み直した。
 瀬戸井誠が、品田悦一(しなだよしかずと読む)論文に疑問を提示した形となっている。
 その品田悦一論文というのは、「令和」批判である。
 瀬戸井誠は品田悦一の以下の記事、著作、論文、文章をもとに、自説を提示している。
 ちなみに品田悦一は59年生まれ、日本古代文学研究、東大教授である。
 〇 朝日新聞インタビュー「万葉集『愛国』利用の歴史」
 〇 著作「万葉集の発明」
 〇 論文「『万葉集』はこれまでどう読まれてきたか、これからどう読まれていくのだろうか」
 〇「短歌研究」2019年5月号所収「『令和』から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ」
 瀬戸井氏の指摘によると、品田氏の言わんとするところは、以下の点である。
1、万葉集はもともと一般国民には知名度が低かった。
2、西洋文明の流入に対峙できるのが中国古典しかない現状を憂いた明治新政府が日本の伝統文明であるとして普及させた。
3、そのほとんどが恋愛歌であるのに、そのごく一部が、軍国主義の下で、国威高揚に利用された。
4、戦後、左翼の側が、万葉集は民衆歌謡であるとして、推奨した。
5、けれども、形式が整いすぎており、身分の低い人が詠んだとは考えにくい。
6、民衆歌謡というのは、30年前の社会通念で、いまの学者でそんなことを信じている人はいない。
7、プロの手が入っている。
8、「令和」の典拠、張衡「帰田賦」は、「政界の浄化がいつまでも実現しない」ということを言っている。王義之の「蘭亭集序」は、それに対する文芸の力について述べている。
9、「梅花宴序文」は権力者への憎悪と敵愾心を秘めている。これは大伴旅人の藤原氏批判である。
10、「令和」は期せずして、安倍政権批判となっている。

 このうち、「大伴旅人のメッセージ」が「民主文学5月号」の座談会で紹介された。瀬戸井氏はその内容に疑問を持ち、品田氏の著作に一通り目を通されたうえで、疑問を提出している。
 ちなみに、瀬戸井氏は、59年には大学の卒業論文で「山上憶良論」、63年には、早稲田の修士論文で「大伴家持論」を書き、その後、高校教師を16年、市会議員を20年勤めるかたわら、在野の研究者として、万葉集の講師を務め、二つのグループに、万葉集全巻を読破させたという経歴の持ち主である。
 氏の品田批判は次の点である。
 万葉集を明治政府が発見し、国威高揚に利用するまでの流れについては、品田氏の著作に全面的に賛同している。(1~3)
 瀬戸井氏は、4から疑問を提示する。「万葉集の民主的一側面」については氏自身、「民主文学19年5月号」に書いたが、これを民主的歌集と考えたわけではないし、戦後、左翼の側にそういう傾向があったという例証を発見できない。品田氏の著作でも挙証されていない。
 5、6、7の点について。例えば「土佐日記」でも、船頭の舟歌が紹介されており、それは立派に5、7のリズムを踏んでいる。文字を持たない民衆にとって、むしろ歌謡が生活に溶け込んでおり、それはそもそも日本語のリズムとして5、7をなしている。舟歌、労働歌、方言の使用、意味不明の語句、などに民衆の息遣いが感じられる。プロが詠んだのなら、なぜ名前がないのか。ということから、品田説に全面的に反論している。
 8、9、10は、品田氏が「梅花宴序文」および「八四八番歌」を大伴旅人の作であると断定し、それを権力批判であるとしている。そのことへ瀬戸井氏は疑問を投げる。
 まず、大伴旅人が作者であるという証拠はない。むしろ山上憶良ではないかと、瀬戸井氏は考える。
 さらに、大伴旅人が作者であると仮定して、品田氏の論は以下である。
 左大臣長屋王のもとで、大伴旅人は60歳にして二度目の九州赴任を命じられた。これは長屋王から旅人を遠ざけるための藤原一族の陰謀である。長屋王が殺された翌年、大宰府で旅人主宰の下で梅花の宴が催された。そのときの一首万葉集八四八に権力批判があり、これは旅人の作であるとするのが品田説だ。
 この旅人の大宰府赴任については諸説あって、定説はないようだ。高齢になってからの赴任というのは確かに引っかかるし、赴任年ははっきりしないようだが、在府中に長屋王が失脚していることから関連も疑われる。
 だが、瀬戸井氏は、旅人左遷説に疑問を呈する。その理由は以下である。
①長屋王が左大臣として権力の頂点にあったときの赴任である。
②後世大宰府は確かに左遷先として利用されたが、もともと外交国防の最前線、要職であって、この時代にはまだ左遷先とはなっていない。
③大伴氏は代々太宰帥に任じられた。
④梅花の宴の年末には京都に呼び戻され、従二位大納言に着任している、これは長屋王の亡き後、朝廷の最高官である、
 といった理由を挙げる。ただし、大伴旅人は帰京の翌年には死んでいる。

 さて、瀬戸井氏による品田氏批判の要点は、「令和」の典拠となった「梅花の宴」が権力批判の宴であったとすることで、それを元号に選んだ安倍政権に皮肉な視線を投げかけた品田説が、勇み足だったのではないかとするところにあるようだ。
 品田説に意図的な傾向が見え、資料の客観的裏付けを欠いているのではないか、とする提言だろう。
 当然、品田氏の側の反論が期待される。古い話で確証を得にくいテーマだろうが、もう少し掘り下げてみる必要はお互いにあるかもしれない。

文字間隔

「まがね」の編集作業が、去年は比較的楽にできたという記憶があるのだが(記憶違いかもしれない)、今年はどうもうまくいかなくて手こずっている。
 原因は3つ考えられる。
1、一年経つ間に、もともと悪いぼくの頭がますます悪くなった。
2、WORD機能の限界である。もしくは自動更新のせいで劣化した。(Windowsが更新のたびに悪くなるというのはいまやユーザーの常識である)
3、ぼくのパソコンの機能劣化。

 考えうる原因が3つもあるので、どうしようもない。
 パーソナル編集長なるソフトを買えば楽にできるのか。
 しかしここまで来てWORDに対して降参するのが癪だから、やれるところまでやってみたい。まあ、少しは頭の訓練になっている。

 今回いろんな局面で苦労したが、そのひとつにこんなのがあった。
 1行25字で設定しているのに、部分的に23字になる。よく見ると一字下げた行だけだ。それも一字下げた行すべてではなく、ところどころである。そこで試しに、いったん行頭まで上げて、それからスペースを入れた。すると簡単に解決した。25字に戻った。
 A4のペーパーではそんなことにはならない。A5に変換して(その段階でどうなっているかは確認していない)、それを「まがね」のなかに組み込むと、ところどころ23字になっている。
 修正は簡単だといっても、全部確認するのはたいへんだ。ふと気づいたのは、文字間隔だ。去年制作ったペーパーを読むと、「文字間隔を9.6にしたのは、余白と字数を維持するためである」と書いてある。してみると、去年も同じ問題にぶつかっている。
 文字間隔を見ると、9.8になっている。それを9.6に替えた。するとそこから先に23字は出てこなくなった。
 しかし、これで解決したのは1作品だけだ。セクションを区切ってあるから、すべての作品について確認する必要がある。それをまだいまからやらねばならない。
 作品は、メール添付でもらったものを、あらかじめ用意してある書式にコピーする。小説用、詩用、随想用のパターンを作ってあって、そこにコピーすることになる。その段階で文字間隔がどうなるか、未確認である。これをA4からA5に変換して、つないでいく。
 つなぐ過程で、小説と詩をつないだり、随想をつないだり、また逆に小説に戻ったりする。それぞれ書式が違う。それから、ランニングタイトルを打つ。以前書いたように、このランニングタイトルがうまく切り離せなかった。「前と同じ」が邪魔をしていて、これは解決した。
 こういう過程のどこかで、文字間隔が9.6から9.8に変わってしまった。9.8が自然なので、変わりやすいのだ。
 ここまで来てやっと気づいた。要するに書式設定に無理がある。
 A4、横向き袋とじ(もしくはA5、縦向き標準)、二段、10.5pt、一行25字、余白上14下16というのが窮屈すぎるのだ。文字間隔を強制的に9.6にすることでその無理を解消している。これが不自然だから、破綻しやすい。
 簡単なことだ。余白を上下とも14にすればいい。上下左右すべて14にしてしまえば、A4からA5に変えるときに面倒な余白調整をせずに済む。文字間隔にも無理がなくなって、問題が起こらなくなるだろう。
 と、ここまできたが、この書式変更は来年行うことにする。すでに組み上がっているものをいまさら変更できない。どんな問題が発生するかわからない。いまのまま、触らず当たらずで、点検だけして、問題を見つければそこだけ修正する。

サルトルの「異邦人解説」

 ずっと気になっていたサルトルの「異邦人解説」を読んでみた。ぼくが持っているのは、1973年の改訂版だ。人文書院「シチュアシオンⅠ」。つまりシチュエーション、状況。サルトルの評論集である。「シチュアシオン」は何冊か持っていると思っていたが、いま見ると、このⅠとⅣの2冊しかない。Ⅳを開いてみると、それもカミュがらみだ。「アルベール・カミュに答える」これはどうやら二人が激しく言いあっていたときのものらしい。もうひとつ「アルベール・カミュ」これはカミュの突然の交通事故死に捧げられた短文である。
 73年というのは、ぼくがムルソー論を書きかけていたときで、関連図書を集めていたときだ。だからこの2冊も、そのために買ったのだろう。
 たぶん読んだのだと思うが、線引きがない。読んでないかもしれない。ともかく記憶がない。
 きょう、読んでみてびっくりした。じつに細かい文学技術的分析をやっている。書いたのは43年である。ドイツの占領下だ。「異邦人」が世に出た翌年、「シジフォスの神話」の出版から間がない。
 そういうときにあって、まず、哲学的側面から、「シジフォスの神話」と「異邦人」との照合をそれぞれの箇所ごとに、丹念にやってみせ、そのぴったりはまるところと、そこから抜け出すところとを指摘していく。次に「これはヘミングウェイが書いたカフカだ」という誰かの指摘を取り上げて、それらに負うところの多い作品であることは認めながら、カフカとの決定的な違い、また、ヘミングウェイとの違いに読者の注意を向ける。そして最後に、語法の細かいところまで分析していく。ここまで来るともはやフランス語の問題になってしまって、ぼくには理解の及ばないところだ。過去分詞と定過去の違いと書いてあるが、日本語に翻訳したら同じ文章にしかならない。
 サルトルはどちらかというと哲学者で、文学者としてはかなり通俗的だという印象があったので、ここまで丁寧に文学的分析をやっているとは思わなかった。
 面白かったのは、ぼくが「異邦人の読み方」の中で引用したのと同じ個所を引用していることで、そこがとても印象深い箇所だという感じ方では一致していたということだろう。
 <すでにやわらいだ大気のなかの、新聞売りの叫び。辻公園のなかの最後の鳥たち。サンドイッチ売りの呼び声。街の高みの曲がり角での、電車の軋み。港の上に夜がおりる前の、あの空のざわめき>
 この解説の書き出しはこうである。
 <印刷所から出るとたちまち、カミュ氏の「異邦人」は喝采を博した。(略)このロマン自身、一個の異邦人であった。(略)母が死んだ翌日、「海水浴をし、女と関係を結び、喜劇映画を見て笑い」、「太陽のせいで」アラビア人を殺し、処刑の前夜、「自分は幸福であったし、いまもなお幸福だ」と断定して、「憎悪の叫びをあげて自分を迎えてくれる」ために、断頭台の周りに大勢の見物が集まることを希う――この主人公をどう解さねばならないだろうか。ある批評家は言った、「あれは馬鹿な奴だ、気の毒な男だ」と。もう少し分りのいい別の批評家は言った、「あれは無垢な男だ」と。それにしても、今度は、この無垢という言葉の意味を理解せねばならない>
 そうなのだ。そしてサルトルはやはりぼくがやったように、だが、それよりもっとずっと丹念に、このムルソーという謎の男を探っていく。
 驚くのは、「シジフォスの神話」と「異邦人」を照らし合わせるその微に入り細を穿つ手際だ。ぼくにはもうそんな記憶力はない。つい先日再読したばかりの「シジフォスの神話」なのに、サルトルが次々取り上げる箇所が、ぼくの頭に浮かんでこない。
 と、まあ、そういうことです。

糟屋和美「暴風来たりて」(「ふくやま文学」32号)

「民主文学」7月号の支部誌同人誌評で岩崎明日香が「ふくやま文学」32号から、糟屋和美「暴風来たりて」を取り上げてくれた。かなり詳しい紹介になっている。早速コピーして「ふくやま文学」の会長に送った。「民主文学」は支部の集まりだから支部誌が優先されるのは当然だが、毎回一つだけでも、支部誌以外から拾ってくれれば、新たな関係を切り開くことにもなるだろう。「樹宴」18号が無視されたのは残念だが、やむを得ない。誌面は限られている。
 糟屋和美はもともと力のある作家だが、今回作は特によかった。農家の出身ではない人間が日本で新たに農業を始めようとしたときにぶつかる困難を具体的に書いている。頭のなかだけで作り上げられるのではない、現実に取材した作品というのはやはり訴えるものを持っている。
 現実に取材しながら、しかもそれだけに終わっていない。これでもかこれでもかと襲ってくる困難にめげずに立ち向かおうとする精神が描かれている。これこそ、「ヨブ記」の世界だなあという気がする。
 付け加えれば、今回のコロナ騒動で、グローバル経済の見直しが必然となり、地産地消が注目されてきている。作者が先日くれたハガキは、そこにも希望を見出していた。

パソコン物語

 久しぶりに本屋へ行ったら、「ペスト」が入荷していた。カミュとデフォーが並んでいる。二冊とも買った。やはり新しい本がいい。
「まがね」の編集にかかっているので、「シジフォス」が途中やめになっている。ともかく読書スピードが、昔から遅かったが、ますます遅くなった。寿命との競争にとても勝てそうにない。
 ずっと時間を無駄にしてきたが、とりわけ40歳から60歳までがひどかった。いちばん仕事のできる年代を空費した。まあ、おかげで退屈する暇がない。
 いまのパソコンは2012年に買ったが、買ってすぐ、しまったと思った。画面が反射するのだ。自分の顔が映る。昼間窓のそばでは、窓が映って画面が見えない。カーテンを引いて真っ暗にして天井灯を付けて使うことになる。
 それまでのパソコンは画面が紙とまったく同じだった。窓も映らない。顔も映らない。本やノートと同じように使えた。あれは優れものだった。なぜ買い替えたのか、思い出せない。いや、思い出した。CDが使えなかったのだ。まだFDの時代だった。CDを入れることはできるのだが、書き込みができない。CDを買い間違えたと思って、何度も買った。どれを買っても書けない。パソコンの解説書を開いてみると、CD機能は読み取り専門で、書き込みのできない機種だった。まだFDの時代だったのだ。
 ところが新しいパソコンには、FDを入れるところがない。かつて、ワープロに記録した文書がすべてゴミになったが、今度はFDの記録がゴミになるのか、と嘆いたら、FDからパソコンに取り込むデッキが一つだけ在庫が残っていました、と言って探し出してきてくれた。
 そういう経過があった。ぼくの周りにパソコンに詳しい人が一人もいないので、いつも手探りなのだ。そのうえぼくは解説書を読まない。やみくもに使う。使って覚える。だからときどき致命的な間違いをする。
 話がどんどん脱線しているが、元に戻すと、このパソコンは光を反射して不自由なのだ。冬の間は真っ暗にすればよかったが、暑くなってきて窓を開ける。光が入るのでカーテンを閉める。カーテンが風に揺れて光が入る。というわけで、ふと思いついて、机の向きを変えた。いままで窓と直角にしていたが、窓に対面するようにした。なるほど、その窓は映らなくなった。ところが、背後の部屋の窓が映る。境のふすまを閉め切れば、やはり風が通らなくなって暑い。結局同じことだ。あきらめかけたが、また思いついて、最初とは180度机を回して、やはり窓に直角だが、窓が壁にさえぎられるぎりぎりの位置まで、机を下げた。後ろは本棚なので、それ以上は下げられない。ぎりぎりの位置だ。そうしてパソコンをセットしなおしてみると、画面が窓を拾わない。ぼくとパソコンの角度の関係で、窓から外れる。しかも風だけはぎりぎり体に当たる位置である。反対の窓も映らない。長年の悩みが解決した。
 というお話でした。仕事ばかりしていたので、気分転換に書いてみた。

「まがね」編集中

「まがね」の編集も一昨年、昨年と、もう三度目で、自分なりのメモも残していたので、楽にできるつもりだったのが、当てが外れた。老齢化で記憶力が全然ダメ。そのうえ最近ずっとパソコンの調子が悪いので、自分が間違えているのをパソコンのせいだと思ってしまったりして、ここ数日大変苦労した。
 A5で編集するのだが、A5ではペーパーにできないので、A4で2ページ分1枚に作る。それを印刷して校正用にする。だいたい終わったら、A5に切り離す。そして順番につないでいく。そこまでは、いつでもなんとかなる。最後にランニングタイトルを打ち始めてつまずいた。セクションを切り替えているのに、タイトルがつながってしまう。これがどうしてもうまくいかなくて、悪戦苦闘した。去年まではできていたのにできない。一昨年の最初のときにもちょっと苦労した記憶があったが、そのときにコツがわかって、去年は少しも悩まずにすっとやれたはずなのだ。それができない。これはパソコンが不調なせいなのだと思い込むので、よけいにできない。メモを読むが何も書いてない。二日悩んで、さっきやっとわかった。「前と同じ」というところが赤くなっていた。これを外せばよかったのだ。馬鹿々々しいくらい簡単なことだった。来年のために、メモに赤字で記入した。
 それひとつのために、さんざん文書をいじりまわしたので、せっかく切り離しておいたセクションがごちゃごちゃになって、セクションごとに文字数行数フォント書式が違うのが、その都度総崩れで、一時はどうなるかと思った。でも、「元に戻す」記号を打っていくと、かなり前まで戻ることができて、なんとか復活した。A4のペーパーは残っているので、最後にすべて点検する。
 メモが大事だね。一年に一度のことだから、忘れてしまう。間違えやすいところはメモしておかねばならない。
 A5にせねば編集できないし、A5にすると、もちろんA5用紙には印刷できるが、A4に印刷するのができない。最後にペーパーにして確認したいと思うんだが、それができないので、いつも本になって帰って来るまで少々不安なのだ。二度とも問題なかったのだが、三度目もやはり不安はある。特に今回は一度ごちゃごちゃになってしまったのでよけいに不安だ。だから、A4から印刷した編集前のペーパーと画面とを照合するつもりである。それしかない。まあ、がんばろう。仕事をしていれば呆けずに済む。健康のためだと思って頑張ろう。

「シジフォスの神話」

「シジフォスの神話」を読んでいる。これを読むと、もう「異邦人」論なんか全然書く必要がないじゃないかという感じになってしまう。カミュ自身が手を取り足をとるようにして「異邦人」を解剖している。例えば、マリイがムルソーに「わたしを愛してる?」ときいて、ムルソーが「いや、たぶん愛していない」と答える場面、読者はどういう意味だろうと考えこむが、「シジフォスの神話」(「シーシュポスの神話」清水徹訳 新潮文庫 2019年)の「ドン・ファンの生き方」131ページを開けば、詳細な解説がある。
 ちなみに、同じ新潮文庫だが、この清水徹訳の初版は1969年である。ぼくが読んだ矢内原伊作の訳は、初版が1954年で、ぼくが買ったのは19刷1966年だ。つまり、3年後には清水徹役に切り替わっていたわけで、そんなことはまるで知らずに50年経ってしまった。
 新しい本が読みやすいので読んでいる。読み終わったら、古い本とどう違うか、多少は照合するつもりだ。古い本をいまパラパラめくると、例によっていたるところ線を引いてある。当時どういう読み方をしたかを知ることができるだろう。
「『異邦人』の読み方(補遺)」を書くつもりだが、まずシジフォスを読み終え、あと、少しばかりほかの人の「異邦人論」に目を通すかもしれない。
 いずれにせよ、「樹宴」19号の8月締め切りに向けて頑張る。

ラノベについて

「民主文学」6月号に、中村恵美がライトノベル論を書いている。かなり多角的に論じていて感心したが、結局、ラノベの周辺からの論で、ラノベそのものの内実に立ち入っての論ではないように感じた。たぶん、この著者も、ぼくと同じで、ラノベにあまり食欲がわかないのだろうと同情した。
 普通の小説を読んできた人間にとって、ラノベを読むことはかなり苦痛である。2ページも読むと、もうその先を読み進むことはできない。だから、作品の外からは論じることができても、作品の中に入って論じることができない。
 ところが、いまの読者はこのような作品のほうが読みやすいのだ。ここにはすでに乗り越えがたい壁があるように見える。
 ぼくも読んでないので外からの論になるが、外からどう見えるかということを書く。
 描写が存在しない。シーンの情景描写も、人物の描写もない。あらすじだけを読まされる感じ。文学を読んでいるという感じがしない。
 オリジナリティがない。興味を引くような人物も内容もない。
 絵のない漫画を読まされる感じである。ぼくは漫画を好きなんだが、それは絵が、ぼくの想像力を刺激するからだ。ところがラノベは絵のない漫画だ。考えようによっては、読者の好きなように、いかようにも想像できる媒体であると言えるのかもしれない。ラノベの読者はたぶん書かれてないことを自分の想像力で補い、膨らませて読むのだろう。作者は素材だけを提供する、そこから先は読者が描いてくれということなのかもしれない。でもそれでは作者なんかいなくてもいいような気がするのだが。
 どのような創作物にしても、作者があまりにも素材を限定的に描いてしまって読者の想像する余地を失わせてしまっては、鑑賞するに値するものとはなり得ない。けれども、逆に、骨だけ書いて、肉体や衣装は読者が勝手に作ってくれというのでは、最初から作者なんかいらない感じがする。読者は創造物のなかに、作者の何らかのメッセージを読み取ろうとするのだ。
 また逆から見ると、骨だけを読まされる読者は、作者の提供する骨に、あまりにも安っぽいメッセージしか読み取ることができないのではないか。実際のところ、その作者は骨以上のものを与えてくれないし、そもそも持っていないから与えることもできないのではないか。
 と書いたが、これは2ページ読んだだけで放り出した人間の感想だ。これ以上は書きようがない。

コロナについて

 コロナについて何も書かずに来たが、知らないことなので、書きようがないのだ。全体的に言って、日本は奇跡的に頑張っていると思う。だからあまり安倍政権を責める気にならない。
 だが、ぼくらは運よく年金生活者だが、現役の人たちはたいへんだ。仕事と収入を失った人たち、反対に、感染の恐怖におびえながら過酷な労働に従事している人たち、この両極端の人々を先頭に、そのはざまで不安ななかで頑張っている人々、みんなに感謝したい。
 いまはその人々のために最大限の経済的援助を惜しむべきではないだろう。財政破綻とかいうが、不要なところにたくさん使っている金をこちらに回すだけでいいのだ。輪転機をグルグル回して株を買い支えたりする余裕があるのなら、グルグル回してこちらに支出すればよい。株は買わなくていい。株はほっておけ。
 金とは何か、という基本的なことを考え直す機会ではないか。要するにそれは需要と供給との仲立ち、生産やサービスの提供と、その消費や享受との仲立ちのためのツールである。何が必要なことで、何は要らないことなのか。その順番を見極める時。というと、文化がないがしろにされかねない恐れもあるのだが、これも一度失われるとその再建が大変なことを考えれば、人間生活にとってはやはり必要なことなのだ。さまざまな娯楽やスポーツも含めてね。

 早く感染し、早く死に、早く免疫ができたところが早く回復し、感染対策をやり過ぎたところはいつまでも引きずるという考え方もあったようだが、これは今回に限れば間違いだったのだろう。感染速度が速いと、医療崩壊をもたらし、たいへんな悲劇的状況をきたす。感染は遅らせるに越したことはない。長引いてもよいから遅らせる。その間に医療体制を立て直し充実させる。ワクチンの開発も間に合うかもしれない。そのほうが正解だ。

 一番驚いたのは、山中さんの会見だった。諸外国に比べて日本の検査数が極端に少ないことについての発言。
「何か理由があって意図的に少なくしているのか、それとも検査能力が足りないのか、情報がないので、わからないのだ。能力が不足しているのなら、我々研究者にとって、そういう検査は日常の業務なのだから、十分協力できる。だが、情報がないので、わからない」
 山中さんのところへさえ情報が届いてない。これにはびっくりしてしまった。
 そのあと急にこのことに関する情報が出始めたように思う。
 結果的に言えば、両方の理由があったようだ。能力も足りなかった。それを解決しようとするよりも、それで間に合わせようとして意図的に抑えた面もあったようだ。

 今回「保健所」というところが急に世間に顔を出した。その名前は聞き覚えがあるとはいえ、我々の意識のなかに存在するとは言えなかった。「保健所? え? それ、何するところ?」という感じだ。病院はわかる。だが、保健所とは何なのか。何かはるか昔にそういうものが存在したような気はする。前世紀の遺物のような。それで、結局、そこって何してるの? どこにあるの? 
 結局、それが間違いだったのだ。小さい政府のために保健所をどんどんなくしていった。何が必要で、何が必要でないのかということをわかってなかった。
 今回そういう種類のことが一挙に表に出て来たのだと思う。それこそ気狂いの植木屋か、土方歳三か、あれもいらない、これもいらないと言って切り捨ててきた結果が、今日の事態を招いているのだろう。

 それでも、諸外国と比べれば、日本はよく頑張っている。日本のどこがよかったのか、という点はやはりきちんと検証するべきだ。もちろん、まだ最終的な結論は出ていないのだが。
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