プロフィール

Author:まがねとおる
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

FC2カウンター

カテゴリ

リンク

RSS

天皇退位私論

 政治学者、原武史が天皇退位にまつわる動きを批判している。憲法第4条で「国政に関する権能を有しない」とされているのに、明仁天皇がひとこと言うと政治が動いた。これはあきらかに憲法に違反している、と。きょうの朝日新聞である。
 原氏が言っているのは明仁は退位してはならないということではない。明仁の言葉で政治が動くのはおかしいということである。退位に関する法整備が必要なら、それは国会が自主的に行うべきであった。権能を有しないはずの人によって政治が動かされるのは危険であるということなのだ。
 <もし国民の誰かが「陛下ももうお年なのだから、そろそろ皇位を皇太子にお譲りになって引退されたら」などと言おうものなら、それこそ「身のほどをわきまえない無礼者」とのそしりを受けた><ところが、いったん天皇からその意思が示されるや、圧倒的多数の国民が受け入れました。これが天皇と国民との関係です。この点で、45年8月と現在は変わっていません>
 原氏の危惧はよくわかる。日本人の精神がいまだに天皇神話に縛られており、天皇の一言で政治が動きかねない(現に動いた)ことを危ぶんでいる。
 しかし、ぼくはこの問題では違う意見を持っている。
 この問題では、ぼくはしりあがり寿氏の見解を支持している。この問題が出たときしりあがり寿はただちに、「そうか、天皇には人権はなかったのか」と書いた。それがすべてだとぼくは思う。
 憲法14条は、「すべて国民は、法の下に平等であって……門地により……差別されない」と書いてある。22条には、「何人も……職業選択の自由を有する」。18条には、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない……その意に反する苦役に服させられない」と書いてある。
 つまり、天皇をいつ辞めようとその人の勝手であって、これを強制する権利はいかなる権力も持っていない。
 もちろん憲法2条が「皇位は、世襲のものであって」と書いた時点で、14条と矛盾してしまっているのだが、だが、皇室典範に書いてあるのは皇位継承の順序だけであって、皇位を拒否することができないとも、天皇は辞めることができないとも書いてない。
 つまりいまさら、天皇退位法など作る必要はない。誰にでも職業を辞める権利はいつなんときでもある。そして天皇も実質上ひとつの職業であって、それ以上のなにものでもない。
 そしてこれを否定するとしたら、天皇は日本国民ではないのだ、だから憲法は適用されないし、人権は存在しないのだ、という結論に導かれる。
 しかし、人権とは単なる法律上のものではないだろう。それは法律以前に自然法として、すべての人間に与えられているものだ。この自然法に反する法律が存在するとしたら、その法律が間違っているのである。
 その点、「皇位は世襲のものであって」という条項は限りなく怪しいが、だが、天皇の退位を否定する条項がどこにもない以上、明仁は自らの意思で天皇を辞めることができる。それはいささかも国政に関することではない。何故なら天皇は国政に関与しないのだから、国政に関与しない人間が国政に関与しない地位から降りることが国政に関与するはずがないのである。

小説と謎

 たとえば、ストーリーの当事者の心理を日本的=自然主義的=私小説的に丁寧になぞっていく、というのでなしに、第三者の目でストーリーの外側から観察したものだけを書いていく、あるいは、当事者の視点で書いてはいるのだが、当事者自身がはっきり呑み込めないままに、そういうものとして(はっきりしないものとして)描き出す。
 こういう小説にはおそらく両面の評価がある。書かれていることがあいまいで痒いところに手が届かない、物事を追求しきれていないという評は当然あるだろう。しかし現実というものは言葉にできるものなのか。そんなに単純なのか。芥川の「藪の中」ではないが、所詮すべては「まなざし」だろう。書いた瞬間にそれは誰かが見たものとなって、現実そのものから離れてしまう。
 すっきりと分かる小説にはどうしても通俗性を感じる。現実ってそんなに単純じゃないよと言いたくなる。
 わからない小説がわからないなりにその雰囲気で読者を引き付けるのにはそういう事情があるのだ。現実の複雑さを見せてくれるように思えるからだ。
 ところが書きなれない作者は、せっかくいいムードで書き進めながら、最後でそのムードを自ら破ってしまう。理屈が入ってくる。理屈がスト-リーを単純にしてしまう。「なんだ、書きたかったことはそれだけのことなの?」という感じになってしまう。

 以前、当ブログへの匿名の投稿者が、「推理小説は謎を解決してしまうので面白くない。人生は永遠の謎だろう」と書いていた。推理小説が謎を解決できないでは困るのだが、文学としての小説は、たしかにこの投稿者の言うとおりだろう。
 そういえば安部公房の「燃え尽きた地図」は探偵が謎を解決できないままに終わっていたっけ。

豆塚エリ「いつだって溺れるのは」(太宰治賞候補 234枚 23歳)

 今日の新聞で16歳の少年がすばる新人賞を取ったと報道されていた。文章力、表現力、構想力といったものは十代で十分身に着けることはできる。あとはたぶん人生経験だけだ。それも若い人は若いなりにあって、齢をとると失われてしまう感性があるから、十代でなければ書けないものもある。
 ぼくが十代の終わりで早くも行き詰まってしまったのは、あまりに孤独な少年時代で、人間関係に乏しすぎたのが一因だ。人間を書けなかった。いま子供たちを見ていると、子供ながらに立派に社会生活を経験している。なるほどあれなら書けるなと思うが、逆にああでは書く動機がないかもしれない。
 若くして作家として出てくる人は人それぞれだとは思うが、読書量だけでは決まらない。

 さて23歳、最終候補になったときはまだ22歳である。
 じつは最終候補四作のなかで一番ひっかからずに読んだ。文章も、人物も、ストーリーもなめらかで読みやすかった。そのぶん、通俗的だとは言える。ただ、ほんとうに通俗的なだけの小説というのは決して読みやすくない。嫌気がさすからだ。この作品が読者を引き付けるのは、主人公の設定にある。
 主人公、葉子。17歳で、頚髄損傷、下半身の感覚を失い、以後車椅子生活。リハビリを担当した理学療法士の修司(10歳年上)と結婚してすでに数年、いま24歳である。
 ストーリーの展開に沿って、頚髄損傷者として被る通常とは異なる生活のあれこれがひとつひとつ具体的に描写されていく。ところがそこにわざとらしさがない。自然にストーリーに溶け込んで、ごく当たり前のこととしてさりげなく描かれる。豊かなリアリティがある。作者が自分の体験を書いているのではないかと思わせるところがある。22歳で、体験ではなしに取材で書いたとすれば、すごい才能である(もちろん実際の体験者からすれば、おかしなところもあるのだろうが)。それはつまり書いてある内容よりも、その書き方があまりにも自然なのでそう思ってしまうのだ。
 途中まではこの作品がいちばんいいとも思った。
 読み進めると、葉子の母親はホステスで、父親は地元のお金持ちだ。葉子は婚外子なのだ。このあたりからちょっと設定を複雑にしすぎじゃないのという疑問がわいてくる。さらに読んでいくと中学からの親友が出てきて、これは中学を不登校で過ごし、高校で立ち直って大学を出ていまは中学教師である。脇役までが複雑なのだ。そして最後にダメ出しのように、高村という50代の元中学教師が登場する。葉子は結局この男と恋仲になって修司と別れるのだが、これがじつは教え子と恋仲になって妊娠した彼女を自殺に追い込んだか殺すかし、妻をも殺そうとして失敗していま植物状態の妻を看護する身である、という噂を持つ男である。ところがこの噂の真相は、女子中学生を妊娠させたのが彼女の兄だったとか……。
 つまり作者はバラエティ番組から拾ってきたようなありふれたパターンをあれもこれもと詰め込んでしまったのだ。こうなってしまうと234枚という短さではどれもこれも時事ニュースでしかない。物語になりえないのである。
 結局何を書きたかったのかわからない作品になってしまった。

 この作品でも思うのは、一人称で書くべきだったということだ。22歳の作者には50歳の男を書くのは荷が勝ちすぎている。三人称で書いたので、22歳の眼では見ることのできない男の全体が見えているかのような書き方になった。22歳の主観でしかないものがまるで男の客観であるかのように書かれてしまった。
 その結果、高村は少女漫画に登場する大人のような風貌になった。
 見えてないものを背伸びして見えているかのように書いてはダメだ。作者は葉子の目に見えるものだけを書くべきだったのだ。そして見えないところがたくさんあるのだということをそれとなく匂わすべきだった。高村は大人の謎を秘めた人物にしておくべきだった。全部わかっているかのように書いたので、物語が逆に単純になり、漫画的になった。作者の人間観が薄っぺらくなってしまった。
 しかし、もったいない作品なのだ。十分に構想力や表現力を持った作者である。少し欲張りすぎた。

 葉子と高村が接近するきっかけが小川洋子の小説だったというところを審査員が批判していたが、同感する。かなりしつこくいつまでも小川洋子が出てきて辟易する。この回から小川洋子は審査員を抜けたが、それまでは審査員だったので、よけいに要らぬ誤解を招きかねない。それを抜きにしても、もっと古典的な作家にした方がよかっただろう。

小説の条件

 読みたくなる小説の条件て、なんだろう。
 古典の読書に専念していればそんなこと考えもしなかっただろうし、怠惰な人生を送ってきたせいで何も読めていないぼくは、それこそ古典を楽しんで余生を送っていればよかったはずなのだが、何の因果かアマチュアの小説にどっぷりつかってしまった。
 懸賞小説の下読みをしているわけでもなく(下読みの皆さんは本当にご苦労様だと思う。下手な小説を読むということは苦行だ)、なんの義理があるわけでもないのだが、一度その道を行き始めたらなかなか方向転換できないのがぼくの人生である。
 いま書きたい小説があるわけでもないので、ともかく読んでいる。もともと何をするのもとろい人間なので捗らないのだが、ともかく読んでいる。それでしばしば読む意欲の起こらない小説にぶつかってそんなことを考えてしまう。
 読みたい小説の条件て、なんだろう。
 ストーリー、文章、人物、この三つだろう。三つともそろっていれば軽快に読んでいける。だが、あとの二つがだめでも、ひとつでもクリアしていれば、なんとか読めるのだ。三つとも駄目な小説は読むのが苦行だ。
 先を期待させるストーリーがあること。
 何かしら味わいのある文章であること。
 興味を引く人物が登場すること。
 ストーリーはないよりはある方がよいが、どんなストーリーでもよいというわけじゃない。やはり読みたくなるストーリーの条件がいくつかあるだろう。それを要約すれば「先を期待させる」ということだ。
 文章は整っていればよいというものじゃない。テニオハもなってない文章にはてこずるが、ただ整っているだけで無個性の文章は読んでいて少しも面白くない。文体には作者の思想が現れる。文体感覚のない文章はダメである。
 人物。いちばん腕前を試されるのは平凡な人物を書くときだ。個性の乏しい人物なのだから、個性を書けなくて当然だろ、というような姿勢を見せたらそれは作家じゃない。個性のない人間なんかいない。どんな人間にも他人にはない個性が必ずある。それを見つけ出すのが作家であり、それを書き上げるのが作家だ。それが書けていない小説は読むに値しない。
 というようなことを考えていて、さて自分の小説はどうなんだろうと省みた。少なくとも30年前「まがね」に書いた小説は、まあ、なんとか読めるんじゃないか。でも「まがね」に復帰してここ数年に書いた現場ものの小説、あれはやっぱり駄目だな、読む気の起こるような小説じゃなかったなといまさらながら思う。

「樹宴」11号発行

「樹宴」11号発行です。
 こちらには拙作ミステリー「スプーン一杯のふしあわせ」の連載を始めました。「福山ミステリー文学新人賞」一次通過作品です。各回百枚づつ、4回で終了です。
 なお、次の各氏が小説を書いています。
 大丘忍 守屋陀舟 足立 武 木沼駿一郎
 定価500円 送料180円 116ページ(簡易製本)

 注文先
 〒125-0032 葛飾区水元3-1-14-204 深井方 樹宴文学同人会
 TEL 03-3600-2162
 e-mail kofu65y@yahoo.co.jp

 同人募集中
 年会費3600円 年3回発行
 作品掲載料 無料
 上記にご連絡ください

「ふくやま文学」29号発行

「ふくやま文学」29号が発行されました。
 今回拙作「幽霊」を載せていただきました。
 ほかにも13名の力作小説、5名の詩、6名の随筆、児童文学1、紀行文1、特集エッセー(食べごとのはなし)9、総ページ236頁上製、表紙絵は開原通人です。
 定価500円、送料180円です。以下にお申し込みください。
 〒721-0971 福山市蔵王町3197-3 大河内喜美子

噛み合わない議論

 コメント上で高原・植田両氏の議論が続いているが、はたから見ても噛み合っていない。なぜ噛み合わないかというと議論が抽象的だからである。議論対象が思考方法についてなのだ。思考方法というものは頭の中の問題で、各々別々だろう。むろん共通する部分もあるだろうが、それを見ている角度が違うし、それに与えている序列も違う。したがって名付け方も人それぞれで、言葉の意味するところがまったく違う。そういう場所でいくら議論しても噛み合うはずがない。
 具体的な我々の住むこの世界の、具体的な問題に引き戻してこなければ、議論というものは成り立つまい。
 だが、いま世界は混迷を深めていて、具体的な問題にどう対処すべきかというと戸惑うばかりなのだ。議論しようにもしようのない状況がある。
 おそらく、だから議論が抽象の世界にいってしまう。それはぼくには虚しく思える。
 現実世界との接点を手探りで探っていく、そういうことをぼくは求める。
 どこにも絶対的な解はない。希望の芽をどこにどういう条件付きでどの程度求めるか。そういう手探りなのだ。

広井公司「トランス・ペアレント」(268枚 太宰治賞候補 39歳)

 作者は説明もなく、いきなり淡々と書き連ねる。読者はしばらく設定がつかめない。この調子で268枚も読んでいけるだろうかとふと不安になる。だが小刻みに区切られた3の章に入って、筑摩書房版の191ページの終わりごろから、その文章の与えてくれるイメージの美しさに思わず引き寄せられてしまう。
 男に去られた女が娘を連れてドライブに出る。どこかの駐車場に車を止めて外に出てタバコを吸う。母親がタバコを吸うのを娘は初めて見た。吸い終わると戻ってきてぼんやりとまわりを見やっている。やがて娘の髪やからだにさわり、帰途につく。その情景を小学三年生の娘が見ている。三人称で書いているが、すべて娘の眼に映るものだけを書いている。
 ストーリーらしきものはほとんどない。登場人物は平凡な人々だけである。何もない。何ごとも起こらない。ただその散文の美しさが読者をとらえる。
 ぼくが日本文学をほとんど読んだことがなくて、翻訳ばかり読んできたせいだろうか、文章の美しさで読まされる小説に初めて出会ったような気がする。それは着飾った美しさというのではない。ごく日常的な文章で、ごくあたりまえの風景を、少しの気負いもなく淡々と書いているだけである。だが、それが読者の心にえも言えぬ美しいイメージを呼び起こす。これは奇跡的な作品だ。受賞作よりもこちらの方が圧倒的によい。
 男がいて、本をたくさん読んでいる。ある日妻と娘を置いて出ていく。残された女はホームセンターで働き、最初は気持ちの整理がつかないが、一年経った頃から、気持ちが落ち着いてくる。早朝の仕事を掛け持ち、さらに資格を取るための勉強を始めたりする。娘は母親には内緒で定期的に父親と会っている。父親は後悔しており、帰りたいのだが、帰れない。やがて妻と会った男は彼女の方にもうその気がないことを知って離婚を承諾し、娘の前からも去っていく。娘が母親に内緒で父親と会っていたことを知った母親は逆上し、娘に暴力をふるう。
 そういうストーリーは一応あるのだが、それはいわば背景のようなもので、書かれるのは娘の日常生活である。学校に行き、友達としゃべったり歩いたりする。じつによく歩く女の子で、その歩く道すがらを作者は淡々と書いていく。「淡々と」としか言いようがないのだ。それも物珍しい風景ではない。ありふれた街のありふれた情景を描く。すべてが娘の眼に映る景色である。作者が書くのは風景であって娘の心ではない。だが読者が読みとるのは娘の心なのだ。そして母親の心であり、父親の心でもある。
 何も起こらない小説を268枚も読めるだろうかと危惧する必要はない。引き込まれ、手放せなくなるのは必定である。個性を書き分けられた何人かの女の子たち、男の子とのちょっとしたやり取り、そういう描写もじつにうまい。
 時間が行きつ戻りつする。読者はちょっと戸惑うが、時間経過で語らないのは娘の心の動きに合わせて語っているからなのだ。
 ただ正直に言うと、まだ少し時間的経過が読みとれきれていない。
 二年生の時には父親はまだいた。小説の最後のほうでは四年生で、その夏休み前に、<私もね、一年以上あんたと二人で暮らしてきて>(232ページ)、いつから父親と会っていたのか、<うん、去年の、三学期のはじめくらい、一月かな>(同ページ)
 というところがよくわからないのだ。去年の三学期なら二年生の時のことになる。それが父親と会うようになった最初なら、<二人で暮らしてき>たのが<一年以上>ではすまないだろう。この<去年の、>は娘が記憶をたどっているところということなのだろうか。
 さて表題の「トランス」なのだが、tranceと綴るかtransと綴るかによって意味が違ってくる。たぶん前の意味ではないか。トランス状態などいう使い方をする頭のぼんやりした状態。これはラストで、子供の自分には何もわからないけれど、大人にも何もわからないのだと娘が悟る、そういうことを指しているのだろう。
 太宰治賞は落選作品もレベルが高い。この作品は読んで得した。

コメント編集用ボタン

 コメント663のコメント編集ボタンが消滅しているという指摘があったので、見てみたら、実際663だけボタンが消えていますね。原因不明です。しかし、「コメント編集」とは妙な言葉ですね。「コメント訂正」と書くべきでしょう。「ワード」の技術者の使う日本語は日本語になっていませんね。
 Windows出始めの頃、「不正な使用」という言葉が頻繫に出てきました。なにか法に反することをしたのだろうかと嫌な気持ちがしました。「不正」という日本語は、「不法」とか「道徳に反する」という意味あいで使われます。ところがこの技術者は単に、「間違っている」という意味で「不正」と言っていたのです。どういう連中が作っているのか知らないが、日本語教育をする必要がありそうです。

高原・植田対論

 コメント上で高原・植田両氏の対話が再開している。かなり抽象的な内容で必ずしもついていけていないが、目は通させてもらっている。まったく迷惑ではないので、どうぞ自由にコメント欄を使ってください。
 両氏の比較的まとまった文章をいくつか印刷して、手元にあるのだが、まだ読めていない。当分読みたい小説を何本も抱えているので、そちらを優先したい。
 そのうちまた両氏の話し合いに参加させてもらいます。

サクラ・ヒロ「星と飴玉」(310枚 2016年太宰治賞候補作)37歳

 300枚の小説に第一部と第二部とがある。少し大げさな感じだ。一章、二章でいいだろう。ただ読んでみると、一部と二部とで内容が大きく変わっているので、納得できないでもない。
 一部を読んでいるあいだじゅう、かなり苦痛だった。面白くないのだ。登場人物がいずれもありきたりでオリジナリティに欠ける。行動もセリフも陳腐で凡庸だ。どこが良くて最終候補まで残ったのか。こんなものを読まされるのはかなわない。と思ってもう少しで投げ出すところだった。だが読みかけたものを投げ出すのもしゃくなので、読み続けた。結果としては読んでよかった。最後まで読むと結構面白かったのだ。
 一部は中下35歳の日常生活である。美大志望だったが実力も親の経済も伴わず、三流大学を出て、ご多分に漏れずアルバイトと派遣で、一年前にやっと正社員の職を得た。最近こういう設定が目立つ。実際そういう世の中になっているのだろう。それを書くのが流行しているような気もする。
 それにしてもむかしの小説と言えば、大衆小説は別にして、文学と名がつくと偉そうな作家先生が愚にもつかぬご託を並べてみせるようなものばかりだったが、最近は普通の労働者が主人公だ。それも民主文学が書くような組合があるような恵まれた労働者ではなく、最底辺の労働者である。しかもみないちおう四年制の大学を卒業している。たしかにそういう時代が来たのだと思う。
 正社員にはなったがブラック企業なのだという。しかしブラックと百回書いてもブラックになるわけではない。ブラックなどという流行語に頼らずに企業の実態を書かねば駄目だろう。朝から営業に出かけ、帰ってくると成績が上がっていないと何時間も説教され、そのあとはパソコンでデザインを書いているらしいのだが、帰宅は深夜になる。しかも給料は安い。と聞けばたしかにブラックに見える。
 ところが中下は営業なんかしていない。朝会社を出るとその足でネットカフェにしけこみ、出会い系サイトで人妻を漁っている。複数の人妻とネット上でのやり取りを交わし、そういうことは慣れたものですごいスピードでキーを打ち込む。何時間もやる。それからその中の一人と打ち合わせてラブホで寝る。
 営業もせずにネットのやり取りとセックスに明け暮れているのだから仕事が取れるわけがなく、説教されて当たり前で、帰りが遅くなってもほとんど労働なんかしていないのにブラックなんかじゃない。しかも人妻たちと遊ぶ金をどこで工面しているのだろう。人妻たちは中下の何に引っかかるのだろう。ネットの文章作りがうまいらしいのだが、実際に会えばそれだけでは続くまい。金払いがいいか、性的魅力があるか、口説きがうまいか、どれかひとつなければ、女は付いてこない。
 ところがそういう具体的なことを一言も書いてない。だいたい具体的に女と会っている場面がない。それでいて、年増の女たちなんかほんとうはいやなんだ、ただ仕事がブラックでつらいからストレスの捌け口なんだ、上司のいじめに遭って精神安定剤を服用しているのだと来る。
 中下のイメージがどうしても結ばないのである。そんな根暗の男が女にもてるはずがない。
 そういう無内容な、言葉だけのありふれたパターンのあとで、これまた型通りの女の子との遭遇である。ネットカフェに寝泊まりしながら、そこで売春して生活している19歳のナナである。大勢の女たちとセックスしている中下が、その女たちには関心を示さず、このナナにだけ惹かれる理由が分からない。彼女が若いということ以外の理由が見えてこない。
 第一部の終わりで、中下は高校時代の同級生に会う。高峰。東大法学部を出て、官僚だったが、辞めた男。そして第二部が始まる。
 第二部に来て、第一部がなぜあんなにつまらなかったかがはっきりとわかる。
 それは一部は二部を開始するための伏線に過ぎなかったからなのだ。二部のストーリーを展開するための配役準備だった。この作者は一部においては、人間を書きたくて人間を書いたわけではない。ただ二部で展開するストーリーに都合がよいような配役を準備しただけなのだ。
 だからすべてが型通りで、ありきたりで、凡庸で、つまらなかった。読者をひきつけるような生きた人間がどこにもいなかった。
 二部ではストーリーが動き始める。人間が凡庸でもストーリーが動けばそれなりに読ませる。
 高峰は詐欺師で、中下はその片棒を担がされる。中下が、ネットで女をだますことにかけてはプロなのだということが、高峰にとっては渡りに船だ。一部のずいぶん無理な設定がここでやっと生きてくる。このストーリーのためにはどうしてもそうでなければならなかったのだ。だから必然性がなくてもそういうことにせねばならなかった。
 そういうふうに納得がいくので、二部はすらすらと読んでいける。しかし通俗的で文学性に欠けるなとは思いながら。
 やっと面白くなるのは、ほんとうに最後になってからである。ナナの持つ絵の才能に中下が気付き、これを世に出してやりたいと思い始めたところから物語は急に躍動を始める。人が輝くのは自分のほんとうにやりたいことをやっているときだと悟った中下は、高峰と縁を切る覚悟をする。つまりナナは絵を描くことで輝き、中下は彼女の才能を助けたいと思ったとき、自分の人生に張り合いを見出した。
 だが、ナナは高峰から逃げるのかと問い、懲らしめようじゃないかと提案する。この辺りはジェットコースター的な出来栄えである。
 懲らしめがまんまと成功して、ラストでもうひと騒動あるのだが、中下と高峰がグルになって大金を巻き上げた女の夫が中下に襲いかかり、危ういところを当の女によって救われる。これをとおして、かつての中下にとっては性欲処理の対象に過ぎなかった人妻たちのなかに当然ある人間性に中下がやっと気づく。この最後の部分で、この作品は救われた。
 審査員の一人が、この作品は一人称で書くべきだった。書き直してごらんと言っている。ぼくもそう思う。
 つまり、中下の視点で書いてはいるのだが、三人称なので、地の文と作者との区別がもうひとつはっきりしない。書いていることがあまりにも凡俗なので閉口してしまう。これを一人称で書けば、すべてが中下の考えで作者がそう思っているわけではないのだということがはっきりする。
 これがつまり最後に人妻たちの人間性に中下が気付く場面なのだ。女たちと寝れば当然気付かねばならないことなのだ。ひとり一人違う人間であり、一人一人からそれぞれその人間性を受けとる筈なのだ。女たちとの場面を第一部で書いていれば、それを書かずにおれないはずだった。それに気づかない人間がいるということがまず不自然なのだが、それを中下の一人称で中下の主観として書けばそれなりに読者を納得させることもできたかもしれない。
 ところが三人称だったので、作者の人間観の貧困として読めてしまい、話に入っていけなかったのである。

「楽園」追加

 小説は嘘である。小説とは嘘を書くものだ。だが、嘘を書いてはならないものもあるだろう。嘘を書くことになじまないもの、事実が重すぎるもののことだ。
 第二次大戦の敗戦以前の日本帝国主義の諸外国でのふるまいもそういうことのひとつだろう。そういう重すぎる事実について嘘を書くことはできない。だが事実を書くとしたら、それは小説ではない、ドキュメントである。もちろんドキュメントの文学的価値も大きい。
 だが、それでも小説にしたいと思ったら、どう書くべきなのか。夜釣十六の「楽園」は、そういう試みのひとつだろう。
 作者自身の言葉によると、作者はかなり丹念な聴き取りをし、ネットではなく、自分自身の足で取材した。それでもそれは伝聞であって自分の体験ではない。それに実際の体験者はすでに百歳に近い。作者が訪ね歩いたのは直接の経験者だけではなく、この小説の場合のような間接的な伝承者もいたのではなかったか。
 だから作者はそれをそれとして書いたのである。彼女は知ったかぶりをすることを避けて、自分が体験していないことをあたかも体験したかのように書くことを避けて、むしろ伝承という行為に重きを置いて書いた。
 いま日本帝国主義の過去を美化しようとする動きが急である。この作品の元憲兵も、東南アジアをヨーロッパの植民地から救うのだと信じて行動する。そして激しい拒否に遭う。そういうことを伝聞の伝聞として書いた。それは作者の切り開いた独自の小説的方法であったのかもしれない。

夜釣十六「楽園」137枚(「太宰治賞2016」筑摩書房)

 一気に読んだ。読ませる作品である。適度の軽さと適度の濃さが混ざり合った文体。適度の通俗性と適度の文学性を兼ね備えた語り。そして現代と過去とが響き合った物語。
 主人公、橘圭太、30歳。身長180センチのラグビー少年だったが、監督の指導方法についていけずに退部。女子率7割の福祉系大学で大いに楽しんだが、老人ホームでの実習が始まるや脱落、卒業だけはしたが、資格は取れなかった。警備員として働きつつ、その稼ぎをパチンコにつぎ込み、借金まみれ。親元からも追い出された。
 そこへ祖父からハガキが届く。母の父親らしいが会ったことはない。何やらを受け継いでくれという。少しでも金になるならと訪ねていく。
 ところがその場所たるや、安部公房の「砂の女」の舞台のようなところである。絶壁に囲まれた盆地、方々に廃坑があるが、どれも行き止まり。来るときに通ったトンネルがあるのだが、戻ろうとしたら戻れない。
 閉じ込められてしまった。老人が一人、祖父と名乗るが、祖父にしては若すぎるような気がする。受け継いでほしいのは、ここで育てている月下美人なのだという。金にもならないものなど欲しくもないので逃げ帰ろうとするのだが、逃げ道がない。
 やがて老人は東南アジアの某植民地での憲兵としての経験を語り始める。
 一度は脱出に成功するが、なぜか老人の話に惹かれる圭太は舞い戻る。最後に明らかになるのは、老人は圭太の祖父ではなく、戦後生まれの団塊世代で、その閉鎖された盆地に昔あった炭鉱町の生まれで、戦後7年経って南方からやはりその盆地に戻ってきた圭太の祖父と、子供時代に面識があった。老人は炭鉱町の貧困から抜け出し、企業戦士として世界中を飛びまわっていたが、52歳で妻に先立たれてから虚しくなって盆地に帰ってきた。そこで圭太の祖父と再会し、十数年を自給自足でともに暮らし、彼の南方での経験を受け継いだ。そして、本人が死んでしまったいま、それを圭太に受け継がせようとしている。
 月下美人は圭太の祖父が南方から持ち帰った苗なのだ。

 話の最も肝心なところは圭太の祖父が植民地で日本軍憲兵としてやってきた内容なのだが、それを語るのになぜこのような複雑な手続きを必要とするか。それはそういう方法でしか語れないからなのだ。作者は28歳のお嬢さんである。だから彼女は知ったかぶりをすることをやめた。伝聞の伝聞として語ることにしたのである。
 ある日祖父は原住民の影絵芝居に惹かれ、その平たい人形を売ってくれと頼む。
 <どうぞ差しあげます。お代は結構。そのかわり、あんた方が死なせた島の人をひとり残らず生き返らせたうえ、お仲間をつれてこの島から出てってちょうだいよ>
 祖父はその女を殴りつけた。その女はのちに他人と間違われて処刑されたという。
 実際に語られているのは、南国の生き生きとした情景を含めても、わずかなことである。それを語るのが小説の役割ではないからだ。いまどきネットを検索すれば、どんな知識でも手に入れることはできる。経験していない人間が伝聞で書くことには意味がない。だから作者はわざと伝聞の伝聞にした。作者が表現しようとしたのは、伝えるべき内容であるよりも、むしろ伝えるという行為そのことの意味である。そしてそこにひとつの豊饒な物語世界を紡ぎ出したのだ。

 圭太という人物を必要以上に描こうとしない作者は、このいいかげんな生き方をしている青年が老人の語りに惹かれていく心の動きに、いまいち説得力を持たすことができていない。そこは少し気になるのだが、しかしわれわれ読者自身がその話に引き込まれていく以上、それはあまり問題にしなくてもいいような気がする。
 気になると言えば、老人が圭太の祖父の経験を受け継ごうとした動機も、充分に書けているとは言い難い。
 それもこれも作品として不十分な点なのだろうが、この短い作品の中でこれだけの世界を描き上げたのは、やはりまれな才能であろう。
 最後はその盆地近くの村で開業しているシングルマザーの女医(老人の娘で40歳くらいなのだが)に対する圭太の恋心をほのめかしつつ、人生をやり直そうとする圭太の決意を描き出して終わる。なかなか心憎いのである。
 月下美人が開く場面。
 <抱擁から放たれたつぼみの先が、ほう、と吐息をもらしてほどける音を、圭太は聞いた。グロテスクな生き物を思わせるつぼみは、冷たい月の光を浴びながら大輪の白い花へと変貌をとげた。一輪の花から溢れる芳香で夜が濡れる>

「民主文学」17年3月号

 青木陽子「北横岳にて」

 せつない作品である。癌を切除して、抗がん剤と放射線治療を一年続け、一段落したと思ったら転移が見つかった。あと何年生きられるのだろうか。誰しもそこでいったん立ちどまる。しかしそこで終わってしまわないのが、青木陽子である。
 <自分の命が後いくらも残されていないのかもしれないと、そう思う瞬間が来れば、誰だって、どうしたって、そのことを見つめてしまう>
 <私はどうする、と思った時、何かしら、ふっと風が吹いたような気がした>
 <自分の命がたとえ後一年であるとしても、十年だとしても……百歳近くまで生きるのだとしても、生き方は同じ。明日からやることも同じ>
 <取り組もう……出かけよう……見つめ直す。そしていい小説を書きたい>

 渥美二郎「この夏も歩く、歩き続ける」

 いつにも増して軽快なジロ-ワールド(多少やせ我慢的にも見えるが)。15年夏、戦争法反対で歩きまわった人々もいまはどこかに消えてしまった。だが、ジロー先生は16年夏も歩く。ポケモンGOで歩くのだ。漱石の「猫」と張り合うごときユーモアセンスに笑いがとまらずに読んでしまう。だが、含意は深い。
 ハリガネムシはカマキリの体内に住んでカマキリを操り自分の行きたいところへ行かせる。ポケモンGOが人々を操って行かせる先は、マクドナルドや何やかやというスポンサーたちのところなのだ。
 だが、若いころマイノリティを自負していたジローは、いまやマジョリティであることをためらわない。インテリぶって大衆を見おろしていたって、運動は前には進まない。
 <この夏も、この夏が終わっても、僕はiPhone片手に歩き続けるだろう。ポケモンGOをやるために歩くのではなく、歩くためにポケモンGOをやるのだ>

 斎藤克己「銃を持つ思想」

 <九歳になる長男のためにモデルガンを買った。長男のためというのは口実で、私がほしかったのだ。銃嫌いの妻にとやかく言われないために、もうひとつ口実を用意した。鴉だ……こいつら、生かしちゃおかねえ>
 うまい書き出しである。こういう作品を「民主文学」にもっとほしい。
 武器を持って、使いたくてたまらなくなった男の話で、もちろんいまの日本の軍備を風刺している。だが全体が書き出しのようにうまくいったかというと、少し不満がある。
 男が子供だった時の銀玉鉄砲の話とかが出てくる。出てきてもいいのだが、そこが風刺調から外れてなんだか懐かしげに長々と続く。男が懐かしがるのはかまわない。もちろんそうであってしかるべきだ。ところがどうも作者の方が懐かしがってはいないか。作者だって人間だから懐かしがってもいいが、それが作品に現れてはまずいだろう。
 こういう作品ではテンポが大事だ。最初から終いまでムードが統一されていなければならない。途中が変に写実的になったりしては破調になる。
 だいいち、鴉が途中からどこかへ飛んでしまった。鴉は最初から口実だったにしても、<こいつら、生かしちゃおかねえ>と本気で怒っている。それをちゃんとストーリーのなかに組み込んでほしかった。
 タイトルはどうだろう。作者の意図が生のままに出ている。少し興覚めではないか。ほのめかすようなタイトルのほうがよかっただろう。
 しかし、いい作品である。

 浜 比寸志「彼岸花」

 これも癌の話、最後のひとつもそうで、作家たちがみんな老人になったのでやむを得ないことなのだろうが、残念ながらこのひとつは記憶に残らなかった。どれも同じような話になるので、そこに何かその作家ならではの個性がなくてはなるまい。
 短い中にいろんな患者が出てくる。先に出てきた患者の話はそこだけで終わってしまう。見ようによってはドストエフスキーの「死の家の記録」(シベリア徒刑囚の群像劇)のようにも見えるが、なにぶん短い作品なので、誰か一人の話に絞るべきだった。

 一箇所校正ミス。
 54ページ下段、終わりから三つ目の段落。
 <それ以上の不幸があってはならないようにというのが悠介の思いだった>
 正しくは、
 <それ以上の不幸があってはならないというのが悠介の思いだった>
 もしくは、
 <それ以上の不幸がないようにというのが悠介の思いだった>

 大浦ふみ子「谷間にて」

 短編というのはなかなか記憶には残らないが、この人の名前はその短編とともにぼくの記憶にあった。ブログ内を検索したら出てきた。

 大浦ふみ子「佐世保へ」(11年8月号)
 この作品はジッドの「狭き門」を連想させた。お互い思いを抱きながらお互いの誤解から食い違う男女、しかも、作者は誤解だと書かないのに読者はなんとなく分かって、はらはらさせられる。心憎い作品である。


 というのがそのときブログに書いた感想だ。「民主文学」の感想を書き始めた第一弾である。話の詳しい内容は忘れたが、大人の恋愛感情を見事に書き出していたと思う。うまい作家だと思った。6年前である。その後「民主文学」に登場したかどうか、ぼくもあまり真面目な読者ではないのでそれも記憶にない。

 今回の作品は、高齢の男性医師二人の対話を中心に語られていく終末期医療の話である。一人のほうが癌になり、ごく若いときからの親友であるもう一人に、「いざというときにはけりをつけてくれるか」と大昔の口約束を思い出させる場面から始まる。医学生時代に共に行ったケニアのトゥルカナでの医療活動を思い出しながら、話は安楽死、尊厳死、臓器移植から優生思想へ、さらに出生前診断による妊娠中絶の話にまでも及んでいく。話し相手は妻の兄だったり、妻だったり、トゥルカナ会の医者たちだったりするのだが。
 非常に重い内容にそれでも読者を引き付けるのは、話が一般論としてではなく、自らの死を意識し始めた医者が、一般論としてしか語らない人たちに対して、自分の内面から突き動かされる言葉で語っているからだろう。
 問題は絡み合っていて単純ではない。しかし少なくとも、政治権力がそこに関係してくることに対しては警戒が必要だということを主張している作品である。

 ただ一点。主人公の孫娘は、保育士を何年かやった後アフリカに行き、帰ってきて大学院に入り直している。すでに20代の後半だろう。とすると主人公はいったい何歳なのか。作品から受けるイメージが若すぎる感じがする。とはいうものの、自分の齢を考えてみると、従来小説で読んできた年寄りのイメージにはまったく合わないなと思うし、小説で読んできたのは若い作家の目から見た高齢者だったのかもしれない。つまりこの小説のイメージのほうが本当なのかもしれない。

 仙洞田一彦「忘れ火(第三回)」

 連載小説は読んだことがないのだが、仙洞田さんなので読んでいる。ところがなにか少しおかしい。文章のうまい人だというのがいままでの印象だったのだが、今回はじめからおかしい。特にその月の書き出しがいつもまごまごして、終わりころにやっと調子が出てくる。毎月そんな感じだ。連載小説というのは書き方が難しいのだろうか。

 ところで校正ミス。
 163ページ、上段、終わりから三行目、<片岡は笑みを浮かべながら>
 同ページ、下段、真ん中へん、<片岡はにやにやしながら>

 これはどちらも<片岡>ではなく<白井>だろう。

 今月号は校正ミスが目立った。基本的には作者の責任だろうが、雑誌の価値から言えば、編集も少し気を使う必要があるだろう。

美について

 ぼくは哲学をほとんど読んでなくて、プラトンは岩波文庫で「ソクラテスの弁明」と「国家」上下を読んだだけである。「ソクラテスの弁明」を読んだのは比較的若いころだったので、その印象は強烈に残っている。ところが「国家」の方は、長いものを苦労して読んだのに、少し齢とってから読んだせいもあるのか、内容をまるで思い出せないのだ。「国家」というタイトルなのに、はたして国家について何か書いてあっただろうかと首をひねるようなていである。
 ただぼくはイデア論をこの本で知ったのだ。(と記憶しているのだが、以下に書くことについて、それはこの本ではないと思われたら指摘してほしい。確信がないのだ)。
 たぶんこの本で読んだイデア論を、ヘーゲルについても(一冊も読んでいないのに)、エンゲルスなどが間接的に批判している内容と、プラトンから類推してこうなのだろうと思っているだけである。
 プラトンは洞窟の比喩を用いていた。洞窟の中にいる人には洞窟の外がまるで中のように逆転して見える、というようなことを書いて、現象とイデア、実在、本質について述べていたと思う。
 例として取り上げたのは「美」である。美しいものはさまざまある。花も美しいし、服も美しい。まったく異なるものになぜ共通して「美」があるのか。それは美しいものの背後に「美」のイデアがあるからだ。このイデアこそ実在であり、本質なのだ。我々が目に見ているものはイデアの現象に過ぎない。
 もちろんいまの我々からすると奇妙な考え方である。どこからそんな突飛な考えが浮かんでくるのかと思ってしまうが、しかし「美はイデアである」というところに注目したのは、やはりひとつの画期的な発見なのだ。
 ただイデアが実在であり、本質なのだと思い込んでしまったところに間違いがあった。
 第一に、「美」は存在しない。存在するのは「美しいもの」である。しかしじつはこれも間違っている。「美しいもの」も存在しない。存在するのは「ものや人やことがら」と、それと出合ったとき我々の心に生じるある種の反応である。人は出会いによっていろんな感情を心に描く。この感情を共通点でくくって分類すると、その中に「美」も現れる。
 犬は花を美しいとは思わない。あたりまえだ。花は犬にとって「美」ではない。犬は大切な判断は鼻で行っている。目では行わない。人間の何千倍もの能力を持つ嗅覚で、その匂いと自分との関係を判断する。
 だが、鳥は目で判断する。鳥は空が世界なので、匂いに頼ることができない。目で見て、果実の色を区別し、それが食べられるかどうかを判断する。
 ヒトもネズミからサルに進化したとき、地上から空に、生きる場所を移した。このときに目を発達させ、鼻を衰えさせた。木から降りて来てもいったんその方向へと進みだした進化の向きは簡単には変わらない。
 ヒトは目で判断する。このとき「美」のイデアが生まれる。そしてそれは目では見えないものに対しても類推されていく。
「もの」がなぜ美しいのかと問うたときに、「もの」だけを独立して考えても答えは出てこない。まったく別の様々なものに共通して「美」があることから、「美」のイデアを考えたのは正しい理解への大きな一歩だったのであって、決して回り道ではない。だが、プラトンはもう一方進まねばならなかったのだ。
「美」はものと人間との関係性の中にある。

文法について

 一年が一日のように過ぎ去ってしまう日々で、去年は何をやったのだろうといぶかるようなありさまなのだが、パソコン碁を少しやりすぎている。これは時間の無駄だが、いつか人間相手にやりたいと思って、ひそかに特訓しているのだ。先日町内の名人に4目置かせてもらって、時間がなかったので早碁で合計10分ほどでけりをつけて計算する時間もなかったが、少し負けかなという感じだった。
 で、そのほかに何をやったのだろう。
 庭木の手入れだ。考えてみるとこれはかなり徹底してやった。手入れというよりもどんどん切り倒してしまった。ずいぶんすっきりした。いまは冬だということもあるが、もはやジャングルではない。
 しかしまさかそれで終わりではない。よく考えると、校正と添削で毎日を過ごしていたのだ。
 二つの作品が持ち込まれた。百枚に満たないような短編と、千枚を優に超える長編だ。どちらも別に何も頼まれたわけではない。年の初めに短編が先に来た。自家製で本にしていた。美術系の人で、きれいな仕上がりだった。内容もとても面白かった。80歳くらいの人で、新制に切り替えた直後の中学生活を生き生きと描いていた。ところが文章がめちゃくちゃなのだ。それを指摘すると、直して送ってきた。ところが直っていない。それで赤を入れ始めたのだが、誤字脱字の指摘だけでは収まらなくなって、ついに文章のおかしなところも直し始めた。説明文をつけて送ると、また直したと言ってまた送ってきた。直したというよりもかなり書き直しており、前より悪くなっている。ここらで人の文章をいじるということは簡単ではないとうすうす気づき始めたが、もう止まらない。三度目の指摘をして送り返した。すると四度目が来たが、さすがに読む気力がなくなって、保留している。
 それが去年の前半だ。夏になると、千枚が来た。75歳くらいの人である。裏表びっしり印刷して、表紙はないが、簡易製本してある。これも何も頼まれたわけではないが、読んでいるとどうしても赤ペンに手がいく。つまらない作品ならそんな気にはならない。おもしろいのだ。先の短編よりももっと面白い。だが、同様に文章がめちゃくちゃなのである。この文章ではどんなに内容が面白くても何にもならない。しかし面白いのだから、じつにもったいないのである。
 それで結局この作品を徹底的に校正添削した。説明文を400字詰めで100枚書いて送り返した。それに三か月ほどかかった。
 しかしいま思うと、若い人ならともかく、すでに老いた人が千枚の大作を書き直す気にはとてもなれないだろう。短編の人は何回指摘しても直してきて、かえってこちらが根負けしたが、長編の方は年齢はその人より5歳ほど若いのだが、すでに健康を害していて、しかも作品が長い。書き直せという方が無理だった。
 という次第だったのだが、ぼくにとってはこの数か月の努力は無駄ではなかった。とても有意義だった。日本語についてずいぶん考えた。それで自分の文章が良くなったかというとそんなわけにはいかないのだが、悪い文章をいままでただ読みにくいので悪いと思うだけで、どうして悪いのかと考えたことはなかった。しかし書き手に説明するのに、「読んでごらん、わかるでしょ?」というわけにはいかない。なぜ悪いのかを説明せねばならない。これが案外難しいのだ。ぼくは日本語文法の知識がないので、よけいに難しい。それでずいぶん頭をひねったのである。

 今日このことについて書きたくなったのは実はここから先の話で、「文法とは何なのか」ということだ。
 文法があってそれに従って言葉が生まれるわけではない。まず言葉が生まれる。自然発生的に生まれる。最初は叫びや唸りや鳴きであったものが、やがて単語となる。名詞や動詞や形容詞や副詞となる。そのあとでセンテンスが生まれ、接続詞や、助詞が生まれ、動詞の活用変化が始まる。
「はじめに言葉ありき」とマタイ伝は書いたが、そのとおりではじめに言葉があった。文法とは何か。文法というものはないのだ。それは人々が使う言葉を仮に秩序付けてみただけの話だ。もともと言葉と文法とは無関係なので、言葉を完全に網羅できる文法というものはどの言語に対しても存在しない。必ず例外がある。文法は言葉のあとからよちよちと着いてくるだけである。
 このことも、ぼくらが考えているいろんな問題に対してずいぶん暗示的に思える。

夜釣十六

 去年の「民主文学」5月号で「社会主義リアリズム」に引導を渡した谷本論が、1月号で去年の各新人賞受賞作を論じている。(引導を渡したは言いすぎか。ソ連のそれは批判したが、日本のそれは別物だったと言っているのだから――興味のある方は「谷本論」でこのブログの検索にかけてください。関係記事が3つ出てきます)。
 岩崎明日香作品も含めてかなり好意的な扱いである。(ぼくは「群像」も「文学界」も「新潮」も「すばる」も読んでいないので、それについては何も言えない)。
 そのなかで太宰治賞を受賞した夜釣十六「楽園」も取り上げて、これにも高い評価を与えている。「夜釣十六」はペンネームで、本人は28歳のお嬢さんである。「夜釣りの会」という同人に所属していて、そのメンバーが16人いて、創作修行にたいへんお世話になったという意味を込めたそうだ。
 じつはこの「夜釣十六」さん、ぼくがいま関係を持とうとしている「樹宴」というグループと接点がある。「樹宴」メンバーの一人、大丘忍が「夜釣りの会」にも所属していて、その縁で去年東京であった「文学フリマ」の出店で交流があったそうだ。
 大丘忍は80歳くらいだが、じつはこの人がいま合併して福山市になっている松永という田舎町の新制高校から、京大医学部を卒業して枚方で開業している、いまも現役の医者だ。「樹宴」のなかの一番の書き手で、「民主文学」のサークル誌評でも取り上げられたことがある。
 ぼくのミステリー落選作品を、この「樹宴」で連載する。ごく廉価で何冊か手に入るので、日ごろお世話になっている方には贈呈する。おもしろいかどうかは読んでのお楽しみ。
(話が広告のほうにずれてしまったので、これで終わり)。

「民主文学」の選評

 感想を書くつもりの小説は、書き終わるまでその作品への人の評は読まない。自分の素直な感想を書きたいからだ。で、12月号誌上の選評も感想を書き終わってから読んだ。読んでちょっとがっかりした。もちろんごく限られた字数でいくつもの作品について書かねばならないのだからご苦労なことなのだが、ほとんどストーリー紹介という感じで評らしい部分が少ない。選評というのは文芸時評とは性質が違うのではなかろうか。文芸時評はその月に出た作品を一通り紹介せねばならない。対象作品をたぶんあまり読んでいない人向けに紹介するのだから、ストーリーもいるだろう。
 だが、選評は一般の人も読むだろうが、一義的には作者に向けて書かれるものではなかろうか。作者は自分の作品のストーリーは知っている。それに選ばれた作品は読者もたぶん読むのだ。読みたいのはストーリーではなく評だろう。
 どの作品にも必ず長所と短所がある。それを短く指摘してやるのが親切ではなかろうか。選者の主観による指摘でよいのだ。評にも個性が必要だ。
 その点からいうと、今回の選者の中では、旭爪あかねの選評がいちばんそれらしかった。

野川 環「サクラサクサク」(「民主文学」16年12月号)

 これは新しい才能の誕生である。読んでない人はぜひ読んでほしい。
 ただし、書き出しはちょっと引っかかる。それで損をしている。ところが読んでいくと引き込まれる。書き出しの軽い文体は最後まで貫かれているが、書かれている内容がだんだん真に迫ってくる。
 出会い系サイトなのだが、ペテンサイトだ。ビルの一室にずらりとパソコンを並べて、バイトたちがずっとメールを打っている。妙齢の独身女性を装って、引っかかってきた男たちとやり取りしている。メールのやり取りのたびにサイトに金が転がり込む仕掛けである。
 のめりこんだ男たちはやがてサラ金から借金してまで大金をつぎ込むようになる。サイトを経営しているのは裏社会で、そのサラ金業者ともつながっている。被害者たちはすべてをむしり取られて最後には社会から抹殺されてしまう。
 軽いノリでそういう風俗を描いているのだが、ここまで真に迫って書くことは容易ではない。描写が生きている。これは相当な才能である。
 損をしているというのはもうひとつの素材のほうで、この出会い系サイトの方が現代風俗なのに対して、もうひとつは近未来フィクションなのだ。主人公のバイト青年の兄が自衛隊員として中東で戦死したが、特定秘密として秘匿されているという設定である。小説はそこから書き出す。そしてその設定がどうにも現実感がない。出会い系サイトをあれだけ生き生きと描きながら、こちらの方は漫画的なのだ。
 書こうとすることが嘘であればあるほど、ディテールを真実らしく書かねばならないというのが小説づくりの鉄則である。
 自衛隊員はもちろん戦死しうる、それは嘘ではない。しかしそのとき日本政府がどう対応するかといえば、直ちに戦死者を二階級特進させ、大々的に葬儀を行い、総理大臣も列席するかもしれない。世論を総動員して彼を英雄に仕立てあげるだろう。遺族には相応の補償をするだろう。もちろん次々と死に始めればだんだん粗雑になっていくが、最初はきちんと対応する。
 これが最も想定しやすいなりゆきである。だが、もちろんそうでない場合もありうるだろう。だが、異なる設定にしようとしたら、その設定が読者の胸に落ちるように書き込まねばならない。秘密にせねばならないどういう事情があるのか。秘密にすることが可能などういう社会であり、どういう政治体制なのか。一方では戦死者の出た地区ではみんな知っていて、自衛隊応募者が激減したとも書いている。その情報がなぜ共有されないのかもわからない。
 出会い系サイトの世界がリアルであればあるほど、逆に自衛隊員戦死秘匿ということがらが浮いてしまう。
 その点が惜しかった。
 ちなみにこの人は1979年の生まれである。

 12月号にはもう一つあるが、何気ない日常風景をうまくまとめたエッセー的な作品、女性はこういうものを書くのがうまい。

菊池明「初冬の風に」 紀田祥「郷に入りても…」(「民主文学」16年12月号)

「民主文学」の12月号を「ネギ」だけしか読んでなかったなと思って開いたら、そうではなかった。感想を書いたのは「ネギ」だけだが、菊池明と紀田祥は読んでいた。
 菊池明はまがね例会で取り上げたのだ。その感想はまがねブログに短くまとめてある。ぼくの感想もあまり変わらない。ただ戦後生まれの作者が、戦争加害の問題を迫真の文章で綴っている最後の部分は迫力があった。
 紀田祥は難民受け入れ問題。まさにタイムリーなテーマである。トランプ批判ばかりかまびすしいが、当の日本はもともとほとんど受け入れてないのだ。受け入れるかと問われて、はい、受け入れますと何の迷いもなく答えることができるか、この小説が問うているのはそういう問題である。建前ではなく、本音を問うている。そこに値打ちがある。だからというわけでもないが、ラストがどうだったか忘れてしまったので、パラパラとめくっていて、作者の生年に目が留まった。なんと1927年生まれとある。老眼が進んでいて横線がダブってよく見えないので、目を近づけたり離したりして一生懸命見たが、37年ではない、27年である。本当なのだろうか。90歳である。たしかに祖母と孫の話だったが、内容はとても若々しかった。それに最も現代的なテーマだ。驚いた。
 あとの二作はまだ読めていないので、いまから読む。気に入ったら感想を書く。

肯定の肯定 続き 高原さんへ

「肯定の肯定」がジョークであることはもちろんお分かりいただいていると思いますが。
「肯定」というだけの意味なのですが、冒頭にジョークを入れて強調したのです。
 質問です。
 <しかし、議論や民主主義には欠くべからざることであるので、とりあえず、今、自分が語ることの粒度(扱う話題の空間時間範囲、扱う属性。これを言うだけで意識していないことが分かるだろう)を意識し明確にしようと言っている>
 この文章の次の部分の意味がつかめません。
 <これを言うだけで意識していないことが分かるだろう>
 論理としてではなく、単純に日本語としての意味が分からないのです。

 コメント633も印刷しましたが、まだ読めていません。少しずつ、高原ワールドに触れつつあるところで、まだ当分とんちんかんなことを書くかもしれませんが、ご容赦ください。

植田さんのコメントに 交換価値

 使用価値のところで言おうとされていることはよくわかります(それを肯定するかどうかは未定ですが)。
 交換価値についてもう少し。
 労働時間は確かに実体です。だから交換価値が単に労働時間のことを言ったのだとしたら、名前の適不適はともかくとして、やはり実体なのだと言ってもよいでしょう。
 しかし、労働時間そのものは交換価値ではありません。たとえ何時間労働しようとも、それが交換されなかったら、それは交換価値ではないのです。しかも交換されてさえ、労働時間がそのまま交換価値になるのではなく、交換価値になるのは社会的平均労働時間です。そこまでが交換価値で、それが実際に市場に出て交換されると、さらに偶然的要素が加わって価格になります。価格は実体です。労働―交換―価格という実体で構成される現象の(ヘーゲルなら背後にあるというところの、だが実際には)背後にあるのではなく、どこにもなく、現象を説明するための言葉なのである、というようにぼくは理解します。
 だからそれはヘーゲルの尻尾のようなもので、もう捨ててしまってもいいではないかという考えも成り立つかもしれませんが、でも棄ててしまったら、労働―交換―価格という一連の現象をどうやって説明したらよいのか途方に暮れてしまいます。だからその言葉は現象を理解するための補助線としてどうしても必要なのです。
 誰かが交換価値という言葉を使わずに説明してくれるならば、(その説明に抜けがないならば)納得してもよいのですが。
(その説明は剰余価値のところまで抜けなく説明できる必要があります)。

肯定の肯定

 ヘーゲルの弁証法は「否定の否定」だが、いまわれわれに必要なのは「肯定の肯定」ではないだろうか。
 とりわけ左翼はお互いの違いを見つけることに熱心で、常に四分五裂し、ために団結力のある右翼に太刀打ちできずに来た。
 いまは相違点ではなく一致点を探すべきときなのだ。
 とは言いながら、ぼくもやはり違いばかりを気にしている。これはどうしたことだろうと考えてしまう。でもたぶん、こういうことなのだ。
 とりあえず違いは明確にせねばならない。そうしなければどこで一致できるのかもわからない。だが違いを明らかにするのは敵対するためではなく、どこが違うのかを知るためであり、知ってしまえば、そこが違うのだということを共通認識にして、その点を保留にして、そしてそこから先へ進むのである。
 まず、お互いを知る努力がいる。相違点をできるだけ明確に認識し、それを認め合うこと。自分の関心を持っているのはここまでで、ここから先のあなたの領分にはほとんど関心がない、ひるがえって、あなたが関心を持つことのできる領分はどこまでなのか、どこまでならぼくの領分へ入ってこれるのか――それが高原さんのいう粒度なのか、あるいは違うのかもしれないが――我々はどう転んでも根源的に網羅することは不可能なのだから、自分の領域からあなたの領域まで、どこまで手を伸ばすことが可能なのかという、そういう接近法になるだろう。
 そういうことを考えている。

竹内七奈の意見

「民主文学」3月号が来た。
 竹内七奈がなぜ民主文学が売れないのか、どうすればよいのかについて率直な意見を書いている。必ずしも納得できるわけではないが、率直な意見が誌上に載るということはたいへん喜ばしい。
 次のページに乙部宗徳が「竹内七奈さんへ」と題して書いていて、反論を同じ号に書くのはどうかな、次の号に書くべきではないかな、と思ったら、反論というのではなくて、雑誌経営上の実情について参考として書いている。竹内さんの意見については皆さんと論議しましょうと書いている。まっとうな対応である。
 最近の民主文学は昔のようなぎすぎすしたところがなくなった。おもしろい若手が育ってきているし、彼らをつぶすような過去の失敗を繰り返すことはないだろう。
 でも、もちろん文学は個人の才能だから、組織がどうこうじゃないのだけれど。

637→633

 間違えました。637は短くて、そのあとの633が長いのです。

高原さんへの暫定的な回答

 今回、植田さんと高原さんとの間で交わされた言葉、それから去年10月頃にご両人の間で交わされた言葉(もちろんその中には高原さんからぼくへの批判も入っているのですが)を読んでの感想を少し書きます。(10月の文章もじつは今回初めて読んだのです。去年は他のことにかかりきりで、この問題をあつかう余裕がありませんでした)。
 最初にお断りしておきますが、ぼくは高原さんの主張の全体像をほとんど理解できておりません。高原さんの使われる特殊な用語の意味がつかめないのと、高原さんの日本語の言いまわしがあいまいに思えて、ぼくの日本語理解能力では、やはり真意がつかめないのです。
 だからここに書くのはぼくが高原さんの文章をこういうふうに受けとっている、という限りでの感想です。

 すべての思想は仮説である(このことは高原さん自身も言っておられたと思うのですが)。それは一時的、局地的、相対的であって、それ以上のものではない。
 したがって「根源的網羅思考」と高原さんが言われているのも、努力目標であってそれ以上のものではない。必要なのは「根源的網羅思考」の努力の結果何が生みだされたのか、思考の果実であって、努力目標を繰り返し力説されても、「ああ、そうですか」と言うしかない。
 <人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである>
 高原さんによると、これが人類の数千年にわたる歴史の現実であり、したがって今後も人類の歩いていく道である、ということになるらしい。
 ぼくがこの言葉を読んでまず感じたのは以下のことである。
 これは人類がこう生きてきたと言っているのか、それともこう生きるべきであると言っているのか、この文章からでは判断できない。
 それに対する高原さんの回答が、いま書いたとおり、「現実であって理想である」ということらしい。
 そう言われてしまうと、これもまた「ああ、そうですか」としか言いようがないのである。必要なのはこの言葉から生まれた果実を書くことであって、この言葉をなんべん書いてもそれはお題目でしかない。
 そもそも<人類>とは何なのか。それは人間なのか、そうでないのか、そうでないとしたら、どう違うのか。
 <人間はどう生きてきたか>という現実を語るとしたら、ぼくにも多少は言いたいことがある。
 <人間は欲望や情念やその他ありとあらゆる心的動機につき動かされて生きてきた>
 その動機は限りなく多様であり、だから我々は幾万の小説を必要とする。人間を要約できるなら小説なんか必要ない。
 だが、もちろんそれらの動機から普遍的なものを探し出していかないことには、我々は前へ進めない。
 だから<人類は>と問うことにも意味はある。しかしその場合にも我々が問うのは人類の<動機>であって、<目的>ではないだろう。
 <人類の目的>と言ってしまえば、目的が達成されれば、もはや人類は存在意義を失う。人類は<目的>を持っているから生きているのではなくて、<動機>を持っているから生きているのである。
 <目的>というのはお役所的、学校教育的、お題目的語感のぷんぷんする言葉である。
 <目的>があって生きるわけではない。<目的>のない人は生きていないのか。そんなことはない。人はまず生きている。これが出発点だ。そして生きている人は多様な動機を持っている。それはさまざまな欲望であり、情念であり、その他もろもろの心的動機である。これを達成するために人は目的を立てる。目的とは欲望達成のための手段である。
 <目的>を重視するのは技術者的発想である。たしかに技術者は目的達成のためにプランを練る。しかしより重要なのは、その目的は何のために立てられたのかと問うことだろう。
 橋を作るという目的のために人は設計図を書く。橋を作るのは人や物を渡らせる目的のための手段である。人や物を渡らせたいと思うのは、やはり何らかの人間的動機がそこにあるからだろう。
 高原さんは最終的には人類の目的を<自己の保存>と<種の保存>というところに持って行く。これに対しても、我々は結局「ああ。そうですか」としか言いようがない。
 高原さんはそれ以外に何を語っているだろうか。
 <利益第一主義に代わる新しい価値観>である。これを探し出すことが重要で、これが見つかれば人類は幸せになれる、と言っているように聞こえる。なんだか宗教じみて聞こえるのだ。
 <価値観が先か制度が先か>という植田さんの問いに<鶏が先か卵が先かと問うことには意味がない><原因結果という考え方は無意味である>と答えている。
 つまり<制度設計をしつつ価値観を変えていく。相互関係にある。これが弁証法である>ということらしい。
 だが、どのような価値観が利益第一主義に代わるのかという回答はいまだ示されないし、どのような制度変更が可能なのかに対しても、<社会主義ではダメだ>というところから一歩も進んでいるわけではない。
 もちろん高原さんの求めているものもおぼろげにはわかるのである。<愛>を力説される。マルクスは交換を前提して語ったが、むしろ交換そのものの発生の方が重要なのだと主張する。略奪から交換への変貌の中に未来の人類へのヒントがあるだろうと。
 この点ではぼくも<ボノボ>の例を挙げた。また、最近朝日新聞に載った例では、赤ちゃんも正義感を持っている、何世代にもわたって社会生活をしてきた人類の遺伝子には正義感も刻まれているのかもしれないという実験結果が報告されている(まだ確証のある話ではありません、念のため)。
 もちろん我々は人間のいろいろな可能性に対して心を開き、楽天的に様々な可能性を探っていくべきだ。だが、<愛>の力説からは、マルクスがフォイエルバッハに対して<愛! またしても愛!>と皮肉を込めて言った言葉が頭をかすめるのだ。
 これに対して植田さんは制度の変更が人間の価値観を変える可能性の方に目を向けている。もちろん植田さんだって相互関係の弁証法を認めないわけではないだろう。その程度のことはとっくに常識だ。要は比重の問題、そしてどちらを研究対象とするかという問題なのだ。
 植田さんが可能性を感じているのは、ITによって経済関係に画期的な変化が生まれてきつつあること、これが新しい制度を生みだし、新しい人間関係を生みだすかもしれないということについてである。これに関する大部のペーパーも去年受けとったが、まだ読めずにいる。読む前の予感としては疑問も生じてきそうだが、ともかくも何らかの具体性を持った探求の予感もある。
 そういう具体性は高原さんの文章からは残念ながら感じられないのである。

 なお高原さんのコメント632で<植田さんが改良しか認めないとあからさまに言われるのには驚きました>と書いているのは誤解です。植田さんの文章のこの部分は石崎説の紹介で、<石崎が改良主義に傾いている、従来の社会主義が説得力を失ったのでそういう考え方が出てくるのも理解できる>と言っているので、必ずしも植田氏の考えとして言っているわけではありません。(631の終わりのほう、「大きな物語としての社会の設計を重視するのか」に書かれているのがそれです。読み返してください。ここは植田さんの意見を言っているのではありません)。

 もう一点。
 632(高原)
 <どこに「一人一人の多様な個を確立し、その個の労働が新しい価値と事実の変更を続けていくこと」を目指した伝統的「マルクス主義」があったでしょうか?>
 ここも誤解です。ここは631(植田)の前項と同じ部分で、<伝統的なマルクス主義が目指していた理念とアプローチ、個の解放とそれを可能にする社会の設計、と同じではないでしょうか>と植田さんが言っているのは、当時のマルクス主義がそういう理想を掲げていたのに現実はまったく違うものになってしまったということなのです。理想を掲げることの危うさについて言っているのです。
 現実に、我々の青年時代にあってさえ、純情なマルクス主義青年の思いはそういうところにあったのです。これは歴史的現実です。

 植田さんが危惧しているのは、高原さんが「理念と制度との相互弁証法だ、卵か鶏かではないのだ、原因結果ではないのだ」と言いながらじつは理念の方に重点が行き過ぎて、どういう社会を作るのか、現実のいまある社会がどういう経過を経てどういう社会に変わっていくことができるのかということへの考察が足りないのではないかということなのです。
 それもおそらく植田さんとしては高原さんへの批判としてよりも、それが高原さんの道、自分の道は違うということなのではないでしょうか。

 そしてぼくの道もまた違います。それぞれに違うので、違うというところで抽象的な言葉ばかりが躍っている感じがします。それがぼくらの現状です。実際には何をどうすればよいのかわからない、道を探しあぐねているというのがぼくらの現状ではないでしょうか。
 それはまたぼくらがすでに年を取りすぎて、新しいことを始めるだけの時間的な予想も、気力的な予想も立てがたいということでもあるのでしょうが。

 もう一点、これは別の問題になりますが、「存在と無」緒論における電気の問題。
 サルトルの名誉のために言っておきますが、サルトルは電気現象をもって物質が物質現象であることを証明しようとしたのでもなければ、結論づけたのでもありません。彼はデカルトからフッサールを通って、その認識論的存在論の中から存在とは究極的に存在現象なのだという結論を導き出し、そして緒論の最後で電気現象をわかりやすい例として挙げたのです。
 ぼくは緒論だけで本文を読んでいないので、そこから彼がどう論を展開したかは知りません。「例やたとえは人を過つ」と高原さんは言われますが、しかし電気現象はただわかりやすいというだけで、すべての物質が基本的に電気と変わりがないことはあきらかでしょう。そしてそれは単に物質がそうであるというだけではなく、すべての存在がそうなのではありませんか。
 もちろんこれについては異論があって当然だと思います。ここではただサルトルについての早まった結論を指摘したかったのです。

 植田さん、高原さん以外の方で、一連の経過に関心を持たれる方がおられましたら、「植田与志雄氏への手紙」で検索してください。そこへ8件のコメントがついています。最初のコメント637が非常に長いのですが、ずっと下へ走っていくと、631、632が出てきます。これが植田高原論争です。

ロカンタン 鴨長明 使用価値

 また新たなコメントが来ているようですが、昨日の文章への追加をいま書いたので、新しいコメントを読む前ですが、とりあえずアップします。

 恩田陸からぼくが引用した言葉を読み直してみると、なるほど「一瞬」について語っている。もちろん、そこで恩田が言いたかったことを否定するわけじゃありませんが、ぼくがその言葉から思わず連想してしまったのは、もう少し違うことだったのです。

 つまり「一瞬」のことではなく「瞬間々々」のことでした。
 ぼくは「方丈記」の「ゆく川の流れ」をすごい発見だと思うのです。川をずっと見ていると、同じところで跳ね、同じところで淀み、同じところで渦を巻き、同じところで速度を上げ、要するにずっと同じ形を維持するのです。それはひとつの不変的なものがそこに存在するかのようです。でもそれは違います。同じ形を維持しながら、その瞬間瞬間においてそれは別のものの存在なのです。
 ロカンタンがジャズを聴いて感じたのは、おそらく鴨長明と同じことだったのだと思います。恩田が言っているのはそこから少し先のことですね。特に活け花と音楽との対比で、それも芸術との絡みで言っているので「一瞬」にアクセントがいきます。
 あ、鴨長明と同じというとまた誤解を生じる。鴨長明は無常について語っている。ロカンタンは存在現象について語っている。同じことに気づきながら、鴨長明はそれを人間の主観の方に引き寄せているが、ロカンタンはただ客観的事実として語っているのです。

 現象だからどうだというのか、文明の蓄積はどうなのか、と書かれていますが、それはたぶん、ぼくの引用が悪かったのでしょう。引用したときから、少し違うな(違うというのは恩田が違うというのじゃなくて、ぼくの引用意図との食い違い)とは感じていたのですが、ただそこから連想したということを言いたかったのです。

 もうひとつ、「使用価値」の問題です。
 もちろん特に書かねばならないことじゃないでしょうが、確認のためです。
 リンゴは何ら使用価値ではありません。ただ人がそれを食べたいと思ったときに初めて使用価値になるのです。リンゴが嫌いな人にとっては全然使用価値じゃありません。もちろんリンゴには生き物の生命を維持する養分がありますから、潜在的使用価値とは呼べるかもしれません。リンゴの嫌いな人もいよいよ食べるものがなくなれば食べるでしょうから、そのときは使用価値が生まれるのです。
 人間の欲望に応えるものが使用価値です。つまり人間とその対象との間に生まれる関連性に名前を与えると使用価値になるのです。使用価値もまたあらかじめ在る価値ではなく、関連性の中で生まれてくる価値です。それもイデアです。ただプラトン的な意味で言うイデアではありません。現象から独立してあるのではなく、現象の関係に対して与えられる名前なのです。

 以上はあくまでぼくのとらえ方です。人はそれぞれ関心の持ちようが違いますから、ものを見る角度が違ってきます。それによって言葉に与える意味も違ってくるだろうと思います。

恩田陸 ロカンタン――植田さんのコメントに

 恩田陸からロカンタンを連想したのは、音楽によって存在を意識させられたところが似ていたからで、彼女の小説を読んだわけでもなく、新聞紙上のごく短い発言だけだから、それ以上ではないことを最初にお断りしておきます。
 以下はぼくなりのマルクス理解ですが。
 労働時間はただそれだけでは交換価値ではない。その労働時間による生産物ないしサービスが、市場に持ち出されて交換されて初めて交換価値となる。しかもそれは交換価値として現れるのではなく、現れるときにはモノないしサービスの価格として現れるわけです。しかもこの価格は諸々の偶然的要素の影響を受けるので、決して価値と同額ではありません。交換価値とは労働、生産、交換という一連の現象の間にある関係のことであって、その関係に対して与えられた名称です。それは実在というよりはやはりひとつのイデアであるように思われます。
 ただし、マルクスがヘーゲルと違うところは、マルクスはイデアが現象を生むとは考えない。価値というものがあらかじめあって、それが価格に転嫁する、価値は最初から与えられている、というようには考えない。労働から交換に至る経過の中で発生するものが価値なのです。あくまでも実在するのは現象なのです。この現象の関連性を解き明かそうとしたときに必要になってくるものがイデアなのです。それは存在しないのだが、物事を理解するために仮に引かれる、やはり補助線なのだというのがぼくの考えです。

 使用価値は使用価値の共通するものの間でしか比較できません。リンゴ1個プラスみかん1個は2個になるわけではありません。プラスしても相変わらず1個と1個です。でも「果物がいくつ?」という問いなら「二つ」と答えることができます。果物としての共通の使用価値でなら足し算が可能です。
 植田さんが想定しておられるのはたぶんそういうことなのでしょうね。

 一瞬か蓄積かと植田さんが書かれたのは、ぼくが引用した恩田発言からなのだと思いますが、そういうふうに比較せねばならない問題ではないのだと思います。
 ぼくは福岡伸一という生物学者が好きなのだけれど、彼の文章を読んでいると、自分の身体を物質が流れていく様子が目に見えるような気持になります。自分の身体はいっときとして同じ物質ではない、常に別のものです。人間の存在は実在であると言えば実在だけれど、でもそれもやはり現象的存在なのです。音楽のように流れているのです。恩田の文章が「一瞬」という言葉にアクセントを持たせていたので、読む人の注意がそちらにいってしまうのでしょう。ぼくの引用が少しずれていたのかもしれません。
 サルトルはあの小説で、「存在とは現象なのだ」ということを強調したかったのだと思います。あの小説の中でロカンタンが激しく拒否するのは、存在の正当性というカテゴリーです。存在が現象からはみ出そうとするとき、ロカンタンは吐き気に襲われます。
 そしてあの小説を読んだ人が救われるのは、「正当性なんかなくても生きていいんだ」ということに目覚めさせてくれるからです。
 人はまず存在します。そこから出発です。

恩田陸からサルトル、そしてマルクス

 直木賞の恩田陸が朝日新聞で、自分の受賞作の場面から引用して次のように書いている。
 <少年は言う。音楽は活け花に似ている。再現性という点では活け花と同じく一瞬で、すぐに消えてしまう。しかし再現している時には永遠の一瞬を生きることができる>
 ふと「嘔吐」のロカンタンを思い出した。ロカンタンが存在に吐き気を催したのは、それが何か理解不可能なものとしてロカンタンの心に迫ってきたからだ。だが最後にジャズを聴くことを通して彼は何かを理解する。即ち存在とは音楽なのだということを。それはつまり現象なのだ。
 もちろん、プラトンにとっても存在とは現象だった。それは実在ではなかった。プラトンはその現象の背後にある実在=本質=イデアを求めた。
 だがロカンタンにとっての(そしてサルトルにとっても)現象とは、その背後に何ものも持たない現象そのものだ。いかなる実在も本質もイデアもない。あるのは現象だけである。
 存在は在る。音楽のように在る。
「存在と無」の緒論では、サルトルはこれを電気によって説明する。電気とは何か。それは一連の電気現象に対して与えられる名称である。電気というなにか固定的な物質が存在するわけではない。ある条件の下で電気という現象が発生する。
 そしてすべての物質が、我々の目には固定的に見えようとも、じつは原子核の周りを電子がぐるぐる回っており、この原子核の直径を一ミリと仮定すれば、電子の周回直径は百メートルにも及ぶほどに離れているということ、すべての物質が物質現象なのだ。
 存在は現象だ。現象がすべてであって、実在も本質もイデアもない。
 恩田陸が音楽と活け花を対比してそこに人生を見ようとしたとき、ロカンタンとの近似性が見えた。

 さらにマルクスを考えたら、どうだろう。マルクスが彼の経済学に「価値」という概念を用いたとき、彼はヘーゲルを通じてプラトンのすぐそばを歩いていたのだ。
 価値は価格ではない。価格には諸々の偶然的要素が影響する。それは現象なのだ。価値は価格の根本的源を問おうとする。それは価格の本質であり、イデアなのだ。商品価値から使用価値と交換価値を見いだし、剰余価値がどこから発生するかの考察から、交換価値と剰余価値の源としての労働時間という実体を見つけ出す、価値は商品価格と労働時間という実体と実体とを結びつけるための、いわば補助線だった。価値が存在するわけではない。存在するのは欲望という現象、交換という現象、そして労働という現象である。このつながりに合理的説明を見出すための数学理論の単位としてあるのが価値なのだ。
 つまり、一見マルクスはヘーゲルを受け継いだように見えるが、それはたぶん見かけだけだ。マルクスにとっても、存在に先立つ本質というものはありえなかった。彼は存在は現象であるとは言わなかったが、それでもほとんどその近くにいた。

 もちろん、われわれはしばしば本質という言葉を使うが、それはその言葉が便利だからであって、あくまで便宜的意味で使っているだけで、その言葉に古典的な、プラトン的な、あるいはヘーゲル的な意味を持たせようとしているわけではない。

 さてマルクスが経済的意味でしか使わなかった「価値」という言葉を、マルクス主義者たちはどういうわけか、道徳的意味でも使おうとする。思えば道徳もまたマルクスにとっては支配者たちが人民をだます道具に過ぎなかったが、マルクス主義者たちが権力を握ると、それはまた彼らの権力の道具にもなる。
 人々は補助線を本質と勘違いし、イデアと勘違いしている。「価値」という言葉を使うなとは言わない。しかし人はそれが補助線に過ぎないことを理解すべきだし、その補助線によって証明しようとする諸現象のつながりのほうにより大きな関心を払うべきなのだ。

「民主文学16年11月号」

岩崎明日香「十九時の夜明け」

 主人公の咲は居酒屋の深夜アルバイトをしている(だから19時が夜明けなのだ)。ある日、酔っ払いの客にエレベーターに引っ張り込まれてキスを強要される。
 民主文学誌上ではあまり見かけない衝撃的な書き出しである。
 ラストは、原発反対官邸前集会に初めて参加する場面(だから、これも19時の夜明けである)。
 日常的な意味と精神的な意味とふたつの夜明け、しかもそれが朝ではなく19時である。少ししゃれすぎているきらいはあるが、意図はわかる。
 書き出しとラストとはたいへんすばらしい。
 問題は書き出しからラストに至る過程だ。
 作者は咲の現在に至る経過を書く。
 観光学部(いまそういう学部があるのだね)を卒業したが、貧しくて海外研修に思うように参加できず、大手旅行会社の正社員にはなれなかった。福島の旅館に感銘を受けてその地の観光関係で働くつもりでいたら、原発事故でだめになってしまった(原発で人生計画を狂わせられた)。そこでやむなく東京の旅行会社の契約社員として2年働いたが、給料が安くて奨学金が返せない。教員試験を受ける勉強のために会社を辞めてアルバイトしている。そこで被害を受けた。25歳である。
 二つしか歳の違わない女性店長は被害にあった咲を思いやってくれるが、所詮はチェーン居酒屋の雇われ店長で、それ以上に何かできるわけではない。
 東京都議会の女性都議に対するセクハラヤジに反応する咲。
 そこへ又従姉妹が登場して咲を深く思いやるが、やがて話のなりゆきから官邸前集会に誘う。咲は断り、二人は別れる。ところが突然考えの変わった咲は官邸前に出かける。最後の場面は感動的である。

 人はどのような精神的過程を経て行動に立ち上がるのか。それを読者に納得させる文学とはどのような文学なのか。
 それは基本的には小説テクニックの問題ではない。現実の人々との接触を通じて、人間性の本質にどこまで迫るかという問題であろう。小説のテクニックとはそれを通して出てくるものだろう。
 だがここではそこまで掘り下げることはできないので、テクニックの問題として見てみる。
 この作品の場合、セクハラと原発という二つのテーマを短い作品の中に盛り込んだので、ちょっと消化不良である。
 被害にあった直後のセクハラヤジに咲が反応するのはわかる。だが、反応の仕方が理屈っぽい。反応の仕方が主人公のものではなく作者のものになっている。主人公はいま被害を受けて精神にダメージを受けている。そのとき都議会報道に接した咲の心の中が表現されねばならなかった。
 パスタや原発どころではないはずだ(パスタを食べるなとは言わないが)。
 原発に関する伏線は張っているのだが、セクハラから原発に持って行くその飛躍がうまくいったようには思えない。
 又従姉妹の登場が民主文学で何回も読まされたパターンなのも気になる。オリジナリティに欠ける。もっとも、咲がすぐには納得せずにいったん断ったところは良かった。いったん断って別れてから思い直したので、ラストが盛り上がった。しかし、もっと盛り上げる方法があった。又従姉妹に対して咲が激しく反発する、そういう対決シーンがほしかった。
 一箇所、理解できないところ。咲の母親が自分の兄(咲の伯父)の死に際して忌引きがとれず、ふつうの休みとして扱われたことを会社に対して怒るのではなく、死んだ兄に対して申し訳ないと嘆くところ。咲もそれがどういう意味か最初分からなかったと書いているが、読者は最後まで分からないままだ。会社に対して怒るのならわかるが、死んでしまった兄に対してなにがどう申し訳ないのか、その心理が理解しにくい。

鴨川耕作「不当判定」

 社会保険庁が日本年金機構に変わるなかで一方的な首切りが行われた。国鉄民営化のときと同じだ。職員に対する反感を世論に焚きつけることで首切りを容易にする。こういう過程で職員の子供に対するいじめまでが発生したのだという。
 消えた年金記録の方に我々の関心が向いている間に、権力者はやりたいことをやってしまう。弱い者どうしが傷つけあう。
 ドキュメントタッチで、小説としては成功とも言い難いが、事実を知らせる方法のひとつではあろう。

原 信雄「通訳」

 新日本医師協会の事務局に勤務する男性柔道愛好家と、キューバ人の女性日本語通訳との半世紀にわたる交流を描いた感動的な話である。
 タイトルが地味すぎる。内容がすばらしいのに読者をひきつけないので、もったいない。魅力的な女性通訳アレイダが主人公なのだから、「遥かなアレイダ」とか、そういうタイトルにすべきだ。一読の価値あり。

入江秀子「蘇州夜曲」

 認知症になった父親の話。気分も能力も日ごとにまちまちで昔のことは覚えているが、昨日のことは覚えていない。町工場の経営者で旋盤技師だった彼は、徘徊に手を焼かれてホーム入りとなったが、心の中にはいろいろな葛藤があるらしい。落ち込んだ時には方眼紙にひたすら機械図面を書いている。気分の乗ったときには達者な歌声を聴かせる。日本兵として中国でやってきたことへの後悔がときおり顔を出す。
 娘はそういう話を聞かずに来たことを悔やみ、いまから聞き出そうとするが、父親は断片的にしか話さない。
 そこから父を引き取ってくる結果になった弟夫婦のこと、85歳だが元気で同居している母親、亡くなった夫、夏休みで子供たちだけで遊びに来た孫娘二人(父からはひ孫)、そういった家族を交えた情景を描いていく。
 女性作家らしいたおやかな作品である。
≪前のページ≪   1ページ/33ページ   ≫次のページ≫